リーダーの育成としてのコーチング

最近、ある勉強会に参加して、自分のギフトや方向性について改めて発見したことがあります。

 

コーチやカウンセラー、コンサルタント、ソーシャルワーカーといった人をサポートすることに関わる人でも、人それぞれのアプローチや得意分野、ギフトやミッションが違います。

 

わたしの周りを見ていても

ある人はとても優しく受け止める人で

慰めをもたらす役割があったり、

ある人はティーンエージャー特有のお年頃のお悩みを聞くのが得意で

ある人は癒しのギフトを持っていて

ある人は論理的に整理するのが得意で、

ある人はインスピレーションを与えるタイプで

ある人はより大きな視点で方向性を示すというギフトがあります。

 

わたしは、慰めというよりは、目の前の課題をより大きな視点でとらえ直して、方向性を示してインスピレーションを与えるタイプです。

 

国連職員の中でも東ティモールと南スーダンで独立国の誕生に立ち会うという稀有な体験をさせていただきましたが、そのことを思い出して、そこには自分の中の「変革」にかんするギフトが関係していたことに気付きました。

 

そして、自分にとっての「コーチング」の意味を改めて受け取りました。

 

わたしはコーチングをリーダーの育成として取り組んできました。

 

この場合のリーダーとは、

人生をよりよくしたいと思っている人

自分が幸せで、周りの人たちの幸せを願う人、

人に勇気を与えたいと思っている人、

このままの世界に満足できない人

社会や世界の役に立ちたいと思っている人

のことを指しています。

 

 

わたしはコーチングを、課題やチャレンジを通じて(たいていそういう形で機会はやってくるからです)新たに自分の役割を発見することをガイドするものとして捉えてきました。

 

 

そして、自分の役割を自覚し生きている人が増え、そういう人たちがつながることで、新しい時代をつくっていくような価値やサービスも生まれると信じています。

 

国連PKOの幹部経験者たちを突き動かす「原動力」とは?ーこっそり語ってくれた彼らの本音

イスラム圏7ヵ国からの移民の入国禁止令が出たかと思いきや、それが差し止めになったり、就任後わずか1ヵ月で安全保障補佐官が辞任したり──トランプ政権の発足後、信じられないようなニュースが相次ぎ、米国の動揺は世界に波及している。

 

当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなりつつあるいま、それに疑問を持たずに思考停止に陥るとさらなる危機が生じる──1994年に起きたルワンダ大虐殺を例にとり、筆者は警鐘を鳴らす。

 

集合場所はスリランカ最大の都市、コロンボの某米国系ホテルでした。

 

「講師の方は到着後、各自ロビーにてスリランカ軍と合流してください」

 

米軍太平洋司令部から送られてきた書類には、スリランカに到着した後の流れについてはそれしか書かれていませんでした。

 

他に知らされていたのは、これから我々講師4人でチームを組んでスリランカ軍に訓練を実施すること、4人のうち2人は元軍人であること。あとは研修の内容と担当分野ぐらいでした。

 

2012年9月、私は国連がスリランカ軍におこなう平和維持活動(PKO)の訓練で、米軍の専門家という立場で講師を務めることになっていました。

 

そのときのメンバーは米国人のJ、元カナダ軍のB、元マレーシア軍のD、そして日本人の私の4人。全員、すでに国連も軍も離れており、個人の専門家として参加していました。

 

私以外の3人には、ある共通点がありました。全員、国連要員として1994年にルワンダで起きた大虐殺を体験していたのです

 

ルワンダ虐殺のような世界を揺るがす大事件の現場にいた人たちは、いったい何を思ったのか?

 

今回の連載でこのテーマについて書きたいと思ったのは、トランプ政権がイスラム圏7ヵ国の移民入国禁止令を出したと思ったら、それがすぐに差し止めになったから。日々、予測不可能なニュースが報じられる状況に「いままで当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなくなる時代がやってくる」と危機感を覚えたからです。

 

トランプ政権の誕生によって、私は「そもそも政府は正しいのだろうか」という疑問を持ちました。

 

政府はこれまで絶対的な存在で、権威や常識、そして私たちが「当たり前」だと思っていることの象徴でもありました。しかしその価値観が、もろくも崩れ去ろうとしています。

 

独立前の東ティモールにいたことがあります。そのときは通貨や法律、中央銀行はおろか政府が存在していませんでした。市場でトマトを買ったときに、3つの貨幣(インドネシアルピー、米ドル、豪ドル)でお釣りが返ってきて、無政府状態であることを実感しました。

 

では、「当たり前」なことが何ひとつ存在しなかったであろう、ルワンダ虐殺の現場にいた人はいったい何を感じたのでしょうか?

 

彼らの経験から、「当たり前のない時代」を生きるヒントを探ってみたいと思います。

 

ルワンダが生んだ絆

 

スリランカでおこなわれた訓練プログラムは、世界的にもよく知られたものでした。そのときの講義では、武装解除、元兵士の社会復帰(DDR)、人道支援、安保理決議や国連PKOの意思決定、演習など幅広い内容を網羅していました。

 

演習では、仮想国のシナリオに基づいて意思決定の過程をシミュレーションします。シナリオの策定には米軍もかかわっており、内容もリベリアやアフガニスタンなど世界中の事例が集約された本格的なものでした。

 

武力で敵を倒して破壊するのは簡単ですが、停戦後、政府や議会などの制度をいちから整えて国の根幹をつくり、復興を支援するためには、軍事だけではない幅広い視点を要します。私たち講師のチームに軍人と文民の両方がいたのは、そのためでした。

 

訓練は、我々講師チームがコロンボのホテルで合流した翌日から始まりました。私たち講師の間には、ずっと一緒に仕事をしてきたようなスムーズなチームワークがすぐにできあがりました。

 

「こんなに心地よく仕事ができるのは、同じ目的を共有しているからだろうか?」などと漠然と考えていましたが、実はもう少し「深い理由」があったことを後になってから知りました。

 

きっかけは、休憩中のおしゃべりでした。講義の内容が各々の過去を刺激するのか、休憩をしていると思い出話が始まることがよくありました。

 

「あのときは車が通れなくて、歩いて川を渡ったよ。もう少し流れが強かったら危なかったなあ。まあ、いま思えば懐かしいけどね」

 

たいていそんな他愛のない話をして、笑ったものです。そして、最後には、カナダ人Bが軍人っぽいちょっとシニカルなジョークを飛ばして終わるのが「定番」になっていました。

 

ある日、ルワンダ大虐殺が話題にのぼりました。誰かが、「あのときは周り一面が死体だらけだった……死体の上にさらに死体……」と言うと、周りのみんなも「そうだね」と静かに頷いていました。

 

 

えっ? みんな、あのときルワンダにいたの?

 

 

驚いていたのは私ただ1人でした。

 

国連やNGOで働いた経験を持つ者同士、それまで何をしていたのかを簡単に聞くことはあっても、長い経歴を持つ彼らに「原体験」について尋ねることはありませんでした。

 

その言葉を聞いたとき、私たちチームをまとめていたものが何なのかがわかったような気がしました。

 

ルワンダでの経験についてはそれ以上詳しくは語られなかったものの、彼ら3人からは揺るぎない決意が感じられたからです。

 

「あんなことを2度と繰り返してはいけない」と。

 

 

「壮絶な悲劇」が平和への問いかけを生んだ

 

ルワンダでは、1994年に人口の80%を占めていたフツ族によるツチ族の大虐殺が起こり、たった3ヵ月の間に50万~100万人が殺されたと言われています。一日に1万人以上が殺される日々が、3ヵ月間以上も続いたのです。

 

大学生のときに見たルワンダ虐殺の写真展のことは、よく覚えています。死体の上にいくつもの死体が重なった写真の数々を目の前にしたとき、それまで漠然と感じていた「どうして?」という疑問が、より強い形で私のなかにはっきりと跡を残しました。

 

「人間をこんなふうにさせてしまう状況はどんなものだったのだろう? 民族が違うというだけで、人はこれほど激しく争うのだろうか?」

 

このときに感じた衝撃と問いによって、私は大学院に進学し、紛争地の現場に向かうことになりました。

 

我々がスリランカで講師を務めていた訓練プログラムをいちから作り上げたのは、ある米軍士官でした。彼もこの虐殺が起きた当時ルワンダに派遣されていて、惨状を現場で目撃していたのです。

 

彼は帰国後の1995年、自ら志願してニューヨークの国連本部 にある平和維持活動局(PKO局)へ出向します。

 

そのときの心境を、次のように語っていました。

 

「とにかく、自分がやらなければならないことが山ほどあると思った。それで帰国後に迷わず国連への出向を申し出たんだ。

 

驚くかもしれないけど、僕がルワンダから戻ってきて国連PKO局に赴任した当初は研修の教材どころか、PKO参加国に対する訓練の基準もなかったんだ。

 

冷戦後、世界には問題が山積みだったのに、当時のPKO局自体がびっくりするくらい小さい部署だったんだよ。だからまず、参加国をまとめるための最低限の基準を構築するのが僕の仕事だと思ったんだ」

 

そして、彼は関係者や各国政府と協議を重ね、その仕事に邁進していきます。

 

冷戦が終結してまだ数年しか経っておらず、国連PKOに理解があったとはいえない時代背景のなかで、彼はその仕事を通じて、国連PKOに対する各国からの信頼とサポートを得ていきました。

 

こうして彼が作ったPKOに関する指針と訓練基準は、190を超える国連加盟国の総意として国連総会で採択されました。いまではこれに基づいた派遣前の訓練が各国で必ずおこなわれるようになり、10ヵ国以上の軍の士官が合同で演習をする多国籍訓練も開催されています。

 

実は、国連PKOの幹部経験者のなかで、ルワンダ、ボスニア、カンボジアなどでなんらかの「原体験」を持つ人は少なくありません。彼らがその体験を語ることはあまりありませんが、現場の惨状を知る者だけが持つ、言葉を超えた信念を感じたことは何度もありました。

 

私が国連PKO局にいたときの軍事顧問は、元オランダ軍の中将でした。彼は、1993年にカンボジアで国連の選挙担当官を務めていた日本人がポルポト派と疑われる民兵に殺害されたとき、地域治安部隊の幹部を務めていた人でした。

 

「あの事件があったからこそ、僕は仕事をやめずに続けなければいけないと思った」

 

彼は私に、そう話してくれました。

 

後に、彼が講師を務めた国連幹部研修に参加する機会がありました。彼はその研修で、これから現場の最前線に立つ人たちに役立てて欲しいと、自分が感じたジレンマも含めてありのままをシェアしていました。

 

そんな人たちと接するとき、「彼らを突き動かす原動力は何なんだろう?」とよく考えていました。突き詰めるうちに、それは使命感というよりは「探求心」に近いものではないかと思うようになりました。

 

なぜ人間は戦争を続けるのか、そして人類はどうしたらそれを防げるのか?

 

言葉にはならなくても、あるレベルにおいては誰のなかにも「人間」という存在に対する原初的な問いがあります。各自それぞれの「なぜ?」に向き合い続ければ、一生をかけてでも解き明かしたい問いや課題、そしてその答えを見つけることができるのでしょう。

 

ルワンダの虐殺から十数年を経て、沈黙し続けた生存者と加害者がはじめて当時の状況や現在の心境を語った『隣人が殺人者に変わる時 和解への道 ルワンダ・ジェノサイドの証言』(ジャン・ハッツフェルド著、かもがわ出版)のなかにこういう記述があります。

 

「俺たちは仲間にバカにされたり、非難されたりするよりも、マチェーテ(ナタ)を手に取った方が楽なことに気づいた。

 

(中略)

ある日を境に、僕は使い慣れたマチェーテを手に、隣人の虐殺を始めた。家畜を屠殺するように淡々と。

 

(中略)

 

旧政権はジェノサイドを命じ、市民はそれに従った。新政権は赦せというから、今度はそれに従っている」

 

これらの発言からは、政権の指示や同調圧力に疑問を持つのを止めると、普通の人の集団が100万人もの人を容易に殺してしまうのだということがうかがえます。

 

最近の事件でいえば、南スーダンが挙げられます。2016年12月と2017年2月に続けて、国連は同国で「大虐殺が起きる恐れがある」という警告を出しています。

 

なぜ、人間は戦争を続けるのか? まだその問いは続いているのです。

 

「当たり前」だったことがもはや当たり前でなくなりつつある時代において、自分で考えることをやめることが最も危険です。

 

 

誰が何と言おうと、自分の人生を生きるのは自分です。

 

自分に対する最終的な決定権を持つのは、自分だけなのです。

 

いまこそ、自分にとっての「なぜ?」を取り戻すときなのではないでしょうか。

 

クーリエジャポン2017年3月3日掲載

人間とは誰もが人の役に立ちたい生き物。

そう私に教えてくれたのは、銃をもった軍人の人たちでした。

 

私が国連の平和維持活動(PKO)に関わることを通じて、体験させてもらった「ユニークなこと」の一つは、軍人の人達と一緒に働くということだったかも知れません。

 

南スーダンなどの現場にいた時には、30カ国以上の軍人の人たちと日常的に接していました。 情報収集をしたり、計画をたてたりとお互いが必要になるからです。

 

そんな私ですが、正直に告白すると、最初は「軍人」という人たちに対する偏見がかなりありました。

 

日本で生まれ育った私にとっては、そもそも日常的に接点がないので、軍隊は未知の世界でした。

 

これは東ティモールの国連PKOの現場に私が初めて派遣された時の話しですが、

究極のヒエラルキー組織である軍隊を相手に、私は、そもそもどんな階級があって、どの順番に偉いのか分からず、目の前のメイジャー(major)に対して、サージェント(sergent)と呼び、一緒にいた同僚から「彼はメイジャーだよ」と耳打ちされたこともありました。

いわば、課長をヒラ社員扱いしたようなものです。😝

 

相手はポルトガル軍でしたが、幸いにそんな私の失礼を「ああ、日本から来た新人の女の子ね」と、ニコニコと受け入れてくれました。

 

軍人とは、いざという時には戦闘をするための訓練を受け、それ自体を職業にしている人たちです。

軍人と聞くと、戦車や銃など「戦闘」を思い浮かべると思いますが、国連PKOでの彼らの主な目的は役割は闘うことではありません。

 

国連PKOでの彼らの役割は、主に、情報収集、信頼構築、住民の保護、交渉、紛争予防です。

 

停戦直後だったり、ある地域の情勢が不安定だったり、暴動が起きている場合、その前線に行き情勢を確認するのは軍人の人たちです。そういう意味でも。彼らの果たす役割はとても重要です。

 

また、時に和平合意の内容について村人に知らせたり、その地域のニーズの聞き取り調査をすることもあります。

紛争後の国はインフラが破壊されていることが多いので、テレビや電話などの情報発信手段も通信手段も限られているからです。

 

私は南スーダンの現場などで。軍人の人と一緒に働く中で自然と親しくなっていきました。

 

中には、母国の内戦の最前線にいた人たちなどもいて、国際政治の教科書や世界のニュースを見るだけでは信じられないような彼らの「本音」に触れることも度々ありました。

 

そして、そんな彼らとの会話を通じて思ったことがありました。

 

「戦争を知っているからこそ、ある意味で普通の人たちよりもよっぽど平和を望んでいる面もあるんじゃないか?」と。

 

私がこの意味を本当に実感したのは、2012年に、米国政府から個人の専門家としてアジアの軍隊に派遣されて、国連PKOに関する訓練の講師を努めていた時でした。

 

その訓練の目的は、国連に派遣される軍としてのスキルや心構えを身につけることです。

そのトレーニングは、とても簡単でとても難しいものでした。

 

簡単なのは、国連PKOの現場では「敵」を倒す必要はないからです。

難しいのは、それまで「敵」だと思っていた人たちと話し合いをするという、いつもと「真逆なこと」が求められるからです。

 

今までは「敵を倒す」ことを訓練されてきたのに、国連の現場では「敵」は存在しない、と言われます。

相手が「武装勢力」や暴徒であっても、彼らは「敵」ではないからです。

 

彼らを倒すことが目的なのではなく、暴力や戦闘行為をやめさせ、なぜ彼らが暴力や紛争に及んでいるのかを理解し、どうしたらそれをやめさせることができるのか、という合意や方法を探ることが目的だからです。

 

なので、訓練で求められたのは次の点でした。

 

相手の言い分を聞くこと、

当事者双方の意見を理解すること

中立の立場を守ること

交渉すること

武器は最後の最後の手段として正当防衛にのみ使用すること、

ただし一般市民を保護する時には使ってよいこと、

女性への暴力を防ぐために積極的に行動すること、

人権を尊重すること、などです。

 

紛争は一度起きてしまうとその解決はとても大変です。

ですから、紛争をいかに日常的に防止(prevention)できるかが同じくらい大切となります。

 

そのためには、日常的な情報収集や状況判断が鍵となるので、

地域の人達から信頼されること(信頼構築)は特に重要になります。

 

そして、講義のテーマとして扱われたのは、安保理決議や国連PKOの意思決定、人道支援、交渉、武器使用権限、停戦後の復興などでした。

 

実際のシーンを再現した「演習」も行われました。

 

例えば、住民によるデモに遭遇した場合はどうしますか?

近くで発砲があった場合はどうしますか?

といった実際のシーンを

現地の人たちを住民役として雇って行うのです。

 

その演習に参加する側はシナリオを伝えられないので、デモをする住民に対峙しながら、それぞれがその場で判断し行動することが求められます。

 

身体が反応してしまうのか、発砲音(実弾はない音だけのもの)を聞いたら自動的に「敵」を追いかけ、住民は無防備にさらされたままということもありました。

 

私も気が付いたら何度か叫んでいたことがありました。

「国連軍の役割は住民を守ることであって、敵を倒すことじゃありませーん!!!」と(汗)

 

そして、訓練では、

住民の人達と向き合う時の姿勢、

その時の銃の位置

コミュニケーションのし方までに注意を向けました。

 

国連のPKOのトレーニングで使われる用語に3Ps(Presence, Posture, Profile) という言葉があります。

 

言葉で伝わるのは10%以下であるという観点から、非言語の部分で何を伝えているかに意識を向けましょう、という意味です。

 

日常的な姿勢や態度などの非言語ランゲージ領域を通じてこちら側の確固たる意図を示すこと、そしてポジティブな 影響も及ぼす、というニュアンスも含まれます。

 

住民の人たちから見れば、軍人だろうが、文民だろうが国連の要員としてみなされるからです。

 

実際に、紛争地といった現場であるほど、信頼構築の大切さは強調してもしきれない位大きいものだと思います。

 

 

3週間、ほぼ毎日「教官」としてアジア・中東7カ国の軍隊と向き合う日々。

これから先の人生でも、こんな体験はもうないかも知れません。

 

当時、私がいたのは、バングラデシュ軍の国際訓練研修所。

首都のダッカから車で3時間くらいのところにありました。

外は昼間は35度を超える猛暑。

 

ヘトヘトになって宿舎に戻ったら、アメリカ人の同僚が笑顔で迎えてくれ、「マンゴーウィスキー」を作ってくれました。

 

ここはイスラム教との国。

ビールが飲めません。

 

彼いわく、空港で買ってきたウイスキーと、ここで調達できるありとあらゆるものを割ってみた結果、「ウィスキーとマンゴーの組み合わせが、一番この土地の気候にあうんだ」と。

 

私は彼の言うことを信じることにしました。

かくして、私は夜はマンゴーウィスキーを飲み、次の日も次の日も、私は演習でこれから国連PKOの現場に派遣されるかもしれない人たちとの訓練を続けました。

 

「みなさんが軍として身につけてきたスキルを人を助けるために使う機会です」と言いながら、私の方も改めて軍人という人の立場をはじめて実感した、と思いました。

 

自分自身の安全を保ちながら住民を保護するという仕事は、 相当の精神力と技術的な鍛錬が求められます。

 

改めて、 そのプレッシャーの大きさを実感しました。

 

自分にとって「未知」の世界に向き合ったからでしょうか。

 

こちらが理解しようとした姿勢が伝わったからでしょうか。

 

軍人の人たちと向き合ったこの体験は、私に思わぬ「贈り物」をくれました。

 

「ネパール軍に戻ったらこんなこと言えないけど、僕はずっと毛派(ネパールの「反政府勢力」)ともっと対話をするべきだって思ってたんだ。」そう伝えてくれたのはネパール軍の士官でした。

 

別のモンゴル軍の士官の人はこう言いました。

「今まで人を倒す戦術しか習って来なかったけど、はじめて、国連の理念に触れることができた。」と伝えてくれました。

 

イラクに二度も派兵された米軍の同僚からはこんな発言もありました。

「僕は2回目のイラク派遣で、ようやく『敵』も人間だって気づいたんだ。

僕たちはたとえ戦闘中だって敵を人間として扱うべきなんだよ。」

 

バングラデシュ軍の士官の人からはこんな「告白」もありました。

「長年軍隊にいるけど、『人間』らしくあることを自分に求めていいんだってはじめて思えたんです。ところで、軍隊をやめようと思っていています。」

こちらの方が、一瞬焦りました。。。(笑)

 

目の前の世界がいつもとちょっと違って見えましたように感じました。

 

人は究極的には誰でも人の役に立ちたいという願いを持っている存在かも知れない、彼らはそんなことを私に思い出させてくれました。

軍隊の人たちが目を輝かせた瞬間

国連の平和維持活動に関わることのユニークな体験の一つは、軍人の人達と一緒に働くということだったかも知れません。南スーダンにいた時には、30カ国以上の軍人の人達と日常的に接していました。一緒に情報収集をしたり、計画をたてたりとお互いが必要になるのです。

そんな私ですが、最初は「軍人」に対する偏見がかなりありました。究極のヒエラルキー組織である軍隊を相手に、最初はどの階級がどの順番に偉いのかさっぱり分かりませんでした。。。

彼らと一緒に働く中で「軍人」という人に対する偏見はかなり溶けたものの、軍人という人たちをようやく少し理解できたと思えたのは、個人専門家としてアジアや中東の国の軍隊に対して国連PKOに関するトレーニングの講師を努めていた時でした。

「みなさんは国連の精神を示しに行くのです。みなさんの行動一つ一つが国連の信頼に関わります。」国連要員としての心構えを教えることが大きな目標の一つでした。住民の人たちから見れば、軍人の人達も私たちのような文民も同じ国連の要員だからです。

それには、今までとは「真逆なこと」を実践するということも含まれました。
例えば、今までは「敵を倒す」ことを訓練されてきたのに、国連PKOの現場では「敵」は存在しない、と言われます。
相手が「武装勢力」や暴徒であっても、彼らは敵ではなく話し合いをする相手だからです。

まず交渉すること、
武器は最後の最後の手段として正当防衛にのみ使用すること、
ただし一般住民を保護する時には使ってよいこと、
住民への暴力を防ぐために積極的に行動すること、
人権を尊重することなどが、求められます。

住民役の人たちを雇って、具体的なシーンを再現した本格的な演習も行いました。身体が反応してしまうのか、発砲音を聞いたら自動的に「敵」を追いかけてしまうということもありました。

「その判断をしたのは何でですか?」
「みなさんは地域の住民の人にとってどう映りますか?」
「紛争を『予防』するために何をしますか?」
「みなさんは軍隊のスキルを人を助けるために使うことができます」

住民の人達と向き合う時の姿勢、情報収集のためのコミュニケーションのし方、紛争を「予防」するというあり方にまで注意を向けました。
内容が内容なだけに全員が必死です。

この経験は、私にとって軍人という人たちの視点や体験を理解する貴重な機会になりました。自分自身の安全を保ちながら住民を保護するという仕事は、相当な精神力と技術的な鍛錬が求められるということ、そのプレッシャーの大きさを実感しました。面白いことに、こちらが相手を理解し始めると、それが相手にも伝わるのか、トレーニング中にいろんな人が私に話しかけてきてくれました。

「今まで人を倒す戦術しか習って来なかった。初めて国連の理念に触れることができて嬉しい。」(モンゴル軍オフィサー)
「僕は2回目のイラク派遣で、ようやく『敵』も人間だって気づいたんだ負傷したイラク兵を病院に運んだよ。僕たちはたとえ戦闘中だって敵を人間として扱うべきなんだ。」と米軍の同僚がバングラデシュ軍を相手に語り始めました。
「ネパール軍に戻ったらこんなこと言えないけど、僕はずっと『反政府勢力』ともっと対話をするべきだって思ってたんだ。」(オフィサー)
「軍隊にいて長年葛藤があったけど、『人間』らしくあることを自分に求めていいんだって思えた。」(バングラデシュ軍オフィサー)

実際、軍人の人たちがそのスキルを人を助けるために使える場があると発見する時、人が変わったように生き生きし始める瞬間を現場でたくさん見てきました。私が彼らのことを知りもせず、見たいように見ていたら、そんな会話は成り立たなかったかも知れない。。。人間というのはその人がどんな職業をしていたとしても人にどう思われていようとも、究極的には誰でも人の役に立ちたいと思ってる、彼らはそんなことを教えてくれたように思います。