新しい時代のリーダーの資質は「分からない」と言えること

 

この言葉が使われているかどうかで

その組織が

どれだけクリエイティビティーか

どれだけ失敗への寛容かが分かると言われているものがあります。

 

企業、学校、家庭、どんな組織でも当てはまるそうです。

例えば、このような言葉です。

 

*************

わかりません。

助けてほしい。

試してみたいんです。

私には重要なことです。

私はそう思いません。

それについて話してくれませんか?

とても勉強になりました。

はい、やったのは私です。

私にとって~は大切なことです。

私が感じていることは~です。

フィードバックをもらえますせんか?

これを試してもらえませんか?

やり方を教えてください。

そのことは私に責任があります。

手伝いますよ。

力になりたいんです。

次に進みましょう。

とても助かりました。

ありがとう。

*************

 

なるほど~~~

 

今振り返ると、個人的には一行目の「分かりません」がもっと早く言えたらもっと楽にできたなあ~と思います。

 

私がアメリカ政府のコンサルタントの仕事で国連のPKO活動についての講師を務めることになった時に、

講師たるもの、人の前に立つものはなんでも全て知っていなければいけない、という考えをなかなか手放せずにいました。

 

だから、一番初めの研修の時には、

2週間の研修の準備のために、

 

それこそ、国際人道法から、最近のアフリカ情勢から、国連憲章までいろんなことを詰めこみました。

 

全ては「分からない」と言うのが怖いがために~(汗)

あの準備はずい分疲れました。(笑)

 

実際にやってみると、人が講師に求めているものは知識だけじゃないってことを肌で感じたので、

二回目からは、もし分からないことがあったら「その件は分からないので調べてお答えします」と言ってもいいんだと思えるようになってずい分と楽になりました。

 

知識はもちろん必要ですが、相手が知りたいのは知識だけでもなくて、その人自身の考えだったり、体験だったりするのですよね~。

 

営業の研修でも商品やサービスなどで分からないことは、その件は分からないのですが調べてお答えします、と言う方がいいと教えられているようですね。

 

変化の激しいこれからの解のない時代。

新しいリーダーシップの定義の一つは、「分からない」と言えることだそうです。

 

ある状況で正解だったこともこれからの時代は正解であるとは限らないし、

解は一つじゃないという訳なのですね。

 

リーダーに限らず、

分からない時には

組織全体が「分からない」と言えること、

それを受け入れた上で、

その先に進める資質が求められてきそうです。

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「私は組織に必要とされていると思いたい。


「頑張って、上司、部下、同僚のみんなに認められたい。

 みんなにどう思われているか実はすっごく気になる」

 

失敗したくないから、自分を守るための鎧やら盾を身につけて仕事に行く。

しかもどんどん重くなる。。。

 

 

ありのままでいられたらどんなに楽かと頭ではなんとなく分かるけど、じゃあどうしたらいいの?

 

 

 

私は長い間そんな感じのがんばる女子でした。

 

これはそんながんばる女子が少しづつ楽になっていったお話しです。

 

 

東ティモールとカザフスタンでの勤務を経て、私はニューヨーク国連本部に赴任することになりました。国連の中でも花形部署と呼ばれる部署への赴任です。

 

嬉しいのと同時に大きなプレッシャーを感じたのも覚えています。

 

ニューヨークに赴任してまだ数日も経ってない時、新しい上司に呼ばれました。

 

「ノルウェー政府代表部に行ってきてくれないかな。オスロからPKO担当者が来てるみたいだから。

今どうしても空けられないんだ。話し聞いてくるだけでいいから。」

 

ノルウェーは独自の平和外交を行うなど、国連外交にも積極的な国です。

国連と意見交換をするためにニューヨーク来ているということでした。

 

さっそく対外的な「初仕事」です。

 

マンハッタンのミッドタウンの国連本部を出て、目の前にある「トランプタワー」の前を通って、(当時、ニューヨークヤンキースの現役だった松井選手が住んでいました)、オフィスからそんなに遠くない距離に借りていたアパートに戻りました。

 

クローゼットを開けて、

「一番貫禄のありそうなスーツ」を探しました。

 

当時、20代後半半ばだった私のお悩みの一つは「若く見えること」もっと言うと、「童顔」だった事でした。(海外では単純に若いというより、賢く年を重ねた感じの人が尊重されますね。)

 

別のスーツに着替え直して、少しは貫禄らしきものがついたかな?と思い込んで、ノルウェー代表部に向かいました。

 

nowary.jpg

3人の大佐の人たちに迎えられ、資料を見せてもらいながら、意見交換をして、ミーティングは無事に終わりました。

 

そもそも意見交換という目的のミーティングではあったものの、

何か話しをしたような中身があったような、なかったような、

なんだか「キレ味の悪い」感じが残ったのを覚えています。

 

今思えば、

「国連の本部で働く人」はこうあるべき、

なんか「かっこいい事」を言わないといけない、

『エリートっぽいこと』言わないといけない

という私の中の得体の知れない「かんちがい」と、私の中の理想像とのたたかいと完璧主義の始まりでした。

 

国連の花形部署の中で、しかも、その中でも特に優秀な人たちが集まったセクションで働く機会を得て、

今だったらそんな機会をもっと楽しめ、

その有り難さをより味わえると思うのですが、

(優秀なだけでなくハートもある本当に優秀な人たちが集まっていました。)

 

いつも自分の能力や努力が「足りない」気がして、

この「足りない」という強迫観念のような私のお悩みはかなり長い間続きました。

 

一番苦しかったのは、

何かをやっても達成した気がする訳でもなくて、いくらやっても自分の中で「これでいい」と思えなかったこと、でした。

 

ちょっとした失敗に対しても、

自分が完璧でなかったせいだと思い、いっそう完璧主義の深みにはまっていくのです。。。

 

私にとって精神的なストレスが一番大きかったのはおそらくこの頃で、

出張とストレスが重なって、機内で倒れたこともありました。(汗。。。)

 

この完璧主義のピークを経て少しづつ楽になってきたのは、その後南スーダンに行ってからです。

 

まず、灼熱のスーダンでスーツを着なくなったこと(笑)

 

「国連本部で働く人はこうあるべきだ」

「『かっこいい事』を言わないといけない」

「『エリートっぽいこと』言わないといけない」

という私の中の得体の知れない思い込みよりも、

 

現地ではこんなことが起きている、

もっとこうした方がいいんじゃないか、

という当たり前ながら一番大切なところに発言の意図そのものが移っていったのです。

 

自分のエネルギーの向きが内ではなく外に向かっていったのです。

 

南スーダンでは別の意味でのチャレンジがたくさんありましたが、

この事によって、どれだけ楽になったか計り知れません。

 

皮肉なことに、そうなってからは、

当時の幹部の人達にうちの部署で働かないかと誘われることもありました。

 

今は、この「完璧主義」というものの正体をもう少し余裕を持って見ることができます。

 

完璧主義とは向上心ではなく守りの姿勢なのですね。

 

完璧であれば、失敗や批判を避けることができて、傷つく可能性も避けることができると思っているから。

 

鎧やら盾やらで、自分の姿を見られないように防いでいるような感じです。

 

 

完璧主義にはまっている時は、「人からどう思われるか」に目が向いています。

 

自分の価値は、どれだけ達成したかで決まる、という思い込みがあるのです。

 

失敗したらどうしよう。。。

間違えたらどうしよう。。。

人の期待に応えらえなかったらどうしよう。。。

 

そんな不安ばかりだと誰だって足がすくんでしまいます。

 

ちょっとした失敗をしても、

「ああ、私のせいだ。自分に足りないところがあるからだ。」と、

自分が成し遂げたことよりも、出来なかったことに目を向けてしまう悪循環を繰り返してしまうのです。

 

これは本当に苦しいですよね。

 

そもそも完璧というものは存在しないし、

絶対に手の届かない目標。

 

ベストセラー作家で、この「足りない病」(欠乏意識)についての本を書いたリン・ツイストさんは、消費カルチャーの時代を生きる私たちは常に「足りない」「足りない」「足りない」というメッセージにさらされている、だから、意識して「足りている」状態に目を向けていくトレーニングをする必要があると言います。

 

もっと言うと、日本が世界の中で第3位の経済大国でありながら、不安と閉塞感に覆われているのは、この「足りない病」とも関係があるんじゃないかな、と個人的には感じます。

 

完璧主義にもおそらくいろいろなレベルがあって、誰でもある程度こういった傾向を持っているのだろうけれども、

 

完璧主義から解放されるには、「人からどう見られるか」から「私はこれでいい」と少しづつでも思えるようになることです。

 

自分の価値を認めることができるのは自分なのです。

 

 

自分の価値を認めることができるのは自分

 

 

自分の強みも弱みもただ受け入れること、

出来なかったことではなくて、出来たことに目をむけること、

「ない」ものではなく、「ある」ものに目をむけること。

 

「ありのままでいる」ことはそんなところから始まるように思います。

 

pearl-ocean

マイストーリー⑩ 「本当の勇気は弱さを認めること」

3.11の朝、私は早朝の便で成田空港に帰国する便に乗っていました。私が南スーダンから帰国してちょうど1ヶ月くらいたった頃でした。

 

乗っていた便は定刻とおりに到着し、荷物を引き取り、首都高を経由してバスで自宅に向かっていました。ああ、無事に着いてよかった。ああ、春も近いなあ、とぽかぽかする春の日差しをはっきりと覚えています。

 

のんびりするのもつかの間、それから1時間後に家が揺れたのです。

幸い私自身も家族も全員無事で、親戚や友人にも直接的に被害にあった人もいませんでした。

 

しかし、私の中で何かが起きたように感じました。

この時の地震で、私の中の「箱」が開いたのです。

震災が、私が南スーダンにいる間に無感覚になっていた部分の箱を開けたのです。

 

もしかしたら、何か少しおかしいんじゃないか?と感じたのは、満開の桜の花びらの下に立っていた時でした。

それまで海外生活の長かった私にとって生の満開の桜を見ることはとても楽しみにしていたことでした。

それなのに、その桜を目の前にしながら、私はきれいだとも美しいともうんともすんとも感じられなかったのです。

 

どうしたんだろう。。。

きっと疲れているからに違いない。しばらく寝て休んだら元に戻るよ。自分に言い聞かせるように思いました。

それからしばらく朝起きれない、という状態が続きました。

身体が空っぽになってしまったかのように、身体にまったく気力が入らないのです。

1日のルーティンといえば、ゆっくり起きて近くを散歩するのがやっと。何もやる氣がしない。誰かに会う気力さえないし、誰にも見られたくもない。。。

 

まさか自分が。。。

それまでバリバリを仕事をこなしていただけに、この自分の状態を受け入れることにはしばらく時間がかかりました。

そして、紛争や世界のニュースに関することをまったく聞きたくなくなり、テレビのニュースを見ることもほとんどなくなりました。

 

トラウマケアに関する研修を受けた時の資料にこう書いてあります。

 

「私たちの安全を脅かすような出来事に会ったり、極度の緊張状態が続いている時、それは脳の神経系統に影響を及ぼします。

 

それは、竜巻のようなエネルギーが身体の中に溜まっている状態です。そのエネルギーが数週間のうちに解放されるか統合されないと、いわゆるトラウマの状態を後に引き起こすことがあります。」

 

記憶は断片的になり、思い出すことができる時もあれば思い出せない時もある。感情を抑圧し無感覚状態(numbness)になります。自然災害や似たような出来事に遭遇することによって抑圧された部分が思い出される時、それは癒しの機会である。

 

時には激怒や不安、鬱や絶望としても現れる。こうした体験は同時に私たちの人生の『意味』も崩壊させることがある。」

 

「そうした環境に長い間身を置くこと、または、そうした影響を強く受けた人たちに関わることによって似たような症状を受けることがあり、それは『二次トラウマ』(secondary trauma)と呼ばれる。」

 

ああ、これだ!と知ったのは随分、後のことでした。

そして、無感覚な状態は、傷に鈍感になるだけでなく、

創造性、愛や喜びにも鈍感になってしまう、ことを知りました。

 

私は、自分の体験がここまで抑圧されていたとはまったく気づかなかったのですが、

 

こうした現象は、紛争地でなくとも、カウンセラーや看護師といった対人援助職に就く人にも多く見られることを知りました。

 

 

そして、

同時に、

これは、

 

私にとって、

少し大げさに聞こえるかも知れませんが、

生きる意味を再発見していくプロセスでした。

 

なぜなら、私がすっかり疲れきってしまっていたからです。

 

身体的な疲れもそうですが、それは気力、もっと言うとこれから何を目標にしたらいいのか?という「精神的な燃え尽き」でした。

 

それまでバリバリを仕事をこなしていた人が急に何もできなくなるのです。

私は強烈な劣等感に襲われました。

罪悪感にも襲われました。

強烈な「無力感」に襲われました。

 

 

時計の針が「真逆」に触れた気がしました。

 

 

こうした感情・感覚は実は私の中にもともとあったものだったのでしょう。

 

 

私はこうした感覚との付き合い方を学ぶ必要があったのです。

 

 

この時の私の心境をとても上手に表現してくれている本があります。

 

ブレネー・ブラウン「本当の勇気は弱さを認めること」2013年です。

 

 

 

人間は誰でも悩み、自分の無力さを感じることを知ること

 

弱みや不完全さを認めず、あるべき姿にそぐわない部分を切り捨て、認められるためにヘトヘトになるのでもなく、それも含めてありのままの自分を受け入れること

 

 

そのために役に立つことは、

・心の痛みを無視したり、自分を批判するのではなく、自分自身の温かい理解者になること

・否定的な感情を抑えすぎず誇張もせず受け入れること。

(痛みを無視したら痛みに共感することはできないから)

・否定的な感情や思考と「一体化しすぎない」こと、です。

 

著者のTEDでのスピーチは全世界総視聴回数ベスト3にランクインしています。

 

本当の勇気は「弱さ」を認めること-ブレネー-ブラウン-ebook/dp/B00GTAV3P6

Brene Brown

 

ああ、これだ。

 

決して、簡単には聞こえなかったけれども、解決の方向が分かった気がして、安堵を覚えました。

 

私は少しづつ、

自分の弱さを受け入れること、

 

を学び始めました。

 

 

「本当の勇気は弱さを認めること」は続けます。

 

一生懸命にがんばることで目の前の課題を解決し、乗り越え、キャリアを築いてきた私にとって、自分の「弱さ」を受け入れることは決して簡単なことではありませんでしたが、

 

がんばる以外のやり方がある。。。

 

それは直感的にそうだろう、と感じていました。

 

そして、「弱さ」を受け入れることは、

 

自分がどんな人間で、どんな体験をし、何が大切なのかを再発見していくことでもあったのです。