国連で働いて学んだことー「問い」を持つことこそが運を上げ、才能を引き出してくれる❗️

若い人たちは内向きなのではないー誤解をしているだけ

 

私は長年の海外勤務から日本に帰って来てから、気づいたことがあります。それは日本人の共感能力の高さです。当たり前のようにも思っている人が多いかもしれませんが、これは世界的に見ても非常に稀有な能力です。

 

これからの時代、感じるとる能力はますます求められていくと思います。

 

 

同時に、そのせっかくの共感能力が、ある誤解のために活かされていない、ケースも多いと感じます。

 

 

それは、問題とは解決しないといけないから、もし解決できないのなら取り組むことさえ無駄だ、という誤解です。

 

 

私は日本に帰ってきてから、若い人たちにもっと世界のことに関心を持って欲しいと思いました。

 

 

最近の若い人は内向きだと聞いたことはありましたが、それってなんでだろうと自分の中でも腑に落ちない部分がありました。

 

 

でも実際に若い人たちと接してみると、若い人たちは世界のことに関心はあるし、実はもっと知りたいと思っている、感じました。

 

私が南スーダンのことについて話すと興味を持って聞いてくれました。他人事のように聞こえるニュースには関心は持てなくても、身近な人が実際に体験したことには興味を持つ、と感じました。

 

 

そして、関心がないのではなく、すぐに解決できないことや、やっても無理そうなことは無駄、という意識があるように思いました。

 

 

そこには、問題には答えがあるはずだ、という根本的な思い込みがあるのかもしれません。

 

 

または、課題を追うよりも解決することの方が価値がある、という前提があるのかもしれません。

 

 

私はこれまで五人ほどのノーベル賞受賞の方と会議などでご一緒して、直接質問をする機会もいただきました。

 

 

ハーバード大学のケネディースクール行政院で生徒に最も影響を与えた教授に選ばれた先生から直接リーダーシップに関するトレーニングを受けたこともあります。

 

そうした人たちに共通していたのは、すぐには答えの出ないような問いに向き合い続けるという姿勢でした。

 

彼らが追ってきたのは、世界の平和や、平等、格差の是正などすぐに答えも成果もでないものばかりです。

 

 

そんな人たちに触れる中で、彼らだけが格段別格の頭脳や才能を与えられた訳ではなく、問いを追いかけ続けたからこそ彼らの中の能力や才能、ひらめきが引き出されたのだと思うようになりました。

 

 

問いを持つことは私たちの能力を引き出し、視点を引き上げてくれます。

 

 

私がオックスフォード大学大学院から奨学金をもらえたのは、「民族が違うだけで人はほんとうに争うの?」という自分の中で生まれた問いがきっかけでした。

 

 

 

今でもこの問いに対する完全な答えが出たとは言えません。

 

 

実際に、国連に入ってからも、現場での問題に触れる度にこのやり方でいいのだろうか?という問いに何度もぶつかりました。

 

それに対しても決まった答えはありませんでした。

 

でも、その問いがあったからこそ、現場へ行き、自分の目で見て感じ、いろいろな人に会い、そして国連や米軍で働くなどいろいろなことを体験させてくれました。

 

現場で自分が見て感じたこと、体験したことの全てを含めて自分なりの答えや結論を出していくという大きな機会をもらったのだと感じます。

 

 

そういう意味では、私の仕事の本質は、問い続けることだったのかも知れません。

 

紛争地での勤務と聞くと、「さぞかし、大変だっただろう」と思われるかも知れませんが、私にとっては、ある課題を追求・探求できるということ自体が「プライスレス」な体験でした。

 

問い続けることは、私に湧き出る力、そして「運」もくれました。

 

 

私たちが何かの答えを求めるとき、その方が一直線で一見効率がよさそうに見えます。

 

 

この問題に対してピンポイントにすぐに答えが欲しい、という場合ももちろんあると思います。

 

 

 

問いを持つことは、答えをくれると同時に、その人の理解や視点全体を底上げしてくれます。

 

 

 

 

問い続けることは、自分の中の勇気や底力を呼び覚ますことでもあるのです。

 

 

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「自分を知る」ということー「自分がやりたいことが分からない人」とランチ選びの関係

突然質問です。

三日前に食べたランチを覚えていますか?

 

 

なんでランチかと言うと、「自分を知る」ということの一つだからです。

 

「自分を知る」というと、とても大きなことのように聞こえるかも知れませんが、ごくごく日常の中にあります。

 

先日あるカフェで、ケール&キーウィージュースをオーダーしました。

 

私の身体は疲れている時によくケールを欲しがります。ビタミンやミネラルが多いので、身体に浸透する感じがします。

 

出てきたのはとてもとても小さいジュースでした。

 

しかも、ほとんどケールの味はしませんでした。

 

 

その瞬間いろんなことが頭に浮かびました。

 

 

ーああ、これなら自分でつくった方がいいな

ーあのスーパーで最近ケールは見なくなったけど、どこのスーパーにあるのかな?

ーケールをみかけたら買っておこう(希少だから)

ー他に自分にエネルギーをくれる食べ物は何だろう?(エネルギーの高い物を口にしたい)

ーどんなものを食べる時に身体の調子がいいのだろう?

 

 

難しい結論でもなんでもないけれども、「そんな思い」をとても強くしました。

 

こうやって私たちは、日々何かを「感じ」、「発見し」、「思い」、「修正し」、「決めて」います。

 

しかも、体験したものが「期待外れだったりすると、じゃあ「次はこうしよう」「だから、今度はこうしたい」と、その反対に対する思いを強くします。

 

 

私の場合、スタバのラテよりも数百円高かったジュースが期待ハズレだったので、自分でケールスムージを作りたくなりました。
私はこの店で同じジュースを買うということは「繰り返さない」でしょうし、この体験は、自分の身体やエネルギーの状態に意識を向けるきっかけの一つになりました。

 

 

こうして、私たちは日々何かを発見したり、「学んで」います。

そして、自分について発見しています。

 

これを「体験」というのですね。

 

 

体験というのは、単なる「事実」の列挙ではなく、その出来事を通じて自分は何を感じ、思い、結論づけたか?ということだそうです。

 

 

 

 

自分がやりたいことが分からない人は多いようですが、

そんな人こそ、自分が食べるランチを「完全に」「意識的に」「全責任をもって」選んでみてください。

 

 

なんで、私はこれを食べたいと思ったのか?

美味しかったですか?自分で星をつけるとしたらいくつ?

あまり美味しくなかったですか?自分で星をつけるとしたらいくつ?

 

 

なんでそのお店・メニューを選んだのですか?

外見はどうだったのか?

お店の雰囲気はどう感じたのか?

お店のスタッフやシェフの印象はどうだったのか?

直感的な第一印象は何と言っていたのか?

 

 

その感覚はあくまでも主観的です。

それでいいのです。

自分が感じることに「正解」も「間違い」もないからです。

 

 

大事なのは、じゃあ次はこうしたいな、というサイクルに繋がっていることです。

 

 

食べ物は私たちの感覚を正直に刺激してくれるものの一つです。

「美味しい」と単純に満足を感じるし、「美味しくない」とイマイチだったな、と単純に感じるからです。

 

 

 

食に対する意欲は人生に対する意欲と比例する、といった友人がいました。

私たちは日々食するもので成り立っているので、それを聞いた時になるほど!と思ったことがあります。

 

美味しいものがわかることは一流の音楽や「ほんもの」がわかるということにも繋がっていると個人的には思います。

 

そして、「いいお店」が分かること・知っていることは、大人のリソースとしてはとても重宝されるものです。

 

 

「今日の私」は、日々の体験の結果です。

 

どんな体験にも無駄はありません。

 

「体験」こそが私たちを学ばせてくれます。

実は人にどう思われているかが気になってしょうがない、他人の批判がこわい人へーサンドラより

Q. 実は人にどう思われているかが気になってしょうがない、または他人から批判を受けるのが怖くて、新しいことに挑戦するのに躊躇してしまうのですか、何かアドバイスをいただけませんか?

 

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A. まず、他人の意見が気になってしょうがない、または、他人の批判が怖いということですが、それは、自分の自分に対する評価が高くないという表れでもあります。

 

いろいろな理由がありえるので、一言でお答えするのは難しいですが、

 

まず、鍵となるのは、なぜ他人の承認を必要とするのか?、という点です。

 

例えば、「あなたはなんで出来ないの」などと常に指摘されて育てられた、または、いいことがあっても評価された事がほとんとない、といった過去の体験と関係している場合などです。

 

または、こんなことを言ったら相手はきっと気に入らないだろう、といった不安のために相手の承認を求めるといったこともありえます。

 

こうした場合、より根本的に状況を変えるために役に立つことは、自分が自分に対して感じている価値を強固にすることです。

 

それは、自分自身を尊重するということです。

 

自己愛 (self love)と言われるものです。

 

自己愛(self love)というのは、傲慢なことでもエゴでもありません。

 

自分のことを素晴らしいと思っていますか?、自分をケアしてますか?ということも含まれますが、それは、けっして表面的な意味ではなくて、

 

その意味とは、自分という存在をただありのままに受け入れていますか?という意味です。

 

自分の中で、自分は自分でいいという感覚が育まれていくと、たとえ誰かから何かを言われたとしても、それによって前と同じように傷つくということはありません。

 

その為の根本的なアプローチとは、なぜある意見や批判が気になるのか、という部分を癒すことです。

 

サンドラスウィートマンより

 

この激動の時代にはなんらかの意味があるのではないか、

この時代に地球に生まれてきたなんらかの目的があるはず、と感じている人へ

本当の自分を思いっきり表現したい人へ

 

詳細はこちら⇨ goo.gl/w6jTRJ

 

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2017年に「感受性」を強みとして発揮するために知っておく《5つのポイント》

2017年から「新しい流れ」が始まるようです。

 

新しい時代においては、自分の強みや才能を知っていることがより重要になってきますが、その中でも、これまではあまり「強み」として捉えられてこなかったような特性がより重宝されていくように思います。

 

 

その一つは「感受性」です。

 

このシリーズでは、「感受性の高い」人の強みとチャレンジ、そして、そういうタイプの人が自分の特性を強みとして活かすために知っておくべきポイントをお伝えしていきます。

 

私のところにセッションに来られる方の中には、「感受性」が強く、エネルギー的に繊細 (sensitive)なタイプの方が多くいらっしゃいます。

 

ここで言う「繊細な」という意味は、その人の「構造」というか「つくり」というか、特性が繊細であるという意味であって、「ナイーブ」であるとも「弱い」という意味とも違います。

 

別の言い方をすると、感じ取る能力が高い人、共感能力の高い人たちです。

 

「繊細」とだけを聞くと、「競争社会」の基準からすると「弱み」のように聞こえるかも知れませんが、これからの時代、「感受性が高い」ということは「大きな武器」となっていくことでしょう。

 

 

では、「感受性」が高いことの「強み」とは例えばどういうものでしょうか?

 

例えば、相手が伝える1の情報から、その何十倍もの情報を読み取る能力です。または、より大きな全体像をつかむ能力です。

 

これは、「洞察力」(insight)と呼ばれます。

 

例えば、この人は、言葉ではこう言っているけど、その人の本心はいったい何なんだろう?または、「このミーティングで部長はこう言っているけど、どうも他の人たちはしらけてるなあ。みんなの本心はいったい何なんだろう?

 

今、会議で起きていることやこの組織全体で起きていることは何だろう?」といったより深層の部分が「分かる」能力です。

 

 

これは、人と関わる仕事、交渉や仲裁、ファシリテーション、リーダーシップといった分野で大きな力になります。

 

または、一つのニュースからより大きな流れを読む能力です。

 

例えば、私にとっても紛争地の現場でこの力が大きな助けとなりました。

 

例えば、南スーダンのような紛争地では、この先数ヶ月、政情がどうなるのか分からないというような環境に置かれます。

 

そのような環境の中で、国連のスタッフは、いろんな人に会って情報収集をし、分析を加え、あり得るシナリオなどを考えながら、それぞれの場合どう対処したらいいかを決定していきます。

 

私は、そういう地で仕事をする人として、いろいろな人に会って生の情報(感覚)を得て、この先の流れを掴んでおくことは、決定的に大事なことだと本能的に感じていたので、できるだけそういう時間を意識的にとっていました。

 

なので、新しいニュースがあったり、政情的に何かが起こっても、「ああ、これはこれ以上『大事』にはならないな」とか「今回はちょっとヤバい」とか、ある程度流れが読めたり、予測がついたりしました。

 

私にとってはあまりに自然にやっていたことだったのですが、

 

えっ?!、みんな気づいてないの?!!!

 

と逆にびっくりしたこともあって、「ああ、これは知らせなきゃいけない」じゃないけど、正式な職務の一部であるかどうかは関係なく、分析レポートを書いて重宝されたこともありました。

 

そして、私の分析が全体像を掴んでいた、先を見越していた、ということが実際にありました。

 

同じ街にいながら、同じ国にいながら、同じ人に会いながら、同じ情報を耳にしながら、その人が導き出す結論や分析はまったく人それそれでした。

 

断片的な情報から、全体像を「掴んでいく」能力はまさに大きな才能なのです。

 

こういう場合の「分かる」能力は、ロジカルシンキング的に一生懸命考えてたどり着く結論というよりは、感覚的に「わかる」という種類のものです。

 

私の場合、この能力が、今ではどう発揮されているかと言うと、例えば、カウンセラーとしてある方の相談内容について聴いている時に、その方が言わんとしていることの全体像や課題の根っこの部分が「パッと」把握できる能力です。

 

もちろん、いくつか質問をして、課題を探ったり、それを確認してきますが、その能力は高い方だと思います。

 

また、いくつかのニュースの断片を合わせていって、大きな流れやより大きな全体像をつかめることです。

 

私はクーリエジャポンという媒体で連載記事を持っていますが、2016年8月3日付けの記事 Vol.3 大仲千華「答えを求めない勇気」で英国のEU離脱について書いたことが、今回の米国大統領選挙にもそのまま「当てはまる」ので自分でも少しびっくりしました。

 

Beautiful landscape
Beautiful landscape

 

 

また、「感受性が高い」ということは、「エネルギーを伝達できる能力」にも繋がるので、スピーチや文章を書くなどなんらかの表現をする人にとって大きな力になります。

 

その人が感動したことについて伝えようと思うと、その感動のエネルギーが文章なりを通じて相手に伝達されるからです。

 

私はずいぶん長い間スピーチが苦手だと思っていて、自分がスピーチが上手だと思ったことはなかったのですが、南スーダンの紛争地の現場にいる時、私が話し始めると、それまでしらけていた参加者が耳を傾け始めるということを体験することがありました。

 

南スーダン政府との会合で、

南スーダン人民解放軍の人たちと一緒にいる時、

スタッフミーティング等々で、

 

 

相手がこちらに耳を傾けるのが分かり、上司や他の人たちから「Chikaのスピーチすごくよかったよ」と言われることがあると、嬉しいのだけど、

 

 

「えっ??、はて、私はいつからスピーチが上手になったんだっけか??」と、当人としては「狐につままれる」ように感じたこともありました。

 

 

当時の南スーダンの状況は

(今でもそうですが)、紛争が再発する要因もいくらでもある。

独立できるかどうかも分からない状況。

 

 

 

そんな真剣勝負みたいな日々だったので、

 

「たった今私がこの場でここにいる人たちに届けられる一言は何だろう?」と、私なりに必死に考え、何かを真剣に伝えようとしていた気持ちが相手に伝わったのだと思います。

 

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⬆️国連のスタッフデー@南スーダンにて。

民族衣装を着て来たエチオピア人の同僚と一緒に

 

多国籍チームのリーダーに抜擢されてからは、政府やNGOとのミーティングでも「国連代表」として一言求められたり、視察とか出張先で一言求められるなど、その状況もよりフォーマルになっていきましたが、

 

私はそんな体験を経て、「かっこよく話す」ことも、「国連職員とはこうあるべき」もやめて、誠意を持ってハートから話すことの方が効果的だということを学んでいったのでした。

 

最近のコミュニケーションに関する研究では、言葉や文字として伝わるのは10%以下(またはもっと低い)ということが言われています。

 

今では、文章を書く時でも、言葉を超えて全体のエネルギーとして何を伝えたいのか、ということに意識を置いています。

 

だとするならば、言葉を超えて、全体のエネルギーを伝えることができる能力とは、まさに「繊細さ」や「感じ取る能力」「感受性」の大きな強みなのです。

 

 

こうした能力が開花すると、

 

人に教えること、講師、執筆、ダンス、デザイン、演劇、絵を描く、歌を歌う、音楽、イラスト、建築、彫刻、織物、アスリートなどー

 

そういうタイプの人たちの、自分の中から「湧きでるもの」を表現する意欲、そしてそのベストを追求する「内なる意欲」はもともと強いので、それが助けとなり、それがどんな分野であっても、自分の表現や作品は自然と高い水準に達していきます。

 

 

「感受性」「繊細さ」や「感じ取る能力」を自分の強みとして成功している有名人としては、例えばこのような人たちが挙げられています。

 

スティーブン・スピルバーグ

メリル・ストリープ

アガサ・クリスティーン

アルバート・アインシュタイン

エリザベス・キュープラ・ロス

デール・カーネギー

などです。

 

Dan Millman 33:6.jpg

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Dan Millman ‘The life you were born to live: A guide to finding your life purpose’ p.242より

邦題 ダン・ミルマン「「魂の目的」ソウルナビゲーション―あなたは何をするために生まれてきたのか」より

 

 

ただ、どんな人にとっても、その人の強みとチャレンジは「表裏一体」であるように、そういうタイプならではチャレンジもあります。

 

では、こういうタイプの人たちが、その「感受性」「繊細さ」や「感じ取る能力」を才能として「開花」するためにはどんな事が役に立つのでしょうか?

 

次回に続く。

言ったら死んじゃう。スーパーエリート女性の誰にも言えないお悩み

「私は組織に必要とされていると思いたい。


「頑張って、上司、部下、同僚のみんなに認められたい。

 みんなにどう思われているか実はすっごく気になる」

 

失敗したくないから、自分を守るための鎧やら盾を身につけて仕事に行く。

しかもどんどん重くなる。。。

 

 

ありのままでいられたらどんなに楽かと頭ではなんとなく分かるけど、じゃあどうしたらいいの?

 

 

 

私は長い間そんな感じのがんばる女子でした。

 

これはそんながんばる女子が少しづつ楽になっていったお話しです。

 

 

東ティモールとカザフスタンでの勤務を経て、私はニューヨーク国連本部に赴任することになりました。国連の中でも花形部署と呼ばれる部署への赴任です。

 

嬉しいのと同時に大きなプレッシャーを感じたのも覚えています。

 

ニューヨークに赴任してまだ数日も経ってない時、新しい上司に呼ばれました。

 

「ノルウェー政府代表部に行ってきてくれないかな。オスロからPKO担当者が来てるみたいだから。

今どうしても空けられないんだ。話し聞いてくるだけでいいから。」

 

ノルウェーは独自の平和外交を行うなど、国連外交にも積極的な国です。

国連と意見交換をするためにニューヨーク来ているということでした。

 

さっそく対外的な「初仕事」です。

 

マンハッタンのミッドタウンの国連本部を出て、目の前にある「トランプタワー」の前を通って、(当時、ニューヨークヤンキースの現役だった松井選手が住んでいました)、オフィスからそんなに遠くない距離に借りていたアパートに戻りました。

 

クローゼットを開けて、

「一番貫禄のありそうなスーツ」を探しました。

 

当時、20代後半半ばだった私のお悩みの一つは「若く見えること」もっと言うと、「童顔」だった事でした。(海外では単純に若いというより、賢く年を重ねた感じの人が尊重されますね。)

 

別のスーツに着替え直して、少しは貫禄らしきものがついたかな?と思い込んで、ノルウェー代表部に向かいました。

 

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3人の大佐の人たちに迎えられ、資料を見せてもらいながら、意見交換をして、ミーティングは無事に終わりました。

 

そもそも意見交換という目的のミーティングではあったものの、

何か話しをしたような中身があったような、なかったような、

なんだか「キレ味の悪い」感じが残ったのを覚えています。

 

今思えば、

「国連の本部で働く人」はこうあるべき、

なんか「かっこいい事」を言わないといけない、

『エリートっぽいこと』言わないといけない

という私の中の得体の知れない「かんちがい」と、私の中の理想像とのたたかいと完璧主義の始まりでした。

 

国連の花形部署の中で、しかも、その中でも特に優秀な人たちが集まったセクションで働く機会を得て、

今だったらそんな機会をもっと楽しめ、

その有り難さをより味わえると思うのですが、

(優秀なだけでなくハートもある本当に優秀な人たちが集まっていました。)

 

いつも自分の能力や努力が「足りない」気がして、

この「足りない」という強迫観念のような私のお悩みはかなり長い間続きました。

 

一番苦しかったのは、

何かをやっても達成した気がする訳でもなくて、いくらやっても自分の中で「これでいい」と思えなかったこと、でした。

 

ちょっとした失敗に対しても、

自分が完璧でなかったせいだと思い、いっそう完璧主義の深みにはまっていくのです。。。

 

私にとって精神的なストレスが一番大きかったのはおそらくこの頃で、

出張とストレスが重なって、機内で倒れたこともありました。(汗。。。)

 

この完璧主義のピークを経て少しづつ楽になってきたのは、その後南スーダンに行ってからです。

 

まず、灼熱のスーダンでスーツを着なくなったこと(笑)

 

「国連本部で働く人はこうあるべきだ」

「『かっこいい事』を言わないといけない」

「『エリートっぽいこと』言わないといけない」

という私の中の得体の知れない思い込みよりも、

 

現地ではこんなことが起きている、

もっとこうした方がいいんじゃないか、

という当たり前ながら一番大切なところに発言の意図そのものが移っていったのです。

 

自分のエネルギーの向きが内ではなく外に向かっていったのです。

 

南スーダンでは別の意味でのチャレンジがたくさんありましたが、

この事によって、どれだけ楽になったか計り知れません。

 

皮肉なことに、そうなってからは、

当時の幹部の人達にうちの部署で働かないかと誘われることもありました。

 

今は、この「完璧主義」というものの正体をもう少し余裕を持って見ることができます。

 

完璧主義とは向上心ではなく守りの姿勢なのですね。

 

完璧であれば、失敗や批判を避けることができて、傷つく可能性も避けることができると思っているから。

 

鎧やら盾やらで、自分の姿を見られないように防いでいるような感じです。

 

 

完璧主義にはまっている時は、「人からどう思われるか」に目が向いています。

 

自分の価値は、どれだけ達成したかで決まる、という思い込みがあるのです。

 

失敗したらどうしよう。。。

間違えたらどうしよう。。。

人の期待に応えらえなかったらどうしよう。。。

 

そんな不安ばかりだと誰だって足がすくんでしまいます。

 

ちょっとした失敗をしても、

「ああ、私のせいだ。自分に足りないところがあるからだ。」と、

自分が成し遂げたことよりも、出来なかったことに目を向けてしまう悪循環を繰り返してしまうのです。

 

これは本当に苦しいですよね。

 

そもそも完璧というものは存在しないし、

絶対に手の届かない目標。

 

ベストセラー作家で、この「足りない病」(欠乏意識)についての本を書いたリン・ツイストさんは、消費カルチャーの時代を生きる私たちは常に「足りない」「足りない」「足りない」というメッセージにさらされている、だから、意識して「足りている」状態に目を向けていくトレーニングをする必要があると言います。

 

もっと言うと、日本が世界の中で第3位の経済大国でありながら、不安と閉塞感に覆われているのは、この「足りない病」とも関係があるんじゃないかな、と個人的には感じます。

 

完璧主義にもおそらくいろいろなレベルがあって、誰でもある程度こういった傾向を持っているのだろうけれども、

 

完璧主義から解放されるには、「人からどう見られるか」から「私はこれでいい」と少しづつでも思えるようになることです。

 

自分の価値を認めることができるのは自分なのです。

 

 

自分の価値を認めることができるのは自分

 

 

自分の強みも弱みもただ受け入れること、

出来なかったことではなくて、出来たことに目をむけること、

「ない」ものではなく、「ある」ものに目をむけること。

 

「ありのままでいる」ことはそんなところから始まるように思います。

 

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もしあなたの子供がギフテッドまたは内向型だったら?

もしあなたの子供がギフテッドの内向型だったら?

 

ギフテッドの子たちは圧倒的に内向型が多いと言われています。とても感受性が高く繊細なタイプの子もいます。

 

 

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Group of children running together

 

(1) 情報や刺激を処理する時間を与える

多くのギフテッドや内向型は概して知的レベルが高く、繊細で敏感な「センサー」を持っています。ギフテッドの子供たちは私たちが理解するよりも、はるかに多くの情報を受け取り、感じ考えています。その情報量は自分や親が自覚するよりも数十・百倍にもなることもあるでしょう。

 

そのセンサーのお陰で、彼ら・彼女たちは1の情報から10(100)の情報を得たり、創造性をふくらませたり、抽象的な概念を掴んだりするわけですが、同時に、彼らのセンサーはとても敏感なため、それらの情報を感情レベル、意識・無意識レベルで処理しないといけません。

 

このプロセスが途中の時には、説明を求められても言葉にならないことも多く、また多くの説明を求められることが負担になることもあります。はたから見るとこの過程は、「ゆっくり考えている」ように見える訳ですが、「考えている」というよりは、大量の「情報を処理している」という方が適切かも知れません。こうしたことが理解されないと、「怠けている」ように見えるかも知れません。

 

でも、こうした時間がないと、彼らの思考や感情は処理されず満杯のままで、脳がからっぽになったような感じがしてしまいます、そして、創造性として刺激され、表現される機会を失ってしまいます。

 

その処理の最中の時には、すぐには答えがでないかも知れません。その時には、「きっと頭が整理されれば自然に答えがでてくると思うわよ」と、彼らを「混乱」と「恥かしさ」から救ってあげてください。

 

(2) 休息をとってもいい

「休息」をとってもいいよ伝えてあげてください。

 

もしかしたら、子供が突然機嫌が悪くなったり、「ばく発」したり、癇癪をおこす場合、自分が疲れている・エネルギーが枯渇してきたことが分からずにそのように反応をするのかも知れません。

 

学校では、元気な子、活発な子がいいと思われがちですが、繊細で感受性が強い子の中には頭を整理するために一人の時間を必要としたり、エネルギー的に疲れやすい子もいます。だから、少しゆっくりしたり、一人で遊ぶことは「おかしいこと」でも「恥ずかしいこと」でもないと伝えてあげてください。5分も休んだら、また元気に走り回るかも知れないですから。

 

(3) 一人で遊ぶ・「観察する」ことは内気とは違う

内向型の子はまずグループの子たちの行動やグループ全体の反応をみてから、自分も参加する「観察する」タイプの子がいます。

学校の制度は基本的に外向型の基準を元に作られています(先生も外向型が多いそうです)が、すぐに参加しないこと・加わらないこと、一人で遊びたがることは必ずしも「内気」や「シャイ」とイコールではありません。

 

内向型の子に無理やり大勢の前で話しをさせたり、大勢の中に加わるように強制しないでください。どんな遊びや習い事、スポーツをしたいのか、出来るだけ本人に選ばせましょう。(なんでそれをしたいのかなど親が聞き出し、大変な面なども含めてどう取り組めるのか一緒に考える)

 

気の合う友達が数多くはいないかも知れませんが、一人でも二人でもいいので気の合う友達を見つけましょう。年上のお姉さんでもお兄さんでも大人でもいいのです。そういった人たちの存在は彼らの大きな安心感を与えてくれます。