日本人は自分だけが儲かればいいだけではがんばれない民族。世界のために果たすべき意義があってこそ日本本来の力が発揮される

日本人は元々自分たちだけがよければいい、儲かればいい、というようなレベルではがんばれない民族だと思います。日本人という人たちには、より根源的なレベルで自らを奮い立たすことのできる「存在意義」が必要なんじゃないか?

 

8月になって戦争関連のテレビ番組や新聞記事に触れながら、そんな想いを強くしています。

 

そして、この数日である問いが私の頭に浮かび続け、ある種のインスピレーションを受け取っています。

 

それは、なぜ日本はあんな焼け野原から世界第3位の経済大国になるまでの奇跡的な復興を成し遂げることができたのか?という問いです。

 

そして、その問いこそに、この閉塞感で行き詰まりの今の日本を抜けさせてくれるヒントがあるんじゃないか、ということを感じるのです。

 

日本の戦後の復興がいかに奇跡的であるかは、国連で紛争後の復興に関わった時改めて痛感しました。

 

例えば、東ティモールと南スーダンにおいては、国連は紛争の停戦だけでなく、その後の国の独立そして「国づくり」にまで関わりました。

 

特に南スーダンは、アフリカ(世界)最長の紛争からの独立だけあって、独立後の国づくりには、国連だけでなくEUや世界中の学者や政策アドバイザーが、それこそ復興のための最善の政策を考え、国連の活動の中でも特段大きな予算も注目もつけられました。

 

そうした外部の支援があっても、一番肝心なのは当事者たちの意思(特に新しく国づくりを担う国のリーダーたち)であるのは改めて指摘するまでもないのですが、南スーダンでは復興が進んでいないどころか、残念ながら内戦が再発し、以前よりもひどい状態になっています。

 

では、自然災害からの復興はどうでしょうか?

 

2006年12月に発生したスマトラ沖地震の津波で壊滅的な被害を受けたスリランカやインドネシアのアチェを例にとっても、その復興は日本の戦後の復興とはまったく程度が違います。

 

東日本大震災の後に、フィリピンやバングラデシュ、スリランカに出張した際には、「戦後の焼け野原から復興を遂げた日本は私たちにとっての希望。だから復興を応援している」という声をたくさん聞きました。

 

東日本大震災の時に日本が受け取った支援額の総額は個人と組織からの寄付を含め、ソマリアやスーダンの支援額を3倍も超え世界一位でしたが(2011年度)、そこには日本の支援(ODA)に対するお礼だけでなく、戦後の奇跡的な復興への「敬意」とさらなる発展に対する希望という意味合いもあると感じました。

 

日本の戦後の復興の要因としては、高い教育水準(識字率)とモラル、朝鮮戦争による特需や冷戦時代に米軍の傘の下に入りながら経済発展に邁進したこと(軍事・政治面での米国依存に引き換えという構図と引き換えに)などが一般的に挙げられてきましたが、果たしてそれだけで説明になっているのか?という指摘は根強くありました。

 

東日本大震災の時にも、今回の震災からの復興を見ることで(もしそれが再現されたなら)、日本の戦後復興の本質がより明らかになるだろう、と指摘した海外の大学教授の声もありました。

 

官僚主導による東日本大震災の復興は残念ながら成功とは言えませんが、それが逆に日本の閉塞状況を象徴するかのようで、同時に、戦後の復興の「特異性」を改めて際立たせることになったとも言えます。

 

そこで冒頭の質問に戻りますが、あらためて、なにが戦後の日本の奇跡的な復興の原動力となったのでしょうか?

 

今、改めてそこに想いをはせるとき、このような見方もできるのではないかと思うのです。

 

より根源的な原動力としては、なぜあのような戦争をゆるしてしまったのか?という悔しさと戦争・敗戦の屈辱を越えて誇りと尊厳を取り戻したいという大きな想いがあったということ、

 

だからこそ、軍事とはまったく違う力で(日本の場合、経済の力で)世界に尊敬される国として地位を再び確立したい、戦争をしたからこそ今度は平和に貢献できる国になりたい、という想いが根底にあったのではないか?と思うのです。

 

バブル崩壊以降、日本の企業や社会は、ますます内向きになり減っていくばかりの内需(人口)のパイを奪いあっています。

 

それは本当に幸せの道なのか?と確信を持てない人たち、これから何を目指したらいいのか?と違うものを求める人たち産みだしています。

 

日本人は元々自分たちだけがよければいい、もうかればいい、というようなレベルでは立ち動けない・がんばれない民族だと思います。日本人という人たちには、世界の平和というより根源的なレベルの「存在意義」があってこそ、本来の日本の力が引き出され、発揮されるのではないか?と思うのです。

 

もっと言うと、「戦争をしたからこそできる日本の貢献分野」があると思うのです。

 

これまでは、戦争をしたからこそ世界で目立ってはいけないという力学が無意識レベルで作用していたようにも感じます。

 

それが、昨年5月末のオバマ元米国大統領による広島訪問と、謝罪を求めないという広島のそれぞれの決断により、両者の和解と「日本の戦後」が大きく一歩前に進みました。

 

オバマ元米国大統領が広島を訪問して以来、日本での戦争に関する記事やテレビ番組も視点が国内だけでなくより世界へ視野が広がったような印象を受けています。

 

戦争をしたからこそできる日本の貢献分野は何か?

 

日本の強みや弱みは改めて何か?

 

そして、自分の役割は何か?

 

このお盆休みには、あえて視点を広げてそんな大きな問いかけをしてみてもいいんじゃないかな?と思います。

 

素敵なお盆休みを!

ロスジェネ世代がゆとり世代に伝える「戦争と平和」②

 

「アメリカではこんなこと言う人少ないけど。。。」

世界中の同僚とのおしゃべりの中で今でも覚えている瞬間ー分かり合えないだろうと思っていた事で一瞬でも分かり合えた時、戦争をも超えられる時。人間って捨てたもんじゃないな。

 

ある時、チームメンバーのアメリカ人が言いました。

「アメリカではこんなこと言う人少ないけど、原爆ってアメリカにとって『勝利』とは思えないんだ。。。」

 

それは、スリランカでスリランカ軍対象の国連PKOに関する研修を行っていた時の出来事でした。

スリランカは、ちょうど2年半前にシンハラ人とタミル人の間の内戦が終結していた時で、

「もう戦争はたくさん」「この内戦にはどんな意味が?」「なんでこんな戦争を許してしまったの?」

「『制圧』は正しかったのか?」-関係者それぞれの苦しみと、もう二度と内戦には戻りたくないという共通の思いが強く感じられた時でした。

 

研修では、国連やアフリカなどの事例を通じて、

「被害者」も「加害者」も、「勝者」も「敗者」も両方が傷を負うという意味では、どっちも被害者なのです、そんな話しになりました。

 

 

自然と彼らは自分の国の体験に向き合うことになったのでしょう。

研修に参加していたセンター長の大佐が私のところにやってきて言いました。

「私は目の前で仲間と部下を何人も殺されたのだけど、相手を赦したいと思っている。自分が楽になるために。」

彼らは制圧した(勝った)側としてさんざん批判されている最中でしたが、彼らの中にさえ(だからこそ)「相手を赦したい」「和解を選びたい」という思いをはっきり感じました。

 

同時に、スリランカの経験について学んでいたと思っていたのに、日本について学んでいたことに気づきました。

「スリランカの人たちが体験していることは、そのままアメリカと日本に当てはまるよね。だって、原爆の投下ってアメリカにとって『勝利』とは思えないんだ。戦争って『勝つ』方も全く勝利じゃないよ」ーアメリカ人の同僚とそんな会話になりました。

そして、スリランカの人に言いました。

「人類は進歩しているのでスリランカの人たちはもっと早く立ち直れると思いますよ。」

「そうですね、日本のように戦後の絶望から見事に復興した国があると希望が持てます。津波の時もそれを見せてくれましたよね。」と返してくれました。

 

研修は、「内戦が終わった今軍隊の目的はなんですか?例えば、インドとパキスタンの仲裁など地域の平和に役に立つこともできます。

戦争をした国だからこそ平和に貢献するという道もありますよ。」と終わりました。

 

戦争を体験した国だからこそ世界に伝えられる価値があると思いました。

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(写真)スリランカコロンボ

ロスジェネ世代がゆとり世代に伝える「戦争と平和」①

留学先でいろいろな国の学生と一緒に机を並べる時、

職場で世界中の同僚達とおしゃべりをしている時、

ガツン!って衝撃を受けることがある。。。

ーそれは戦争について。

 

安保法案に戦後70年談話。戦争反対だけど当時の話しを聞いても正直ピンと来ない。

今の時代を生きる私たちって何を知ればいいの?

「ロスジェネ世代がゆとり世代に伝える『戦争と平和』」3回シリーズ1回目。

 

私がフィリピン軍の研修の仕事でフィリピンにいた時のこと。

その時のチームは、アメリカ人2人、カナダ人、インド人と日本人の私という5人構成。

週末に少し観光しようということになって、近くにあったバターンの戦争慰霊公園を訪れようということになりました。その慰霊公園とは、第二次世界大戦中に何百人~1万人(日本側は何百人と出張、米側は一万人以上と主張)のフィリピン人とアメリカ人捕虜が亡くなったとされる方々の慰霊碑があるところです。

 

ハワイ在住のアメリカ人

グアム系先住民アメリカ人

元軍人のカナダ人

元軍人で祖父がインパール作戦に従軍したインド人

すでに戦後3代目にあたる日本人である私

の5人はそれぞれ公園を歩き始めた。。。

 

アメリカ人とカナダ人の同僚が特に何かを言った訳じゃないけど、彼らの反応を見ているだけで、その慰霊公園が彼らにとって、とても大きな意味を持つ場所であることがすぐに分かりました。

そのバターンという土地は、アメリカ人にとっては、パールハーバーと並ぶ、日本人にとっての広島と長崎、沖縄のような場所であることを知りました。

私にとってショックだったのは、仕事で元兵士の社会復帰に関わり、戦後の和解に関心のある私でさえ、アメリカ人にとってとても重要であるそのバターンという土地について、その時フィリピンに行くまで全く知らなかった事でした。

「同じ戦争」について見ている所が全く違ったのです。

 

私たちの中に継がれてきた戦争に関する捉え方や記憶、体験があくまでの「こちら側」のものであること、

同様に相手側には「あちら側」の捉え方と記憶、体験があることを思い知らされた体験でした。

今年4月に安倍首相がアメリカ議会でスピーチをした時、日本の首相として初めて「バターン」について言及したと知った時、「ああ、やっぱり」と思いました。

70年もかかったの?とも思うけど、議会でその一言が言及された事は私が単純に想像する以上に大きなことなんだろうと思います。

 

戦争に対するアメリカ人の視点を知れるものに、フィリピン戦線を指揮していた時代のマッカーサーを描いた映画「マッカーサー」があります。

フィリピンで部下たちが日本軍に降伏、バターンで捕虜になることを知って悔しがるマッカーサーはすっごく「人間的」です。日本で知られるマッカーサー像とは全く違うからこれまたびっくりします。

 

まず、こんなにも違うものなのだと認識できると、そんな人に会った時、そんな会話になった時に「心の余裕」ができるよね。

その上で一歩一歩お互いの認識に触れていくことができるか?

個人レベルではこの人はどう思っているんだろう?

 

世界100カ国の人たちの体験と考えを聞くことはその辺のドラマよりもよっぽど面白しろかった。

私が世界中の同僚と一緒に働いている時の楽しみは実はそんなことだったかも知れません。

 

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(写真) 4月の春の訪れを感じるワシントンDC

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ゆとり世代とさとり世代のための

自分と周りをハッピーにする仕事をみつける12のヒント

【戦争をした国だからこそ世界に伝えられること】

南スーダンで身にしみて体感した。

戦争に勝者はいない。

みんな負け。

 

「勝者」がいるとしたら、なぜ戦争に向かったのかという課題に向き合える人。

 

緒方貞子さん(国連難民機関のトップを務めた人)は学者畑なのに世界のどんな紛争・課題にも的確に指示を出す。

 

あまり知られていないけど、彼女が博士論文で追求したのはなぜ日本は戦争に向かったか、というテーマ。

彼女の強さの一つは、戦争に向き合ったことにあるのではないか、と個人的には思っている。

 

戦後70年たった今も「日米関係」は異常。紛争国で働いてリアルに気づいた。

 

この前訪れたキャンプ座間。米軍基地にあんなにお金を払うのは日本だけ。

国連PKO以外はみんなアメリカの戦争。

 

「おーい国民はこっちだよー!」

首相が仕えるのは国民。

アメリカじゃない。

 

日本の「戦後」はまだ終わってない。

 

自分たちが体験したからこそ、似たような体験を持つ人たちに耳を傾け、争うよりも平和の方が得だよと伝えることができる。

日本人は本来こういう役割ー

特に仲裁(mediation)が世界の中でも最も得意な人たちだと思う。

 

日本には戦争をした国だからこそ世界に伝えられることがある。

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相手にとっては全く見え方が違うとしたら?ー同じ戦争を「彼ら」の視点から見ると

仕事でフィリピンで研修をしたことがありました。

国連の平和支援についてトレーニングをするという仕事でフィリピン軍の施設に宿泊していました。場所は、旧クラーク空軍基地から車で40分くらい離れたところにあるキャンプ内にある訓練センターでした。

さて、この訓練センターですが、近くに第二次世界大戦中に何百人~1万人(日本側は何百人と出張し、米側は一万人以上と主張)ものフィリピン人とアメリカ人捕虜が亡くなったというバターンの記念公園があります。

通常2週間~2週間半の研修を3人か4人のチームで担当するのですが、この時のメンバーは、アメリカ人、カナダ人、インド人と日本人の私という構成でした。

週末は少し観光をしたりする息抜きの日なのですが、せっかくなのでその戦争慰霊公園を訪れようということになりました。このバターンの戦争慰霊公園は、第二次世界大戦中に1万人ものフィリピン人とアメリカ人捕虜が亡くなったといういわゆる「死の行進」で亡くなった元捕虜の方々の慰霊碑があるところです。

この公園を訪れたいと言ったのは私だったのですが(周りは遠慮していたのですが、その地域にいたので私は自分の目に見てみたいと思いました)、いつもは、アフリカの紛争などにおいて「国連」に派遣する人をサポートする立場として自分の出身国を特に意識することもなく繋がりあえる私たちですが、その公園に着いたとたん、

突然私たちは個人ではなく、急にそれぞれが「日本」そして「旧連合国」の代表、そして、「旧連合軍」対「日本」という敵同士であったという事実が時を超えてリアルに迫ってくるのを感じました。

もう70年近くも前のことなのに。。。

もっとショックだったのは、私がほとんど知らなかったこのフィリピンにあるバターンという土地にまつわる戦争体験はアメリカ人とカナダ人にとっては一大事な場所であったという事でした。

ハワイ出身のアメリカ人

元軍人のカナダ人

元軍人で祖父がインパール作戦に関わったインド人

そしてすでに戦後3代目にあたる日本人である私。。。

同じ時代の同じ戦争についての見方・記憶が全く違ったのです。

 

そして、誰もその戦争を直接体験していないのに、慰霊公園での展示やそれぞれの国での戦争に関する歴史の語られ方にかなり影響を受けている。。。

しかも、「紛争」という現象について客観的にとらえ、その防止や対処を教えてる立場である私たちがです。。。

私たちの中に継がれてきた戦争に関する捉え方や記憶、体験があくまでの「こちら側」のものであること、

同様に相手側には「あちら側」の捉え方と記憶、体験があること、

それが無意識にもいかに強力であるかを思い知らされた体験でした。

スーダンなどの紛争地にいて、同じ出来事を相手の視点から見れるようになることがその人や社会の中で紛争や戦争が終わるための一つの鍵だと感じていましたが、これは何もアフリカの出来事ではなく、今の時代の日本にそのまま当てはまることだとはっきり痛感したのでした。

今年は戦後70年ですが、まず、それぞれの捉え方が全く違うということを理解すること、誰の視点で歴史を語るのかという力の均衡に敏感でいることーそんな辛抱強い作業が今こそ求められているんじゃないかと思います。

 

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