私は恋に落ちていました。相手は大学のクラスメートの留学生でした。日本での留学を終え自分の国に帰った彼でしたが、私は学期中にアルバイトしたお金で、彼に会いにも行き、ご両親に好かれようと彼の国の言葉まで一生懸命練習しました。
「私、大学中退してここの大学に通うね!」と息まいて帰ってきたこともありました。
結局、「大学を卒業したらどこでも行っていいから大学は日本で卒業しなさい」、という親の助言に従いましたが、自分が逆の立場だったら本当に冷や汗ものです(笑))
そんな私も、もうすぐ大学4年生になろうとしていました。
さて、私は何をしたいのだろう?
リクルートスーツとバックといった外見はまず揃いました。
「とりあえず」エントリーシートを数十件記入し、筆記試験も受けに行き、面接も受けました。
「なぜ弊社に興味を持っていただいたのですか?」
採用の面接なら必ず聞かれるであろう質問なのに、上手く答えられなかったり、それなりに答えたと思ったのに不合格の通知を受け、さっぱり分からなくなってしまいました。。。
周りのクラスメートが内定をもらい始める中、日々「焦り」がつのる日々でした。
ここならと望みをかけていたJICAや協力隊にも落ち、自信はさらにガラガラと崩れ落ちていきました。。。
就職スーツを初めて着た時には紅葉深まる秋だったのに季節は一週しようとして、秋から冬に、桜が咲き、内定が一件もないままついに夏になりました。
一人取り残されたような気持ちで、日本から逃げ出し気持ちで、ミャンマーに出かけました。
ともかくどこか違うところに行きたいー心の中は泣きそうな気持ちで一杯でした。
行きたかったパガンというクメール遺跡の地で、美しい遺跡がポツポツと目の前にいっぱいに拡がっているのを毎日一日中ただ眺めていました。
一日ただ遺跡を眺めていました。
次の日もただ遺跡を眺めていました。
次の日もただ遺跡を眺めていました。
3日を過ぎたくらいの時に何か特別大きなことが起きたわけでもなんでもないのだけど、
ふと気づいたのです。。。
ああ、私国連で働きたい。。。
ただ自信がないのでそれを「封印」したまま就職活動を始めたものの、落ちてすっかり自信をなくしてしまったことを。
単純に思いました。
国連で働くなんてどんな確率で可能なのかさっぱり分からないけど、そんな叶うかどうかも分からないことにチャレンジしてみたい。
ハハハ、私ってすっごいバカかもしれない。
しかも、すっごい頑固。
でもなんかしょうがないな。
南国の風に助けられたからか、いい意味で「諦める」ことにしました。
ミャンマーから帰ってきて、すぐに親に伝えました。
国連で働きたいと思ってること、国連で働くには大学院に行く必要があるからイギリスの大学院を目指すこと、日本で就職はしないこと、ただ、国連という組織はいろいろな国の人が働いているところなので、海外で働くという体験が将来ぜったいに役に立つと思うので、大学院に入る前に海外でのインターンを探す、と。
緊急会議が開かれました。
周りに国連で働いてる人はいるのか?
その国連っていうのはどうやって入る仕組みがあるのか?などと質問をされました。
質問をされても、科学的にも理論的にも説得力ある説明ができません。
当時はFacebookもなく、ネット上の情報も限られていて、
今ほど「国連」がキャリアの一つとして認識されているわけでもなく、
大学の就職課でそんな話しができる感じでもなく、
私にとっての唯一の頼りだったのは、
「明石康国連に生きる」と「カンボジア元気日記」という国連ボランティアの人の手記とアルク出版の「国際協力ガイド」だけだったのです。。。
「緊急家族会議」が結論に近づいてきました。
「そんな夢みたいな事を言ってないで就職しなさい」。
かくして、
娘と両親は、同じ家に住みながら卒業までほぼ半年も口を聞かなくなってしまったのでした。
さて、私の方は、さっそくアイセックという団体での海外インターンに申し込むことにしました。
アイセックとは元々ドイツで始まった学生団体で、世界中にある受け入れ企業と、世界中にいるインターンを希望する学生をマッチングさせる団体でした。
インターンと言っても、数ヶ月~一年以上フルタイムでその企業の一員として働き、生活費ももらえるので職種や業界によってはかなりやりがいのある仕事ができるという仕組みでした。
英語の試験を受け、
異文化の適応力があるかなど簡単なインタビューの要件を満たしたら、
こちら側のバックグランドや希望を伝え、
企業のオファーを待ち、
互いに希望がマッチングするかを確認するという流れです。
私が応募していた時期はちょうどインドのITブームが始まりかけていて、
インドのバンガロールがいいとか、IT系・技術系の人も多かったのですが、
私の目的は多国籍な環境で働くための体験だったので、
「対人的な仕事」であれば国はどこでもよい、というなんとも大雑把な希望を出しました。
さて、再び季節は巡って再び秋です。風が冷たくなってきたなあと思えばもう卒業まであと3ヶ月半しかありませんでした。
就職活動に落ち「退路」を断たれた状況でもあったので、私にとって、大学院入学が「最後ののぞみ」をかけた「一大プロジェクト」になりました。
まず、直面した現実。
今のままでは成績がギリギリなので今期はなんとしてでも成績をかなり上げる必要があること、
苦手なマクロ経済が必須科目として残っていること、
英語力(スコア)を短期で上げる必要があること、
合格するには小論文と志望動機が重要であること、です。
もうかっこつけてる場合じゃありません。
私は毎日大学の図書館に通い詰めました。
最近まで教室の後ろの方でつまらなそうに授業を受けていた人が、
突然、まるで別人のように最前列に座り質問までし始めるのです。
苦手だったマクロ経済を最優先にして必死にがんばりました。
(やればできるじゃん、と自分で自分にツッコミを入れたくなりそうです(笑))
大学院に行くためにモーチベーションを保つことも大切でした。
この時に考えた私の「作戦」は、面白しろそうな大学院の科目を聴講させてもらうことでした。
あるイギリス人の先生を訪ね、断られるのを覚悟で直談判に行きました。
「私、今度イギリスの大学院に行こうと思っています。
以前受けた先生の授業が面白しろかったので、出来たら大学院の授業を聴講させていただきたいと思っています。課題もちゃんと読んで参加します。」
。。。
一瞬間が空いた後で、「いいよ。」とのお返事。(ほっ)
この先生の授業は面白く、合格するかどうかも分からない大学院応募のモーチベーションを保つのにとても役立ちました。
同時に、留学生も交じりながら少人数で議論が行なわれていく空間に身を置きながら、もしかしたら私でも大学院に行けるかも。。。段々とそんな気がしてきたのでした。
大学院の相談にものって頂きました。
ある日、志望動機を見てもらった時のことです。
「なんでオックスフォードには願書を出さないの?
ロンドン大学もオックスフォードもそこまで変わらないし、受験料はタダだよ。」
へっ、そうなの???
オックスフォードってあの皇室の方が行くところじゃなかったっけ?
まず、海外の大学院に行こうと思った時に、アメリカではなくてイギリスを選んだ大きな理由は「期間」と「費用」でした。
アメリカで大学院を終了するのは2年間かかるのに対し、イギリスでは一年で終わること。授業料も生活費も一年多いだけで全然変わるので、資金面での理由でした。
そして、次の選択ポイントは学部でした。
国連で働くには、国際関係が有利なのか、経済学が有利なのか?そんなことも考えましたが、私は好きな科目と苦手な科目の成績の差が激しいタイプだったので、有利そうだけど苦手そうな科目を選ぶという選択はあまり合いそうもなく、勉強した分野は仕事には直接あまり関係ないので自分が好きで得意な科目を選べばよいというアドバイスに従い、社会学・人類学を選びました。
そして、大学院の入学のために大切な一つが志望動機でした。
ボスニアでの民族紛争やルワンダでのジェノサイドがショッキングだったこと、私の中には「民族」や文化の差が紛争になる時はどんな時で、それはどうしたら防げるのか?という関心がありました。
「民族」や「紛争」という現象について人類学・社会学的な視点から検証することはきっと必要とされると思う。そして将来、国際機関で紛争予防にかかわれる専門性を身につける事が私が大学院で勉強する目的ですーそれがそのまま志望動機になりました。
英語の筆記テストのスコア、英文成績表、推薦証、小論文、志望理由の一式が揃った時には、思わず封筒に向かって手を合わせました。
後は結果を待つだけ。
卒業まであと3ヶ月でした。
さて、大学院の通知とインターンの結果を待ちながら最後の学期の試験とレポートの季節がやってきました。
以外なところから「最後の関門」がやってきました。
15年も飼っていた愛犬が、急に体調を崩しはじめ、動物病院の先生から「もう先は長くないかも知れない」と言われたのです。
最後のレポートを提出しないといけない、それでないと卒業できないというまさにそういうタイミングで、側で見守る中亡くなりました。。。(涙)
泣きはらした顔のままなんとかかろうじて書き終えたレポートを提出して、ホッとしたのを覚えています。
そして、朗報とは突然やってくるようです。
インターンの受け入れ先として興味を持ってくださったドイツの会社の社長さんが日本に来るので面接がてら会いたいとの連絡を受けました。きさくにおしゃべりが進み、ぜひお越しくださいとのこと。採用決定です!
そして、大学院からも合格通知が届きました!
なんと「奨学金の受給候補者になったので、数日中に面接を受けてください」とのニュース付きでした。
全く予想外の展開でした。
なんで人類学を勉強したいのですか?
なんでオックスフォードで勉強したいのですか?
卒業後は何をしたいのですか?
就職活動の面接も無駄じゃなかったかも知れません。
今度はスムーズに応えることができました。
結果は合格。
あまり知られていませんが、外国人にとっては、オックスフォード大学は大学院に入る方が門戸が広くなります。世界的な大学として、多くの国からの学生が集まることを一つの大きなアピールポイントとしているため、奨学金を出して各国から留学生を集めるためです。ちなみに、2006年度で138カ国から学生が集まり、大学院では63%が外国人留学生です。
さっそくイギリス人の先生に報告をしました。
とても喜んでくれました。
そして、ようやく両親にも報告できました。
今なら分かります。
親は自分たちの体験や想像を超えたことは単純に分からないこと。
そして、ある意味「通過儀礼」だったと。
反対することを通じて、親はあなたはどれだけ本気なの?と私にチャレンジを課すという「役割」だったこと。
私はこの体験を通して、
仕事の場や機会は日本だけを見ていたら「ない」ように見える時でも、
日本の「当たり前」は世界では必ずしも「当たり前」ではないこと、
世界に目を拡げたら全く違う大きな機会が目の前に開けること
そして、
道は拓けることを体験したのでした。