同じ映画の話題が続いて恐縮ですが、
映画グレーテストショーマンの主題歌「THIS IS ME」では、
「I make no apologies, this is me」ー
「謝ったりしない。これが私だから」というセリフが出てきます。
I know that there’s a place for us
誰にだって居場所がある
I am who I’m meant to be, this is me
I’m not scared to be seen
見られることなんか怖くない
I make no apologies, this is me
謝ったりしない これが私だから
のメインのサビの部分ですね。
別に気にしなかった人もいるかと思いますが、
きっとあるレベルではそのメッセージも私たちの無意識にドンピシャだったので、
この映画や歌やメッセージが心に響くのではないかと感じます。
(映画を見てない人ごめんなさい。ぜひ見てください(*^-^)ニコ )
ではそもそもどうして「謝ったりしない」というセリフが出てくるのでしょうか?
自分であることとはどう関係するのでしょうか?
前回は、私たちは生まれてから社会で生きていく上で、周りから受け入れられるためにはどうあるべきかというイメージを作り上げ、『自分はこうあるべきだ』という理想のイメージをつくり上げると言いました。
同時に、この観点から自分を見たとき、誰も決して完璧にはなれないのですが、完璧ではないために自分を否定するという「自己否定のパターン」が生まれる、と言いました。
関連記事→ 世界的ヒット映画グレーテストショーマンの主題歌「This is Me!」の深いメッセージとは?ほんとうのTHIS IS ME!とは?
「四つの約束」はこうして、心の中に「裁判官」が生まれると言っています。
自分たちを縛りつけるものから解放されて、もっと自由に生きるヒントを、
世界各国で翻訳され500万部以上の大ベストセラー『ニューヨーク・タイムズ』紙上にて、
七年以上のベストセラーを誇る 「四つの約束」 より続けて探ってみたいと思います。
以下引用
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私たちの心の中には「裁判官」と同時に「犠牲者」が住んでいる。
この心の中の裁判官は、私たちのすること、しないこと、考えること、考えないこと、感じること、感じないこと全てを裁こうとする。この裁判官は私たちに毎日有罪を宣告する。
それが毎日、何度も起き、それが連日、私たちの人生の全てにわたっておこなわれる。
そして、私たちの心の中にはその偽りの判決を信じてしまう「犠牲者」が住んでいる。
「犠牲者」は、責め、罪、恥を背負っている。その部分は言う。
「かわいそうな私。私は善人でもない。頭もそれほど良くない。魅力もない。私には愛される価値がない。なんてかわいそうなんだろう。」
こうして、私たちは自分を隠そうとし、自分でないもののふりをする。
何をやっても偽物のような気持ちになり、他の人にそのことを気づかれまいとして、社会的な仮面をかぶる。
ティーンエイジャーが自分を傷つけようとするのは、ふりをしている自分が本当の自分ではないからである。
彼らはふりをしている自分と本当の自分が一致していることを望むが、そうはなれないので、恥を感じ、罪の意識を抱く。
こうしたこと全ては、私たちが選んだ訳ではない間違った信念システムに基づいて行われる。
地球の夢では、人間が苦しむこと、不安の中で生きること、感情的なドラマを創り出すのはもはや当たり前になっている。
戦争の夢、恐怖の夢、不正義の夢。。。
それはあまりにも生きることが困難な夢である。
しかし、心の中の「裁判官」は間違っている。
「裁判官」の「法の書」(基準と規則)が間違っているからである。
私たちが見ている地球の夢は間違った「法」に基づいているのである。
私たちは霧の中で生きているが、その霧さえ存在していないのである。
この霧は、あなたが信じていること、自分について持っている概念、他の人たちと交わした「合意」から成り立っている夢である。
私たちは悪夢を見る必要はない。心地よい、楽しい夢を見ることも可能なのだ。
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数日前に参加した振り付けのないクリエーティブダンスで、女性性を癒すというワークをしました。
「女性」が「男性」に対して持っている怒りや社会から植えつけられてきた女性であることの罪悪感や恥 ー 個人的なもの、先祖から引きついだもの、家系的なもの、集合的なものーを手放し、女性が立ち上がり、本当の自分を表現する、というものがありました。
私自身、バングラデシュで女性の集まりに参加したり、南スーダンなどの女性の状況なども直に見てきて、文字通り国によっては女性が女性であることだけで罪(恥)を感じさせるような文化も見てきたことや、家系的に沖縄の伝統(戦争の歴史、女性の苦労、神事・祭事の伝統やギフトも含め)を引き継いでいることも自覚しているので、
女性が立ち上がるというワークでは、そんなことがあたかも自分のことのようにリアルに感じられる瞬間もありました。
かりに自覚がなくても、誰でも個人の体験はもちろん、家系や集合的なものさえもが身体(細胞)に記憶されていると言われています。
そんなことをリアルに感じていたら、
「顔を上げて、上を向いて」というファシリテーターの方の声が聞こえました。
20世紀は戦争や武力など力に支配されてきた時代でした。
私自身、そのばかばかしさを散々南スーダンで自分の目で見てきました。
それでも、それでも、それでも、
仮にそういう歴史が過去にあったとしても、
苦しみや悲しみが山ほどあったとしても
だからといっていつまでも女性の怒りや悲しみを抱えておくことも望んでいません。
(ちなみに男性でも同じように感じている人もたくさんいます)
女性たち(自分も)をしばりつけている「呪縛」から自由になって、
私の世代でそれらを終わらせて、
その先の世界を見たい!
と思いました。
「美しい満開の花が咲きほこるイメージ」が見えました。
湧き出るような女性の底力を感じました。
私自身、「女性」として癒すこと、手放すことはまだあります。
でも、その度に手放して女性性の力を取り戻していけると信じています。
武器を手に取ることは簡単だけど、ほんとうの力はそこにはない。
武器にお花を。
顔を上げて、堂々と自分に与えられたギフトを表現していきたいーそう思っています。
本当の自分を思いっきり表現したい!
受け身な人生はもう嫌だ!
自分の人生を生きたい!
自己表現のブロックを破りたい人
自分の人生を生きたい人
人生の方向性、自分の強みを知りたい人
ご連絡ください。
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