優等生は報われないー「我慢すると怒りがわく」「わがままをすると成功する」

私たちはいつの間にか洗脳されています。

 

どんな洗脳かと言うと、

めいわくをかけちゃいけない

わがままな人になってはいけない

ちゃんとやらなきゃいけない

仕事とは「がまん」してやるもの

がまんして一生懸命がんばれば幸せになれる

という洗脳です。

 

 

ここには、より根本には何かをしたから認められる、という前提があります。

そこには何かをしたことで褒められるという構図が植えつけられています。

 

勉強ができたからえらい、

ご飯を全部ちゃんと食べてえらいね、

泳げるようになってえらいね、

という具体です。

 

そして、それは私たちが大人になってからも、深い部分での「動機」となって私たちを動かし続けています。

 

大人になっても私たちは「何かをしたから愛される」と思っています。

 

こんなに偉く(肩書きに)なったから

こんなに収入があるから。。。

いいお母さんだから(こんなに料理をしているから)

 

 

同時に、同じくらい愛されなくなることも恐れています。

その愛は何かを達成したことやなんらかの行為に根ざしているからです。

 

でも、そうやって私たちは心をすり減らしてしまいます。

 

なにより、自分がやりたいことが分からなくなってしまいます。

ほめられることと優先するばかりに、自分の焦点を他人の価値観に合わせてきたからです。

 

しかも、実際はそんな人ほど心の中で怒っていたりします。

 

または、体中でがまんをためて、病気になったり、うつになったりすることもあります。

意欲も気力も感じられない、という人もいます。

 

 

しかも、さらに悪いことに、我慢し続けるとわがままで傲慢になったりします。

 

どういうことかと言うと、

自分はこんなに我慢しているのに

自分はこんなに尽くしているのに

 

という思いがつのってきて、

相手から褒め言葉やお返しが思うように返ってこないことに常に心の中でイライラや不満をためるからです。

 

これは非常にストレスです。

 

なぜなら、自分の満足は相手の反応次第だからです。

 

もちろん人の言動はコントロールできません。

 

コントロールしようとすればする程ストレスは上がるでしょう。

 

わがままはいけない」と蓋をすることで皮肉なことに心の中では「超わがままちゃん」になっているのです。

 

 

 

ではどうしたらいいでしょうか?

 

「わがままでもいい」といったんわがままをゆるすことです。

 

人間には誰でもある程度わがままな部分があります。

それは本当にそうです。

それを前提にすると「ああ、自分にはこんなわがままなところがあるな」とただ受け入れることができます。

 

そう言うと、

「わがままであることを認めたらもっとわがままになるんじゃないですか?」

という反応が返ってきたことがあります。

 

確かに、一時的にはそういうこともあるかもしれないけど、それを受け止めるとより楽チンな人になります。

 

楽チンな人という意味は、自分の弱みもわがままなところもただ受け入れている人、という意味です。

 

自分を受け入れている人は、周りの人にとっても、無理やりこちらに合わせてお返しを水面下で期待している人よりも、一緒にいて楽チンで、なにより魅力的です。

 

 

 

そして、もう一つ大事なことがあります。

めいわくをかけてはいけない=なんでも人に合わせればいい、という訳ではないことです。

 

もしかしたら、めいわくをかけてはいけないという理由で、自分の意見を持たない、自分の意見を伝えない、自分で自分の選択に責任をとらない言い訳になっていませんか?

 

 

人に合わせることの一番の弊害は、自分の行動や選択の責任をとらず、誰かのせいにしていることです。

 

上司のせい、政府のせい、会社がわるい。。。

 

つねに誰かしら「悪い人」がいます。

 

いくらでも何かや誰かのせいにすることはできますが、自分の幸せも誰かや何かに依存しています。それは本当の幸せや充足感とは違います。

 

そんな終わりのないストレスにさらされるよりも、小さなことを一つづつでもいいから自分で決めていく方が、自分で決めている、自分の足で人生を生きている、という感覚を得られます。

 

わたしたちはもっと自分に正直に「わがまま」に生きていいのです!

 

受験、就活、芸能人ランキングーなぜ日本人はランキングが好きなのか?

受験、偏差値、就活、企業ランキング、芸能人ランキング、売れ筋ランキング。。。

 

おそらく、日本という社会は世界の中でも最も「ランキング」が好きな社会の一つだと思います。

 

ランキングがあることとは、一つの指標に従って、上か下かを格付けされるということです。

 

上か下があるということは「勝者」と「敗者」がつくられます。

 

競争という土俵にいる限り、勝つ時もあれば負ける時もあります。

 

 

若いときに、相対的な競争で格付けされた経験から、それイコール自分の能力や才能だと思い込んでしまって、自由に考えたり、挑戦するのをやめてしまったんじゃないか、と感じる例を垣間見ることはたくさんあります。

 

 

「勝った」場合もそうですし、「負けた」場合にも当てはまります。

 

私がいかにある一つの価値観の中にいたのかを肌で感じたのは初めてニュージーランドに留学した時のことでした。

 

ある晩、ホストファミリーとの会話の中で、日本の教育制度に話しが及んだ時に、私が「塾に通っていた時には、夜中に塾から帰ったこともあった。」というと、こんな答えが返ってきたのです。

 

「なぜそれが必要なの?」と。

 

とても短い単純な質問ではありましたが、私はその質問自体が「ショック」でした。

 

日本では質問されることもない私が当時「当たり前」だと思っていたことが「当たり前」ではないと初めて思ったからです。

 

この体験が一つのきっかけとなって、わたしは帰国後日本の大学の受験勉強をいっさいやめて、当時日本で唯一全て英語で授業を行っている大学へ入ろうと思いました。

 

この大学はいわゆる偏差値に当てはまらない大学だったのですが、それでとても自由になったような気がしました。

 

国連時代には世間的には「エリート」と分類される人達にたくさん会ってきました。

 

「この人はほんとうにすごいな」という人もいれば、理論は詳しいのに紛争地での課題に対処できない人もいました。

 

先の米国大統領選挙でもなぜトランプに投票?といろんな分析がありましたが、私たちの社会が一つの指標を前提としている限り、つねに勝者も敗者もで続けます。

 

私たちは、ランキングがあることによって、自分の頭で考えて判断しなくても済むし、ある種の「秩序」というか、一見もっともらしい理由が存在するかのように信じて安心したいのかも知れません。

 

ただ、その「指標」が妥当かどうか、あっているかどうかはまったく別の話しです。

 

これまでの学校制度も企業も、高度成長時代を前提としてきました。

 

最近ホリエモンが、「すべての教育は『洗脳』である」という本を出していますが、そこでの前提とは、工場や企業活動をいかに効率よく運営していくかであり学校の教育も独自性やクリエイティビティーを伸ばすものではなく、「従順で効率のよい労働者」を育てるかでした。

 

ただ、このモデルの限界がますますはっきりしてきています。

 

 

では、競争がなかったら私たちは何を目指せばいいのでしょうか?

 

一人一人がその人の潜在能力を最大限に活かすことです。

 

才能、興味、能力ー才能しかり、好奇心しかり、発想力しかり、その人にしかできないことがあるのです。

 

競うべきは昨日の自分です。

 

昨日の自分よりも一ミリでもいいから自分は「成長」したと思えればいいのです。

 

 

QUIET REVOLUTION 人口の三分の一は内向型ー社会を変える「静かな革命❗️」②

内向型の強みとして、共感能力の高さ、感受性の高さが挙げられます。

  

ここで言う「繊細な」という意味は、その人の「構造」というか「つくり」というか、特性が繊細であるという意味であって、「ナイーブ」であるとも「弱い」という意味とも違います。

 

別の言い方をすると、感じ取る能力が高い人、共感能力の高い人たちです。

 

「繊細」とだけ聞くと、「競争社会」の基準からすると「弱み」のように聞こえるかも知れませんが、これからの時代、「感受性が高い」ということはますます「大きな武器」となっていくことでしょう。

 

 

では、「感受性」が高いことの「強み」とは例えばどういうものでしょうか?

 

例えば、相手が伝える1の情報から、その何十倍もの情報を読み取る能力です。または、より大きな流れや全体像をつかむ能力です。

 

これは、「洞察力」(insight)と呼ばれます。

 

例えば、この人は、言葉ではこう言っているけど、その人の本心はいったい何なんだろう?または、「ミーティングで部長はこう言っているけど、どうも他の人たちはしらけてるなあ。みんなの本心はいったい何なんだろう?

 

今、会議で起きていることやこの組織全体で起きていることは何だろう?」といったより深層の部分に意識がむく能力です。

 

 

これは、人と関わる仕事、交渉や仲裁、ファシリテーション、リーダーシップといった分野で大きな力になります。

 

 

紛争地の現場でも、私にとってこの力が大きな助けとなりました。

 

例えば、南スーダンのような紛争地では、この先数ヶ月、政情がどうなるのか分からないというような環境に置かれます。

 

そのような環境の中で、国連のスタッフは、いろんな人に会って情報収集をし、あり得るシナリオなどを考え、分析を加えながら、それぞれの場合どう対処したらいいかを決定していきます。

 

私は、そういう地で仕事をする人として、いろいろな人に会って生の情報(感覚)を得て、この先の流れを掴んでおくことは、決定的に大事なことだと感じていたので、できるだけそういう時間は意識的にとるようにしていました。

 

そうした習慣もあったので、政情的に何かが起きたり、新しいニュースがあったとしても、「ああ、これはこれ以上『大事』にはならないな」、「今回は注意」など、ある程度予測がついたりしました。

 

私の「鋭敏なアンテナ」が、相手が伝える1の情報からその何十倍もの情報を読み取ってくれるのか、私の分析が流れを読んでいた、全体像を掴んでいた、ということは実際にありました。

 

同じ街にいながら、同じ国にいながら、同じ人に会いながら、同じ情報を耳にしながら、その人が導き出す結論や分析はまったく人それそれでした。

 

断片的な情報から、全体像を「掴んでいく」能力はまさに大きな力です。

 

こうして、私の感受性の高さ・繊細さは「分析力」「判断力」「紛争解決力」(仲裁力・対人関係能力)として、紛争解決の最前線で大きな武器となってくれました。

 

言葉で伝わるのは10%にも満たないと言われていますが、 

 

例えば、

初めて会う人との関係構築の中で、

 

全く新しい環境 (組織や街や国など) に慣れるために、

 

お互いに母国語ではない言語で話している時など、「感受性」が役に立つ場面はけっこう多いのではと思います。

 

この力は、そしてコーチ・カウンセラー・講師として発揮されています。

 

ある方の相談内容について聴いている時に、その方が言わんとしていることの全体像や課題の根っこの部分が「パッと」把握できる能力です。

 

もちろん、いくつか質問をして、課題を探ったり、それを確認してきますが、洞察力が大きな土台をつくってくれています。

 

実際、最近は、この「感じ取る能力」・「共感能力」のビジネス上の価値が科学的にも証明されつつあります。

 

5年連続で全世界での視聴回数ベスト5内にランクインし続け、2016年12月現在で全世界での総視聴数が27,677,409回(!)を超えているTEDがあります。

 

ヒューストン大学の心理学者ブレネーブラウン による「Power of Vulnerability」です。共感の力こそが、クリエティビティーやイノベーションへの入り口だと言っています。

 

世界中の企業や組織がクリエティビティーやイノベーションを求めています。

ただ、 それが大事だろうとは思っていながら、それがどうしたら起こるのか分からない。

 

そして、人間はいくら理性的に判断し、行動していると思っていても(そう信じたくても)、実際には感情で動く生き物だということも私たちは知っています。 

 

誰でも傷つくのは怖い。批判されるのも失敗するのも嫌。

 

 

見えないところで直感やイノベーション、クリエイティビティーを潰しているのはこうした「不安」や「恥」の意識だと言われています。

 

そして、その「解毒剤」こそが「共感」であると、このTEDの著者ブレネーブラウンは言っています。

 

そして、「共感」が起こる時の大きな要素として、「相手の感情がわかること」(feeling with the other)が挙げられています。

 

このTEDの後、彼女のところには、アメリカ中のCEOや企業からイノベーションを起こす秘訣を教えて欲しいと、講演の依頼が殺到したそうです。

 

 

「共感の力」とビジネスの接点が科学的に証明されつつあること、このテーマが全TEDの中でもベスト4にランクインし続けている事実そのものが興味深い現象だと思います。

 

感受性や共感能力はビジネス上でも大きな価値なのです。

同じ本を複数名で読むとどうなるか?ー 「自分にしかできない分野」「自分だからこそできること」を見つける方法

同じ本を数人で読むという読書法があります。

 

とても面白い読書法の一つで、それぞれが自分の興味のある分野で背景を調べたり、下読みをして参加したり、またはその場で一緒に読み進めて、最後に感想を伝え合う形式のものもあります。

 

 

なぜ同じ本を複数名で読むのか?

 

同じ本を複数名で読むとどうなるのか?

 

 

「自分を知る」というテーマとしても大きなヒントがあるので、トマ・ピケティーの『21世紀の資本』を数人で読んだ時の体験をお伝えしたいと思います。

 

トマ・ピケティーは、フランスの経済学者です。代表作『21世紀の資本』は、「格差の拡大の原型がはっきりと示された」として、発行された2015年には日本でも大きな話題になりました。

 

『21世紀の資本』は、2014年4月には英語訳版が発売されるやアマゾンの売上総合1位になるなど大ヒットし、アメリカでは2014年春の発売以降、半年で50万部のベストセラーとなり、2015年1月現在で、世界10数カ国で累計100万部を突破したそうです。

 

定価は5500円で、608ページに及ぶ専門用語をちりばめた大著なので、気になるけど買わなかった、でも内容が知りたい、という人は多かったと思います。

 

トマ・ピケティーの『21世紀の資本』をみんなで読もう、という話しになったのも、難しそうなので、みんなの知恵を持ち寄った方がよさそうだ、と思ったからでした。

 

実際、複数人の人と一緒に同じ本を読むと、とても面白いことに気がつきます。

 

同じ本を読んでいるのですが、それぞれが関心をもった視点、気づいたこと、それを読んでどう思ったのかなど、持ち寄る視点がぜんぜん違うのです。

 

例えば、

ーなぜ彼はこのテーマを書いたのかというトマ・ピケティーのバックグラウンドに興味を持った人

ー彼の家族構成に興味を持った人

ー彼のアメリカでのレビューに興味を持った人

ー彼の著書の後に世界銀行が発表した世界の格差についてに興味をもった人

ー日本のメディアのあり方や考える力について思いが及んだ人

などでした。

 

本当にそれぞれが気づく視点や読んだ後の感想は見事に違いました。

 

しごく当然のことのように聞こえるかも知れませんが、このような体験をすると本当に人の受け取り方は人それぞれに違うのだということが腑に落ちます。

 

これも改めて考えてみるととても面白いことだと思いますが、人は同じ場所にいたり、一見同じ情報を受け取りながら、それぞれの「フィルター」や興味・関心分野に従って情報を処理していくのです。

 

私が南スーダンで働いていた時に実感したことですが、同じ国にいながら、情勢分析の結論がかなり違ったこともありました。

 

では何がその違いを生むのでしょうか?

 

例えば、その人の知識、教育、職業、経験値、考える力、価値観・興味や関心などです。

 

この場合の価値観とはどんなことを大切だと思っているか、といったものです。

 

複数で同じ本を読んでみると面白いのは、なぜその人は、「この点に興味をもったんだろう?」という点その人独自のポイントが見えてくることです。

 

 

ー彼の背景に注目した人は彼の主張や理論だけでなく、人間としてのライフストーリーに興味がある人なのかも知れません。人や社会をより深く理解する能力や洞察力に長けているかも知れません。

 

ーアメリカと日本でのレビューの違いに興味をもった人は、データやより複数の視点を取り入れる客観性を重視する人なのかも知れません。

 

ー格差の是正に注目した人は平等や公平さに興味があるかも知れません。

 

本人にあまり自覚はないかも知れませんが、「なぜか私はこういうことに興味をもつ」という視点やアングルが必ずあるのです。

 

これこそが、「自分にしかできない分野」「自分だからこそできること」「私たち一人一人ができる分野がある」というその人の「存在意義」といったものに近いかも知れません。

 

それは職業でもなく、それを本人が意識していてもいなくても、自然にやっているようなこと(その人がいるだけで周りが落ち着くと感じる人、周りの人を癒す人、聞き上手で人の意見を引き出す人、など)です。

 

「世界は地球上の一人一人を必要としている」という意味が単なる言葉ではなく、その意味がより腑に落ちる体験でした。

 

これは自分一人では分からないことです。

 

他者の存在を通じて、自分の立ち位置がわかるのです。

 

読書会といった形式でなくとも、会社での会議といったフォーマルな場からいったん離れて、利害関係のない、まったくプライベートな場で、自分の意見を自由に表現したり、シェアできる場を体験できることはとてもいい体験だと思います。

 

そんな体験の積み重ねが自分を知ること、そして自信につながることでしょう。

 

ぜひ試してみて下さい。

「なんかよさそう」「やってみたい」「会ってみたい」ーその純粋な感覚に勝る『何かをする理由』はない

 

 

「自分にはまだ無理だ」「まだ準備が足りない」と感じる方は多いようです。

 

 

コーチングや講座なりが、すぐに分かりやすい「成果」や「結果」を生むかどうかは人それぞれなので正直わかりません。

 

ただ、なんらかの「結果」を生まなければいけない、という発想自体が、社会的に植え付けられた「成果志向」で、ある意味で私たちはそれに縛られ過ぎているかなと思う面もあります。

 

 

結果や成果は大事だと思いますが、それが前提だとただ体験したり、新しいことを試したり、新しい人と会ったり、といったことのハードルがすごく高くなってしまいます。

 

個人的には、「なんかよさそう」「やってみたい」「会ってみたい」「試してみたい」という感覚がもっと尊重されてもいいのかなと感じます。

 

 

「なんかよさそう」「やってみたい」「会ってみたい」「試してみたい」という理由だけで、何かをやるには十分な理由だと思います。

 

 

もっとはっきり言うと、自分の内側から湧いてくる純粋な感覚に勝る『何かをする理由』はないと思っています。

 

 

なんらかの結果や成果を出した人に私たちが触れる時、その人の成果や結果が目につきますが、

 

その影にはその何十何百倍もの「トライ・アンド・エラー」があるものです。

 

いろんな人と会って、刺激的な時もあれば、あんまり面白くなかったなと感じることもあれば、「やっぱり」と思うこともあれば、「え、意外!」という驚くこともあるでしょう。

 

それこそが「体験」です。

 

文章にしても際に人の目に触れられる文章は、実際書いたものの1割もないかも知れません。

 

私自身、最初に文章を書き始めた頃は、とても人様に見せられるような内容でも文章でもありませんでした。

 

(なにせ、私はほぼ10年間英語で仕事をしてきたのでそもそも日本語を書く環境にいなかったのです。)

 

最初は自分のために書いていたものが、だんだんと慣れていく内に人に伝えたい、とより意識をするようになっていきました。

 

今はもっと自分の体験を還元するという目的が強いですが、最初はもっと純粋に自分の興味・関心や整理のためだったので、私は自由に楽に始められました。

 

最初から何かに連載をするためだったら、私の中の書くハードルは高くなって楽しめなくなっていたかも知れません。

 

 

どんな分野でも、「成果」や「結果」の影にはその何十倍もの「準備」や「無駄」があるものです。

 

一番はじめの書いたものの10の内の7割〜8割が削られる時もあります。そうして研ぎ澄まされた文章となっていくのでしょう。

 

でも、削られた部分は「無駄」ではないのです。

 

目に見えないけれども、そうした部分が見える部分に「深み」をもたらしてくれるのです。

 

読む人も文字となっている何倍以上ものことを感じとってくれます。

 

 

 

子供の時には、私たちは「最短で」「一つの正解」にたどり着く方法を訓練されます。

 

大人の生活では、私たちは「一直線」でゴールにたどり着くわけではありません。

それがいい訳でもありません。

ましてや、たった一つの正解はありません。

 

 

「急がば回れ」じゃないですが、いろいろなことを「体験すること」こそが長いスパンでは結果を生むということもあるようにも感じています。

 

 

「体験する」にもいろいろな種類があるとは思いますが、自分の視野や世界が広がるもの、自分が自分を知る・発見すること、人との関係性を深めるものは、投資をする価値があるでしょう。

 

 

コーチング・カウンセリングの大きな意義の一つは、まさに、「自分が自分を知る・発見」し、「自分との関係性を深める」ための「自分のための時間を持つ」ということだと思います。

 

 

もしよかったら、ただ自分のために「心地よい時間を持つ」という贈り物をされてみてください。

 

素敵な春の日をお過ごしください。

 

QUIET REVOLUTION 人口の半分から三分の一は内向型ー社会を変える「静かな革命」!

人口の半分から三分の一は内向型 (introvert)なタイプだそうです。最近、内向的な人の資質が注目されています。

 

有名人としては、ビルゲイツ、オバマ前米国大統領、ウォーレン・バフェット、J・K・ローリング(「ハリー・ポッター」の著者)、ジュリアロバーツ、マハトマ・ガンジー、アインシュタイン、オードリー・ヘップバーン、エイブラハム・リンカーン、などです。

 

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私自身、国際機関で働いていた時、組織の理念には共感するものの、声が強い方がいいみたいな風潮には違和感を感じていました。

 

 

国際会議では193カ国もの加盟国が次から次へと自国の主張を続けるのを何時間も聞き続けながら、

 

果たしてもこの会議はどこかへ向かっているのだろうか?

新しい視点やなんらかの合意を生み出しているだろうか?と思ったこともありました。

 

また、内向型だからこそ発揮できる能力や社会的役割があるのではないか?と感じていました。

 

アメリカでミリオンセラーになった ’Quiet ‒ The Power of Inroverts in a World That Can’t Stop Talking’ 邦題「 内向型人間の時代、社会 を変える静かな人の力」の著者であるスーザンケインは、内向型の人の強みについてこう言っています。

 

内向的な人は、

 

洞察力がある、

創造性が高い

集中力が高い

芯が強い、

聞き上手である、

周りに流されない、

思慮深い、

感受性が豊か

繊細さがある

忍耐力が高い

持続力が高い

富や名声などの誘惑に惹かれることは比較的少ない、

自分の興味のある分野に関してものすごい集中力を発揮する、

芸術分野で成功するのは内向型の人が多い、

等です。 

 

 

ビル・ゲイツは、他人の意見に動じない内向型の強さを持った人の典型だそうです。

 

ウォーレン・バフェットが経済危機の最中でも成果を上げ続けられたのは、市場が荒れ周りの人間が気が動転している時でも慎重に考えられる知的な粘り強さがあったこと、そして、世間の多数意見や社会のプレッシャーから距離をおいて自分の判断基準を持つ内向型の強みを持っていたからだ、と言われています。

 

当然ながら、内向型には内向型の強みがあります。

 

ちなみに、内向型であるというのは、内気とかシャイであるという意味ではなく、内向的か外向的かの違いは、エネルギーの取り込み方のことを言います。

 

 

「外向型」は人と話したり外からの刺激でエネルギーを得るので、より多くの刺激を受けるために広く浅く経験することを好むのに対して、「内向型」は、エネルギーをアイデアや感情など自分の内から得るために、深く感じたり経験することを好む、と言われています。

 

 

そういう私も内向型で(研修の一環で受けたテストでもそういう結果が出て、本人の自覚もあります)、国連のような組織で働きながら、私のようなタイプはどのようなリーダーシップスタイルが合うんだろう?と思ったことがありました。

 

 

そして、自分の体験を振り返ってみると、洞察力がある、創造性が高いはかなりはっきりと強みとして発揮されてきたと思います。

 

改めて腑に落ちたのは、「聞き上手でメンバーの能力を引き出す」という内向型の強みです。

 

そして、内戦をしてきた国の軍人たちが、なぜ私に悩みを打ち明けてくるのか、という私の中の「謎」が解けたような気がしました。

 

彼らは自分の国で内戦をしてきた国の軍人です。

 

それなのに、私が講師を務めた研修で私のところにやってきて、こう言い出すのです。

 

 

「『人間』らしくあることを自分に求めていいんだって思ったんです。実は、軍隊をやめようと思っていて。。。」

 

(ええっ?!この研修そういう研修だったっけ?汗)

 

 

あるレセプションでは、ワイングラスを片手に米軍の高官の一人が「実はこんなことがあってね。。。」と、彼の中の深い体験を語りだしたこともありました。彼は米軍のアジア・大平洋司令部の最高司令官(General)の一人でした。

 

 

最初は、正直私自身が驚いたものでした。

 

そもそも私自身が、外向的に振舞わなければいけない、とも、自己主張をしなければいけないとも思っていないので、誰の中にもある内向型の部分、というか、深い部分を見せてもいいと安心したのかも知れません。

 

今、思えば「聞き上手さ」ということが自然に発揮されていたんだ思います。

 

 

ただ、私自身が自分ではないスタイルで自己主張をしたり、無理に外向型にふるまったとしたら、そのような体験はしなかったかもしれません。

 

 

カルフォルニア大学で行われた実験で、外向型と内向型がお互いを高く評価した、という実験結果があります。

 

内向型は外向型に対して、話題を次から次に提供してくれたので話しやすかった、と言い、外向型は内向型との会話に対して、リラックスできて自分が抱えている問題を話しやすいと感じた、のです。

 

実際以上に元気にふるまわないといけないというプレッシャーを感じなかったからだと指摘されています。

 

 

誰の中にも内向型の部分も外向型の部分もあります。

 

どちらがいいというよりは、大切なことは、

内向型というタイプの特性を理解すること、

そして、内向型としての強みを活かす方法を考えよう、という事だと思います。

 

 

なにより内向型の人は、無理に外向型のように振る舞う必要もなく、

 

ただ自分が自分であればいい!

 

これが一番大切なことだと思います 😊

周りの人の強みや得意分野を相手に見れるほど、自分の強みも受け入れられるようになる

どんな人にでも強みや得意な分野がある。

そこに目を向けて伸ばし、活かすことー

すべての人の強みや特性が上手く活かされたらどんなチーム・組織になるんだろう?

元司令官はそんな楽しみを私に教えてくれました。

 

そして、人の強みに目を向けることの更なる効果も感じています。

 

実は人の強みや得意分野に目を向けることによって助かるのはなにより自分じゃないか?と思うのです。

 

私たちは、うまくいっていないことや、人の間違いはいくらでも目につきます。

 

世界のニュースを開けば、毎日新しい「問題」と「危機」を耳にします。

 

いくら指摘してもきりがないほどです。

 

でも、人の強みや得意分野に目を向けることによって助かるのは実は自分だと思うのです。

 

私たちは自分で自分がやってきたことを評価することや、自分の強みを認めることにはあまり慣れていません。

 

自分に厳しいタイプの人はなおさらです。

 

日本人は世界の中でも、強みを苦手な分野を克服しようとする傾向が最も高いそうです。

 

無意識的には、私たちは周りに与えたものが自分に返ってくることを知っています。

 

そういう意味では、私たちは周りの人たちの人の強みや得意分野にも目を向けるほど、自分の強みを認めたり、自分が自分を認めることを「訓練」し許可しているのです。

 

世界65カ国以上で実践されているものに、Nonvioent Communication(NVC)=非暴力コミュニケーションというものがあります。

 

学校やコミュニティー、会社・組織でのコミュニケーションを活性化するツールとして知られています。

 

そこで教えられている原則はこう言っています。

 

「相手のどこが悪いのかに焦点を当てるのではなく、『助言する』立場にある自分に焦点を当てる」

 

私がカウンセラーとしてのトレーニングを受けた時にも、相手の「完全な姿」を見るというトレーニングを受けました。

 

私たちは誰もがなんらの課題やチャレンジを持っていますが、それはその人自身に問題があるというわけではありません。

 

仮に病気をしていたとしてもその人の回復した姿を見ることができます。

 

いまなんらかの課題を持っていてもそれを乗り越え、より強くなって姿を見ることができます。

 

自信がないと言っている人がいたとしても、私たちはその人の本来の才能や能力を見ることができます。

 

実は、震災などで被災した人のニュースを見る時、紛争の被害にあっている人のニュースを見る時にも当てはまります。

 

もし、彼らを、「かわいそうな人」と見るとしたら、私たちは彼らを「弱体化する」エネルギーを送ることになってしまいます。

 

替わりに、彼らが生活を再建し、被災した人たちがお互いを助け合い、逆行を乗り越えた勇気あるストーリーが新聞一面を飾っていることを想像することができます。

 

 

 

 

問題や大きな課題があってもその人自身は人間として欠けているわけではないのです。

 

同じ職場の人、チームの人の強みや得意分野を書き出してみましょう。

 

周りの人の強みや得意分野を相手に見れるほど、自分の強みも受け入れられるようになりますよ!

仕事や人間関係 ー 情けなくてもどんくさくてもそれでも前に進む

「ああ、自分って情けない」と感じる時。

あんな風に振舞ってしまった自分が情けなくなってしまう時。

あまりにもちっちゃい自分。。。

 

 

 

ああ、情けないし、泥臭いけどそれも私。

 

そんな自分だけど一歩づつ前に進んでいこう。

 

たった一ミリでもいいから。

 

 

自分が新しい体験をしていることをお祝いしよう。

「自分の選択が正しかったと判断できるのは自分だけ」国連生活10年で気づいた「好き」を仕事にする秘訣

新しいことに挑戦するとき、人前で意見を言うとき、自分の文章や作品を発表するとき、好きな相手に思いを伝えるとき──。地球上に住む誰もがこんなときに不安を感じ、傷つくのを恐れます。

「ありふれたことかもしれないけれど、不安を乗り越えて前に進む勇気を持ちたい」というテーマを掲げたTEDトークが、世界中で2800万回以上(2017年3月末時点)も視聴され、ベスト5のランキングに留まり続けています。

 

ヒューストン大学の教授ブレネー・ブラウンによる「傷つく心の力」です。

 

https://www.ted.com/talks/brene_brown_on_vulnerability?language=ja

このTEDトークが世界中でこれほどまでに支持されているという事実に、人間が抱く不安の感情は普遍的なものだと気づかされます。
就活シーズン本番を控えたいま、面接や将来の進路に不安を感じる方も多いのではないでしょうか?
国連のニューヨーク本部に勤務し、平和維持活動(PKO)にもかかわり、そのキャリアを生かして米軍の専門家も務めた私は、傍から見ると順調なキャリアを積んでいるように見えるかもしれません。
でも実は、大学生のときには就職試験に落ち続け、内定をもらう友人の姿を尻目に自分だけが取り残されるような言いようのない焦りを感じていました。
オックスフォードの大学院に進学が決まったのも、大学の卒業式の数日前でしたし、卒業後はドイツで働くことになっていましたが、大学の「卒業後の進路」の調査結果では、正式な就職とみなされない「その他」に含まれていました。
誰しも先のことは不安なものです。とくに、人と違った選択をしようとするとき、そしてその先に何の保証があるわけでもないとき、一歩踏み出すのには大きな勇気が必要になります。

 

自分の選択が正しかったどうかわかるのは、自分だけ

私が人生で最初に大きな賭けに出たのは、大学進学のときでした。帰国子女でもない私は、当時、日本で唯一すべての授業を英語でおこなっていた大学のプログラムに入学したいと思っていました。

 

その大学に入るためには、SAT(米国大学進学適正試験)に合格する必要があり、そのため日本の受験勉強をいっさいやめる決断をしました。
そのときはまだ、インターネットでの情報も限られていましたし、周囲に前例があったわけでもなく、親からも「本当に大丈夫なの?」と何度も聞かれました。

 

結果的に合格したからよかったものの、試験勉強をしていた1年間よくその選択を信じ続けられたなと自分でも改めて思います。国連PKOで南スーダンに赴任するときよりも、勇気がいる決断でした。

でも、いま振り返ってみると、この大学進学こそが私が国連というキャリアを選択するうえでの原体験になっているのだと思います。自分が正しいとかやりたいとか思っていることを追求し、その可能性を信じることの大切さを、身をもって実感することができたからです。
大学生活ではさらにその原体験が、確信に変わっていきました。
私が入学した学部は、もともと日本在住の外国人を対象に開設されたものだったので、入学の手順も授業内容も米国の大学をモデルにしていました。日本の大学だというのに、授業も教科書も校内の案内もすべて英語で、教授はほぼ全員外国人。

 

それゆえ、日本の教育で重要視される「偏差値」という概念がまったく登場しません。周囲の人は、社会の評価軸で判断できないこの学部をどう取り扱ったらいいかわからず、戸惑っているようでした。実際、人によってその学部の印象も評価もバラバラでした。

 

それをネガティブに捉える人もいましたが、私はとても「自由」だと感じていました。そして同時にこうも思ったのです。

 

「指標がないと、人の評価はこんなにバラバラ。しかもそれが正しいかどうかも分からない。それなら、自分のした選択が正しかったどうか決められるのは結局、自分しかいないんだ」と。

 

国連は女子が働きやすい職場

「自分の選択は自分で評価するべき」という気づきは、その後、国連という組織でキャリアを積んでいくうえでおおいに役立ちました。

国連は一部の人を除くと、基本的に有限契約で自己志願制の組織です。

 

そのため国連で働き続けたいと思ったら、1つの仕事(契約)が終わる前に、次の仕事を自分で探して志願しなければなりません。そのたびに履歴書と志望動機を作成して送り、面接を受ける必要があります。
紛争が起きている国なども含め、世界中の国々に人を派遣する組織が、自己志願制で運営されているのはある意味当然のことだと言えるかもしれません。加えて、自分でアクション起こさないと、自動更新も自動昇進もない国連は、究極の「自己責任制」の職場であるともいえます。
定期的に職探しに追われるなんて大変だと思うかもしれませんが、本人の行きたくない国に派遣されることはないという利点もあります。また、各ポストには職務内容と求められる資質が明記されているため、望まない仕事に配置されることもありません。
そもそも私が、国際機関で働きたいと思うようになった理由の1つは、日本企業の内部プロセスが非常に曖昧で、新人の女性社員にはとても不利に思えたからです。

 

国連なら自分で希望の仕事を選ぶことができるし、求められている能力や資質が明文化されているから、面接の対策もたてやすい。もちろん国連で働き続けることは簡単なことではありませんが、基準がオープンではっきりしている組織のほうがずっと働きやすいのではいかと感じたのです。

 

ちなみに、国連では、「チームワーク」「コミュニケーション能力」「リーダーシップ」など、仕事で求められる価値や資質がどんなものかもすべて明確に規定され、オープンになっています。

 

詳細は「United Nations competencies for the future」で見ることができますが、たとえばチームワークなら「他のメンバーから学ぶ姿勢を持ち、他の人たちの意見の価値を認めること、組織の目標のためにチームに貢献し、チームの成果にも課題にも両方に責任を持つこと」とされています。「リーダーシップ」の定義の1つは、「幅広い人のニーズを理解し彼らのサポートを得ること」です。
なぜ、このようにすべて明文化されているかといえば、175ヵ国以上もの人たちがともに働く場として共通の指針や評価の基準が必要だからです。そのため応募や面接のプロセスでも評価基準が非常に明快。面接では、「自分がなぜこのポストにふさわしいのか」を面接官に向かって熱弁することになります。

国連流「就活の極意」

大学時代から数えると、これまでに少なくとも100回以上は履歴書を更新し、志望理由を書き、さまざまな職種に応募をしてきました(オンラインでできるので、実際にはコピペしてきた部分もかなりありますが)が、そんななかで1つ気づいたことがあります。

 

それは、人から適切に評価を受けたいと思うならば、まずは自分が自分を評価しないといけない。つまり、自分を認めることができるのは自分しかいないし、それができれば他者からの評価もついてくるということでした。そういう雰囲気は、相手に伝わるからです。
これは後に、私が国連で採用の面接官を務めたときにも感じたことです。面接の際には、応募者を評価する基準も用意されてはいましたが、人の資質やスキルは厳密に数量化できるものではありません。

 

なので、面接官は応募者にさまざまな質問をしながら、それぞれの質問項目の評価と理由を記入していきます。するとなぜか、口だけの人はバレてしまうもの。その一方で自分を評価する視点や習慣を持っている人や自分を信じている人は、やはり面接官にもそれが伝わるものなのです。

 

「内なる声」に従っていればより「大きな力」のサポートもついてきます。

 

国連を退職してから米軍の専門家として、スリランカ軍やフィリピン軍に派遣されて講師を務めたときには、世界を舞台に自分の好きな「教えること」と「平和支援にかかわる」ことが仕事になったと感じました。

 

学生の頃は就職活動中に取り残されたような気分を味わった私が、国連特使の方に仕事のオファーをいただいたこともありました。こんなふうに自分の夢が叶ったのも、たくさんの人たちからのサポートがあったおかげだと感じています。

 

ストレスの多い紛争地でいつも笑わせてくれた同僚、こんな人になりたいと思わせてくれた尊敬できる上司、逆にこんな人にはなりたくないと気づかせてくれた反面教師──こういう出会いは、事前に計画できるものではありません。

 

「天は自ら助くる者を助く」という言葉があります。人が内なる声に従っているとき、まったく予想できないような出会いやサポートがもたらされるのも、多くの賢人たちが教えてくれている人生の真実です。

 

私にとって、人生で最も重大な「試験」は、「他人や社会の評価を信じますか? それとも自分を信じますか?」という問いに答えるものでした。

 

いまでも人生を変えるような決断から、日常の些細なことまで、その問いが課される場面は多々あります。

そんなとき、自分の意志を強く表明し続けていれば、より大きな力があなたの味方になってくれるはずです。

 

クーリエジャポン20174月12日掲載

 

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