「コントロールする側はコントロールされる側におびやかされ、いつ反乱されないかという不安と猜疑心に悩まされる」心理学者が指摘する力の行使の限界

この数日国連総会で北朝鮮が話題の中心になっています。

 

アメリカも北朝鮮も、お互いの発言がエスカレートしていて、ロシアの外相からは「幼稚園児のけんかだ」などと言われる始末です。

 

弱気な態度をみせては「相手になめられてしまう」とばかり、安倍首相まで国連総会の議場で過激な発言を繰り広げています。

 

これまでは、戦争が仮に軍需産業や戦争経済のためであっても、これまでは、「テロの撲滅」など一応表向きの「大義」がかかげられました。

 

ロシア外相の「幼稚園児のけんか」発言に、「ほんとうにその通り」と思った人も多いと思います。本来なら幼稚園児レベルのはずが、破壊兵器を持っているのがやっかいなところです。

 

では、かりに幼稚園児同士がけんかをしているとしましょう。

 

それをやめさせたいとして、相手に罰を与えることはどこまで効果があるのか?

人は批判されたり、なんらかの強制を受け続けるとどうなるのか?

罰は相手の行動を変えることができるのか?

 

いったん、国際政治(「『国際政治』のふりをした大きい体をもっった子どものけんか」という方が正しいかも知れませんが)を脇において、こうした点を親と子どもの関係性を例にとって見てみたいと思います。

 

「従来の『しつけ』では、罰は子どもの攻撃的な行動を防止するものとされてきました。

 

しかし、「きびしく、懲罰的な、力に基づく罰は、実際には子どもの攻撃性を引き起こす」と指摘するのは、心理学者で、親が子どもに対して本当の影響力を持つことを学ぶ「親業」と呼ばれるプログラムを世界各地で何万人もの人たちに教えてきたトマス・ゴードン博士です。

 

親業.jpg

 

ゴードン博士は、子どもに罰を加えることは、何らかの意味で子どもの欲求を満足させないことであり、不満のある時人は攻撃しやすくなる、と続けます。

 

親業では、力で子どもの言うことを聞かせようとすることがもたらす結果について以下の点を指摘しています。

 

この場合の力とは、体罰や罰を与えることといった身体的な力だけでなく、過干渉や言葉による暴力なども含まれ、なんらかの方法で親の望むように動いて欲しいとコントロールしようとすることです。

 

1、暴力の連鎖を引き起こす

暴力は子どもの攻撃的な行動を促進する。「欲しいものが手に入らないときは、そのために闘え」「対立で勝つのは大きくて強いほうだ」という考え方を植え付ける。攻撃を抑するためにさらに力を使うことは当たり前だと考える。子どものときに体罰や暴力を受けて育った人は、配偶者や子どもに暴力をふるう傾向が高い。

 

2、人を力でコントロールするには大きな労力がかかる

人を力でコントロールするには時間もかかるし、カネもかかる。効果を確実にするには細かい監視がいる。おとなの命令や要求に子どもは抵抗するので、その抵抗を取り除くことに時間がかかる。従わない子どもにはなんらかの対処をしなくてはならない。

 

3、おとなの罰はいずれ品切れになる

子どもが青年期になるにしたがって、体格は大人並みになり力も強くなる。大人が罰を使おうとすれば子どもからの仕返しを受ける危険がある。相手が大人になるにしたがって、それまで頼りにしていた力のほとんどを大人はもう持っていないことに気づく。

 

4、強制は困難で時間がかかる。

コントロールされる側は、押し付けられた決定をすすんで実行しようとしない。一方的にルールを作ったり、意思決定するのは最初は時間が少なくて済むように見えるが、命令や決定事項を受け入れさせるには限りなく時間がかかる。

 

5、コントロールしている側が力の限界を知っている

コントロールする側はコントロールされる側におびやかされている。いつ力を失わないかと不安になる。周りの人に猜疑心や不信感がたえず安心できない。強権的な方法で一時的に反対勢力をおさえられても、相手は地下に潜り後で爆発する。どのような力ももともと不安定である。コントロールしている側が、こうした反乱の連鎖と力の限界をあるレベルでわかっているからこそ、不安と不信の「心理的ドロ沼」に陥る。

 

南スーダンでなぜふたたび内戦が起きたのか、一般的には民族紛争と説明がされていますが、その根底にはこの反乱の連鎖がある、と私は思っていますが、その根底にあるのもこうしたメカニズムです。

 

力でコントロールされてきた地域では、力を取り戻した方がさらに強権的になる、という連鎖が起きやすいのです。

 

 

こうした力のダイナミックスは、家庭や会社、組織、政府にそのまま当てはまります。

 

親と子の関係は、会社での上司と部下の関係にも当てはまります。

 

「あまりにも長い間、私たちは力を崇拝し続け、力は効果があるものだと錯覚してきた。その破壊性と大きな限界についてあまりにも知らなすぎた。」

 

ゴードン博士の言葉です。27年前の発行(日本語訳)ですが、今まさに私たちはもうこれ以上見ないふりができない程に「力」の限界を見せつけられています。

 

私たちがすぐに出来ることは、私たちの日常の関係の中における力関係を見直すことでしょう。

 

では、コントロールされた側はどう反応するのでしょうか?

子どもは従順に従うのでしょうか?

もし子どもに不満があったとすると、子どもはどう反応するのでしょうか?

 

ゴードン博士は24の子どもの反応をあげています。

 

力で人に言うことことを聞かせようとするのは可能なのか?親に強制される子どもはどう反応するのか❓」に続く。

無関心や孤立、寛容性が下がる「社会的なトラウマ」 という現象ーその連鎖と国連関係者が学ぶ「どうしたら憎しみの連鎖を防げるのか」という理論

先日はトラウマとは単に「心の病」というよりは、「身体に残り外に出切れていないエネルギーである」とお伝えしました。

 

アメリカでは10人に一人がPTSDと言われるくらい、トラウマやPTSDが過剰に診断される状態があるとも指摘され、

 

すべてを「トラウマ化」する必要はない、と断っておいた上で、

 

トラウマと暴力の連鎖のメカニズムと、それを乗り越える過程を理論化したものして知られる

 

The Center for Justice and Peace-buildingの Strategies for Trauma Awareness and Resilience(STAR)より、トラウマが日常的にどういう風に現れるのかお伝えしたいと思います。

 

cycles-of-violence.jpg

⏫  The Center for Justice and Peace-building, Strategies for Trauma Awareness and Resilience: STAR)より

 

一般的にはこのような状態がみられます。

 

・判断能力が低下し、何かに対する事象を恐れとして認知しやすくなる。

・コミュニケーション能力が低下し、特に共感性が下がる

・柔軟性や寛容性が下がる

・直接何かが起こったわけでもない個人との関係において緊張や対立がおこる

・無関心や孤立

・自分の被害ばかりに目がいき、他者の視点で見ることができなくなる(歴史、係争、関係性)

 

さらに、そのエネルギーが内に向けられるか(acting-in)、または外に向けられるのか(acting-out)?に分けられます。

 

内に向けられた場合には、以下のような症状が見られます。

 

内に向けられた場合:

・依存 (インターネット、薬物、買い物、セックスなど)

・過食症・拒食症

・仕事中毒

・自傷行為

・うつ

・不安

・頭痛や身体の緊張など・慢性的な痛み

・病気(身体的症状)

・自殺

 

外に向けられた場合には、以下のような症状が見られます。

 

外に向けられた場合:

・ドメスティックバイオレンス(DV)

・虐待

・犯罪行為

・リスクを犯したがる

・攻撃的な行為

・暴力行為

・戦争

 

社会的・集合レベルでは次のようなトラウマのサインを見ることができます。

 

・無関心(国の政策や政治や社会に対する無関心)

・黙る(表現の自由の抑圧、真実が語られなくなる)

・共感や寛容性のうすれ

・二元論(ゼロか100か、こちら側かあちら側か)

・ 人との繋がりが希薄になり信用できなくなる

・環境の悪化

・性の軽視や売春の増加

・薬剤の使用量の増加

 

 

トラウマはそれに苦しんでいる当事者が自分で心の痛みを癒し、その体験を完了させなければ、さまざまな 形で次の世代や社会に引き継がれると言われています。

 

最近は、トラウマと暴力の連鎖だけでなく、それを乗り越える過程も理論化されています。

 

これは、9.11をきっかけに始まった「どうしたら憎しみの連鎖を防げるのか」という研究から生まれまし た。

 

今では、「Strategies for Trauma Awareness and Resilience: STARプログラム」として知られ、私も国連の研修の一環で参加したことがありますが、米政府や国連関係者、アフガニスタ ンやイラク従事者をはじめ、ドイツ、ケニア、レバノンなど世界60ヵ国から参加者が集まるプログラムとして知られています。

 

STARは、米国で起きた1995年のオクラホマシティ連邦政府爆破事件の被害者が「和解」へ向かっていた 過程などを理論化し、紛争を根本から解決するには、個人が心の傷やトラウマの体験を癒すことが重要だとしています。

 

STARに理論によると、寛容性の低下や排他主義といった排除型の暴力も、トラウマと暴力の連鎖の一つだと説明することもできます。

 

報復の「連鎖」を根本的に解決するためにも、こうした連鎖のメカニズムとそれを断ち切るのは何か?と理解することは役に立つと思います。

 

STARの理論では以下のステップが説明されています。

 

STAR 和解.001

 

(#1)身の安全

(#2)なげく・自分のストーリーを話す

(#3)Why me? ⇒ Why them?なぜ私?からなぜ相手?への視点

(#4)相手の「ストーリー」を理解する

(#5)ストーリーが書き換わる

(#6)ゆるし

(#7)正義(restorative justice)

(#7)和解

 

こちらについてはまた説明したいと思います。

 

個人的なトラウマやPTSD(援助従事者による二次受傷、セカンダリートラウマも含む)の回復プロセスについてはこちらで説明しています。

 

トラウマとまで言わなくても、人生では自分の思うようにならない時もあれば、理不尽なことも起こります。一人ではどうしたらいいのか分からなくなることもあるでしょう。

 

そんな波の中にいる時にどうしたいいのか?

 

少しでもそんなヒントになるように、トラウマやPTSDの回復理論やレジリエンスに関する研究と私自身の燃え尽き症候群やPTSDからの回復体験を質問形式にしてまとめました。

 

ここで挙げている質問は、リラックスして、まずは眺めてみて、思い浮かぶことをありのままに観察してみるというアプローチをオススメします。

 

質問を読んでもに何も思いつかなくても、ふとした瞬間に何か思い浮かぶ事もあるでしょう。

 

自分が前に進んだからこそ、意味を持ってくる質問もあるので、ぜひ定期的に眺めてみて下さいね。

 

ダウンロード・登録⭕️こちら⭕️よりどうぞ 

 

 

目次

あ、今の自分の状態について把握する

い.自分の「ストレス反応」を知る

う.今気になっていることについて観察する

え.喪失 (後悔、自責、サバイバーズギルト)に気づく

お.自己像、自己肯定感、自己受容度に気づく

か.自分の中の「不安」を意識化・言語化する

き.自分のコーピングスタイルを知る

く.自分と相手との優先順位(境界線)と当事者レベルを知る

け.自分のストーリー(解釈・認知)に気づく

こ.回復のストーリーをみつける

さ.試練の中の「意味」について知る

し.再結合・新しい自己の創造

す.回復・再生のためのステップ 

せ.トラウマからの回復・再生のプロセスで体験しうること

そ.トラウマからの回復の三段階

 

ダウンロードは⭕️こちら⭕️よりどうぞ 

 

 

国連PKOの幹部経験者たちを突き動かす「原動力」とは?ーこっそり語ってくれた彼らの本音

イスラム圏7ヵ国からの移民の入国禁止令が出たかと思いきや、それが差し止めになったり、就任後わずか1ヵ月で安全保障補佐官が辞任したり──トランプ政権の発足後、信じられないようなニュースが相次ぎ、米国の動揺は世界に波及している。

 

当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなりつつあるいま、それに疑問を持たずに思考停止に陥るとさらなる危機が生じる──1994年に起きたルワンダ大虐殺を例にとり、筆者は警鐘を鳴らす。

 

集合場所はスリランカ最大の都市、コロンボの某米国系ホテルでした。

 

「講師の方は到着後、各自ロビーにてスリランカ軍と合流してください」

 

米軍太平洋司令部から送られてきた書類には、スリランカに到着した後の流れについてはそれしか書かれていませんでした。

 

他に知らされていたのは、これから我々講師4人でチームを組んでスリランカ軍に訓練を実施すること、4人のうち2人は元軍人であること。あとは研修の内容と担当分野ぐらいでした。

 

2012年9月、私は国連がスリランカ軍におこなう平和維持活動(PKO)の訓練で、米軍の専門家という立場で講師を務めることになっていました。

 

そのときのメンバーは米国人のJ、元カナダ軍のB、元マレーシア軍のD、そして日本人の私の4人。全員、すでに国連も軍も離れており、個人の専門家として参加していました。

 

私以外の3人には、ある共通点がありました。全員、国連要員として1994年にルワンダで起きた大虐殺を体験していたのです

 

ルワンダ虐殺のような世界を揺るがす大事件の現場にいた人たちは、いったい何を思ったのか?

 

今回の連載でこのテーマについて書きたいと思ったのは、トランプ政権がイスラム圏7ヵ国の移民入国禁止令を出したと思ったら、それがすぐに差し止めになったから。日々、予測不可能なニュースが報じられる状況に「いままで当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなくなる時代がやってくる」と危機感を覚えたからです。

 

トランプ政権の誕生によって、私は「そもそも政府は正しいのだろうか」という疑問を持ちました。

 

政府はこれまで絶対的な存在で、権威や常識、そして私たちが「当たり前」だと思っていることの象徴でもありました。しかしその価値観が、もろくも崩れ去ろうとしています。

 

独立前の東ティモールにいたことがあります。そのときは通貨や法律、中央銀行はおろか政府が存在していませんでした。市場でトマトを買ったときに、3つの貨幣(インドネシアルピー、米ドル、豪ドル)でお釣りが返ってきて、無政府状態であることを実感しました。

 

では、「当たり前」なことが何ひとつ存在しなかったであろう、ルワンダ虐殺の現場にいた人はいったい何を感じたのでしょうか?

 

彼らの経験から、「当たり前のない時代」を生きるヒントを探ってみたいと思います。

 

ルワンダが生んだ絆

 

スリランカでおこなわれた訓練プログラムは、世界的にもよく知られたものでした。そのときの講義では、武装解除、元兵士の社会復帰(DDR)、人道支援、安保理決議や国連PKOの意思決定、演習など幅広い内容を網羅していました。

 

演習では、仮想国のシナリオに基づいて意思決定の過程をシミュレーションします。シナリオの策定には米軍もかかわっており、内容もリベリアやアフガニスタンなど世界中の事例が集約された本格的なものでした。

 

武力で敵を倒して破壊するのは簡単ですが、停戦後、政府や議会などの制度をいちから整えて国の根幹をつくり、復興を支援するためには、軍事だけではない幅広い視点を要します。私たち講師のチームに軍人と文民の両方がいたのは、そのためでした。

 

訓練は、我々講師チームがコロンボのホテルで合流した翌日から始まりました。私たち講師の間には、ずっと一緒に仕事をしてきたようなスムーズなチームワークがすぐにできあがりました。

 

「こんなに心地よく仕事ができるのは、同じ目的を共有しているからだろうか?」などと漠然と考えていましたが、実はもう少し「深い理由」があったことを後になってから知りました。

 

きっかけは、休憩中のおしゃべりでした。講義の内容が各々の過去を刺激するのか、休憩をしていると思い出話が始まることがよくありました。

 

「あのときは車が通れなくて、歩いて川を渡ったよ。もう少し流れが強かったら危なかったなあ。まあ、いま思えば懐かしいけどね」

 

たいていそんな他愛のない話をして、笑ったものです。そして、最後には、カナダ人Bが軍人っぽいちょっとシニカルなジョークを飛ばして終わるのが「定番」になっていました。

 

ある日、ルワンダ大虐殺が話題にのぼりました。誰かが、「あのときは周り一面が死体だらけだった……死体の上にさらに死体……」と言うと、周りのみんなも「そうだね」と静かに頷いていました。

 

 

えっ? みんな、あのときルワンダにいたの?

 

 

驚いていたのは私ただ1人でした。

 

国連やNGOで働いた経験を持つ者同士、それまで何をしていたのかを簡単に聞くことはあっても、長い経歴を持つ彼らに「原体験」について尋ねることはありませんでした。

 

その言葉を聞いたとき、私たちチームをまとめていたものが何なのかがわかったような気がしました。

 

ルワンダでの経験についてはそれ以上詳しくは語られなかったものの、彼ら3人からは揺るぎない決意が感じられたからです。

 

「あんなことを2度と繰り返してはいけない」と。

 

 

「壮絶な悲劇」が平和への問いかけを生んだ

 

ルワンダでは、1994年に人口の80%を占めていたフツ族によるツチ族の大虐殺が起こり、たった3ヵ月の間に50万~100万人が殺されたと言われています。一日に1万人以上が殺される日々が、3ヵ月間以上も続いたのです。

 

大学生のときに見たルワンダ虐殺の写真展のことは、よく覚えています。死体の上にいくつもの死体が重なった写真の数々を目の前にしたとき、それまで漠然と感じていた「どうして?」という疑問が、より強い形で私のなかにはっきりと跡を残しました。

 

「人間をこんなふうにさせてしまう状況はどんなものだったのだろう? 民族が違うというだけで、人はこれほど激しく争うのだろうか?」

 

このときに感じた衝撃と問いによって、私は大学院に進学し、紛争地の現場に向かうことになりました。

 

我々がスリランカで講師を務めていた訓練プログラムをいちから作り上げたのは、ある米軍士官でした。彼もこの虐殺が起きた当時ルワンダに派遣されていて、惨状を現場で目撃していたのです。

 

彼は帰国後の1995年、自ら志願してニューヨークの国連本部 にある平和維持活動局(PKO局)へ出向します。

 

そのときの心境を、次のように語っていました。

 

「とにかく、自分がやらなければならないことが山ほどあると思った。それで帰国後に迷わず国連への出向を申し出たんだ。

 

驚くかもしれないけど、僕がルワンダから戻ってきて国連PKO局に赴任した当初は研修の教材どころか、PKO参加国に対する訓練の基準もなかったんだ。

 

冷戦後、世界には問題が山積みだったのに、当時のPKO局自体がびっくりするくらい小さい部署だったんだよ。だからまず、参加国をまとめるための最低限の基準を構築するのが僕の仕事だと思ったんだ」

 

そして、彼は関係者や各国政府と協議を重ね、その仕事に邁進していきます。

 

冷戦が終結してまだ数年しか経っておらず、国連PKOに理解があったとはいえない時代背景のなかで、彼はその仕事を通じて、国連PKOに対する各国からの信頼とサポートを得ていきました。

 

こうして彼が作ったPKOに関する指針と訓練基準は、190を超える国連加盟国の総意として国連総会で採択されました。いまではこれに基づいた派遣前の訓練が各国で必ずおこなわれるようになり、10ヵ国以上の軍の士官が合同で演習をする多国籍訓練も開催されています。

 

実は、国連PKOの幹部経験者のなかで、ルワンダ、ボスニア、カンボジアなどでなんらかの「原体験」を持つ人は少なくありません。彼らがその体験を語ることはあまりありませんが、現場の惨状を知る者だけが持つ、言葉を超えた信念を感じたことは何度もありました。

 

私が国連PKO局にいたときの軍事顧問は、元オランダ軍の中将でした。彼は、1993年にカンボジアで国連の選挙担当官を務めていた日本人がポルポト派と疑われる民兵に殺害されたとき、地域治安部隊の幹部を務めていた人でした。

 

「あの事件があったからこそ、僕は仕事をやめずに続けなければいけないと思った」

 

彼は私に、そう話してくれました。

 

後に、彼が講師を務めた国連幹部研修に参加する機会がありました。彼はその研修で、これから現場の最前線に立つ人たちに役立てて欲しいと、自分が感じたジレンマも含めてありのままをシェアしていました。

 

そんな人たちと接するとき、「彼らを突き動かす原動力は何なんだろう?」とよく考えていました。突き詰めるうちに、それは使命感というよりは「探求心」に近いものではないかと思うようになりました。

 

なぜ人間は戦争を続けるのか、そして人類はどうしたらそれを防げるのか?

 

言葉にはならなくても、あるレベルにおいては誰のなかにも「人間」という存在に対する原初的な問いがあります。各自それぞれの「なぜ?」に向き合い続ければ、一生をかけてでも解き明かしたい問いや課題、そしてその答えを見つけることができるのでしょう。

 

ルワンダの虐殺から十数年を経て、沈黙し続けた生存者と加害者がはじめて当時の状況や現在の心境を語った『隣人が殺人者に変わる時 和解への道 ルワンダ・ジェノサイドの証言』(ジャン・ハッツフェルド著、かもがわ出版)のなかにこういう記述があります。

 

「俺たちは仲間にバカにされたり、非難されたりするよりも、マチェーテ(ナタ)を手に取った方が楽なことに気づいた。

 

(中略)

ある日を境に、僕は使い慣れたマチェーテを手に、隣人の虐殺を始めた。家畜を屠殺するように淡々と。

 

(中略)

 

旧政権はジェノサイドを命じ、市民はそれに従った。新政権は赦せというから、今度はそれに従っている」

 

これらの発言からは、政権の指示や同調圧力に疑問を持つのを止めると、普通の人の集団が100万人もの人を容易に殺してしまうのだということがうかがえます。

 

最近の事件でいえば、南スーダンが挙げられます。2016年12月と2017年2月に続けて、国連は同国で「大虐殺が起きる恐れがある」という警告を出しています。

 

なぜ、人間は戦争を続けるのか? まだその問いは続いているのです。

 

「当たり前」だったことがもはや当たり前でなくなりつつある時代において、自分で考えることをやめることが最も危険です。

 

 

誰が何と言おうと、自分の人生を生きるのは自分です。

 

自分に対する最終的な決定権を持つのは、自分だけなのです。

 

いまこそ、自分にとっての「なぜ?」を取り戻すときなのではないでしょうか。

 

クーリエジャポン2017年3月3日掲載

グーグルと国連で求められる究極の「訓練」②

グーグルと国連で求められる究極の「訓練」①

 

認知の力を鍛える方法の1つは、脳の機能を踏まえた上で、自分の思考や見方を、いい・悪いといった評価や判断をくだすことなく、「第三者の目」で観察することです。

メンが勧めているのは、毎日2分間、ただ頭に浮かぶことをありのままに浮かび上がらせる練習です。この意図は、自分のなかで自動的に発生する思考に、より意識的になることです。それによって、自分の思考とそれに対する反応の間にあるギャップに気付くことができます。

認知の力を鍛える次のステップは、相手の視点に立って同じ状況を眺めることです。ある状況に対して、自分の視点だけではなく、他者の視点から俯瞰できるようになると、文字通り視野が広がり、対処できる選択肢の幅が広がるからです。

 

この認知のプロセスを、メンはエンジニアらしくこう表現しています。

「自己統制が上手くなるのは、復元メカニズムをアップグレードするようなものだ。問題が発生した後、システムがどう復元するかを把握していれば、問題が起きたとしても落ち着いていられる」と。

 

グーグルは、先入観や偏見にとらわれない見方ができることは、仕事における生産性・創造性に影響する、そして、すばらしいリーダーシップを発揮するための鍵だと考えているのです。

 

グーグルでは、この自己認識力を高めるため、「相手は私とまったく同じ人間」と考える練習をするそうです。

 

メンは言います。「私たちは、相手のことを、顧客や部長、交渉係ではなく、ひとりの人間だと気づかなければならない。相手も私とまったく同じ人間だ。そう思えれば、どんな場面でも信頼構築のための下地が作られるだろう。難しい状況ではとくにそうだ。」

 

たしかに、こちらが相手に対してなんらかのネガティブな印象や見方を持っていると、たとえ言葉にしなくても、相手との距離や抵抗を生むものです。人はそうしたこちらの態度を感じ取るからです。

 

私自身、内戦を戦った軍隊の人たちとの関わりを通じて、相手を同じ人間だと見れるかどうかが、仕事の結果を左右するくらいに重要だったと痛感した体験があります。

2012年、私は米軍の専門家として、国連の平和維持活動(PKO)に参加するアジアの軍隊に派遣され、国連PKOに関する研修の講師を務めるという仕事をしていました。

 

派遣先の一つはスリランカ軍だったのですが、打診を受けた時、私の頭にまっ先に浮かんだのは「えっ、あのスリランカ軍?!」でした。スリランカと言えば、シンハラ系住民とタミル系住民との間で26年にも渡って内戦が続き、「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」による爆破テロが日常茶飯事だった所です。

 

⬆️ 首都コロンボからインド洋を眺める。内戦中にはこの道路沿いにいくつもの関門があったが、内戦が終わって市民が自由に散歩できるようになった。

 

スリランカ軍もLTTEへの弾圧を強め、反対派を黙らせるための拉致(強制失踪)の数は世界一とも言われました。2008年にはLTTEの拠点を続々と攻略。内戦の最終局面では、追い詰められたLTTEが、北部の半島で身動きが取れなくなった33万人の一般市民を「人間の盾」にとり必死の抵抗を試みる中で、軍は圧倒的な武力で制圧を敢行します。(数字は国連事務総長専門家パネル発表)

 

結果、双方によって一般市民が巻き添えになる形で殺され、内戦終結前の5ヶ月間だけで4万人以上もの死者を出す結末となりました。軍は、市民の巻き添えをゆるしただけでなく、その間の人道援助の輸送を妨害し、病院を意図的に攻撃するなど「人道に対する罪」を国連などから追及されている「張本人」だったのです。

 

私自身、内戦中のスリランカを訪れたこともあり、自分が数時間前に車で通ったばかりの幹線道路上で爆破テロがあったことを知ったこともあれば、爆破テロで燃やされたバスの残骸を見たこともあり、スリランカ内戦の「重さ」については少しは分かっているつもりでした。

 

さすがに数日迷ったものの、結局引き受けようと思ったのは、そうしたことも含め、内戦が終わった後のスリランカの状況を、自分の目でありのままに見てみたいという気持ちでした。

 

研修で私が担当することになっていたテーマに関するリサーチやプレゼンの準備は進めていたものの、私がなによりも決定的に重要だと感じていたのは、直接的にも間接的にも何万人もの人たちを殺したかも知れない人たちに対して向き合うことができるかという私の中の「心の準備」でした。

 

 

 

内戦を戦ってきた軍人を相手に私はいったい何を伝えることができるんだろう?

私の役割はいったい何だろう?

 

それに対する答えはすぐには出なかったけれども、そのためにも、まず私は彼らのことを理解しなければならないーそれに対しては強い確信がありました。

 

軍人であることを職業にするってどういう事なんだろう?

もし私が制圧に関わった一人だとしたら今どういう気持ちなんだろう?

本当に紛争が終わるってどういう事なんだろう?

 

私は出発までそんなことを思い巡らせていました。

 

こうした「心の準備」が功を奏してか、スリランカに到着し、スリランカ軍の施設に移動しても私は落ち着いていました。

 

首都のコロンボでは、紛争が終わった街の活気と開放感を感じながら、「ああ、紛争が終わるってこういうことなんだあ」、とインド洋を眺めながらしばらく感慨にふけっていました。

 

そして、軍や政府、街の人たちなどと接していく中で、リアルに迫ってくる感覚があるのを感じていました。

 

それは、あえて言葉にするならば、「もう戦争はたくさん」「なぜこの内戦をゆるしてしまったのだろう」という、軍やLTTE、シンハラ系、タミル系といったものを超えた、あたかも社会全体を覆っているかのような圧倒的な葛藤と苦しみでした。

 

その葛藤と苦しみを感じた時、相手が軍服を着てようが、大佐だろうが、ただ苦しみを持った人間にしか見えなくなったのです。

 

こちら側のそうした態度が伝わったのか、研修は順調に進みました。スリランカ軍の参加者が個人的な体験を話し始めるなど、国連や外部の立ち入りや調査団を何度も拒否してきたスリランカ政府の歴史から考えても、驚くような展開もありました。

 

まさに「相手を同じ人間として見る」という力を感じた瞬間でした。

 

「この人は私とまったく同じで、体と心をもっている。

この人は私とまったく同じで、悲しかったり、怒ったり、傷ついている。

この人は私とまったく同じで、苦しみから解放されたいと願っている。」

 

 

これは、仏教の「慈悲」(compassion)の教えを基にグーグルで実践されている瞑想の一つだそうです。

 

 

当時私はこの言葉は知りませんでしたが、私がスリランカで感じた心境を表しているように感じます。

 

 

アリストテレスは言います。「ある考えに賛同することなく、それについて認識できることは学識ある心のしるしだ」

 

 

老子は言いました。「『慈悲』を持つものは、あらゆる戦いに勝利し、どんな敵に攻められても必ず守りきる。『慈悲』を持つものなら、常に勝者となる。」

 

グーグルで実践されていることも、紛争地で求められていることも究極的な意味では同じなのかも知れません。

 

どんな人でも「同じ人間」として見れるようになることは大きな「武器」になるのです。

 

 

⬆️ 慈悲のマントラをマレーシアの歌姫Imee Ooiの歌声にのせて

これって燃え尽き? ①燃え尽き症候群の徴候って?

 

最近、私のところに燃え尽き症候群でカウンセリングに来られる方が増えています。

実際、この数年において、燃えつき症候群(バーンアウト症候群)になる人が増えているようですね。

これから、3回にわたって、燃え尽きの症候群の徴候や対策を一緒に考えていきたいと思います。

 

燃え尽き症候群になることは恥ずべきことでも珍しいことでもありません。そうした状況で役に立つことを自分自身の体験も含めてまとめてみました。

 

 

燃えつき症候群とは?

 

燃え尽き症候群 (Burnout Syndrome)とは、それまで何かに取り組んで来た人が、過度のストレスに晒されることにより、疲労感や無力感に襲われ、あたかも燃え尽きたかのように気力を失してしまう状態のことを言います。

より具体的には、朝起きられない、意欲が湧かない、イライラが募る、集中力できない、対人関係において引きこもりがちになるなどの兆候がみられます。病気に対する抵抗力も低下するなど、うつ病に至ることもあります。

「バーンアウトシンドローム」は精神心理学者のハーバート・フロイデンバーガーによって用いられた造語で、日本語では「燃え尽き症候群」と呼ばれています。燃え尽き症候群という概念が紹介された当初は、対象者は主に医療や教育、福祉関係者などの対人援助職に従事する人とされてきましたが、現在では、スポーツ選手、ビジネスマン、研究者、エンジニアなど、他のさまざまな職種や業種にも見られるとされています。

 

燃えつき症候群の徴候

燃え尽き症候群の特徴は、単なる肉体的な疲労だけでなく、文字通り「気力が枯渇したような消耗感」が伴うことで、「長期間、感情的な負担を必要とされる状況に関わることによって生じた身体的、情緒的、精神的な消耗感」とも表現されています。いわば、エネルギーが枯渇した状態です。

では、日常的にはどのような徴候が見られるでしょうか?

  • 仕事、職場、同僚に対する不満や批判が募る

ささいなことでイライラしたり、批判的になったり、怒りっぽくなる。今までなら、問題なく適応できたようなことに対応できなかったり、仕事、職場、同僚に対する不満を覚えたり、批判的になる。

  • 人間関係が億劫になり、引きこもりがちになる。

こちら側がエネルギーを消耗させている状態であるために、相手のために気を配ったりする余裕がを持てなくなり、人間関係が億劫になってしまい、人とのかかわりを避けるようになり、引きこもりがちになる。

  • 無関心・冷めている

今まで関心のあったことや今までの自分が打ち込んでいた現象に対して、無関心になる。

  • 先延ばしが多くなる

小さな作業が大きな作業のように感じられ、圧倒される(overwhelming)感じがするために、簡単なメールさえ返信ができなくなるなど、先延ばしが多くなる。

  • 集中できない・身が入らない

目の前にやるべき事が沢山あるのは頭で分かっているのに、身体が動かない、仕事に集中できない。ミスが多くなり、仕事の質が下がりがちになる。

  • 「行き詰まり」・停滞感を覚える

自己否定しがちになり、仕事に成果があったとしても、その成果を実感できなくなり、「行き詰まり感」を感じる。

  • ストレス性の身体症状

朝起きられない、寝ても疲労が抜けずに、全身の倦怠感を覚える。仕事に行きたくないと感じる。頭痛、肩こり、食欲不振、潰瘍などのストレス性胃腸障害がある。体重が減ったり、寝つきが悪い、眠りが浅いなど、睡眠障害等の症状が出ることもあります。

 

バーンアウトを起こしやすい要因としては、以下の点が挙げられます。

燃えつき症候群を引き起こしやすい要因(続く)

 

これって燃え尽き?② 燃え尽きを引き起こしやすい要因とは?

では、燃え尽きを起こしやすい要因としてはどういうものがあるのでしょうか?

 

燃えつき症候群を引き起こしやすい要因

バーンアウトを起こしやすい要因としては、以下の点が挙げられます。

 

①「どこまでやっても終わりがない」

燃え尽き症候群が多く見られる職種としては、従来から教師、医師、看護師、ソーシャルワーカーなどが挙げられてきました。こうした「対人援助職」の仕事の特徴の一つは、仕事に終わりがないこと、どれだけ仕事をやっても患者や症状など、いつでも状況が求める状況に終わりがないこと、同時にそうした状況に対して、必ずしも目に見える成果や「達成感」に繋がるとは限らないことです。

 

②「この状況をどうすることもできない」

人間とは、基本的には、自分で考え、自分の能力を使って目の前にある問題を解決したいと望む生き物です。

一方的に決められた方針に従わざるを得ないのか、決定事項はどのように伝えられるのか、それとも、意思決定になんらかの形で参加できるのかどうか、自分が関わっている仕事において、または、目の前の状況に対して、なんらかの形で自分が能動的に関わっているという感覚を持てるかどうかは、動機付けを影響する大きな要因になります。

また、与えられた状況に対して、自分が望むように対処できないと感じる時、人は無力感を感じることがあります。

 

③ サポートやコミュニティーの欠如

燃えつきを引き起こす要因となりやすいもう一つの要因は、職場におけるサポートやコミュニティーの崩壊です。どんな組織や人の集まりでされ、お互いがお互いに対して深い関わりを持っていくには意識的な努力が要ります。果たして、このチームは長いこと続くのだろうかと思ったり、また、時には、あるポストをめぐって、メンバー同士が競争しなければならない場合などはお互いのサポートが特に難しくなります。

また、組織の理念と現場との状況に大きなギャップがある時、または、現場で必要とされることと逆に見えるような決定が行われたりすること、時には自分の考えとは違う組織の方針について説明したり弁明することになったり、時には相容れない選択が求められる場面に周囲のサポートがないような状況です。

 

④ 「対人援助過労」(caregiver fatigue)

対人援助職に従事する人の中には、自分が人の役に立っていると感じられることに充実感を感じ、それをさらなる原動力とモーチベーションとするタイプの人たちも多くいます。自分のためだけには頑張れなくても、なんらかのチャレンジに置かれても、自分の目に前の人の状況のためになんとかしたいと思うことで、大きな力を発揮するような人たちです。

同時に、自分の目の前にいる人がなんらかの苦痛を抱えている状態に対して、自分が何もできないと感じたり、自分が思うように応えられていないと感じると大きなストレスを感じます。

そういう時には、自分に対して落胆したり、無力感を感じたり、無意識レベルにおいては、「自分は価値がない」とも感じがちです。そうした無力感を補うために、必要以上にワーカホリックになることもあります。

また、「彼らはもっと困っているのだから、自分の悩みはとるに足らない」、「彼らはこんなに苦労しているのだから、私もそうあるべきだ」と、自分のケアよりも相手のケアを優先し、自分を犠牲にしてまで周囲の要求に応えようとします。

また、誰かの役に立つことと、自分のアイデンティティーが同一化されてしまうと、「なんとかしたい」「自分がいなければならない」と思うあまりに、何らかの問題が起こると、自分のせいじゃないかと、さらにストレスを溜め込みます。

また、「あの時はもっとこうできたんじゃないか?」「自分は十分にできていないのではないか?」といった失敗感を抱える傾向も高いのです。

こうした現象は、カウンセラーやソーシャルワーカー、医療従事者などの対人援助職の間で、「対人援助過労」(caregiver fatigue)と呼ばれています。援助する側と援助される側との関係性において健全な境界線(boundary)を持てなくなると、仕事での役割と個人としての人格を別けることが困難になるのです。

こうした傾向は、ある面においては、その人たちが元々持つ共感能が高いからこそ起こりうる現象でもあると言えます。自分の中にある他者への共感や人を思いやる気持ちが高いからこそ、自分が思うように応えられない事に対して、必要以上に厳しくなることがあるからです。

 

では、燃え尽きのよい根源的な要因とは何でしょうか?

今すぐに出来ることは何でしょうか?

 

燃え尽き症候群③ 燃え尽き症候群の間違った対処法 vs. より効果的な対処法

 

 

内戦をしてきた軍隊の前に立つことになったら?①「パースペクティブテイキング」の威力

目の前には迷彩服の軍人の人たちがずらり。

彼らは内戦をしてきた国の軍人たち。

内戦の前線から戻ってきたばかりの人もいる。

 

私は彼らの講師を務める立場。

私に軍人経験はないし、

重い装備など10分も担げない。

彼らはある事で頭がいっぱい。。。

 

さて、どうするワタシ???

 

自分の視点や価値観を押し付けずに、いったん相手の意見を受け止め、なぜ相手はあのような事を言うのか、と相手の視点で物事を見ること。

 

自分の視点と考えから一旦距離をおいて、相手の視点と立場に立ち、相手の相手の思考のフレームワーク、価値観や感情を理解すること。

 

相手と見ている全体像が違ったとしても、同意するかは別として、相手の立場から同じ状況を見て、そこから互いの共通点を探っていくこと。

 

これは、「パースペクティブ・テイキング(perspective taking)」と呼ばれます。

相手の視点と立場から物事を見て、相手の考え方や感情を理解する力です。

 

シンプルに聞こえながら、このパースペクティブ・テイキングは、私が南スーダンで兵士の人達と接している時や、内戦をしている軍隊の人たちに講師を勤めた時にも、大きな力を発揮してくれたのでした。

 

これは、相手のことを理解するのは大切です、というモラルの話しではありません。

 

この「パースペクティブ・テイキング(perspective taking)」こそ、

多様な意見や人をまとめる立場にある人はもちろん、

これからますます多様なバックグラウンドを持つ人たちと接することになるであろう私達を助けてくれる一つの鍵でもあろうと思うのです。

 

では、相手の視点や考え方を理解すると、どんなことが可能になるのでしょうか?

パースペクティブ・テイキングの力とはどのようなものなのでしょうか?

どんな時にそれが力になるのでしょうか?

 

それを説明するためには、逆に、私たちは普段、目の前の人のことを10%も理解していないらしいという事実に簡単に触れたいと思います。

社会心理学が教えてくれる認知プロセスというものによると、私たちが相手を理解する際にはいくつかのステップを経るそうです。

1、二分化

まず、目の前で起きている出来事を理解するために、脳は自分と相手との関係を判断しようとします。この際に脳がとる思考法は、相手を分類することであり、人間に本能的に備わった最も基本的な分類方法は、「この人は自分の敵か味方か?」という分類です(二分化)。

 

2、確証バイアス

そして、脳がそれを判断するのと同時に、私たちの頭の中に瞬時に浮かぶのが、職業、性別、社会的階層、人種、民族、宗教などの「カテゴリー」です。

私たちは、ポジティブなものもネガティブなものも含め「○○の人は~だろう」という、それぞれのカテゴリーに関する解釈やバイアスを持っています(確証バイアス)。

 

3、対応バイアス

そして、そのカテゴリーに関する自分の中の解釈にしたがって、自分が見ると予想していることを相手に見ます(対応バイアス)。

この理論によると、私たちは相手のことを本当に見ているというよりは、自分が思うように相手のことを見ている、という事になります。私たちは言葉を交わす前から瞬時に沢山の推測をしているからです。

しかも、「初頭効果」というものが働くために、一度自分の中で決められた第一印象は、自動的に修正されることはなく、その印象が変わるためには意識的な努力を要すること、また、ストレスが高い時にはステレオタイプがさらにが強化される傾向がある事が指摘されています。

つまり、特別な人がステレオタイプや偏見を持っているのではなく、誰もがなんらかのステレオタイプを持って相手のことを見ているという訳です。そういう意味では、私たちは目の前の人の事をほとんど見ていないのかも知れません。

改めて聞くとちょっとびっくりです(汗)。。。

 

では、これは日常レベルではいったい何を意味するのでしょうか?

まず、人は自分のことを客観的に見てくれているだろうという観測(期待)を見直すこと、同様に、こちら側も周りの人のことを理解しているだろうという「思い込み」を見直す必要があるということです。

例えば、一生懸命にやっていれば、人は自分のことを分かってくれるだろうという訳ではなく、理解するのにも理解されるのにも自ら積極的に働きかける必要があるのです。

人を理解し、人に理解されるということは意識的な努力を必要とする作業であるという認識を持つことです。

 

私自身、この他者認知のプロセスに興味を持つようになったのは、ボスニアの内戦やルワンダでの虐殺といった「民族紛争」と呼ばれていた現象について、疑問に思ったことがあったからでした。

 

民族が異なるだけで本当に人は争うんだろうか???

もし、民族の「違い」が紛争になる時があるとしたら、

それはどんな時で、それはどうしたら防げるのか?

 

私の大学院での研究や国連の現場での実務にはそんな関心がありました。

 

実際、このような他者(社会)認知のプロセスは、集団や国レベルでも同じ様に働きます。歴史的にも、ナショナリズムやポピュリズムが高まり、紛争や戦争が起こる過程では大抵、こうしたステレオタイプがなんらかかの形で煽られていく様子が見られます。

 

1、同一化

今まで安定をもたらしてきてくれたと思われる「秩序」や 「アイデンティティー」が脅かされているという不安、または、なんらかの形で傷つけられたと感じる時、自分に安全をくれそうだと感じられるより大きな集団にグループアイデンティ ティーや帰属感を求める。

 

2、優越化と序列化

こうした過程では、まず、自分の集団の価値の方が優れていると思いたい優位性保持のメカニズムが働き、自らの価値を中心に、他者は劣るものとして、他集団を序列化する(優越化と序列化)。

 

3、自己正当化

そして、自分の方ではなく、相手側の責任や課題に焦点が当てられ、こちらが「正しく」、相手が「間違っている」と決着をつけようとする。

 

4、「悪」と「善」の二元化

さらに、私たちの平和を破壊する悪(evil)に対し、正義は勝たなければならないとする、「悪」をやつけるための「善」が生み出される。(悪と善の二元化)

 

5、非人間化(de-humanization)プロセス

このプロセスがさらに激化して行くと、相手は気の狂った野蛮な「悪魔」や「動物」となり、「人間でない存在」として、武力行使や報復が正当化される (「非人間化(de-humanization)」)。

 

例えば、独立後の南スーダンで「部族闘争」が再発する過程においても、日本とアメリカが戦争に突入していく過程において、または、スリランカでシンハラ系住民とタミール系住民との内戦が激しくなっていった過程においても、このようなプロセスを見ることができます。

 

では、どうしたらこうしたプロセスを防ぐことができるのでしょうか?

または、一旦起きてしまったこのプロセスを元に戻す過程とはいったいどういうものなのでしょうか?

 

私自身、武装勢力との内戦を展開中のフィリピン軍で、研修の講師を務めることになった時に、正にこのパースペクティブ・テイキングの力を実感したのです。

内戦をしてきた軍隊の前に立つことになったら?②「パースペクティブテイキング」の威力