私たちはいつの間にか洗脳されています。
どんな洗脳かと言うと、
めいわくをかけちゃいけない
わがままな人になってはいけない
ちゃんとやらなきゃいけない
仕事とは「がまん」してやるもの
がまんして一生懸命がんばれば幸せになれる
という洗脳です。
ここには、より根本には何かをしたから認められる、という前提があります。
そこには何かをしたことで褒められるという構図が植えつけられています。
勉強ができたからえらい、
ご飯を全部ちゃんと食べてえらいね、
泳げるようになってえらいね、
という具体です。
そして、それは私たちが大人になってからも、深い部分での「動機」となって私たちを動かし続けています。
大人になっても私たちは「何かをしたから愛される」と思っています。
こんなに偉く(肩書きに)なったから
こんなに収入があるから。。。
いいお母さんだから(こんなに料理をしているから)
同時に、同じくらい愛されなくなることも恐れています。
その愛は何かを達成したことやなんらかの行為に根ざしているからです。
でも、そうやって私たちは心をすり減らしてしまいます。
なにより、自分がやりたいことが分からなくなってしまいます。
ほめられることと優先するばかりに、自分の焦点を他人の価値観に合わせてきたからです。
しかも、実際はそんな人ほど心の中で怒っていたりします。
または、体中でがまんをためて、病気になったり、うつになったりすることもあります。
意欲も気力も感じられない、という人もいます。
しかも、さらに悪いことに、我慢し続けるとわがままで傲慢になったりします。
どういうことかと言うと、
自分はこんなに我慢しているのに
自分はこんなに尽くしているのに
という思いがつのってきて、
相手から褒め言葉やお返しが思うように返ってこないことに常に心の中でイライラや不満をためるからです。
これは非常にストレスです。
なぜなら、自分の満足は相手の反応次第だからです。
もちろん人の言動はコントロールできません。
コントロールしようとすればする程ストレスは上がるでしょう。
わがままはいけない」と蓋をすることで皮肉なことに心の中では「超わがままちゃん」になっているのです。
ではどうしたらいいでしょうか?
「わがままでもいい」といったんわがままをゆるすことです。
人間には誰でもある程度わがままな部分があります。
それは本当にそうです。
それを前提にすると「ああ、自分にはこんなわがままなところがあるな」とただ受け入れることができます。
そう言うと、
「わがままであることを認めたらもっとわがままになるんじゃないですか?」
という反応が返ってきたことがあります。
確かに、一時的にはそういうこともあるかもしれないけど、それを受け止めるとより楽チンな人になります。
楽チンな人という意味は、自分の弱みもわがままなところもただ受け入れている人、という意味です。
自分を受け入れている人は、周りの人にとっても、無理やりこちらに合わせてお返しを水面下で期待している人よりも、一緒にいて楽チンで、なにより魅力的です。
そして、もう一つ大事なことがあります。
めいわくをかけてはいけない=なんでも人に合わせればいい、という訳ではないことです。
もしかしたら、めいわくをかけてはいけないという理由で、自分の意見を持たない、自分の意見を伝えない、自分で自分の選択に責任をとらない言い訳になっていませんか?
人に合わせることの一番の弊害は、自分の行動や選択の責任をとらず、誰かのせいにしていることです。
上司のせい、政府のせい、会社がわるい。。。
つねに誰かしら「悪い人」がいます。
いくらでも何かや誰かのせいにすることはできますが、自分の幸せも誰かや何かに依存しています。それは本当の幸せや充足感とは違います。
そんな終わりのないストレスにさらされるよりも、小さなことを一つづつでもいいから自分で決めていく方が、自分で決めている、自分の足で人生を生きている、という感覚を得られます。
わたしたちはもっと自分に正直に「わがまま」に生きていいのです!