自分のアイデンティティー(セルフイメージ、自己価値)が変わり相手のこちらへの態度が変わるとき

学生はほんとうに敏感です。

 

アカデミックにやるのをやめて自分が楽しいと思っていることを伝えようと割り切ったら、学生がいつにもなくよく聞いているのがすごくわかる時がありました。

 

理論というよりも、自分が東ティモールで働いていた時どんなことが大切だと思ったのか自分の言葉で話そうと思って臨んだら、授業の後、一人の学生が「先生のお話し面白かったです」とわざわざ伝えに来てくれました。

 

ありのままでいこうと思ってたら、プリントを配るのにまごついて、学生に「せんせい、かわいい」と言われました。(笑)

 

先生っぽい格好じゃなくてもいいじゃんと思って、ピンクのピアスをつけて行ったら、「先生、ピアスかわいい」

 

最近暗めの色の服が多かったなあと思って、今日はスカートを履いて行こうと思ったら(変な意図ではありませんよ)学生が一言。「せんせい、スカートかわいい」(笑)

 

ボキャブラリーが貧弱なのは若干気になりますが、学生って素直だなと思います😊

 

一昨日は、「先生、ホワイトハウスで働く人みたい!」と言われました。何故か、ホワイトハウス(笑)

 

確かに、あるイギリスのブランドのロイヤルブルーのジャケットを着ていたのだけど、それだけでもないかもと思ったのです。

 

こちら側の相手への思いが変わると、特に何も言ってないのに、相手のこちらへの態度が変わることがありますね。

 

例えば、自分の中の判断や裁き(judgement)を相手に貼り付けていたことに気がついたり、心の中で相手のこと(態度やふるまい、言葉など)をゆるした後などです。

 

同じ様に、自分の自分に対する理解や自己認識、アイデンティティー(自己価値)が変わると、相手のこちらへの態度が変わることもあるように思います。

 

学生から「先生、ホワイトハウスで働く人みたい!」と言われた時、心の中で思ったのはこんなことでした。

 

それは、「孤児の霊」ではなく「王の娘」という世界に触れ、新しいアイデンティティーが私の中に根付き始めたからかも😊と思ったのです。

 

「王の娘」または「王の息子」というアイデンティティーとは何か?を理解するために、その反対の「孤児の霊」(orphan’s spirit)というものについて簡単に触れたいと思います。

 

「孤児の霊」とは、文字通り、なんでも自分で生き延びていかなければならないような、親がいないようなサバイバルのメンタリティーで生きている、自分がどこに属しているのかわからない、自分が何者なのか分からず、さまよい、物理的にサバイブしないけいけないだけでなく、不安の中で生きているというような状態です。

 

その大きな特徴は、何かをしてこそ、何かの成果をあげてこそ、愛されると思っているので、常にがんばることです。

 

しかも、がんばることで成果や結果を出してきたので、その何が悪いの?と思います。

 

誤解のないように付け加えますが、努力をすること、勤勉であることはとても大切なことです!

 

しかし、わたし自身もそうでしたが、自分の存在価値を業績や成果で証明し続けなければならず、心が休まらないのです。

 

これは本当に本当に大変なことです。

 

なにより、より本質的な問題は、すべてをコントロールしたくなる、権威(学校、先生、政府、上司、リーダー)に対して、批判的な見方を持っている、(ゆえに)神様に対しても誤解した見方を持ってしまう(神様からの無条件の愛を素直に受け取れない)ということにも関係している場合があります。(E1 Life Renewal Camp Textbook, 21st Century Christ Church p.48)

 

日本人は真面目なので、すべてを捧げた末に先の戦争に負け、屈辱的な占領期を迎えた際に、それがあまりにもショックで、見放されたように感じて(実際の孤児も多くいました)この孤児の霊の影響を受けるようになったという見方もあります。

 

そして、日本社会で、父性不在という問題があること(実際に父がいないこととは違います)も指摘されています。

 

でも、神様はそんな私たちの社会にあるかもしれないそのような要因さえも癒すことができるお方なのです。

 

王の娘というのは、文字通り王の娘です。

ですから、孤児ではありません。孤児とはまったく違います。

王の娘には、天のお父さんがいます。

天のお父さんは自分の子どもである娘にこう言ってくれています。

 

「あなたの神であるわたしがいつもあなたと一緒にいますよ。

神の力があなたにあるので、戦いはすでに勝利しています。

わたしはあなたのことを思って喜んでいます。

神の愛によって、あなたのいのちはいつも新しくされています。

わたしはあなたのことをとても喜んでいるので喜びの歌を歌います。」

(Good News Translation (GNT)より意訳 ゼパニヤ3:17;)

 

The Lord your God is with you;

his power gives you victory.

The Lord will take delight in you,

and in his love he will give you new life.[a]

He will sing and be joyful over you,

Zephaniah 3:17 Good News Translation (GNT)

 

「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。」(イザヤ66:12)

 

「あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。

あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。

主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。

主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」

(申命記 28:2-7、13)

 

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。(詩篇23:6)

 

この内容も素晴らしいですが、すごいと思うのは、これは、何をやったからでも、頑張ったからでもなくて、文字通り娘(息子)だから無条件に与えられていることです。

 

こういうよい言葉に触れていくと、自分の頭の中の思いがネガティブな思いからよい方向へ向きが変えられていくのを感じます。

 

わたしたちの戦いは頭の中の思考・考え方にあるという世界的ベストセラーの本もあります。

 

だから、予防策のように、聖書からよい言葉を書き出したノートを用意して鞄に入れてあります。

 

そのノートをいつも開いているわけではなくても、守りが共にあるような安心感と心の落ち着きを感じます😊

 

”The Lord will make you the head and not the tail, and you shall only go up and not down.” 「主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」(申命記 28:13)

 

これを読んでくださっている方々にたくさんの祝福がありますように!

 

May peace and blessings be with you!

「かっこいいことを言わなきゃいけない 」「自分だけ勝ちたい」を超えさせてくれる「意図」の力

私たちに力をくれる意図とは反対に私たちの力を削ぐものに、私たちの「欲」があります。

 

相手を打ち負かしたい、

相手に仕返しをしたり

自分だけ勝ちたい

かっこいいことを言わなきゃいけない

優秀そうなことを言わなきゃいけない

評価を受けたい

賞賛されたい

などです。

 

その逆に、私たちの力を引き出してくれるようなより大きな「意図」は例えばこのようなものです。

 

チーム全体を勝たせること、

相手のことを理解すること

相手とのつながりを深めること

相手に与えること

チームに貢献すること

この仕事を通じて社会・国全体に貢献すること

人類に貢献すること、

等です。

 

人間誰しもそういう思いや欲はあるものです。ただ、一流選手の持つ意味付けの力の例でもお伝えしたように、その次元にいる限り本当の力は身につくことはありません。

 

努力を重ねることはもちろん大切ですが、自分のためだけに努力を重ねるような努力には限界があります。一人でいくら時間を費やしてもそれを超えたより大きな「意図」の力には到底かなうことはできません。

 

より大きな意図を持つ時に、自分の力が引き出されたり、次のレベルに飛躍する機会も与えらえるということを私自身も体験してきました。

 

私が自分の中の欲に目を向け、本当に自分に力をくれるのはどういうアプローチなんだろう?という問いに私が向き合うことになったのは国連の仕事で南スーダンへ赴任した時でした。

 

南スーダンとは約40年間も内戦が続いた国です。紛争が起きていた国では、建物が破壊されていたり、街中に軍人や銃を持った人たちがいるなど紛争の影響をいろいろな所で感じることがありました。ただそうした面は、比較的に分かりやすい方で、私が感じたのは、「武力の文化」による影響でした。

 

「武力の文化」というのは、私の表現ですが、「偉いのは力(武力・火力)を持つもの」という社会や人間関係のあり方です。

 

分かりやすい例で言うと、軍服を着た人や銃をもった人たちが、レストランで相手に威喝を与えて、従わせるような態度です。そしてそれが当然といったような振る舞いです。

 

生まれた時から紛争があり、平和や教育、話し合いといったことを一切体験したことがないことも関係しているのでしょう、自分の思い通りに会議や話し合いが進まないと、すぐに攻撃的な態度になる人もいました。

 

そうした国全体の緊張感は、私たち国連スタッフにも大きな影響を及ぼしたようでした。事務所の同僚たちの間で、より攻撃的になったり、競争的になったりすることが起きていたのです。足の引っ張り合いもあり、お湯のシャワーも出ないなど、ただでさえストレスの高い環境で、さらに士気が下がるという悪循環が起きていました。

 

私が赴任した当時はすでに停戦が合意されていて、命の危険を感じるようなことはありませんでしたが、ストレス研究やトラウマ研究が示すように、社会全体のトラウマが、その環境にいる個人やその人の対人関係に大きな影響を及ぼすことがあります。

 

そのような環境におかれたことで、普段はなんとか隠せたような人間の欲やダークな面が、表面化したのだと思います。

 

そんな職場環境。仕事はいくらやっても終わらない位にあります。このままでは燃え尽きるのは時間の問題だと思いました。

 

しかも、外は時に40度を超える灼熱の気候。

 

ちょっと外に出るだけで体力を消耗し、寝るのも一苦労です。後に改善されましたが、お湯のシャワーも満足にないし、携帯電話もほとんど通じません (当時)。

 

国連は基本的には自動昇進も自動更新もない自己志願制の組織です。いくら、現場を体験したい、独立国の誕生に立ち会いたい、と自分で選んでニューヨーク本部から南スーダンに赴任したとはいえ、私はもしかしたらすごくバカな選択をしたのかも知れない。。。

 

さすがにそんな考えが何度か頭をよぎりました。

 

ただ、思ったよりも大変なので来週ニューヨークに戻ります、と言う訳にもいきません。

その時、私には二つの大きな選択が与えられていたように思いました。

 

1、相手に仕返しをしたり「競争」と「武力の文化」に加わること

2、まったく違う方法をみつけること

 

「武力の文化」とは、相手を打ち負かしたい、仕返しをしたり、賞賛されたい、自分だけ勝ちたいなど先に挙げたような欲(エゴ)の方法です。

 

「そんなことをしたら自分が潰れてしまう」

 

それははっきりと本能的に感じ取っていました。

ここを抜け出せる全く違う方法は何だろう?

 

私はたった一人でもいいから、本当に大切だと思うことをやろう、と思いました。

そして、人との関係を一人一人と丁寧に結んでいこうと思いました。

まず、私はオフィスの人達と「本気で」「笑顔で」「挨拶すること」を始めました。

 

ニューヨークから赴任したばかりの時には、皮肉っぽく「ニューヨーク本部の人」と言われたこともありました。

 

「正論」も「本部の理論」も、職場でも外でも通用しそうもないことも感じていました。

 

こうして、私は文字通り「必要に迫られて」、オフィスにいる同僚たちと毎日挨拶を交わしながら、一人一人の価値観や関心に意識を向けながら、この人はどうしたら動いてくれるのだろうか?ということを試行錯誤していく事になったのです。

 

まだ紛争が終わったばかりの土地です。

 

国連という組織自体、まだ信用を得ている訳ではありません。

 

土地柄、挨拶を交わすことは、文字通り、「私はあなたの敵ではありません。私はあなたを尊重しています。」ということをはっきりと示す意思表示でもありました。

 

どこの社会もそうであるように、アフリカは特に人ベースの社会です。携帯もメールも通じない環境ではその意味がさらに大きくなります。

 

私のキャリアの中でも、この時ほど、意識してオフィスで会う人たちに声をかけていた時期はなかったと思います。

 

そんな姿勢が日常的に培われたからでしょうか、私は気がついたら現役の兵士の人しかり、司令官しかり、私は彼らとの関係構築に手応えをつかみ始めていました。

 

彼らは、一度信頼を得るとお互いの関係をとても大切にするという面もあります。そして、そんな会話の中で彼らの本音を垣間みることもありました。そして、私の仕事に必要な情報を教えてくれることもありました。

 

そして、彼らの生の声に触れることは、時には、情勢報告や分析レポートといった形で活かされていきました。

 

そして、何より私自身が、現地ではこんなことが起きている、もっとこうした方がいいんじゃないか、という一番大切なところにフォーカスし続けるにつれ、自分の中のモーチベショーンも実際の成果といった面でも手応えを感じていました。

 

そして、こうした流れの中で、本当の意味で「聴く」ということの力や仲裁の力を体験し、そうした仕事が評価され多国籍チームのリーダーに抜擢されることになりました。

 

さらにその後は個人専門家として世界的なプログラムの講師を務めることになったのも、原点はこうした体験にあると思っています。

 

自分の仕事や関わりの意図をどこに「設定」するのか?

 

より大きな意図を持つ時に、自分の力が引き出されたり、次のレベルに飛躍する機会も与えらえます。

コミュニケーションが苦手? 通じない人、理解できない人がいてもいい!

 

最近、シェア会に参加された方で、
自分はコミュニケーションが苦手だと思っている、という方がいました。

 

ただ、私には、その人がコミュニケーションが
苦手なようには見えなかったのです。

 

もう少し話しを聞いてみて気づいたのは、

その方の悩みとは、
自分の言いたいこと・
伝えたいことが
思うように相手に通じない
「もどかしさ」のように感じました。

 

 

私がその方に伝えたのはこんなことでした。

 

たとえ、

自分がどれだけ饒舌なスピーチができたとしても

自分がどれだけ完璧な英語を話したとしても

スマートな社交術を身につけていたとしても

通じない人はいるし

全員に通じなくてもいい。

 

逆説的なようですが、

もっとのびのびと自分に言いたいことを言いたい、

コミュニケーションスキルを上達させたい、

世界の人と通じたいと思えば

 

通じない人もいるという、

ことを受け入れることです。

 

 

もちろん

人間誰でも

理解されたいし

理解したい、

 

でも、

時には

どう頑張っても

 

理解できない人もいるし

好きになれない人もいるし、

同意できない人もいます。

 

 

別にそれでいいのです。

 

もしコミュニケーションが
苦手だと思っていたら
実は「逆」かも知れません。
もしかしたら、
もっと理解し合いたい
という意欲の表れかも知れませんね。

 

*今日のポイント*

通じない人、
理解できない人、
好きになれない人、
同意できない人もいる。

 

別にそれでいい。

 

それを受け入れると、
「理解しないとけない」から解放されて
「理解できたら楽しい」ドアが開く。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

175カ国の人と一緒に働いて学んだ
ガツガツと自己主張しなくても
世界の人と通じる8つのヒントを
お伝えしています。

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

 

国際機関で働いていた時、
組織の理念には共感するけれども、
我先に自己主張をしたり、
声が強い方がいい、
みたいな風潮に違和感を感じていました。

 

英語をしゃべる=「アメリカ人」になることじゃないし、英語は世界の人と通じるための言語として学ぶのだから、必ずしも「アメリカ人のような感じ」で話さないといけないっていうのもなんだか違和感がある。。。

 

そんな私の実体験などから生まれたヒントが満載です。

次回のシェア会は3月26日(土)16:00~18:00@恵比寿で開催します。

ご興味のある方は、こちらにご登録ください。→ 大仲千華メルマガ登録

最初混乱した学生は、最初から理解していた学生よりもいい成績をとるーネガティブな感情の効果

新しいことに挑戦するのが億劫。

すぐにイライラしちゃう。

面倒なことはいや。。。

どうやら世界的な現象のようです。

 

快適さへの欲望が満たされれば満たされるほど、私たちの経験の幅は狭まり、人生の困難を切り抜ける練習の機会を失っている、という指摘があります。

生活は確かに便利になったものの、何もかも便利になれば、面倒なことはしなくなり、列に並んで順番を待つことも、渋滞でなかなか進めないことにも耐えられない。。。

渋滞で前に進めないイライラや割り込みされた不快さに対する耐性は減っているそうです。

ただネガティブな感情が悪いわけでもなく、人は直感的に感情の効果を知ってるそうです。

例えば、習ったことがすぐに分からなくても、最初の混乱した状態を脱した学生は、最初から理解していた学生よりも、その後のテストで高い成績をとるそうです。

 

「ポジティブ」だけでは私たちは本当の意味でポジティブに感じられないこと、本当に心が落ち着いて感じられる時というのは、ポジティブもネガティブも両方の体験を受け入れている時だとも言われています。

 

当たり前ながら、人生には順調な時もあればそうでない時もあります。

親を失くす、離婚する、期待していた成果が上げられなかった、などなど。。。

そして、誰でも挫折、自信喪失、倦怠感などを体験します。

だとしたら、ポジティブもネガティブも含めた両方を受け入れる能力を身につけて、人生の出来事に効果的に対応することを学ぶ方がよっぽど効果的なのではないか?

だとしたら、本当の意味での適応能力というのは、ネガティブ感情を受け止められる事と、そこからポジティブ感情に移る努力がバランスよくできることなんじゃないか?

自分の人生におけるポジティブとネガティブの両方の感情を受け止められる時、人はその後順調に気分が回復していくそうです。

例えば、流産で子供を亡くしたばかりの夫婦の人たちがこんなことを言っています。

「この2週間はとても辛い気持ちでした。妻は妊娠9週目だったのですが、経過も順調だと言われて夫婦で喜んだのもつかの間、流産してしまったのです。私は失業中で、仕事がなかなかみつかりません。おまけに妻の祖母が余命わずかなので妻のことを思うと悲しくなります。不幸はもうたくさんだという気持ちです。それでも、私はそれなりに自信もあり、幸せも感じています。気持ちは確かに沈んでいますが、妻といい関係になるなど、恵まれている点に感謝しています。」

参考:「ネガティブな感情が成功を呼ぶ」(ロバート・ビスワス=ディーナートッド・カシュダン 著)

 

人間は感情の生き物。感情はなくならないのだから、上手くおつきあいする方法を習いたいものです。

 

これまで無視したり、否定してきた自分のネガティブな部分も認め、心を開いて受け入れることー

明るい部分と暗い部分、

強さと弱さ、

成功と失敗

闇と光

を受け入れてこそ、

才能も

可能性も

より開いてくるんじゃないか?

 

そんなことが自分の体験としても最近腑に落ちつつあります。

 

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職場での人間関係: 上司や同僚との関係どうしたらよくなる?

このスマホ時代に私たちが日々接する情報量は10年前の400倍だそうです。

あまりに多くの情報にどっぷり浸かっているために、身動きができなくなり、人はかえって無力感を感じているんじゃないか?

 

最近、鬱の診断が増えている要因はこれと関係がある、と指摘する人もいます。

 

だとしたら、この情報の溢れる時代に、人々が渇望していることとは何なのでしょう?

 

一つは、「自分という存在を認められること」だそうです。

 

私自身、南スーダンといった緊張度の高い紛争地で働く内にこのことを実感したものです。争いのある場所だからこそ、人は自分という存在を認められ、理解されることを切実に求めている、と。

 

私は、たいてい「聞き役」に周ることが多いのですが、こちらが話す・話さないに関わらず、そんな中で相手と接する際に役に立った心構えがありました。

 

「私はあなたという存在を尊重しています。 」

「私はあなたという存在に関心があります。」

「私はあなたのことを理解したいです。」

 

これは相手が上司でも同僚でも同じことですよね。

 

どうしたらこういう気持ちが相手に伝わるでしょうか?

 

自分が「尊重された」時の体験を思い出してみると、ヒントが見つかも知れませんね。