外出禁止がほぼ一年のような環境でー危機が押し出す「和解」

前回、危機の時にこそ、その人の強みや本質、その人が本当に表現したいことが現れるのではないか?ということをお伝えしました。

 

*記事⇨危機の時にこそ、その人の強みや本質、その人が本当に表現したいことが現れるということ

 

また、「危機」が押し出す「和解」ということもあります。

 

今のコロナ危機の中で、もちろん大変なことは今世界中にいくらでもありますが、危機という中での光るニュースというのもあります。

 

今回は、「危機」が押し出す「和解」という視点から、先に南スーダンでの体験を、そして今のコロナ危機での「和解」についてお伝えしたいと思います。

 

175カ国の人たちが一緒に働く国連という場。この中には対戦中の国の人たちもいます。

 

ニューヨーク本部だったら、仮にその人たちが同じ部署で一緒に働くことになったとしても数時間ほど我慢すれば、いくらでもその後は自分が好きなところへ行くことができます。

 

しかし、南スーダンではそのような街もカフェもお店もありません。

 

外に出れないわけではありませんが、3分も車を走ったら、舗装の道は終わり、そもそもお店がないので、実質的には、ほぼ一年間くらい(人によっては2年〜4年くらい)、外出自粛に近い状態とも言えるでしょうか。

 

敷地内はそれなりの距離をジョギングできる程度の広さはあります。4畳くらいの広さですが、自分の部屋もあります。

 

ですから、あえて表現するならば、ある程度の広い敷地の中で、自分の家族ではなく、175カ国の同僚たちと一緒に過ごすことになった長めの外出自粛生活と表現したらいいでしょうか。

 

そのような中で、実際にこのような状況がありました。

 

インド人の軍人とパキスタン人の軍人が国連機の運営という同じ部署に配置されました。

 

軍人という職業の人たちには、防衛に直接関わる立場として、私たちが想像できない位の制約があります。

 

例えば、「敵国」であるお互いの国に渡航することはもちろん、互いに接触することも厳しく禁止されています。正式に軍人をやめても、一生インドを訪ねること、また一生パキスタンを訪ねることも許されていません。

 

ただ、国連という彼らが派遣された新しい所属先では、自分の国の立場ではなく国連の一員として仕えることになります。

 

幸い、二人ともプロ意識が高い人だったので、互いに助け合いながら毎日テキパキと国連機を飛ばし、何百人という国連関係者や物資を南スーダン各地に送り出していました。

 

二人とも家族や母国から離れる寂しさや苦労があったでしょうから、互いの「違う点」よりも、「同じ点」に目が向いたのかも知れません。

 

気づけば、二人で仲良く一緒にチャパティー(インドやパキスタンでの主食)を焼きながら、よく一緒に食事をしていました。

 

彼らは平気な顔でしれっと言っていました。

 

「ああ、カシミールは寒かった。そういえば、あの時の銃撃には驚いたよ。敵ながらあっぱれと思ったよ。ハハハー。」

 

「まあ、ヒンドユー語とウルドユー語なんてほとんど同じなようなものだよ。チャパティーの味だって一緒だよ。」

 

「戦争をあおるのは結局政治家さ。僕は軍人として命令されたところに行くだけさ。」

 

パキスタンとインドも互いに核武装をする程の敵国で、かなり緊張状態が高まったことが数回ありましたが、けっきょく、同じ言葉を話し、同じ食事をする同じ文化圏に属する人たちなのです。

 

私はチャパティーをごちそうになりながら、二人の会話をただ聞きながら、なんだか妙に納得してしまったのでした。

 

政治や人間のプライドやエゴで、人と人や国との間の分断がいかにも簡単に起きてしまうようにも見える一方で、同じくらいに人間の中には元に戻りたい(繋がりたい)というDNAのようなものがあって、危機という現象の中に現れる恵みの中で、私たちが自分の中にある純粋な気持ちや願いを取り戻し、人間のそんな姿を見せてもらうことがあると。

 

今回のコロナ危機では、イスラエルのユダヤ系の人とアラブ系の救急隊員が共に懸命に職務を行っていることを現している写真が話題になっています。

 

イスラエルでは、救急車への出動要請は通常年間6000件のところ、コロナ危機以降10万件を超える状況だそうです。そのような嵐のような忙しさの中、奇跡のようにある瞬間に要請が止み、共に祈る時間が与えられたそうです。

 

それぞれの神にその方向を向いて祈りました。そして、こう語りました。

(逆を向いている写真ですが、逆を向きながら一致しているのです!)

 

「対処すべきことがあまりにも多く、一人一人祈る時間がないので今は一緒に祈っています。… わたし(イスラム系)は家族のことを祈っています。わたし(ユダヤ系)はこの終わりを見せてくださいと祈っています。この病気では宗教も性別も関係ないです。」

 

このような状況の中で私たちは日々いろいろなことを感じています。フラストレーションを感じることもあれば、ちょっと前までは当たり前だったことに感謝が湧くような体験もしています。

 

だからこそ、このような時にこそ、「急げば回れ」ではないですが、大切なことを大切にして、そして、(家にいながら静かな時間が持てないという人も多いとは思いますが)、なんとかして、ゆっくりとした時間をとって改めて方向性・ビジョンを求めるというというのは一つの知恵であると思います。

 

神様、危機の時だけでなく、大切な目的に目を向けることができるための知恵を私たちに与えてください。そのような気持ちを保てるように私たちを支えてください。

 

私たちの中の要らないものをそぎ落とし、私たちの中の純粋な願いを取り戻させてください!

 

イスラエル

 

参考サイト:

https://mtolive.net/ガザ製マスクを買うイスラエル:コロナ効果?-2020-3-31/

⬇️ ニューヨークタイムズ記事

 

オックスフォードの教授との個人指導では一年間で一回も答えが言われない❗️じゃあ何を学ぶの?

オックスフォード大学の大学院ではあまり授業の数は多くはなく、チュートリアルと言われる教授との一対一の個人指導で一年間の学びが進められていく、というお話しをしたことがあります。

 

記事⇨ オックスフォード流「考える力」ー一流は何をどの順番に考えればいいのかを知っている

 

授業を受けずに一対一の個人指導を受けるという制度にもびっくりしたのですが、さらにびっくりしたのは、一年間で一回も答えが示されないことでした。

 

一年のうちに約24回ほど小論文を書き、教授とのチュートリアルの時間を持ちました。

 

その一年間、私は教授からこれが答えだ、というようなことを一度も聞くことがありませんでした。

 

こんなままで年度末の試験を受けて受かるんだろうか、という心配が何度も頭をよぎりました。

 

なぜなら、自分の答えが合っているかどうかが分からなかったからです。

 

正直、この間の期間はシンドかったです。

学生が年度末試験に向けて感じるプレッシャーは相当なものです。

イギリスの場合はいくら年度中に真面目に講義を受けていたとしても、最後の試験でできなければ修士号を受けられないからです。

 

 

 

何度も、教授に「答えは何ですか?」「これでいいんでしょうか?!」と聞きたくなったものです。

 

でも、自分の意見が正しいのか合っているのかは、誰も言ってくれません。

 

 

その替わりに聞かれるのは、決まって同じ質問でした。

 

「なんであなたはそう思うのか?」と。

 

 

これは私の担当教授がいじわるだったという訳ではなく、オックスフォード大学のチュートリアルの目的とは、

 

ある一つの「正解」を聞く・知る・学ぶためではなく、自分なりの意見をや考え方をつくっていくための訓練をする時間だったからです。

 

 

そもそも試験で出される問題にさえも「正解」は存在しなかったのです。

 

私の場合は、人類学という分野の背景や鍵になる先行理論を理解して、それを踏まえているかどうかは判断されますが、その上でどんな意見を述べるかには、正解はなく、基本的にその人の思考プロセスを確認するのが試験のポイントなのです。

 

これまでの学校教育では、決められた範囲の試験の問題に対して、一つの正解を出すのが勉強だとされてきました。

 

日本で教育を受けた私たちは、問題にはなんらかの「答え」が存在するものだと思っています。

 

でも、そうした勉強の仕方では私たちが直面する問題には対処できなくなってきました。

 

スマホとYoutubeの発達で人間が一日に接する情報量は数百倍~数千倍になり、少し前の「最新情報」はすぐに「最新」ではなくなります。そして、世界情勢の変化も早く、予測不可能なことが増えています。

 

これまで上手くいった方法が万能でもありません。より柔軟に問題に対応していくこと、そして新しいアイデアや解決法が求められています。

 

ますます私たち一人一人の考えが自分の考えを持つことが大切になっています。

 

考えるために私たちの頭を柔らかくして、自分で考え新しい発想ができるようになるためにまず理解するべきことは「答えは一つではない」という事実です。

国連PKOの幹部経験者たちを突き動かす「原動力」とは?ーこっそり語ってくれた彼らの本音

イスラム圏7ヵ国からの移民の入国禁止令が出たかと思いきや、それが差し止めになったり、就任後わずか1ヵ月で安全保障補佐官が辞任したり──トランプ政権の発足後、信じられないようなニュースが相次ぎ、米国の動揺は世界に波及している。

 

当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなりつつあるいま、それに疑問を持たずに思考停止に陥るとさらなる危機が生じる──1994年に起きたルワンダ大虐殺を例にとり、筆者は警鐘を鳴らす。

 

集合場所はスリランカ最大の都市、コロンボの某米国系ホテルでした。

 

「講師の方は到着後、各自ロビーにてスリランカ軍と合流してください」

 

米軍太平洋司令部から送られてきた書類には、スリランカに到着した後の流れについてはそれしか書かれていませんでした。

 

他に知らされていたのは、これから我々講師4人でチームを組んでスリランカ軍に訓練を実施すること、4人のうち2人は元軍人であること。あとは研修の内容と担当分野ぐらいでした。

 

2012年9月、私は国連がスリランカ軍におこなう平和維持活動(PKO)の訓練で、米軍の専門家という立場で講師を務めることになっていました。

 

そのときのメンバーは米国人のJ、元カナダ軍のB、元マレーシア軍のD、そして日本人の私の4人。全員、すでに国連も軍も離れており、個人の専門家として参加していました。

 

私以外の3人には、ある共通点がありました。全員、国連要員として1994年にルワンダで起きた大虐殺を体験していたのです

 

ルワンダ虐殺のような世界を揺るがす大事件の現場にいた人たちは、いったい何を思ったのか?

 

今回の連載でこのテーマについて書きたいと思ったのは、トランプ政権がイスラム圏7ヵ国の移民入国禁止令を出したと思ったら、それがすぐに差し止めになったから。日々、予測不可能なニュースが報じられる状況に「いままで当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなくなる時代がやってくる」と危機感を覚えたからです。

 

トランプ政権の誕生によって、私は「そもそも政府は正しいのだろうか」という疑問を持ちました。

 

政府はこれまで絶対的な存在で、権威や常識、そして私たちが「当たり前」だと思っていることの象徴でもありました。しかしその価値観が、もろくも崩れ去ろうとしています。

 

独立前の東ティモールにいたことがあります。そのときは通貨や法律、中央銀行はおろか政府が存在していませんでした。市場でトマトを買ったときに、3つの貨幣(インドネシアルピー、米ドル、豪ドル)でお釣りが返ってきて、無政府状態であることを実感しました。

 

では、「当たり前」なことが何ひとつ存在しなかったであろう、ルワンダ虐殺の現場にいた人はいったい何を感じたのでしょうか?

 

彼らの経験から、「当たり前のない時代」を生きるヒントを探ってみたいと思います。

 

ルワンダが生んだ絆

 

スリランカでおこなわれた訓練プログラムは、世界的にもよく知られたものでした。そのときの講義では、武装解除、元兵士の社会復帰(DDR)、人道支援、安保理決議や国連PKOの意思決定、演習など幅広い内容を網羅していました。

 

演習では、仮想国のシナリオに基づいて意思決定の過程をシミュレーションします。シナリオの策定には米軍もかかわっており、内容もリベリアやアフガニスタンなど世界中の事例が集約された本格的なものでした。

 

武力で敵を倒して破壊するのは簡単ですが、停戦後、政府や議会などの制度をいちから整えて国の根幹をつくり、復興を支援するためには、軍事だけではない幅広い視点を要します。私たち講師のチームに軍人と文民の両方がいたのは、そのためでした。

 

訓練は、我々講師チームがコロンボのホテルで合流した翌日から始まりました。私たち講師の間には、ずっと一緒に仕事をしてきたようなスムーズなチームワークがすぐにできあがりました。

 

「こんなに心地よく仕事ができるのは、同じ目的を共有しているからだろうか?」などと漠然と考えていましたが、実はもう少し「深い理由」があったことを後になってから知りました。

 

きっかけは、休憩中のおしゃべりでした。講義の内容が各々の過去を刺激するのか、休憩をしていると思い出話が始まることがよくありました。

 

「あのときは車が通れなくて、歩いて川を渡ったよ。もう少し流れが強かったら危なかったなあ。まあ、いま思えば懐かしいけどね」

 

たいていそんな他愛のない話をして、笑ったものです。そして、最後には、カナダ人Bが軍人っぽいちょっとシニカルなジョークを飛ばして終わるのが「定番」になっていました。

 

ある日、ルワンダ大虐殺が話題にのぼりました。誰かが、「あのときは周り一面が死体だらけだった……死体の上にさらに死体……」と言うと、周りのみんなも「そうだね」と静かに頷いていました。

 

 

えっ? みんな、あのときルワンダにいたの?

 

 

驚いていたのは私ただ1人でした。

 

国連やNGOで働いた経験を持つ者同士、それまで何をしていたのかを簡単に聞くことはあっても、長い経歴を持つ彼らに「原体験」について尋ねることはありませんでした。

 

その言葉を聞いたとき、私たちチームをまとめていたものが何なのかがわかったような気がしました。

 

ルワンダでの経験についてはそれ以上詳しくは語られなかったものの、彼ら3人からは揺るぎない決意が感じられたからです。

 

「あんなことを2度と繰り返してはいけない」と。

 

 

「壮絶な悲劇」が平和への問いかけを生んだ

 

ルワンダでは、1994年に人口の80%を占めていたフツ族によるツチ族の大虐殺が起こり、たった3ヵ月の間に50万~100万人が殺されたと言われています。一日に1万人以上が殺される日々が、3ヵ月間以上も続いたのです。

 

大学生のときに見たルワンダ虐殺の写真展のことは、よく覚えています。死体の上にいくつもの死体が重なった写真の数々を目の前にしたとき、それまで漠然と感じていた「どうして?」という疑問が、より強い形で私のなかにはっきりと跡を残しました。

 

「人間をこんなふうにさせてしまう状況はどんなものだったのだろう? 民族が違うというだけで、人はこれほど激しく争うのだろうか?」

 

このときに感じた衝撃と問いによって、私は大学院に進学し、紛争地の現場に向かうことになりました。

 

我々がスリランカで講師を務めていた訓練プログラムをいちから作り上げたのは、ある米軍士官でした。彼もこの虐殺が起きた当時ルワンダに派遣されていて、惨状を現場で目撃していたのです。

 

彼は帰国後の1995年、自ら志願してニューヨークの国連本部 にある平和維持活動局(PKO局)へ出向します。

 

そのときの心境を、次のように語っていました。

 

「とにかく、自分がやらなければならないことが山ほどあると思った。それで帰国後に迷わず国連への出向を申し出たんだ。

 

驚くかもしれないけど、僕がルワンダから戻ってきて国連PKO局に赴任した当初は研修の教材どころか、PKO参加国に対する訓練の基準もなかったんだ。

 

冷戦後、世界には問題が山積みだったのに、当時のPKO局自体がびっくりするくらい小さい部署だったんだよ。だからまず、参加国をまとめるための最低限の基準を構築するのが僕の仕事だと思ったんだ」

 

そして、彼は関係者や各国政府と協議を重ね、その仕事に邁進していきます。

 

冷戦が終結してまだ数年しか経っておらず、国連PKOに理解があったとはいえない時代背景のなかで、彼はその仕事を通じて、国連PKOに対する各国からの信頼とサポートを得ていきました。

 

こうして彼が作ったPKOに関する指針と訓練基準は、190を超える国連加盟国の総意として国連総会で採択されました。いまではこれに基づいた派遣前の訓練が各国で必ずおこなわれるようになり、10ヵ国以上の軍の士官が合同で演習をする多国籍訓練も開催されています。

 

実は、国連PKOの幹部経験者のなかで、ルワンダ、ボスニア、カンボジアなどでなんらかの「原体験」を持つ人は少なくありません。彼らがその体験を語ることはあまりありませんが、現場の惨状を知る者だけが持つ、言葉を超えた信念を感じたことは何度もありました。

 

私が国連PKO局にいたときの軍事顧問は、元オランダ軍の中将でした。彼は、1993年にカンボジアで国連の選挙担当官を務めていた日本人がポルポト派と疑われる民兵に殺害されたとき、地域治安部隊の幹部を務めていた人でした。

 

「あの事件があったからこそ、僕は仕事をやめずに続けなければいけないと思った」

 

彼は私に、そう話してくれました。

 

後に、彼が講師を務めた国連幹部研修に参加する機会がありました。彼はその研修で、これから現場の最前線に立つ人たちに役立てて欲しいと、自分が感じたジレンマも含めてありのままをシェアしていました。

 

そんな人たちと接するとき、「彼らを突き動かす原動力は何なんだろう?」とよく考えていました。突き詰めるうちに、それは使命感というよりは「探求心」に近いものではないかと思うようになりました。

 

なぜ人間は戦争を続けるのか、そして人類はどうしたらそれを防げるのか?

 

言葉にはならなくても、あるレベルにおいては誰のなかにも「人間」という存在に対する原初的な問いがあります。各自それぞれの「なぜ?」に向き合い続ければ、一生をかけてでも解き明かしたい問いや課題、そしてその答えを見つけることができるのでしょう。

 

ルワンダの虐殺から十数年を経て、沈黙し続けた生存者と加害者がはじめて当時の状況や現在の心境を語った『隣人が殺人者に変わる時 和解への道 ルワンダ・ジェノサイドの証言』(ジャン・ハッツフェルド著、かもがわ出版)のなかにこういう記述があります。

 

「俺たちは仲間にバカにされたり、非難されたりするよりも、マチェーテ(ナタ)を手に取った方が楽なことに気づいた。

 

(中略)

ある日を境に、僕は使い慣れたマチェーテを手に、隣人の虐殺を始めた。家畜を屠殺するように淡々と。

 

(中略)

 

旧政権はジェノサイドを命じ、市民はそれに従った。新政権は赦せというから、今度はそれに従っている」

 

これらの発言からは、政権の指示や同調圧力に疑問を持つのを止めると、普通の人の集団が100万人もの人を容易に殺してしまうのだということがうかがえます。

 

最近の事件でいえば、南スーダンが挙げられます。2016年12月と2017年2月に続けて、国連は同国で「大虐殺が起きる恐れがある」という警告を出しています。

 

なぜ、人間は戦争を続けるのか? まだその問いは続いているのです。

 

「当たり前」だったことがもはや当たり前でなくなりつつある時代において、自分で考えることをやめることが最も危険です。

 

 

誰が何と言おうと、自分の人生を生きるのは自分です。

 

自分に対する最終的な決定権を持つのは、自分だけなのです。

 

いまこそ、自分にとっての「なぜ?」を取り戻すときなのではないでしょうか。

 

クーリエジャポン2017年3月3日掲載

無名から国連事務総長へ抜擢された「国連の坂本竜馬」ー「大衆を救うために勤勉に働くより、一人の人のために全身全霊を捧げる方が気高い。」

私がよく聞かれる質問の中に、なんで国連やめてカウンセラー・コーチなんですか?というものがあります。

 

国連=もっと大きいことができる=インパクトが大きい

それなのになぜ「小さいこと?」

 

単純に「どうして?」「この人ってどんな人なの?」とも思うと思います。

 

なので、その質問の意味はよく分かります。

 

なにより、私自身が「大きなこと」をしたいと思ってきましたし、大きいことに関われる楽しさも体験させてもらいました。

 

その意味でいうならば、私は、国連のキャリアの中でも、二つの独立国(東ティモール、南スーダン)の独立のプロセスに関わるという、その意味ではかなり「野心的」でかなり「ピンポイント」な選択をしてきました。

(国連は自己志願制の組織で勝手に派遣されることはありません。)

 

同じ国連という組織でも、紛争国の最前線に行く人も、国が独立を果たすプロセスに関わる人も、しかもそれを二回も体験する人もあまりいないので、この組み合わせはかれな「稀」です。

 

東ティモールの独立前の一年間の間は、正当性を持つ新しい政府と国の体制ができるまで、内戦でインフラが破壊され、文字通り何もなかった状態の時には、国連が「暫定政府」を務めていました。

 

その仕事は、それこそ国境の交渉から、貨幣、教育制度、行政、選挙、憲法の策定、学校の運営まで含まれました。そして、一年の間で選挙が行われ、学校の制度警察ができ、憲法ができ、学校が再開されました。

 

キャリアの最初にそんな「成功体験」を目の当たりにさせてもらったことは、私が国連でのキャリアを続けるモーチベーションになりました。

 

同時に、「全ての物事には両面がある」というのも大きな秩序の真理なのだと感じます。

 

大きな組織であるがゆえの矛盾も同じくらい存在します。

官僚主義、安保理決議と国連PKOの現場間の政治的なギャップ、ヒエラルキー組織。。。

 

つい最近も、南スーダンでの食糧危機に対する人道支援の一環として、ヘリコプターから食糧が投下されるシーンを見ました。

 

世界の格差がより大きくなっているという時代に、さて、「この支援はいったい役に立っているんだろうか?」という根本的な疑問が私の中で浮かびました。

 

こうした疑問は、この業界にかかわると、国連であれNGOであれ、いずれかの段階で思うことです。

 

その疑問はごくごく健全な疑問だと思いますが、だからと言って、全てが無駄だというのも違うと思うし、0か100かの議論になる必要もないと思います。

 

ただ、面白いのは、一人一人の「その先」だと思います。

 

それで、「あなたはどうするの?」と。

 

ちなみに、「大衆を救うために勤勉に働くより、一人の人のために全身全霊を捧げる方が気高い。」という言葉を残したのは、1953年から二代目の国連事務総長を務めたダグ・ハマーショルドでした。

 

彼は、スウェーデンの元外交官で、財務次官と外務次官を経て、第二代国連事務総長を務めました。ノーベル平和賞を授与されるなど非常に高い評価を残した人です。

 

無名から国連事務総長へ抜擢され、今の国連の基礎を作ったことから「国連の坂本竜馬のような人」という表現をしていた人がいました。

 

数々の華々しい外交の裏側の取引、各国の思惑、国益追求のどろどろのはざまで、どうしていつも平和を目指す判断が下すことが出来続けたか?

 

類まれなリーダーシップ、彼が希求した国連の未来像とはどのようなものだったのか、そして我々は今、そこから何を学ぶことができるのか?

 

その様子は、スウェーデン政府が彼の生誕100周年記念事業として編纂した評伝集から垣間見ることができます。

https://www.amazon.co.jp/世界平和への冒険旅行-ダグ・ハマーショルドと国連の未来-ブライアン・アークハート-セルゲイ・フルシチョフ/dp/479480945X

 

「大衆を救うために勤勉に働くより、一人の人のために全身全霊を捧げる方が気高い。」

 

もし彼が生きていたら、彼の言葉の意味をさらにもっと聞きたいところです。

 

国連事務総長という立場の人が残したコメントとして非常に印象に残っています。