日本人はいつからロボットのようになってしまったのか?!ー言われたことはできるけどマニュアル外のことができない人の本当の理由

ベジタリアンのカナダ人の友人と一緒に出かけた時のことです。

ベジタリアンなので、食べる場所を選ばなくてはいけません。

 

カフェメニューで、アボガドサーモン丼というものがあったので、そこからサーモンを除いていただいて、アボガドとサラダだけ出していただくことはできますか?

と聞きました。

 

ご飯の上にそれを盛るだけだから、単純にできそうだと思います。

 

こういう時、お店(店員さん)の対応は見事に二極化します。

キッチンも店員さんも、「できません」というケース。

 

なんとか考えてごめんなさいね、というのではなく、マニュアに書かれたことは出来るけど、そこをちょっとでもずれると自分で考えて対応できない、という態度がくっついています。

 

そして、「今あるものでなんとかしたいと思います」と言ってくれるケース。

 

時には、シェフの方がわざわざ出てきて、今あるのはこういうものですが、こちらは大丈夫ですか?と聞いてくれることもありました。とうぜん、こういうお店の印象はアップ。次回も寄りたいなと思います。

 

けっこう前者が多いのでびっくりします。

 

しかも、ロボットのように「できません!」と言う人が(けっこう)いることに驚きます。

 

ランチ時の忙しい時でもないし、スーパー難しいことを頼んでるわけでもないのに、何がどう「できない」のでしょうか???

 

マニュアル的な決められたことはできるけど、自分で対応できない人が増えてる、とは聞いたことがあるけど、まさにこういうことか!と思いました。

 

できない!とパニクったり、いっぱいいっぱいになってしまうのかもしれません。

 

常に携帯でググれば「答え」がでてくることに慣れてしまって、やり方が一から最後まで書いてあるのをなぞることは出来るけど、

 

自分で判断する機会があまりないのかもしれません。

 

こういう場合に求められているのは、

お客さんは何を求めているのか?ちゃんと聞く・理解すること

キッチンに伝えること

または自分がシェフだったらアボガド(または何が出せるのか判断する)を出す

ということです。

 

 

イレギュラーな件にパニクる人たちは、

極点に失敗を恐れているにも感じます。

 

自分で考える=判断する=間違うのが怖い

 

でも、そもそも、「正解」も「間違い」もないのです。

 

そして、「正しくやること」に価値があるという誤解をしています。

 

「完璧」「ちゃんと」やらないといけない、と思ってます。

 

客が求めているのはそんなことじゃないのに。

 

自分に意識が向いている典型的な守りの姿勢です。

 

お客の立場をして感じたことですが、こちらの要望・言っていることをほとんど聞いていない人さえ多いのです。

ベジタリアンだって人間なんだから、ただご飯が食べたいのに、でも困ってるんだよ、というだけなのに。

 

そのことをただ理解してくれて、もし少しでも共感してくれたなら、お店の印象がどれだけアップすることか!

 

ロボット人間じゃなくて、人間が増えてくれることを願います!

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子どもがオックスフォード大学から奨学金をもらうか or そんなの関係ないと思うか? ー中学生165名にお話しして気づいたこと💡💡💡

今回、初めて中学生にお話ししました。

 

中学3年生総勢約165名。「総合的な学習」の時間です。

 

大学生に話すのとほぼ同じピッチで、

 

しかも、たぶん、ノーベル賞受賞者の方とお話しさせていただいた時とあまり変わらない次元で(笑)お話ししていました。

 

だって今の若い子たちはとても賢くて、本質をわかっているし、知りたいと思っているから。

 

私が話すテーマは表面的には、

 

南スーダンをの事例を中心に、世界の平和のために行われている国連などの活動・取り組みや紛争はどうしたら防げるのか?

 

だったりしますが、

 

本当にお伝えしているのは、

 

もっといろんな生き方があるし、正解はないし、答えはひとつじゃないんだから、自由に探求していい!

 

もっと世界(視野)を広げようよ、世界は楽しいよ!ということ、だと思っています。

 

 

6年続けて年末に大学で講義をして、上智大学で講義をして、就活生のコーチングもしたりとミレニアル世代と接した体験から確信をもって言えるのは、

 

彼らもそういうことをもっと知りたいし、探求してみたいのです。

 

彼らが知りたいのは、彼らが疑問に思っていることに、一人の大人がどう向き合ってきて、何を感じ、何を体験し、何が大切だと思っているかというその人自身の言葉です。

 

 

大人の正直な感想を聞きたいのです。

 

 

私はみなさんの前に立っているけど、答えを知っているわけではありません、と先に言うし、

 

すごい人である必要もないし、実際、「答え」を知っているわけじゃない。

 

そして、いろんな国の同僚の写真を見せたり、南スーダン軍とスーダン軍と一緒に座ってとった写真を見せたりします。

 

軍や国は争いあっていても、個人同士では信頼関係ができるのを見たよ、という仲裁のお話しは興味を引くようです。

 

今は、YuutubeとかFacebookとかこれまで大きな組織しかできなかったことが個人でもできるようになったから、アイデア次第ではいろんなことができるよね。

 

そのためにも、いろんな人の意見がいるよね。 

 

 

だから、みんなも自分の目で見て、感じて、たくさんのことを体験してきてね、

というようなことを言います。

 

 

彼らは、実際、今の自分の勉強がどんな意味があるのか知りたいし、社会の役立つことに関わりたいと思っています。

 

 

先日、Facebookの創業者マークザッカーバーグがハーバード大学で行ったスピーチが、スティーブジョブスのスピーチを超える!と話題になりましたが、その中でも注目されたのは、「ミレニアル世代は、Purpose(目的、意義)を大切にする、そしてそれを全員に広げること」というPurpose(目的、意義)という単語でした。

 

マークザッカーバーグのハーバード卒業式スピーチに何度も出てくる単語「Purpose」ーこれこそ日本の問題を解決する鍵だ!

 

 

 

ミレニアル世代にとって、「Purposeが大事」と世界的にはこの数年よく語られるところですが、日本でも同じことが起きていることを肌で実感します。

 

 

彼らが必要としているのは、

 

ー今自分が勉強していることがどうより大きな世界と繋がるのかという動機づけ

 

ー何をどう調べてたらいいのか、というきっかけ

 

ー「答えはひとつじゃないからいいんだよ」自由に考えて感じていいんだよ、と言ってくれる人

 

ー彼らの問いを受け止めてあげて、一緒に興味を持ってくれる人

 

ーそんな疑問を「おかしい」と言うのではなく、それを励ましてくれる人

 

ー問いを追求する楽しさを教えてくれる・一緒にやってくれる人

 

ー問いを探求していい!という、奨励されるような環境

 

ーかわいそうな人でも悲惨な世界でもなく、それを超越して世界のことを見ることのできる人の視点

 

ーそして、「職業も可能性も世界に視点を広げてみたら。だってそれ思ってるより簡単だよ」と言ってくれる人

 

 

そういえば、今回、オックスフォードでのチュートリアルでは、「答えは一度も言われなかった」というお話しをしました。

 

変化の激しい時代こそいかに学ぶか①: オックスフォード流「考えるステップ」

 

 

まだ暗記式の受験勉強の世界にいる中学生たちは、みんなびっくり!😆していましたが、

 

一度学校を卒業したら、答えのある問題なんてないし、そういう課題にも向き合えるようになるための土台を身につけようね、と言いました。

 

 

問いを持つことが、

私にオックスフォードで勉強する機会(奨学金)をくれ、

国連で働き紛争地へ行く言動力となってくれたので、

「問い」を持つことが私の人生を引き上げてくれたと言っても言い過ぎはないと思います。

 

そんな話しをしたら、こんな感想をいただきました。

 

「答えを提示するわけでもない」という言葉に触れて、「自分の考えが間違いでも答えが一つだけではないと教えてもらい、私の支えとなりました。」

 

 

「私が使っている教科書には、紛争が起こる原因として宗教の違いと書かれて、私もそうだとずっと思っていました。

 

でも、大仲さんのお話しの中で、ケニアの難民キャンプでは宗教が違くても普通に暮らしていたと伺いました。それを聞いて、紛争が終わらない理由は、みんなが宗教の違いが原因だと思い込んでいるからだと思いました。」

 

 

「一番印象に残っているのは、『大人になったら答えのない問題に立ち向かわないといけなくなる。だから、学生のうちから答えのない問いに立ち向かっていく勇気を持つことが大切』というお話しです。これからはこのことを意識して生活していきたいと思います。」

 

 

「現代社会の先端を生きる大仲様の話しはとてもおもしろかったです。」

(笑)

 

 

子どもの好奇心の芽をつぶさない為にも、ぜひ以下のことを意識していただきたいと思います。

 

大人が言ってはいけない言葉

(子どもの好奇心をつぶしてしまう言葉)

ーそんなの無理

ーそんなの無駄

ーそんなことやって何になるの?

 

そして、もしそう言いたくなったら、それはあくまでもあなたの世界や体験の中での考えや思い込みであると気づいてください。子どもの可能性は本当に測りしれないのです。

 

そして、子どもが自分とは違った分野で、チャレンジをしてくれる、違う世界を見せさせてくれる(「成果」や「結果」があろうとなかろうと)と思いましょう。

 

オックスフォードは別に一つの例に過ぎませんが、

 

大人自身が、「どうせ無駄」「そんなの無理」といった心の中にある諦めや失望感、無力感を下の世代へ受け継ぐのではなく、一人一人がそれに気づき、癒し、自分ができることを選ぶことができます。

 

 

例えば、少額の寄付でもなんでもいいから自分も「参加する」ことは、自分自身をあきらめや無関心、無力感から救うことにもなります。

 

 

そういう意味では寄付でもなんでも、自分のためにやっているとも言えますが、それでもいいんです。

 

 

世界を大切にすること=自分を大切にすること

自分を大切にすること=世界を大切にすること

だから。

 

 

ただ、その時は義務感ではなく、自分で調べて納得して、心から応援したいものを選びましょう!

 

 

 

講演の依頼受け付けています。(^^)ニコ

 

講演テーマ例

 

ー子どもの好奇心を引き出す対話術

ー紛争の話しなのに気分があがる大人が学ぶ戦争と平和についてのなぜ?

ー日本にいながら海外の教育を取り入れる方法

ーオックスフォード式 本当の考える力を身につける方法

ーすべての考えは「問い」から始めるー自分の答えを引き出す「問いの力」

 

 

お問い合わせは以下までお気軽にどうぞ❗️

info(at)peaceblossom.net

2ヶ月で10倍の資料をこなせるようになったお話しー自分の中の「基準」と「当たり前」がまったく変わること

オックスフォードの学生がチュートリアルで習得することは、自分の中の「基準」と「当たり前」がまったく変わることです。

 

「こんな量どうしたらこなせるんだ?」と感じられたことが、いつの間にか「出来そう」に変わっていくことです。

 

オックスフォードのチュートリアルで読む文献の量は、1週間で20冊~50冊位の量に及びます。

 

もちろん英文です。

しかも、難しそうに書いてあります。

 

最初は、まずこの大量の文献の量に圧倒されることになります。

 

いったいこの量をどうやって読めばいいんだろう?と途方にくれそうになります。

 

どこから手をつけていいか分からなくなって何度も泣きそうになりました。

 

しかも、読んでも簡単に分かるようなものでもありません。

 

私は、18世紀に建てられた寮の一室で、分からないのは自分だけなんじゃないか?と落ち込みました。

 

どうして学者という人たちはもったいぶったように難しく書くんだ。

もっと簡単に書いておくれー!と何度も言いたくなりました。

 

本を読む量が追いつかない。気持ちは焦るばかり。

 

それでも教授とのチュートリアルの日は刻々と迫ってきます。

 

大人数の講義だったらなんとかごまかせるだろうことでも、一対一なのでごまかせません。

 

ただ安心したのは、そのように悩んでいたのは私だけではなかったという事実でした。

 

私が当時暮らしていた寮では、ポルトガル人、インド系イギリス人、スリランカ系イギリス人、タンザニア人、中国人、イギリス人と日本人の私が一緒に住んでいました。

 

この文献の量に誰もが戸惑い、文字通り格闘していました。

 

そして、自分に問いていくのです。

 

どうしたら、これを時間内でできるのか?と。

 

そして、自分の方法をみつけていくのです。

 

なんとか最初の学期の8週間が終りました。

最初の8週間を乗り切って、心底ホッとしたのを覚えています。

 

文字通りなんとか乗り切ったという感覚で、ともかく終えられてよかった、と思いました。

 

そして、クリスマス休暇に入り、束の間の休憩を過ごしました。

 

年が明けて、再びオックスフォードのキャンパスに戻りました。

 

二学期目を迎えようとしている自分の心境の変化に気がつきました。

 

その文献の量を目の前にしても、前よりも落ち着いている自分がいたからです。

 

文献の量は相変わらず多く、課題の答えもすぐに分かりそうなものではありません。

 

 

内容に手応えをつかんだとまではいきませんでしたが、チュートリアルとはこういうものなのだ、と、思っている自分がいました。

 

「こんな量どうしたできるんだ?」と感じられたことが、この量が「当たり前」になっていたのです。

 

そして、その量が当たり前と感じられると、最初はただただ圧倒されていた量を目の前にしても、「出来そう」だと感じられたのです。

 

1983年に陸上のカール・ルイス選手が100メートル走で9秒台を出し、「10秒の壁」を破った時に彼は超人と言われました。

 

ただ、「10秒の壁」を一人が超えると、人間の身体能力自体はそれほど変わっていないはずなのに、その数年内で9秒台で走る人が続出しました。

 

「できる」ことが当たり前になってくるからです。

 

オックスフォードのチュートリアルで体験したのは、自分の基準が上がることでした。

 

私たちは自分の中で「もう無理」「もう限界」だと感じた時点で、人間としての潜在能力の2割も使っていないと言われています。

 

スポーツ競技だけでなく、そのような環境に身をおくことでそのようなことが起こります。

 

あなたの中の「もう無理」や「もう限界」は本当にそうですか?

 

ほとんどの人は、自分の能力の1割か2割も使っていないのです。

 

 

ちょっと想像してみてください。

 

今の自分の能力の10倍のことができるとしたら、どんなことができると思いますか?

 

どんなことが可能だと思いますか?

 

なんだかそっちの方が楽しそうだと思いませんか〜? ^^

 

 

オックスフォードで学んだ「一流」とは悔しい思いをたくさんした人ーみんな何者かになりたくて悩みもがく日々

「考える力」という視点から最近、オックスフォードで勉強してきたことを書いています。

 

オックスフォードで勉強したのは、私にとってはもう随分と前のことですが、改めて書いてみると、「一流」ってどういうことなのか?何がどう一流なのか?

 

それをどう日常的なことに応用できるのか?という視点で振り返るいい機会になっています。

 

今日のテーマは、何が「一流」を「一流」にたらしめているのか?です。

 

オックスフォードやハーバードと聞くと、どんなイメージでしょうか?

 

きっとみんな自信満々の天才なんだろう、と思いますか?

 

頭脳明晰で自信に満ち溢れた人たちを想像するかも知れません。

 

でも、私の知っている等身大のオックスフォード大の学生たちはそうではありませんでした。

 

 

むしろ、私も含め、みんな何者かになりたくて悩み、もがいていました。

 

そして、自分の能力の限界や無力感に打ちひしがれていました。

 

なぜなら、できる人たちが一杯いるからです。

 

ちょっと努力しただけではとてもかないそうもないことをすぐに発見するからです。

 

 

これまでの環境では、自分はある程度できる人だったかも知れないけれども、オックスフォードに入ったらそれは当たり前になります。

 

そして、自分にはできないことを簡単にやってしまう人たちがいるのをまさに目の当たりにします。

 

入学してまず私がびっくりしたのは、クラスメートの経験でした。

 

 

私が学んだ人類学部は、学問の内容から旧植民地出身の人たちが多く、オックスフォードのなかでも特に多様性の高い学部の1つでした。

 

2015年度の留学生の出身国は約140ヵ国・地域にものぼり、大学院では62%を留学生が占めています。

 

クラスメートの出身国はフランス、アメリカ、エジプト、トルコ、南アフリカ、ジンバブエ、マリ、パキスタン、インドなど本当に多種多様でした。

 

私がチュートリアルのペアを組んだ女性は、インド系3世の南アフリカ人でした。1994年にアパルトヘイトが終わって、ようやく英国で学ぶ機会を得たのだそうです。

 

当時はまだ、アパルトヘイトが終わって数年しか経っていない時期で、彼女は母国の現状を次のように話してくれました。

 

「マンデラ大統領は、黒人と白人の間で衝突が起きてもおかしくなった状況の中で国を一つにまとめるという偉業を成し遂げてくれた。ただ、私の国では人種の断絶や暴力の種がまだまだ大きいの。南アフリカの未来はこれからよ。」

 

 

パキスタン出身でジャーナリストの女性は、長年パキスタンの女性の地位について関わり、研究してきました。

 

オックスフォードでは、婚前交渉・婚外交渉を行った女性は家族全体に不名誉をもたらすという理由で、家族の名誉を守るために女性が殺される慣習(オナーキリング=honor killing)をテーマにしていました。

 

 

さすがに、奨学金をもらえないと留学できないという国から選ばれただけあって、みんな優秀で賢明なだけでなく、とても勇気のある人たちばかりでした。

 

日本ではほとんど聞いたことがなかったようなリアルな「世界」が、クラスメートの口から次から次へと語られることに私は圧倒されました。

 

 

そして、そんな彼らの姿に触れると、私はそんな問題に直面することもなくぬるま湯につかっ過ごしてきた世間知らずの日本人のようにさえ感じました。

 

 

そして、そんな彼らの姿に触れることで、「じゃあ、あなたは何をしたいの?」という常に問われているように感じたものでした。

 

こんな大きな問題に私ができることことなんていったいあるんだろうか???

 

民族紛争について研究したいと思っていたのに、彼女たちのように自信をもって答えられない自分がいました。

 

自分の能力の限界と同時に、無力感さえ感じたことは一度や二度ではありません。

 

オックスフォードやハーバードの学生と聞くと、頭脳明晰で自信に満ち溢れた姿を想像するかも知れません。

 

でも、人が自分の専門分野やなんらかのテーマを追求していく過程では、誰もがなんらかの形で自分の限界や無力感を感じるのではないかと思います。

 

ただ、今になって振り返ると、こうしたプロセスこそが、私が後に国連や米軍で働くために必要な土台をつくってくれたとわかるのです。

 

他の人にかなわないことを痛感してこそ、または、限界や無力感を感じるからこそ、自分にしかできない分野やテーマを探すようになるからです。

 

自分にできないことが分かって自分にできることを必死に求めるからです。

 

そして、自分の限界や無力感に触れると、「表面的な理由」や「にせものの理由」がはぎ落とされていきます。

 

「なぜあなたはそのテーマに興味があるのか?」「それでもあなたはやりたいのか?」と問われ続けても、イエス!と言えることだけが残るからです。

 

私は、オックスフォードといった一流が集う環境に身を置く一番の価値はまさにここにあると思っています。

 

本当に悔しかった。何度も泣きそうにもなった。

 

それでも、誰かに当時の体験を取り上げるよ、と言われたら私はきっと必死になって抵抗するでしょう。だって、そんな体験を通じて自分を発見し、自分を知るのだから。

 

一流とは一部の才能に恵まれた人ではありません。

 

一流とは、悔しい思いをたくさんした人なのです。

 

そういう意味では、自分の弱みも強みもわからない人というのは、ぬるま湯に浸かったままなのかも知れません。

 

 

そして、私はそんなオックスフォードでの一年間を経て、ある思いがさらに強くなっているのに気がつきました。

 

 

人類学という視点が民族紛争の解決に役に立つことは確信した。

では現場ではどんなことが議論されていてどう扱われているのだろうか?

南スーダンの部族について書かれた民族誌についてはたくさん読んだけれども、今現在南スーダンで起きていることが知りたい!

今の世界で起きていることに関わりたい!!!と。

 

 

一流との交わりは、自分の奥深くにある思いを揺さぶるのです。

 

 

その後、4年間も南スーダンで働くことになるとは全く想像もしてみなかったのでした。

なぜ日本人は世界一高い携帯電話料金を払ってきたのか? ー地方衰退と世界一高い携帯電話料金がつながっているわけ

先日、日本三大秘境のひとつに旅行をしてきました。

 

長野県の遠山郷、南アルプスに囲まれた標高1200mの地で日本のチロル(オーストリア)と呼ばれる下栗の里というところです。

 

 

高速道路を使っても、片道7時間かかりました。

 

 

飛行機に乗ったら、沖縄の石垣島でも3時間で着いてしまう時代に、片道7時間。

 

しかも文字通り細~い山道を登っていく道中はけっこうびっくりしました。

 

 

でも、だからこそ「秘境」と呼ばれる地が残っているのですね。

 

そこまで行ったかいがあって、標高1200mの地の空気は澄んでいてとてもリフレッシュできました。

 

 

芝生の上に裸足になって寝っ転がっているだけで、身体が南アルプスのエネルギーに満たされるようでした。

 

 

さて、観光客にとってはそんな有り難い村でしたが、その村も人口減少の例外ではなく、今の小学校の人数は9名だそうです。

 

先生の数の方が多いそうです。

 

7名になると廃校になってしまうらしいので、村の存続のためにも喫緊の課題です。

 

 

人口減少と地方衰退という日本の問題がそこでもはっきりと現れていたのですが、

 

 

その帰り道の東名高速(第二東名)で寄ったサービスエリアでは、その構図の続きである大企業主義(癒着体質)をさらに目の当たりにしました。

 

 

南アルプルの山道を2時間ほど超えて、長野県の山中から静岡県の太平洋側に降りてきました。

 

浜名湖の近くで高速に乗ったので、ランチはうなぎにしよう、という話しになりました。

 

しばらく走ってから、サービスエリアに入りました。

 

うなぎがないどころか、地域の名産もほとんどなく、お店の9割は東京で見るチェーン店ばかりでした。

 

旅行者としては地域の名産が食べたいのになあ、と思いながら、今度はトイレに入って唖然としました。

 

ドアにはピンクと青に光るランプ、そして豪華パウダールームです。

 

これって必要なわけ???

 

 

癒着と天下り体質が即座に頭に浮かびました。

 

 

私は海外で10年以上暮らしていたので、日本の高速代金が世界で一番高いことを知っています。

 

こんなに高い国はありません。

アメリカでも10分の1以下です。

 

高速道路財団のビルが目に入りました。

 

 

そんなものを他の国で見たことはありません。

 

 

 

こんなの要らないから、高速代もっと安くしておくれー、と単純に思いました。

 

そして、日本の携帯料金がやはり世界で一番高いことともまったく同じ構図だと思いました。

 

海外ではもう10年以上も前から現地でSIMカードを調達して、端末にSIMを入れて使うのが当たり前でした。

 

私は国連で働いてきましたが、あちこちの国を出張する国連職員はいろんな国のSIMカードをいくつも持っていました。

 

そして、けっこう通話しても携帯の代金は3千円を超えることはほとんどありませんでした。

 

なので、日本の携帯電話料金がいかに高いか、ということは常に感じていました。

 

2年たたないと解約料をとられる制度も日本だけです。

 

ようやく日本でもSIMフリーが始まりましたが、もし東京オリンピックがなかったら、そんな体制をもっとゆるしていたんじゃないかと思うと、ゾっとします。

 

これは、電気代、ガス代、電車料金にも当てはまります。

 

決められたままの料金を疑うこともなく、私たちは「そういうものだ」と支払い続けているのです。

 

スウェーデンでは電力会社も選べます。

 

自然発電かどうかといった電気の発電方法にしたがって電力会社を選べます。

 

日本でもようやく電力の自由化解禁になりましたが、各社似たり寄ったりのサービスで、肝心の電気の発電方法にかんする情報もがまったく十分ではありません。

 

私たちはもっと単純な疑問をぶつけてもいいと思うのです。

 

そもそも電気代って最近高くない?

これってどういうこと?

どうしてそれしか選択肢がないの?

このサービスって必要なわけ???

 

「そういうものだ」というのも思考停止状態なのですよね。

 

 

だって、私たちが「そういうもの」と思っているものは、ほとんどが「そうじゃない」ってことが、日本の外に出ればすぐにわかるから。

 

 

考える力を持つことーこれは私たちの日常生活の質をつくっている、と痛感します。

 

どうして?ーやっぱり疑問を持つことをやめてはいけません!

国連で働いて学んだことー「問い」を持つことこそが運を上げ、才能を引き出してくれる❗️

若い人たちは内向きなのではないー誤解をしているだけ

 

私は長年の海外勤務から日本に帰って来てから、気づいたことがあります。それは日本人の共感能力の高さです。当たり前のようにも思っている人が多いかもしれませんが、これは世界的に見ても非常に稀有な能力です。

 

これからの時代、感じるとる能力はますます求められていくと思います。

 

 

同時に、そのせっかくの共感能力が、ある誤解のために活かされていない、ケースも多いと感じます。

 

 

それは、問題とは解決しないといけないから、もし解決できないのなら取り組むことさえ無駄だ、という誤解です。

 

 

私は日本に帰ってきてから、若い人たちにもっと世界のことに関心を持って欲しいと思いました。

 

 

最近の若い人は内向きだと聞いたことはありましたが、それってなんでだろうと自分の中でも腑に落ちない部分がありました。

 

 

でも実際に若い人たちと接してみると、若い人たちは世界のことに関心はあるし、実はもっと知りたいと思っている、感じました。

 

私が南スーダンのことについて話すと興味を持って聞いてくれました。他人事のように聞こえるニュースには関心は持てなくても、身近な人が実際に体験したことには興味を持つ、と感じました。

 

 

そして、関心がないのではなく、すぐに解決できないことや、やっても無理そうなことは無駄、という意識があるように思いました。

 

 

そこには、問題には答えがあるはずだ、という根本的な思い込みがあるのかもしれません。

 

 

または、課題を追うよりも解決することの方が価値がある、という前提があるのかもしれません。

 

 

私はこれまで五人ほどのノーベル賞受賞の方と会議などでご一緒して、直接質問をする機会もいただきました。

 

 

ハーバード大学のケネディースクール行政院で生徒に最も影響を与えた教授に選ばれた先生から直接リーダーシップに関するトレーニングを受けたこともあります。

 

そうした人たちに共通していたのは、すぐには答えの出ないような問いに向き合い続けるという姿勢でした。

 

彼らが追ってきたのは、世界の平和や、平等、格差の是正などすぐに答えも成果もでないものばかりです。

 

 

そんな人たちに触れる中で、彼らだけが格段別格の頭脳や才能を与えられた訳ではなく、問いを追いかけ続けたからこそ彼らの中の能力や才能、ひらめきが引き出されたのだと思うようになりました。

 

 

問いを持つことは私たちの能力を引き出し、視点を引き上げてくれます。

 

 

私がオックスフォード大学大学院から奨学金をもらえたのは、「民族が違うだけで人はほんとうに争うの?」という自分の中で生まれた問いがきっかけでした。

 

 

 

今でもこの問いに対する完全な答えが出たとは言えません。

 

 

実際に、国連に入ってからも、現場での問題に触れる度にこのやり方でいいのだろうか?という問いに何度もぶつかりました。

 

それに対しても決まった答えはありませんでした。

 

でも、その問いがあったからこそ、現場へ行き、自分の目で見て感じ、いろいろな人に会い、そして国連や米軍で働くなどいろいろなことを体験させてくれました。

 

現場で自分が見て感じたこと、体験したことの全てを含めて自分なりの答えや結論を出していくという大きな機会をもらったのだと感じます。

 

 

そういう意味では、私の仕事の本質は、問い続けることだったのかも知れません。

 

紛争地での勤務と聞くと、「さぞかし、大変だっただろう」と思われるかも知れませんが、私にとっては、ある課題を追求・探求できるということ自体が「プライスレス」な体験でした。

 

問い続けることは、私に湧き出る力、そして「運」もくれました。

 

 

私たちが何かの答えを求めるとき、その方が一直線で一見効率がよさそうに見えます。

 

 

この問題に対してピンポイントにすぐに答えが欲しい、という場合ももちろんあると思います。

 

 

 

問いを持つことは、答えをくれると同時に、その人の理解や視点全体を底上げしてくれます。

 

 

 

 

問い続けることは、自分の中の勇気や底力を呼び覚ますことでもあるのです。

 

 

いい混乱をすると頭がよくなる ー日本人に必要なのは「考える力」じゃなくて「答えがない状態」に慣れること❗️

 

混乱と聞くとどういうイメージでしょうか?

 

日本で教育を受けた私たちにとって「混乱」は、失敗と同じくらい避けるべきものだ、とされているようです。

 

ただ、いい混乱というものがあります。

 

 

 

自分の中の考えの幅が広がって、新しい発想が浮かぶとき、私たちの脳は一度混乱するからです。

 

 

それは、今までにないような考え方ややり方、価値観に触れたときに体験する頭の混乱です。

 

これまでの自分の中の常識や前提がくつがえされるような感じがするからです。

 

脳の中で今までとは違う回路(シノプシス)が刺激されている状態です。

 

今までとは、違う回線を通じた感覚なので心地が悪いのです。

 

例えるならば脳の回線が新しいOSに転換しているような状態です。

 

 

ただ、これまでの自分の中の常識や前提がいったんくつがえされるということは、思考の幅が広がるという意味でもあります。

 

 

まったく新しい考え方に触れるとき、または、まったく新しいレベルでの知識や世界観に触れるときに、私たちはこのような体験をします。

 

 

例えば、旧ソ連圏の国カザフスタンに初めて赴任した時、私はしばらく脳の中が落ち着かない感覚を感じていました。

 

 

カザフスタンに赴任した最初の数週間には、挨拶とその国を理解するために、旧ソ連時代に教職や要職に就いていた人たちに会いました。

 

 

私の中では、統制社会で表現の自由も職業の選択も限られていたソ連時代から自由になってよかっただろうと単純に思っていましたが、ソ連時代はよかったと言う人たちがけっこう多いことに最初はびっくりしました。

 

しばらく経ってから、それが不自由でも、一度慣れた秩序や安定の方が人は楽だと感じるのだろうなと理解しましたが、ソ連(共産圏)というこれまで歴史の教科書の中でしか聞いたことのなかった制度とそこで生きてきた人たちのメンタリティーに実際に触れた瞬間でした。

 

 

国連で勤務を始めた最初の数ヶ月間は、イスラム圏出身やアフリカ出身の同僚、警察官の同僚など、それまでの私の人生の体験の中であまり触れたことのない人たちと一緒に働くことになり、打ち合わせの仕方など一つとっても慣れないことが続きました。

 

難しい課題に対する答えや新しい発想を求める時、私たちはこのような「落ち着かない」状態を通ります。

 

 

少し居心地は悪いかも知れませんが、こうした体験をつうじて、文字通り経験と思考の幅が広がっているのです。

 

 

 

日本人は考えるのが苦手だと言われますが、私はそうは思いません。

 

 

考える力が苦手というよりも、答えがでる前のこのような途中の状態に耐えるのが苦手なのだと思います。

 

それは暗記や答えありきの問題を解くのが勉強だとされてきたこと、そして、電車は1分も遅れることなく到着し、注文すればなんでもすぐにでてくる世界一の便利な環境とも関係していると思います。

 

それ自体はとても有り難い感謝すべきことですが、「耐性」という点からすると私たちの能力を甘えさせている面があります。

 

自分にとって新しい課題に対して自分の答えを出そうとする時、混乱を感じることがあります。

 

 

でも、そのような混乱はけっして悪いことではないのです。

 

そして、答えのない状態も悪いわけではないのです。

 

 

大人になってから体験する問題というのはすぐに答えがでないものばかりです。

 

 

これは人間関係でも同じです。

 

同じ日本人だから理解し合えるだろう、という訳でもありません。

 

 

だからこそ、自分とは違う考え方に耳を傾けてみようと思います。

 

 

そして、自分の中の考えの幅が広がります。

 

 

新しい発想が浮かぶ前に、脳は一度こうした状態を通るのです。

 

 

頭が落ち着かない感じがしても、新しい発想が浮かぶ前の状態だと思って楽しんでみてください。