危機の時にこそ、その人の強みや本質、その人が本当に表現したいことが現れる!

今回のコロナウイルスの件を見ていると、南スーダンで働いていた時に、やはり外に出れない(外に出れても、40年間続いた内戦が終わったばかりで、実質的に外に行くところがない)というストレスのかかる環境におかれながら、どうやってストレスを乗り越えていったのかということを思い出してみると、そのような危機の中でこそ、その人の本質・強みが現れるのではないか?ということを思います。

 

当事南スーダンで働いていた時には、どのような状況であったかと言うと、差し迫った紛争の再発や物理的な危機はないものの、夕方7時には無線での点呼、夜間は10時までの帰宅が求められ、停戦直後は当初はお店というものがほとんどなく、必需品は国連の構内の売店で購入して、自炊をするという生活でした。その間でも、国境沿い等で武力衝突が起き、物流が寸断され、売店から突然水がなくなるというようなことが頻繁に起こっていました。

 

また、ある時には、紛争当事者間の溝が不信感と共にエスカレートとして、双方ともに和平合意から撤退し全面衝突に入る、という姿勢を互いに譲らない程にまで緊張が高まり、夜の外出禁止が8時に早められ、パスポートの常時携帯といざという時にバッグ一つで出国できるように避難用バックを用意しておくようにという、指示が出された時もありました。

 

そのような可能性があることはある程度は承知の上であっても、それでも、そのようなことが一日二日ならまだしも、外に息抜きできる環境がない(お店やリクリエーションがほとんどないので)ので、自分の住居(といっても4畳半くらいの空間)にいるしかない、というのはやはり大きなストレスでした。

 

私にとっては、自分のお気に入りの音楽を聴きながらひたすらウォーキングと軽いジョギングをすることが一番のストレス解消法でしたが、他には、ひたすら筋トレに励む人がいたり、そんな環境だからこそ誰でも参加できるエクササイズ教室を始めて、みんなから感謝される人もいました。また、ポルトガルの人たち人達はギター一つで次から次へと歌を披露して、どんな環境でも楽しんでしまうラテンの精神はすごいなと思ったものでした。

 

今回のコロナウイルスの際にも、似たようなことが起きていると思います。

 

外出禁止だから運動不足になってはいけないとラジオ体操を送ってくれる人、笑える動画を送ってくれた人、統計資料をつくり自ら今の状況を客観的に示してくれる人、ニューヨークなど先に感染が広がっている都市の例から、これから東京では何を準備しないといけないかを発信している人、お菓子の写真を送ってくれる人、免疫力を高めるための食材や食事を紹介してくれた人、家にいる時間が長いから食事に工夫を凝らす人、経済という分野で周りに知恵を貸す人、今後の方向性を示そうとする人、人を励まそうとする人、医療従事者の資材が足りないと聞いて、目からの感染を防ぐためのシールドというものを3Dプリンターでつくった7歳の男の子、マスクが足りないということに対して手作りマスクを作って寄付したという女の子。

 

FBやYoutube、ニュース配信の中にも、そのような想いに溢れた発信がありました。

 

きっともっともっとあると思います。

 

ありとあらゆる情報が溢れる中で、情報を吟味をしないといけない必要性はありますが、今回の件では、個人発信の情報が、公式発表を待つマスメディアよりもかなり先行する形で発信され、後手に回る政府発表を補う形で作用している点が今回かなり際立っているように思います。

 

「平時」の時には、何をしなくても済んでいても、こういう危機の時にこそ、その人の強みや本質、その人が本当に表現したいことが現れるのではないかと思います。

 

いわば、危機の時にこそ発揮される力とでも言えるでしょうか。

 

ぜひ、そういうアイデアや思いは続けて欲しいと思います。

 

なにしろ、私はリンクを送ってもらったラジオ体操を始めて今日で4日目。とても助かっています!自分では気づかなかったものだと思いました😊

 

強みや才能というとすごい立派なものを思う人がいるかも知れません。

 

でも、その人にしか気がつかない点というのがあるのだと思います。

 

一見小さいことに見えるかも知れないけれども、こんな時にはその小さいなことがとても役立つということ、励まされるということが大いにあると思います。

 

これがどう仕事につながるのか、これは「趣味」だから、などと勝手に自分で決めつけたりしないでください。

 

一つ一つの表現を大切にしていきたいです。

いい混乱をすると頭がよくなる ー日本人に必要なのは「考える力」じゃなくて「答えがない状態」に慣れること❗️

 

混乱と聞くとどういうイメージでしょうか?

 

日本で教育を受けた私たちにとって「混乱」は、失敗と同じくらい避けるべきものだ、とされているようです。

 

ただ、いい混乱というものがあります。

 

 

 

自分の中の考えの幅が広がって、新しい発想が浮かぶとき、私たちの脳は一度混乱するからです。

 

 

それは、今までにないような考え方ややり方、価値観に触れたときに体験する頭の混乱です。

 

これまでの自分の中の常識や前提がくつがえされるような感じがするからです。

 

脳の中で今までとは違う回路(シノプシス)が刺激されている状態です。

 

今までとは、違う回線を通じた感覚なので心地が悪いのです。

 

例えるならば脳の回線が新しいOSに転換しているような状態です。

 

 

ただ、これまでの自分の中の常識や前提がいったんくつがえされるということは、思考の幅が広がるという意味でもあります。

 

 

まったく新しい考え方に触れるとき、または、まったく新しいレベルでの知識や世界観に触れるときに、私たちはこのような体験をします。

 

 

例えば、旧ソ連圏の国カザフスタンに初めて赴任した時、私はしばらく脳の中が落ち着かない感覚を感じていました。

 

 

カザフスタンに赴任した最初の数週間には、挨拶とその国を理解するために、旧ソ連時代に教職や要職に就いていた人たちに会いました。

 

 

私の中では、統制社会で表現の自由も職業の選択も限られていたソ連時代から自由になってよかっただろうと単純に思っていましたが、ソ連時代はよかったと言う人たちがけっこう多いことに最初はびっくりしました。

 

しばらく経ってから、それが不自由でも、一度慣れた秩序や安定の方が人は楽だと感じるのだろうなと理解しましたが、ソ連(共産圏)というこれまで歴史の教科書の中でしか聞いたことのなかった制度とそこで生きてきた人たちのメンタリティーに実際に触れた瞬間でした。

 

 

国連で勤務を始めた最初の数ヶ月間は、イスラム圏出身やアフリカ出身の同僚、警察官の同僚など、それまでの私の人生の体験の中であまり触れたことのない人たちと一緒に働くことになり、打ち合わせの仕方など一つとっても慣れないことが続きました。

 

難しい課題に対する答えや新しい発想を求める時、私たちはこのような「落ち着かない」状態を通ります。

 

 

少し居心地は悪いかも知れませんが、こうした体験をつうじて、文字通り経験と思考の幅が広がっているのです。

 

 

 

日本人は考えるのが苦手だと言われますが、私はそうは思いません。

 

 

考える力が苦手というよりも、答えがでる前のこのような途中の状態に耐えるのが苦手なのだと思います。

 

それは暗記や答えありきの問題を解くのが勉強だとされてきたこと、そして、電車は1分も遅れることなく到着し、注文すればなんでもすぐにでてくる世界一の便利な環境とも関係していると思います。

 

それ自体はとても有り難い感謝すべきことですが、「耐性」という点からすると私たちの能力を甘えさせている面があります。

 

自分にとって新しい課題に対して自分の答えを出そうとする時、混乱を感じることがあります。

 

 

でも、そのような混乱はけっして悪いことではないのです。

 

そして、答えのない状態も悪いわけではないのです。

 

 

大人になってから体験する問題というのはすぐに答えがでないものばかりです。

 

 

これは人間関係でも同じです。

 

同じ日本人だから理解し合えるだろう、という訳でもありません。

 

 

だからこそ、自分とは違う考え方に耳を傾けてみようと思います。

 

 

そして、自分の中の考えの幅が広がります。

 

 

新しい発想が浮かぶ前に、脳は一度こうした状態を通るのです。

 

 

頭が落ち着かない感じがしても、新しい発想が浮かぶ前の状態だと思って楽しんでみてください。