⭕️⭕️がないと 受験だ、就活だ、婚活だとベルトコンベアに乗せられていくだけ「これでは薄っぺらい自分のない人間しかできあがりません」

自分で考えたことがないと、「受験だ、就活だ、婚活だと、『そんなものだ』とベルトコンベアに乗せられていくだけ。これでは薄っぺらい自分のない人間しかできあがりません。」

 

 

「『自分のアタマで考える子』の育て方」の中で、子どもの能力を伸ばす教育で知られる高濱正伸さんはさらに続けます。

 

「『生きるってなに』『私ってなに?』『何のために学ぶの?』『就職ってしないといけないんだろうか?』とさまざまに悩み、本を読み、誰かと議論する中で、「生きていくための軸」となるものを掴んでいくのです。

中略

それ(自分で考えること)をしなければ、根なし草のような自分しか持てなくなります。

 

そんな状態でいくら自分探しをしたところで見つかるわけがありませんし、聞こえのいい言葉を並べるだけの中身のない人間にしかならないでしょう。

 

それは『自分で考える』ところからしか生まれてこないものなのです。」

 

そもそも人間は思春期から青春記にかけては、人間は本来「哲学」するものとも言っています。

 

わざわざ「哲学」という言葉を使わなくても、子供は小さいながらにいろいろなことを感じています。

 

それを口にするかどうかは別にして、例えば、なんで戦争は起こるの?なんで戦争はなくならないの?環境問題はどうしたらいいの?

といった疑問を純粋に持ちます。

 

「生きる」とは真逆のことをなぜするのか?、

お互いになぜ殺し合い、傷つきあう行為をするのか?、と単純に思うのです。

 

「考えること」の本質は「疑問を持つこと」なので、子供の方が本能的に物ごとの「核心」をわかっていることも珍しくありません。

 

なので、

こうした疑問を持つことは、考えること、そして、なにより人生の中でもとても重要な問いである、自分にとって大切なことは何なのか?と同義語です。

つまり、自分はどう生きたいのか?何をしたいのか?の土台となる部分です。

 

今思えば、高校の時に「本質的なことを追求することをよし」とする校風で学ぶことができたのはとても幸運でした。

 

校長先生や倫理の先生が「人として生きるとはどういうことか?」と毎週本気で伝えようとしてくれました。

 

国連での勤務などを経て、10数年ぶりに先生を訪ねた時に改めて気づいたのは(今は校長先生になられています)、当時私たちが見せてもらっていたことは、人生には常に続く「問い」が存在すること、同時に、問いや自分の価値観をもって生きている人は美しいという姿でした。

 

こうした時期に、自分にとって大切なことは何なのか?=つまり、自分はどう生きたいのか?と考え、模索した体験がなかったら、南スーダンなどの紛争地で働くことも、紛争という事実に直面するような「ふんばり」も持てなかったかも知れません。

 

ただ、

そうした課題意識や探求心が尊重され評価される欧米と違って、日本ではそうしたことを話しあえるような場も機会も限られていて、ニュースは表面的な出来事しか伝えません。

 

テレビにしろ、必ずしも本当に重要なことが話されている訳でもなく、そもそも関心がない、またはどう答えていいのか分からない、大人が諦めてしまっているという事実に子どもはショックを受けます。

 

大人の社会にはがっかり、失望、無力感や諦めさえも蔓延しています。

(日本社会は残念ながらこの感覚が世界の中でも強いように感じます。)

 

そんな体験を重ねるうちに、そんなことを考えても無駄だ、無意味だ、とショックや落胆、失望が深く抑圧されていきます。

 

ただ、人間にとって、「理解されない痛み」は実はとても大きいものです。

「理解されないと人は生きていけない」と指摘する人さえいます。

 

もちろん、表面的には生きていけます。

 

これは、クライアントさんとのセッションで見せていただいたことですが、

 

例えば、医師としてプロフェッショナルに活躍されておられる方でさえ、

(そしてある意味、そうした体験や問題意識こそが、その人を医師にさせた言動力となった面もあるのですが)

ある段階になると、そうした体験が人生において「重荷」として浮上してきます。

 

わざわざ「重荷」という表現を使ったのは、

 

プロフェッショナルとして活躍され、尊敬もされる立場にあり、日常的には問題なくコミュニケーションがとれている人でも、

 

理解されない・わかってもらえないという体験や思いから、無意識に自分の意見を正当化しようとしたり、相手を説得しようとしたりすることがあったり、

または、ある部分が「満たされない」ような感覚として体験する人もいます。

 

人間にとって、「理解されない痛み」はそれ程までに大きいのです。

 

そして、これもまたセッションで見せていただいたことですが。そうした体験や想いが受け止められ、「理解される」体験をすると、文字通りその人の中の大きな「重荷」が解放され「次の扉」が開きます。

 

力がみなぎるのを感じて、身体が自然と動くようになったり、今までできなかったことができるようになった人もいます。

 

おそらく「理解されない痛み」によって奪われていたエネルギーや本来の力が戻ってきたのでしょう。

 

そして、理解されると、人を受け止める「器」が大きくなっていくのです。

 

そうした「重荷」が受け止められ、解放されると、今度は、その方自身が周りの似たような体験や想いを持つ人を受けとめ、理解していくことができるのです。

 

そうして個人から「平和」が周りに広がっていくのですね。

 

「理解されたかったらまずは相手を理解せよ」とはよく言われることですが、

 

相手を「理解する」ためにも、その余裕を持てるためにも、まずは自分が「理解される」ことを満たしてあげてください。

 

「『だからこそ』あなたが輝くための55の質問」配布中です!

 

ダウンロードは⭕️こちら⭕️よりどうぞ 

 

だからこそあなたが輝くための55の質問目次.001

 

目次

あ、今の自分の状態について把握する

い.自分の「ストレス反応」を知る

う.今気になっていることについて観察する

え.喪失(後悔、自責、サバイバーズギルト)に気づく

お.自己像、自己肯定感、自己受容度に気づく

か.自分の中の「不安」を意識化・言語化する

き.自分のコーピングスタイルを知る

く.自分と相手との優先順位(境界線)と当事者レベルを知る

け.自分のストーリー(解釈・認知)に気づく

こ.回復のストーリーをみつける

さ.試練の中の「意味」について知る

し.再結合・新しい自己の創造

す.回復・再生のためのステップ 

せ.トラウマからの回復・再生のプロセスで体験しうること

そ.トラウマからの回復の三段階

 

ダウンロードは⭕️こちら⭕️よりどうぞ 

日米の物語はどんな「接点」を 持つことができるのか?

 

さて、オバマ大統領の広島訪問に関してクーリエジャポン向けに記事を書いています。

今日の午後の報道で取りやめが発表されたものの、今回の来日には元捕虜の人(バターンでの生き残りの3人)が同行されることが報道されていました。

バターン(@フィリピン)は、安倍首相が昨年4月のアメリカ議会でスピーチをした際に、パールハーバーと並んではじめて公式に言及された場所。いわばアメリカ人にとっての「広島」です。

日本では、オバマ大統領の謝罪に注目が集まっていましたが、

オバマが広島へ訪問するのなら、今度は安倍首相は、パールハーバー、または、バターンに訪問するべきだ、という意見がアメリカでは起こっています。

 

 

私は出張先のフィリピンで、そのバターンに滞在し、バターンの記念碑を

アメリカ人とカナダ人、

元軍人で祖父がインパール作戦に

従軍したインド人と一緒に訪れたことがあります。

https://chikaonaka.com/2015/03/17/相手にとっては全く見え方が違うとしたら?ー同/

 

当たり前ながら、それぞれの側にはそれぞれの体験と歴史、物語があります。

 

 

その上で、これから日米の物語はどんな「接点」を持つことができるのでしょうか?

 

 

 

自分の視点や価値観を押し付けずに、いったん相手の意見を受け止め、なぜ相手はあのような事を言うのか、と相手の視点で物事を見ることー

 

自分の視点と考えから一旦距離をおいて、相手の視点と立場に立ち、相手の相手の思考のフレームワーク、価値観や感情を理解することー

 

相手と見ている全体像が違ったとしても、同意するかは別として、相手の立場から同じ状況を見て、そこから互いの共通点を探っていくこと。

 

これは、「パースペクティブ・テイキング(perspective taking)」と呼ばれます。

相手の視点と立場から物事を見て、相手の考え方や感情を理解する力です。

 

シンプルに聞こえながら、この「パースペクティブ・テイキング(perspective taking)」は、

多様な意見や人をまとめる立場にある人はもちろん、これからますます多様なバックグラウンドを持つ人たちと接することになるであろう私達を助けてくれる一つの鍵でもあろうと思うのです。

実際、この「パースペクティブ・テイキング(perspective taking)」は、南スーダンなどの紛争地の最前線において、多国籍チームのリーダーを務めた時、とても大きな力となってくれました。

 

 

相手の視点や考え方を理解すると、どんなことが可能になるのでしょうか?

どうしたらそうした力が身につくのでしょうか?

どんな時にそれが力になるのでしょうか?

 

受付開始しました!

 

《ダイアローグファシリテーション講座》

第4回: 2016年6月19日(日)

第5回: 2016年7月10日(日)

第6回: 2016年7月17日(日)

詳細・お申込みはこちらより⇨
https://chikaonaka.com/講座・イベント/

すでに7月のお申込みもいただいています。
ありがとうございます〜💛(*^-^)ニコ

ロスジェネ世代がゆとり世代に伝える「戦争と平和」①

留学先でいろいろな国の学生と一緒に机を並べる時、

職場で世界中の同僚達とおしゃべりをしている時、

ガツン!って衝撃を受けることがある。。。

ーそれは戦争について。

 

安保法案に戦後70年談話。戦争反対だけど当時の話しを聞いても正直ピンと来ない。

今の時代を生きる私たちって何を知ればいいの?

「ロスジェネ世代がゆとり世代に伝える『戦争と平和』」3回シリーズ1回目。

 

私がフィリピン軍の研修の仕事でフィリピンにいた時のこと。

その時のチームは、アメリカ人2人、カナダ人、インド人と日本人の私という5人構成。

週末に少し観光しようということになって、近くにあったバターンの戦争慰霊公園を訪れようということになりました。その慰霊公園とは、第二次世界大戦中に何百人~1万人(日本側は何百人と出張、米側は一万人以上と主張)のフィリピン人とアメリカ人捕虜が亡くなったとされる方々の慰霊碑があるところです。

 

ハワイ在住のアメリカ人

グアム系先住民アメリカ人

元軍人のカナダ人

元軍人で祖父がインパール作戦に従軍したインド人

すでに戦後3代目にあたる日本人である私

の5人はそれぞれ公園を歩き始めた。。。

 

アメリカ人とカナダ人の同僚が特に何かを言った訳じゃないけど、彼らの反応を見ているだけで、その慰霊公園が彼らにとって、とても大きな意味を持つ場所であることがすぐに分かりました。

そのバターンという土地は、アメリカ人にとっては、パールハーバーと並ぶ、日本人にとっての広島と長崎、沖縄のような場所であることを知りました。

私にとってショックだったのは、仕事で元兵士の社会復帰に関わり、戦後の和解に関心のある私でさえ、アメリカ人にとってとても重要であるそのバターンという土地について、その時フィリピンに行くまで全く知らなかった事でした。

「同じ戦争」について見ている所が全く違ったのです。

 

私たちの中に継がれてきた戦争に関する捉え方や記憶、体験があくまでの「こちら側」のものであること、

同様に相手側には「あちら側」の捉え方と記憶、体験があることを思い知らされた体験でした。

今年4月に安倍首相がアメリカ議会でスピーチをした時、日本の首相として初めて「バターン」について言及したと知った時、「ああ、やっぱり」と思いました。

70年もかかったの?とも思うけど、議会でその一言が言及された事は私が単純に想像する以上に大きなことなんだろうと思います。

 

戦争に対するアメリカ人の視点を知れるものに、フィリピン戦線を指揮していた時代のマッカーサーを描いた映画「マッカーサー」があります。

フィリピンで部下たちが日本軍に降伏、バターンで捕虜になることを知って悔しがるマッカーサーはすっごく「人間的」です。日本で知られるマッカーサー像とは全く違うからこれまたびっくりします。

 

まず、こんなにも違うものなのだと認識できると、そんな人に会った時、そんな会話になった時に「心の余裕」ができるよね。

その上で一歩一歩お互いの認識に触れていくことができるか?

個人レベルではこの人はどう思っているんだろう?

 

世界100カ国の人たちの体験と考えを聞くことはその辺のドラマよりもよっぽど面白しろかった。

私が世界中の同僚と一緒に働いている時の楽しみは実はそんなことだったかも知れません。

 

DSC05355

(写真) 4月の春の訪れを感じるワシントンDC

      ⇩⇩⇩

ゆとり世代とさとり世代のための

自分と周りをハッピーにする仕事をみつける12のヒント

【戦争をした国だからこそ世界に伝えられること】

南スーダンで身にしみて体感した。

戦争に勝者はいない。

みんな負け。

 

「勝者」がいるとしたら、なぜ戦争に向かったのかという課題に向き合える人。

 

緒方貞子さん(国連難民機関のトップを務めた人)は学者畑なのに世界のどんな紛争・課題にも的確に指示を出す。

 

あまり知られていないけど、彼女が博士論文で追求したのはなぜ日本は戦争に向かったか、というテーマ。

彼女の強さの一つは、戦争に向き合ったことにあるのではないか、と個人的には思っている。

 

戦後70年たった今も「日米関係」は異常。紛争国で働いてリアルに気づいた。

 

この前訪れたキャンプ座間。米軍基地にあんなにお金を払うのは日本だけ。

国連PKO以外はみんなアメリカの戦争。

 

「おーい国民はこっちだよー!」

首相が仕えるのは国民。

アメリカじゃない。

 

日本の「戦後」はまだ終わってない。

 

自分たちが体験したからこそ、似たような体験を持つ人たちに耳を傾け、争うよりも平和の方が得だよと伝えることができる。

日本人は本来こういう役割ー

特に仲裁(mediation)が世界の中でも最も得意な人たちだと思う。

 

日本には戦争をした国だからこそ世界に伝えられることがある。

72871_152659374905104_810049084_n

相手にとっては全く見え方が違うとしたら?ー同じ戦争を「彼ら」の視点から見ると

仕事でフィリピンで研修をしたことがありました。

国連の平和支援についてトレーニングをするという仕事でフィリピン軍の施設に宿泊していました。場所は、旧クラーク空軍基地から車で40分くらい離れたところにあるキャンプ内にある訓練センターでした。

さて、この訓練センターですが、近くに第二次世界大戦中に何百人~1万人(日本側は何百人と出張し、米側は一万人以上と主張)ものフィリピン人とアメリカ人捕虜が亡くなったというバターンの記念公園があります。

通常2週間~2週間半の研修を3人か4人のチームで担当するのですが、この時のメンバーは、アメリカ人、カナダ人、インド人と日本人の私という構成でした。

週末は少し観光をしたりする息抜きの日なのですが、せっかくなのでその戦争慰霊公園を訪れようということになりました。このバターンの戦争慰霊公園は、第二次世界大戦中に1万人ものフィリピン人とアメリカ人捕虜が亡くなったといういわゆる「死の行進」で亡くなった元捕虜の方々の慰霊碑があるところです。

この公園を訪れたいと言ったのは私だったのですが(周りは遠慮していたのですが、その地域にいたので私は自分の目に見てみたいと思いました)、いつもは、アフリカの紛争などにおいて「国連」に派遣する人をサポートする立場として自分の出身国を特に意識することもなく繋がりあえる私たちですが、その公園に着いたとたん、

突然私たちは個人ではなく、急にそれぞれが「日本」そして「旧連合国」の代表、そして、「旧連合軍」対「日本」という敵同士であったという事実が時を超えてリアルに迫ってくるのを感じました。

もう70年近くも前のことなのに。。。

もっとショックだったのは、私がほとんど知らなかったこのフィリピンにあるバターンという土地にまつわる戦争体験はアメリカ人とカナダ人にとっては一大事な場所であったという事でした。

ハワイ出身のアメリカ人

元軍人のカナダ人

元軍人で祖父がインパール作戦に関わったインド人

そしてすでに戦後3代目にあたる日本人である私。。。

同じ時代の同じ戦争についての見方・記憶が全く違ったのです。

 

そして、誰もその戦争を直接体験していないのに、慰霊公園での展示やそれぞれの国での戦争に関する歴史の語られ方にかなり影響を受けている。。。

しかも、「紛争」という現象について客観的にとらえ、その防止や対処を教えてる立場である私たちがです。。。

私たちの中に継がれてきた戦争に関する捉え方や記憶、体験があくまでの「こちら側」のものであること、

同様に相手側には「あちら側」の捉え方と記憶、体験があること、

それが無意識にもいかに強力であるかを思い知らされた体験でした。

スーダンなどの紛争地にいて、同じ出来事を相手の視点から見れるようになることがその人や社会の中で紛争や戦争が終わるための一つの鍵だと感じていましたが、これは何もアフリカの出来事ではなく、今の時代の日本にそのまま当てはまることだとはっきり痛感したのでした。

今年は戦後70年ですが、まず、それぞれの捉え方が全く違うということを理解すること、誰の視点で歴史を語るのかという力の均衡に敏感でいることーそんな辛抱強い作業が今こそ求められているんじゃないかと思います。

 

Sri Lanka Triangle 194