やる気がない、冷めてる無関心なのはあなたのせいじゃない。「理解されなかった」「傷ついた」から

もし、自分の本来のエネルギーを100%だとすると、今は何パーセント位のエネルギーで「稼働」していると思いますか?

 

先日セッションにいらした方で、無関心というか、やる気も意欲もわかない、ただ、職場へ行き淡々と仕事をしています、という方がいらっしゃいました。

 

もしかしたら、そんな状態が当たり前のようになってしまって、あまり自覚がないかも知れません。

 

私たちは何かしら「傷ついた」体験があると、「過去」に自分のエネルギーを奪われている状態になります。すると、「過去」に75%のエネルギーが使われてしまって、「今」に使われているエネルギーは、たったの20%という場合もあります。

 

その25%で、なんとか日々の仕事や生活をやっているので、毎日ヘトヘト、新しいことに取り組むことも、自分のやりたいことをやるエネルギーも残っていない、そんな人もめずらしくないようです。

 

「傷ついた」といっても、何か「すごい大事件」であったり「いかにも」という出来事が起こったということでもありません。

 

自分の意見が理解されなかった

頑張ったけど思うようにいかなかった

他の人はうまくできるのに自分だけ上手くできなかった

自分の企画が通らなかった

正当に評価されなかった

周りの人は誰も本音を言わない

経営者のやり方が尊敬できない

自分が大変だった時に周りの人に理解されなかった

 

などです。

 

一つ一つだけをみたら、一見小さなことに聞こえるかもしれませんが、そうした体験を放っておくと、それが貯まって大きくなってどんどんエネルギーを消耗していきます。

 

タンクの容量が100だとしたら、毎回じわじわ5~20位が減っていくようなイメージです。

 

ある出来事のことを忘れたつもりでも、どこかで不満や不安があったり、または頭では納得したつもりでいても身体がまだそのことを覚えていたりすることもあります。

 

 

それは、

 

何を学ぶ機会だったのでしょうか?

人に助けを求める

自分の意見を口にする

人に理解してもらえるように伝える

相手のことも理解する

人に相談するけど自分で考えて判断する

自分の感覚を信じる

自分の判断に責任を持つ

自分に正直になる

など何か当てはまりそうですか?

 

このまま同じままでいいですか?というサインだったのかも知れません。

 

 

その一回一回の出来事から、なんらかの学びを得ることが出来ると、プラスのエネルギーに変換されて、成長に変えていくことができます。

 

もし、最近自分は冷めているなあ、と感じるなら、気になる出来事を「完了」することにフォーカスしましょう。

好きなことをやるのに自信はいらないーなぜ日本人は自信がないのか?

自信がないとはやっかいだ。

 

自信がないのがやっかいなのではなく、「自信がない」の本当の理由がわかっていないから。

 

「自信がない」とは不思議だ。

 

人が「自信がない」と言うと、科学的であたかももっともな理由のように聞こえるから。

 

「自信がない」現象はあまりにも漠然としていて、何をしたら自信がつくのか?本人もはっきりと分かってないから。

 

 

そういう私も3月末に突然霧がかかったように、前が見えなくなってしまって、さっぱり書けなくなってしまいました。

 

一文字も。。。。

ぜんぜん。

まったく

 

 

スランプ?という言葉が頭をよぎるものの、原因がよくわからない。。。

 

連載をしている先の編集者さんからは、「大仲さんの記事は安定的なアクセスがありますよ。どんどん書いてください」とも言っていただいたし、書くネタはたくさんあるはずなのに。

 

これはつらいです。

 

そんな状態が1ヶ月以上続いて、もうやだ!こんな状態抜け出したい!、と思った時に、ふとわかった気がしました。

 

「自分ってたいしたことないな」って認めるのが怖かったんだって。

 

なにか新しいことや新しい分野に挑戦しようとする時、私たちは無意識的にいろんな「シュミレーション」をします。

 

もしこうだったらどうしよう?

もしああだったらどうしよう?

 

という「もし~だったら」「もし~だったら」が何個もあります。

 

 

あるレベルにおいては、すでに次のステップややりたいことは先に見えているのに、それがモヤモヤとなって目の前に「きり」をかけてしまうのです。

 

でも、そんな時こそ大抵誰かと比べています。

 

というか、その分野の先駆者や成功者と比べています。

 

その人がどれだけ苦労や努力をしたのかも知らずに、

 

「私はあんな才能がない」と、

 

 

または

 

誰かと比較して、もし~だったらどうしよう?と足をすくめているのです。

 

 

日本人の選手の中にはせっかく銀メダルをとったのに、人によっては顔面蒼白に世界一の失敗者であるかのような顔をしている人がいます。

 

数年前なでしこジャパンがW杯で準優勝した時がそうでした。

 

ブラジル人はオリンピックに出るだけで、踊って大騒ぎしてお祝いします。それだけで町・村中あげてのヒーローでしょう。

 

逆に、オリンピックで計22個ものメダルを獲得する偉業を成し遂げたマイケルフェルプス選手(競泳)は、3回もオリンピックにでて何個もの金メダルをとりながら、ようやく最後(リオ五輪)で心から納得できてもう悔いはない、と言った選手もいます。

 

日本は競争や比較の意識が強い国です。

 

でも、それがオリンピックの決勝だろうが、フルマラソンだろうが、3キロランだろうが、中学生バレー大会だろうが、「負けて」悔しかったけど清々しい顔をしている人もいます。

 

もちろん、勝負はつきますが、本人の中では勝ちだったのでしょう。

 

負けたのは確かに悔しい。でも一生懸命やった。だから、悔いはない。

 

本人は納得して、晴れ晴れしています。

 

一番悔しいのは「スタートライン」に立つことさえもやめてしまった人です。

 

 

誰かの意見や他人の指標で自分の可能性や結果を判断させてはいけません。

 

自分さえ納得すればいいのです。

優等生は報われないー「我慢すると怒りがわく」「わがままをすると成功する」

私たちはいつの間にか洗脳されています。

 

どんな洗脳かと言うと、

めいわくをかけちゃいけない

わがままな人になってはいけない

ちゃんとやらなきゃいけない

仕事とは「がまん」してやるもの

がまんして一生懸命がんばれば幸せになれる

という洗脳です。

 

 

ここには、より根本には何かをしたから認められる、という前提があります。

そこには何かをしたことで褒められるという構図が植えつけられています。

 

勉強ができたからえらい、

ご飯を全部ちゃんと食べてえらいね、

泳げるようになってえらいね、

という具体です。

 

そして、それは私たちが大人になってからも、深い部分での「動機」となって私たちを動かし続けています。

 

大人になっても私たちは「何かをしたから愛される」と思っています。

 

こんなに偉く(肩書きに)なったから

こんなに収入があるから。。。

いいお母さんだから(こんなに料理をしているから)

 

 

同時に、同じくらい愛されなくなることも恐れています。

その愛は何かを達成したことやなんらかの行為に根ざしているからです。

 

でも、そうやって私たちは心をすり減らしてしまいます。

 

なにより、自分がやりたいことが分からなくなってしまいます。

ほめられることと優先するばかりに、自分の焦点を他人の価値観に合わせてきたからです。

 

しかも、実際はそんな人ほど心の中で怒っていたりします。

 

または、体中でがまんをためて、病気になったり、うつになったりすることもあります。

意欲も気力も感じられない、という人もいます。

 

 

しかも、さらに悪いことに、我慢し続けるとわがままで傲慢になったりします。

 

どういうことかと言うと、

自分はこんなに我慢しているのに

自分はこんなに尽くしているのに

 

という思いがつのってきて、

相手から褒め言葉やお返しが思うように返ってこないことに常に心の中でイライラや不満をためるからです。

 

これは非常にストレスです。

 

なぜなら、自分の満足は相手の反応次第だからです。

 

もちろん人の言動はコントロールできません。

 

コントロールしようとすればする程ストレスは上がるでしょう。

 

わがままはいけない」と蓋をすることで皮肉なことに心の中では「超わがままちゃん」になっているのです。

 

 

 

ではどうしたらいいでしょうか?

 

「わがままでもいい」といったんわがままをゆるすことです。

 

人間には誰でもある程度わがままな部分があります。

それは本当にそうです。

それを前提にすると「ああ、自分にはこんなわがままなところがあるな」とただ受け入れることができます。

 

そう言うと、

「わがままであることを認めたらもっとわがままになるんじゃないですか?」

という反応が返ってきたことがあります。

 

確かに、一時的にはそういうこともあるかもしれないけど、それを受け止めるとより楽チンな人になります。

 

楽チンな人という意味は、自分の弱みもわがままなところもただ受け入れている人、という意味です。

 

自分を受け入れている人は、周りの人にとっても、無理やりこちらに合わせてお返しを水面下で期待している人よりも、一緒にいて楽チンで、なにより魅力的です。

 

 

 

そして、もう一つ大事なことがあります。

めいわくをかけてはいけない=なんでも人に合わせればいい、という訳ではないことです。

 

もしかしたら、めいわくをかけてはいけないという理由で、自分の意見を持たない、自分の意見を伝えない、自分で自分の選択に責任をとらない言い訳になっていませんか?

 

 

人に合わせることの一番の弊害は、自分の行動や選択の責任をとらず、誰かのせいにしていることです。

 

上司のせい、政府のせい、会社がわるい。。。

 

つねに誰かしら「悪い人」がいます。

 

いくらでも何かや誰かのせいにすることはできますが、自分の幸せも誰かや何かに依存しています。それは本当の幸せや充足感とは違います。

 

そんな終わりのないストレスにさらされるよりも、小さなことを一つづつでもいいから自分で決めていく方が、自分で決めている、自分の足で人生を生きている、という感覚を得られます。

 

わたしたちはもっと自分に正直に「わがまま」に生きていいのです!

 

ずっと成長し続けられるかどうかは、プロだった自分がまた初心者から始められるかどうか

ああ、この感覚を体験するのが嫌で私たちは全力で何かに取り組んだり、自分がやりたいことを隠してしまうんだ。

 

最近、新しい分野で新しいレベルであるチャレンジをし始めてから腑に落ちたことがあります。

 

ある分野でいったん「プロ」と認めれるレベルになったら、正直その分野で勝負を続ける方が楽です。

 

新しいチャレンジや成長による充足感を感じるかどうかは別として、私が米軍の専門家として講師を務めていた分野だったら、それほど準備もなくまた仕事はできるでしょう。

 

ただ、私の場合は、この数年神さまから新しい分野であなたのこれまでの経験を統合しなさい、と促されているのを感じるので、きっと、私の国連や紛争地での体験が別の形で活かされていくのだと思います。

 

正直、新しい分野で自分が初心者というポジションになるのは「心地わるい」です。

 

その分野で先を走っている人たちとの実力の差があまりに大きくて、自分の力のなさを感じます。その差をまざまざと見せつけられます。思ったよりも出来ない自分を発見します。

 

ああ、この感覚を体験するのが嫌で私たちは全力で何かに取り組むことを避けてしまうんだ ー そう思いました。

 

そもそもその土俵に乗っていなかったら、単なる傍観者でいるならば、こんな「言い訳」もとっておけるでしょう。

 

「どうせ私参加してないし。。。」

 

「まだ本気じゃないし。。」

 

 

でもやらないままで後悔するのも嫌だ。

 

やっぱりやりたい。

 

 

私はそう思ったのでしょう。

 

この分野で先に成功している人たちを本気で研究し始めました。

 

何かに本気に取り組みたいならば、Biginner’s Mindや謙虚であること、素直さが大切だ、と言われます。

 

「わたしなんて。。。」「そんな力ありません。」という人がいます。

 

一見もっともで謙虚に聞こえるものの、その根底にあるのはプライドや守りの姿勢であって、その本質は傲慢さです。

 

 

その反対の成長する姿勢とは、今わたしがこの状況で学ぶことは何だろう?と考える姿勢です。

 

 

一ミリでもいいから前に進みたい。

 

 

ああ、思い出した!

 

 

本気になるのはやっぱり楽しい。

 

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受験、就活、芸能人ランキングーなぜ日本人はランキングが好きなのか?

受験、偏差値、就活、企業ランキング、芸能人ランキング、売れ筋ランキング。。。

 

おそらく、日本という社会は世界の中でも最も「ランキング」が好きな社会の一つだと思います。

 

ランキングがあることとは、一つの指標に従って、上か下かを格付けされるということです。

 

上か下があるということは「勝者」と「敗者」がつくられます。

 

競争という土俵にいる限り、勝つ時もあれば負ける時もあります。

 

 

若いときに、相対的な競争で格付けされた経験から、それイコール自分の能力や才能だと思い込んでしまって、自由に考えたり、挑戦するのをやめてしまったんじゃないか、と感じる例を垣間見ることはたくさんあります。

 

 

「勝った」場合もそうですし、「負けた」場合にも当てはまります。

 

私がいかにある一つの価値観の中にいたのかを肌で感じたのは初めてニュージーランドに留学した時のことでした。

 

ある晩、ホストファミリーとの会話の中で、日本の教育制度に話しが及んだ時に、私が「塾に通っていた時には、夜中に塾から帰ったこともあった。」というと、こんな答えが返ってきたのです。

 

「なぜそれが必要なの?」と。

 

とても短い単純な質問ではありましたが、私はその質問自体が「ショック」でした。

 

日本では質問されることもない私が当時「当たり前」だと思っていたことが「当たり前」ではないと初めて思ったからです。

 

この体験が一つのきっかけとなって、わたしは帰国後日本の大学の受験勉強をいっさいやめて、当時日本で唯一全て英語で授業を行っている大学へ入ろうと思いました。

 

この大学はいわゆる偏差値に当てはまらない大学だったのですが、それでとても自由になったような気がしました。

 

国連時代には世間的には「エリート」と分類される人達にたくさん会ってきました。

 

「この人はほんとうにすごいな」という人もいれば、理論は詳しいのに紛争地での課題に対処できない人もいました。

 

先の米国大統領選挙でもなぜトランプに投票?といろんな分析がありましたが、私たちの社会が一つの指標を前提としている限り、つねに勝者も敗者もで続けます。

 

私たちは、ランキングがあることによって、自分の頭で考えて判断しなくても済むし、ある種の「秩序」というか、一見もっともらしい理由が存在するかのように信じて安心したいのかも知れません。

 

ただ、その「指標」が妥当かどうか、あっているかどうかはまったく別の話しです。

 

これまでの学校制度も企業も、高度成長時代を前提としてきました。

 

最近ホリエモンが、「すべての教育は『洗脳』である」という本を出していますが、そこでの前提とは、工場や企業活動をいかに効率よく運営していくかであり学校の教育も独自性やクリエイティビティーを伸ばすものではなく、「従順で効率のよい労働者」を育てるかでした。

 

ただ、このモデルの限界がますますはっきりしてきています。

 

 

では、競争がなかったら私たちは何を目指せばいいのでしょうか?

 

一人一人がその人の潜在能力を最大限に活かすことです。

 

才能、興味、能力ー才能しかり、好奇心しかり、発想力しかり、その人にしかできないことがあるのです。

 

競うべきは昨日の自分です。

 

昨日の自分よりも一ミリでもいいから自分は「成長」したと思えればいいのです。

 

 

「自信がつくのを待ってもこない。自信がつくのを待ったらこのまま一生終わってしまう」ニューヨークで発見した自信の「正体」❗️

私たちは、いったい何をして、どこまでやったら「自信」というものがつくのでしょうか?

 

私自身、ニューヨークの国連本部の花形部署で働く機会を得ながら、長い間自信を感じられずにずい分悩んだので、「自信を持つ」ためにいろんなことをしたものでした。

 

いったい何をして、どこまでやったら「自信」というものがつくのだろう?と思っていました。

 

ニューヨークという場所がらスピーチのクラスに参加したこともありました。

 

ただ、いつも自分の能力や努力が「足りない」気がして、この「足りない」という強迫観念のような私のお悩みはかなり長い間続きました。

 

 

一番苦しかったのは、何かをやっても達成した気がする訳でもなくて、いくらやっても自分の中で「これでいい」と思えなかったこと、でした。

 

私にとって精神的なストレスが一番大きかったのはおそらくこの頃で、出張とストレスが重なって、機内で倒れたこともありました。

 

自信について、いろいろな角度からの答え方があるかとは思いますが、もし自信を「外からの評価」に求めるのならば、究極的にはキリがないとも思います。

 

仮に資格を得ても、ハーバート大学やオックスフォード大学を卒業しても、自動的に自信がつく訳でもないことは私自身が知っています。

 

私自身オックスフォード大学の大学院で勉強していた時に驚いたのは、オックスフォード大学の学生さえ、自信がないと感じているという事実でした。

 

すると、ますます分からなくなります。

 

自信とはいったいどうしたらつくのだろうか?と。

 

しかし、ある頃から、チャンスが巡ってきているのに、ノーと言っているような自分に嫌気がさして来たのです。そして、気がつき始めたのです。

 

「自信がつくのを待ってもこない。自信がつくまで待ったらこのまま一生終わってしまう」、と。

 

もちろん場数を踏むというのは真実だと思います。やはり、スピーチにしろプレゼンにしろ、経験を重ねることで確実に自信は上がりました。

 

ただ、ある時に自分で一歩踏み出す勇気が必要になる時というのはあると思うのです。

 

それからのキャリアを振り返ってみても、その時の感覚はあっていたと思います。自信がつくのを一生待っていても何もできないのです。

 

そして、もう一つ自信というものの「正体」に気がつきました。

 

それは「自信をなくさせている原因」に気づいたからでした。

 

それは、自分は「こうあるべきだ」という自分が自分にかけていたプレッシャーでした。

 

自分が自分に対してもっている自分の中の理想像でした。

 

例えば、私の場合、

 

「国連の本部で働く人」はこうあるべき、

なにか「かっこいい事」を言わないといけない、

という自分の中の理想像とのたたかいでした。

 

 

ただ、そもそも完璧というものは存在しないし、自分の中の理想像は絶対に手の届かない目標です。

 

完璧であれば、失敗や批判を避けることができて、傷つく可能性も避けることができると思っています。ただ、これによって、常に私たちは周りの人たちと比較することになり、自分はそうでないと思っている部分が常に不安としてのし掛かります。

 

自分の価値は、どれだけ達成したかで決まる、という思い込みがあるのです。

 

私たちは社会やメディア、学校、親からの「こうであるべき」というプレッシャーやイメージに晒されています。

 

そして、私たちの自信がどれだけこうしたプレッシャーやイメージ、信念にネガティブに影響されているかを知るとびっくりします。

 

例えば、このような「あるべき像」です。

 

いつもよい成績をとらなければいけない。

絶対に失敗をしてはいけない。

周囲の人に賞賛されなければいけない。

やるからには有名にならなければいけない。

誰よりも優れていなければいけない。

優秀でなければいけない。

スマートでなければいけない。

お金は苦労して得るものだ。

 

 

メディアの影響もあります。

 

もっと痩せなければいけない。

人気者にならなければいけない。

優秀でなければいけない。

かっこよくなければいけない。

おしゃれでなければいけない。

女性は若くなければいけない。

 

 

そして、私たちは常に周りの人たちと比較して、自分はそうでないと思っている部分が常に不安としてのし掛かります。

 

失敗したらどうしよう。。。

間違えたらどうしよう。。。

人の期待に応えらえなかったらどうしよう。。。

こんな自分。。。

どうせ無理。。。

 

そんな不安ばかりだと誰だって足がすくんでしまいます。

 

しかも、私たちは多くの場合メディアで取り上げられる人たちの成功や華やかな部分にしか触れていないのです。

 

ベストセラー作家で、この「足りない病」(欠乏意識)についての本を書いたリン・ツイストさんは、消費カルチャーの時代を生きる私たちは常に「足りない」「足りない」「足りない」というメッセージにさらされている、と言います。

 

もっと言うと、日本が世界の中で第3位の経済大国でありながら、不安と閉塞感に覆われているのは、この「足りない病」とも関係があるのではないか?、と個人的には感じます。

 

ただそうした仕組みに気づいた私たちは、こうした自分の中の信念を再整理することができます。

 

それは本当なのでしょうか?

今の自分に役立つ信念でしょうか?

もし、これとは反対のことをしたらどうなるのでしょうか?

 

まずこうした自分の中の信念に気がつくことが改善のための大きな一歩です。大抵、こうした信念は、あまりに自分の中で自動的に発生していて、そうした影響があることすら気が付かないからです。そして、今の自分に役立つ信念に書き直すことができます。

 

 

【ワーク】

自分の中の「こうあるべきだ」を書き出しましょう。

それは本当なのでしょうか?

今の自分に役立つ信念でしょうか?

他人から褒められるよりも自分にとって大切なことは何ですか?

もし、これとは反対のことをしたらどうなるのでしょうか?

 

今の自分に役立つ信念に書き直しましょう。

もし、仮に~だとしても自分は自分を受け入れ自分の味方であることを宣言します。

 

① 自分の中の「こうあるべきだ」を書き出します。

② ハートに手をあてます。

③ 心の中で宣言します。「もし自分の中で自分は優秀じゃないと思ってる部分があったとしても、私は自分を深く受け入れます。」

 

例)

優秀でなければいけない⇨「もし自分の中で自分は優秀じゃないと思ってる部分があったとしても、私は自分を深く受け入れます。」

 

かっこよくなければいけない。⇨「もし自分の中で自分はかっこよくないと思ってる部分があったとしても、私は自分を深く受け入れます。」

 

スマートでなければいけない。⇨「もし自分の中で自分はスマートじゃないと思ってる部分があったとしても、私は自分を深く受け入れます。」

同じ本を複数名で読むとどうなるか?ー 「自分にしかできない分野」「自分だからこそできること」を見つける方法

同じ本を数人で読むという読書法があります。

 

とても面白い読書法の一つで、それぞれが自分の興味のある分野で背景を調べたり、下読みをして参加したり、またはその場で一緒に読み進めて、最後に感想を伝え合う形式のものもあります。

 

 

なぜ同じ本を複数名で読むのか?

 

同じ本を複数名で読むとどうなるのか?

 

 

「自分を知る」というテーマとしても大きなヒントがあるので、トマ・ピケティーの『21世紀の資本』を数人で読んだ時の体験をお伝えしたいと思います。

 

トマ・ピケティーは、フランスの経済学者です。代表作『21世紀の資本』は、「格差の拡大の原型がはっきりと示された」として、発行された2015年には日本でも大きな話題になりました。

 

『21世紀の資本』は、2014年4月には英語訳版が発売されるやアマゾンの売上総合1位になるなど大ヒットし、アメリカでは2014年春の発売以降、半年で50万部のベストセラーとなり、2015年1月現在で、世界10数カ国で累計100万部を突破したそうです。

 

定価は5500円で、608ページに及ぶ専門用語をちりばめた大著なので、気になるけど買わなかった、でも内容が知りたい、という人は多かったと思います。

 

トマ・ピケティーの『21世紀の資本』をみんなで読もう、という話しになったのも、難しそうなので、みんなの知恵を持ち寄った方がよさそうだ、と思ったからでした。

 

実際、複数人の人と一緒に同じ本を読むと、とても面白いことに気がつきます。

 

同じ本を読んでいるのですが、それぞれが関心をもった視点、気づいたこと、それを読んでどう思ったのかなど、持ち寄る視点がぜんぜん違うのです。

 

例えば、

ーなぜ彼はこのテーマを書いたのかというトマ・ピケティーのバックグラウンドに興味を持った人

ー彼の家族構成に興味を持った人

ー彼のアメリカでのレビューに興味を持った人

ー彼の著書の後に世界銀行が発表した世界の格差についてに興味をもった人

ー日本のメディアのあり方や考える力について思いが及んだ人

などでした。

 

本当にそれぞれが気づく視点や読んだ後の感想は見事に違いました。

 

しごく当然のことのように聞こえるかも知れませんが、このような体験をすると本当に人の受け取り方は人それぞれに違うのだということが腑に落ちます。

 

これも改めて考えてみるととても面白いことだと思いますが、人は同じ場所にいたり、一見同じ情報を受け取りながら、それぞれの「フィルター」や興味・関心分野に従って情報を処理していくのです。

 

私が南スーダンで働いていた時に実感したことですが、同じ国にいながら、情勢分析の結論がかなり違ったこともありました。

 

では何がその違いを生むのでしょうか?

 

例えば、その人の知識、教育、職業、経験値、考える力、価値観・興味や関心などです。

 

この場合の価値観とはどんなことを大切だと思っているか、といったものです。

 

複数で同じ本を読んでみると面白いのは、なぜその人は、「この点に興味をもったんだろう?」という点その人独自のポイントが見えてくることです。

 

 

ー彼の背景に注目した人は彼の主張や理論だけでなく、人間としてのライフストーリーに興味がある人なのかも知れません。人や社会をより深く理解する能力や洞察力に長けているかも知れません。

 

ーアメリカと日本でのレビューの違いに興味をもった人は、データやより複数の視点を取り入れる客観性を重視する人なのかも知れません。

 

ー格差の是正に注目した人は平等や公平さに興味があるかも知れません。

 

本人にあまり自覚はないかも知れませんが、「なぜか私はこういうことに興味をもつ」という視点やアングルが必ずあるのです。

 

これこそが、「自分にしかできない分野」「自分だからこそできること」「私たち一人一人ができる分野がある」というその人の「存在意義」といったものに近いかも知れません。

 

それは職業でもなく、それを本人が意識していてもいなくても、自然にやっているようなこと(その人がいるだけで周りが落ち着くと感じる人、周りの人を癒す人、聞き上手で人の意見を引き出す人、など)です。

 

「世界は地球上の一人一人を必要としている」という意味が単なる言葉ではなく、その意味がより腑に落ちる体験でした。

 

これは自分一人では分からないことです。

 

他者の存在を通じて、自分の立ち位置がわかるのです。

 

読書会といった形式でなくとも、会社での会議といったフォーマルな場からいったん離れて、利害関係のない、まったくプライベートな場で、自分の意見を自由に表現したり、シェアできる場を体験できることはとてもいい体験だと思います。

 

そんな体験の積み重ねが自分を知ること、そして自信につながることでしょう。

 

ぜひ試してみて下さい。