宇宙の視点から奇跡を科学するー身近なことで「テスト」に合格しないと大きなことは任せてもらえない

昨日、「奇跡が起きました。嫌いな経理作業を1日15分続けていたら楽しい!今日も早くやりたい!と感じられるようになった。」と書きました。

 

ところで、「タイトルに奇跡ってあるから、もっともっとすごいことかと思った」、「なんだそんな小さなことか」と思った人がいるかも知れません。

 

もし、奇跡はもっと大きいこと、と思っていたら要注意です。

 

もし、「今の仕事は適当にやればいい。だって好きな仕事じゃないから」「大きな仕事を任せられたら、本気になる・がんばる」と思っている人がいたらこれもまた要注意です。

 

宇宙の視点からみると、「大きなこと」も「小さいこと」にも価値に違いはないからです。

 

宇宙の視点からみると、大事なのは態度(それにどう取り組んでいるのか)と、そして動機(なんのために)です。

 

「小さいこと」も「大きいこと」も同じように、自分に正直に、心をこめて取り組んで喜んでいると、より大きなことを与えられるようになります。

 

身近なことで「テスト」に合格しないと大きなことは任せてもらえないのです。

 

そういう意味では、周りの人たちに対して親切にしたり、ゴミをみつけたら拾ったり、小さいことで自分が気付いたことをやっていくのは大切ですね。

 

 

そして、上手くいっている人は日常の中にある「上手くいっている部分」をみつけるのが上手です。小さな成功や奇跡を大事にするから、さらにそれが拡大していくのです。

 

宇宙の法則には「注目の法則」(Law of Attention)というものがあります。

 

注目するものが大きくなる、という意味です。

 

ネットニュースをみていて、だんだんと気持ちが落ち込んできたという体験はありますか?ネットニュースは読者のクリックを引くためによりセンセーショナルな切り口にする傾向があります。そういうものを見ていると、だんだんと気持ちまでそっちに引きづられてしまいがちです。

 

これは気のせいではなくて、物理の法則からも説明がつきます。

 

せっかくなら、自分の気持ちを穏やかにしてくれたり、インスパイアーしてくれるものに触れたいです。

 

もしすごい大きな成果や出来事ばかりを求めている、または、小さい喜びを味わえいないとしたら、「もっともっと病」にかかっているか、心が少しマヒしているかも知れません。

 

または、もし、今の仕事が好きじゃない、またはブラック企業にいる、パワハラ上司がいるとしたら、じゃあ自分はどうしたい?どうする?という部分が大事になります。

 

世の中に当たり前のことは一つもありません。

 

日常にたくさんの奇跡を見つけたいですね!

広告

前提を変えるだけでもいつでも幸せになれる

私たちはいつも「でも」「でも」「でも」と付け加えることで警戒しているようです。

例えば、こんなやり取りです。

 

「この新緑の季節って眩くっていいよね。」

「でも、すぐに梅雨になるよ。」

 

 

「あれ上手くいってよかったね。」

「でも次はわからないよ。」

 

 

まるで、「いいことはずっとは続かない」とばかりに、でも、でもが続きます。

 

まるで、「でも」と加えることで、傷つくことを先回りして回避できると思っているようです。

 

確かに、人生は上手くいくときもあるし、上手くいかない時もあれば、自分にとっていいことばかりでもないしょう。

 

でも、だからとってせっかくいいことが起きているときにわざわざ水を差すことは役に立ってるでしょうか?

 

ただ単純にもっとその瞬間をただ味ってもいいと思うのです。

 

しかも、「でも」と言うことで本当に傷つくことを避けられるのでしょうか?

 

そもそも前提がおかしいんじゃないか、と考えてみるとどうでしょうか?

 

例えば、

 

上手くいかないことは「悪いことだ」という前提。

自分の思うようにならないことは「悪い状態」という前提。

いつも上手くいくべきだ、という前提。

常に自分は完璧であるべきだ、という前提、です。

 

 

人生には波があります。

波のてっぺんにいる時を人は成功と呼びます。

波の下がっている時にいる時のことを、人は挫折と呼びます。

 

でも、波は常に動いていて次の波が来ます。

 

下がったと思っても、方向が上向いていればいいのです。

次の波がまた先に連れていってくれるからです。

 

私はメンターの先生にこう言われたことがあります。

 

「波のてっぺんにいる時も波の底にいる時も違いはないのよ。

ただ、目の前に学ぶことがあるだけ」、と。

 

多くの人は(私も含めて)波の底にいる時にこそ謙虚に学ぼうとします。

 

なぜなら、なんでも物事が上手くいっている時に人は他の人に耳を傾けないからです。

 

自分の思ったようにならないからこそ、自分の望むようにするにはどうしたらいいか?と考えるようになるからです。

 

 

まずは、「でも」をやめることから始めたいと思います。

「自分を知る」ということー「自分がやりたいことが分からない人」とランチ選びの関係

突然質問です。

三日前に食べたランチを覚えていますか?

 

 

なんでランチかと言うと、「自分を知る」ということの一つだからです。

 

「自分を知る」というと、とても大きなことのように聞こえるかも知れませんが、ごくごく日常の中にあります。

 

先日あるカフェで、ケール&キーウィージュースをオーダーしました。

 

私の身体は疲れている時によくケールを欲しがります。ビタミンやミネラルが多いので、身体に浸透する感じがします。

 

出てきたのはとてもとても小さいジュースでした。

 

しかも、ほとんどケールの味はしませんでした。

 

 

その瞬間いろんなことが頭に浮かびました。

 

 

ーああ、これなら自分でつくった方がいいな

ーあのスーパーで最近ケールは見なくなったけど、どこのスーパーにあるのかな?

ーケールをみかけたら買っておこう(希少だから)

ー他に自分にエネルギーをくれる食べ物は何だろう?(エネルギーの高い物を口にしたい)

ーどんなものを食べる時に身体の調子がいいのだろう?

 

 

難しい結論でもなんでもないけれども、「そんな思い」をとても強くしました。

 

こうやって私たちは、日々何かを「感じ」、「発見し」、「思い」、「修正し」、「決めて」います。

 

しかも、体験したものが「期待外れだったりすると、じゃあ「次はこうしよう」「だから、今度はこうしたい」と、その反対に対する思いを強くします。

 

 

私の場合、スタバのラテよりも数百円高かったジュースが期待ハズレだったので、自分でケールスムージを作りたくなりました。
私はこの店で同じジュースを買うということは「繰り返さない」でしょうし、この体験は、自分の身体やエネルギーの状態に意識を向けるきっかけの一つになりました。

 

 

こうして、私たちは日々何かを発見したり、「学んで」います。

そして、自分について発見しています。

 

これを「体験」というのですね。

 

 

体験というのは、単なる「事実」の列挙ではなく、その出来事を通じて自分は何を感じ、思い、結論づけたか?ということだそうです。

 

 

 

 

自分がやりたいことが分からない人は多いようですが、

そんな人こそ、自分が食べるランチを「完全に」「意識的に」「全責任をもって」選んでみてください。

 

 

なんで、私はこれを食べたいと思ったのか?

美味しかったですか?自分で星をつけるとしたらいくつ?

あまり美味しくなかったですか?自分で星をつけるとしたらいくつ?

 

 

なんでそのお店・メニューを選んだのですか?

外見はどうだったのか?

お店の雰囲気はどう感じたのか?

お店のスタッフやシェフの印象はどうだったのか?

直感的な第一印象は何と言っていたのか?

 

 

その感覚はあくまでも主観的です。

それでいいのです。

自分が感じることに「正解」も「間違い」もないからです。

 

 

大事なのは、じゃあ次はこうしたいな、というサイクルに繋がっていることです。

 

 

食べ物は私たちの感覚を正直に刺激してくれるものの一つです。

「美味しい」と単純に満足を感じるし、「美味しくない」とイマイチだったな、と単純に感じるからです。

 

 

 

食に対する意欲は人生に対する意欲と比例する、といった友人がいました。

私たちは日々食するもので成り立っているので、それを聞いた時になるほど!と思ったことがあります。

 

美味しいものがわかることは一流の音楽や「ほんもの」がわかるということにも繋がっていると個人的には思います。

 

そして、「いいお店」が分かること・知っていることは、大人のリソースとしてはとても重宝されるものです。

 

 

「今日の私」は、日々の体験の結果です。

 

どんな体験にも無駄はありません。

 

「体験」こそが私たちを学ばせてくれます。

朝起きた時の最初の10分のモードがその1日の体験を決定する

今朝、朝起きた時の自分の気分を覚えてますか?

 

マインドフルネスに関する研究では、特に意識をしない限り、朝起きた時の最初の10分のモードがその1日の体験を決定する、ということが明らかになっています。

 

朝、自分のために早起きすると気持ちがいい、というのは、物理的に時間を持てるということもそうですが、自分の意思で意識的に早起きをすることによって、余裕や落ち着きを感じられ、しかも自分で人生に向き合っているという「前向き」な気持ちがつくられること、そして、その後の1日もさらに相乗効果のようにスムーズに進む、という面も大きいのではないかと思います。

 

逆に、今日は1日何をやったのか分からないまま終わってしまったと感じる時ほど、その日の意図が明確ではなかったなと私自身気づきます。

 

時間管理や手帳術では、よく最優先事項を先に決めなさい、と言われます。それが決まられていないと、重要でないことに時間を奪われる、のはいとも簡単だからです。

 

「エネルギーは意図に従う」、という表現があります。

 

細かいことを全て計画することはできませんし、全てが計画通りに進むとは限りませんが、「意図」を持って臨むかどうかで大きな違いが出ることは何度も体験しています。

 

意図の力は、打ち合わせや会議に参加する時、特に、日常での人間関係で非常に重要となります。

 

先にお伝えしたように、人間の脳は無意識のうちに他者を分類し、大抵の場合、いったん決められた先入観やステレオタイプ的な見方に従って相手のことを見ているとお伝えしました。

 

これによって、私たちはあまりにも無意識のうちに上司や同僚との関係において、いつもの反応やパターンを自動的に繰り返しているからです。

 

自分の思考と「反応」と実際の行動に意識がない限り、私たちの脳は、「この人は自分の敵か味方か」というレベルにおいて「闘争・逃避反応」(fight or flight)を繰り返しています。

 

こうしたパターンを変えたいと思ったら、その会議や打ち合わせに自分が臨む「意図」、相手との関係における「意図」を先に決めておくことです。

 

例えば、

チーム全体に貢献すること、

相手に与えること

相手のことを本当に理解すること

相手との関係を深めること

チーム全体を勝たせる、

 

といった意図を持つことができます。

 

 

そうした意図とは逆に力にならない欲求があります。

 

自分だけ勝ちたい

かっこいいことを言わなきゃいけない

優秀そうなことを言わなきゃいけない

目立ちたい

賞賛されたい

などです。

 

これらは、守りの姿勢です。

失敗すること、恥をかいて傷つくのを怖れている状態です。

エネルギーが「内」に向いている状態です。

 

 

もちろん、人間ですから誰しもそういう不安や思いはあります。ただ、先にお伝えしたように、その次元にいる限り本当の力は持てません。

 

それを超えた「意図」を持つ時に、本当の力を体験することができます。

 

意図を持つことは、それをどのようにするのか分からなくても、自分のエネルギーを外に向けること、自分が望むことの意思表示をすることになるのです。

トランプ大統領の当選を予測できなかった時代を生きる私たちが自分の「判断基準」を持つために

トランプ大統領が当選したのを知った時に真っ先に思ったこの一つは、これからは「自分で考えなきゃいけない」時代なんだなということでした。

 

なぜなら、メディアや予測もあてにならないし、誰かの意見を一方的に信じていればいいという時代が終わりつつあるのを感じたからです。

 

自分の「判断基準」がより求められる時代なのでしょう。

 

そもそも判断基準ってどうしたら養うことができるんだろう?と考えていたら、

ある人の記事でこんな「くだり」をみつけました。

 

判断基準の一つは、「自然」か「自然じゃないか」ということ。

 

それで思い出したのは、ケニアのサファリに行った時のことです。

 

なぜなら、ライオンがいつでも「勝つ」わけではないからです。

 

 

目の前で野生の象やキリン、ライオンを目の前に見れるのは本当に感動です。

遠く感じるかも知れませんが、ヨーロッパへ行くのと飛行時間がそこまで違いません。

一度は行く価値はあります。

 

Mpata 241

Mpata 239

 

 

私たちの方はオリがついている専用のジープに乗ります。

相手から見たら、人間て「きゅうくつ」そうだなあと思うのかも知れません。

 

 

その時にとても印象に残っているシーンがありました。

 

目の前でイボイノシシの親子たちがのどかに草をはんでいました。

イボイノシシとは、一見ぶたのようなちょっと短足なちょっと「かわブサイク」な(失礼!)動物ちゃんです。

 

子供たちはまだ産まれて数ヶ月なのでしょうか。母イノシシの後で草をはんでいます。

 

そんなのどかな風景でした。

 

 

それが一転緊張状態に!

 

数百メートル先にいたライオンがイノシシたちに狙いを始めたのが見えたのです。

 

野生の動物を見るということは、自然界のなりたちを見るということ。

 

それも含めて、見る価値があるということなのでしょうが、ライオンが一気にダッシュを始めた時には私は思わず一瞬息を止めてしまいました。

 

イボイノシシママもライオンを察知するやいなや、一斉に号令を出したようでした。「散らばれ!」と。

 

そして、子供たちは四方八方に散らばりました。

 

すると❗️

 

ライオンはイボイノシシの子供たちが四方八方に逃げていくのについていけず、「捕獲」は失敗したのです。

 

身体の大きさも足の長さも速さもすべての面で「勝っている」と思ったライオンでしたが、小回りは苦手だったのです。

 

これを「勝敗」とするならば、イボイノシシがライオンに勝ったのです。

 

そして、さらにそこから数百メートル先のところでは、おなかいっぱいの別のライオンは昼寝をし、シマウマや別のイノシシがその周りをウロチョロしています。

 

ライオンは、おなかが一杯の時には、むやみに他の動物を襲うことはありません。

 

自分が必要な分以外は求めないのです。

 

 

たとえ弱肉強食でも、強いものがいつも弱いものに「勝つ」わけでもない。

ライオンはライオン。シマウマはシマウマ。イノシシはイノシシ。

ライオンだけがいても自然じゃないし面白くありません。

 

ぜんぶの存在があることが「自然」。

 

人間も自然界の一部です。

 

私にとって忘れられないシーンの一つです。

 

Mpata 238

こんなこと大きな声で言えないけどトランプ時代はチャンスでもあるんじゃないかと感じている人へ

find-your-center

 

米国次期大統領がもうすぐ就任しますね。

 

ふたを開けてみないとどうなるのか分からない「様子見」的な世界情勢ですが、

 

明日以降、就任式初日の政策関連の決定と発言でしばらくニュースが忙しくなるように思うので、私が感じる「心がまえ的」なことをシェアしたいと思いました。

 

なんというか、彼という存在は、よくもわるくも私たちをいろんな意味で「刺激する」存在であるのは確かのようです。

 

去年のクリスマスシーズン(アメリカ人が日本のお正月のように帰省する前)の頃には、家族のテーブルで政治が話題にあがった場合の対処法というメールが送られてきて、その影響の深さを感じました。

 

彼の差別的発言や彼のトーンを聞くやいなや、嫌悪感を刺激されることは確かにあるし、もちろん、差別的な発言も彼の攻撃的なトーンも(少しはトーンダウンするかも知れませんが)聞いていて、けっして心地いいわけではないのだけれども、

 

でも、同時に、

 

彼はある意味、誰もが心の中で持っている部分や思っていることをただ声に出して言っているだけじゃないのかな、と思うこともあります。

 

なんと言うか、「ああ、でもたしかに、人間ってそういう差別的な思考ってあるよね」と思ったりです。

 

誤解のないように言っておきますが、私は175カ国もの人たちが働く国連という組織で働いてきたので、これまで一緒に働いた上司や同僚の国はパキスタンからコソボからリベリアからシエラレオネまで、本当にいろいろでした。

 

独立前の南スーダンなど職場に日本人が一人もいない環境も数年ありました。

 

私が国連で働くのが好きだった理由は、実はとても単純で、紛争解決にかかわれるからでもなく、いろんな国の人がいる環境が好きだったから、でした。

 

でも、それは、けっして楽チンなユートピアな世界だったわけではなくて、誤解も差別的な考えもフツーにあって、それが直接的には言葉にはされなくても、ちょくちょく垣間見られるそんなリアルな場でもありました。

 

もちろん、国連という組織の性格上、そういうことを容認することはできないので、いろんな人事規則やら異議申し立ての制度もあって、人権条約や国際規約さえあるのですが、やっぱり規則で人のこころは制約できないよねー、と思ってしまうのです。

 

というか、仮に、地球に住む人全員が同じ肌の色をして、同じ宗教を信仰していて、同じ言葉をしゃべっていたとしても、

 

人間って誰かを区別する(差別する)なんらかの理由をつくるなんて、すごく簡単そうとも思っちゃいます。

 

あいつのマユゲはオレより太いとか?(笑)

 

マユゲ惑星と地球人との交流とかまったく比較の対象にならない場合はどうなるのかわかりませが (笑)

 

interstellar

 

でも、日常的(表面的)にはどうかというと、たとえば、イギリスといった国などは特にこういう傾向が強いと思うのですが、その人がどう思っているかよりも、そういう風に発言すべき、という規範がありますよね。

 

とくに、公的立場にいる人や社会的地位の高い人は、ポリティカリーコレクト(politically correct)でなければならない、ので、この傾向がさらに強いと言われています。

 

そういう場合、社会的地位と自分のアイデンティティーが同一視されていく傾向も強いそうです。

 

私もそうでしたが、「国連職員とはこうあるべき」、という具合ですね。

 

そして、「自分はこうあるべきだ」という自分の理想像もさらに加えられていきます。

 

なので、対外的な「鎧」やら、公的な「マスク」などの「ペルソナ」(パーソナリティー)のレイヤーは実はかなり沢山ありそうです。

 

 

こういう場合、シャドーを含む自分の「ありのままの姿」(嫉妬をしたり傲慢だったりする部分も)を認めるのが難しくなる、という指摘もあります。

 

 

この構造ゆえに、アメリカでは特に、社会的な地位の高い人、またはポリティカリーコレクト(politically correct)な人たち(であるべき人?)ほどトランプ発言を毛嫌いする傾向が強いと言っている人もいます。

 

自分のこうあるべき像にそぐわない、という訳でしょうか。

 

ただ、実際には人間っていろんな面を持ってる存在です。

 

 

多様性や移民の受け入れを前提とする『多様な価値観を認める英国像』は、政策的にも道徳的にもすっかり定着し、もはや疑問を持つことの許されない価値観であるかのように見えました。

 

 

移民や多様性を否定するような意見は『ポリティカリー・コレクト』でないとされ、不安や本音を口に出すことが難しくなっていったという背景がありました。

 

…(略)…

 

ただ、「こんなことを言ってはいけない」「こんな風に見られてはいけない」という自制や抑圧は、実際には誰のなかにもありうる「怖れ」や「偏見」を地面の下に押しとどめるだけです。

 

「反テロ」や「反差別主義」も、その問題に取り組むことをかえって難しくしてしまいます。

 

人間は誰もが怖れや偏見を持っていることを受け止め、それを一度浮上させ、自覚する必要があるのです。」

 

クーリエジャポン Vol.3  「チンパンジー化」が進む地球の上で、未知の恐怖に打ち勝つ方法|大仲千華「答えを求めない勇気」より

 

 

グッドニュースは、そういうものは一旦自覚されたら「力」を失って、統合されると、今度は自分のパワーになってくれるのです。

 

そして、その領域にこそ、自分の本当の力だったり、ギフトと呼ばれるいろんな才能が同時に埋もれていると言われています。

 

そういう領域は心地悪いのでつい避けてしまいがちですが、そこにこそ「宝もの」があるのです。

 

新しい時代の始まり。

 

どうせなら力をつけ、新しい「宝もの」をみつける ー そんな機会にしたいものです。◕‿◕

人間に対する激怒も絶望も原理主義も受け入れた境地で体験中のブレークスルー

heartsutrafeature

 

丸5年たって一つの「ブレークスルー」に達したように感じます。

年末に、ある大学に呼ばれて、130人のクラスで講義をした時の感想をいただきました。

 

 

「南スーダンの紛争は、一見、自分たちの生活からは離れたものに思いました。けれど、特別な支援が必要という訳ではなく、当たり前の日常をおくれるように人間的な部分に寄り添っていく姿勢が大事だと改めて思いました。」

 

 

「今日の授業を受けて『人としてそこにいること』という言葉にすごく重みを感じました。当たり前のことを当たり前に行い、中立の立場であることの重要さを強く考えさせられました。自分の視野をもっと広げて物事を見ていく必要があると感じました。」

 

今年で5年目(5回目)。私の中でも一つの「手ごたえ」がありました。

 

自分で言うのもなんですが、内容は自分の体験してきたことが中心なので、それなりに面白いと思います。

 

有難いことに、学生さんのアンケートでも「一番印象に残った授業」に何度かあげられたそうです。

 

ただ、自分でも覚えていますが、たった一年前の授業は「ぜっ不調」でした。

 

実際の体験を交えてお話しください、ということなので、私の場合、南スーダンを事例として話すことになるのですが、ちょうどその頃、私の南スーダンでのトラウマ・PTSDの「未完了」が浮上していたのだと思います。

 

無意識的に、表面的な話しで終わらそうとするのです。

 

こんなことを話したら相手の「絶望」や「トラウマ」を刺激するんじゃないか?と。

 

相手は大学二年生。中学3年生のもうすぐ卒業という時に、3.11を体験して、卒業式をすることもなく大学に入学した人もたくさんいたそうです。

 

そして今私が話そうとするのは南スーダンという国のことについて。

 

南スーダンは、世界の中でも、シリア内戦で伝えられるようなことに近い人間による蛮行が現在進行形で起きている国の一つです。

 

だからといって、その惨状について、いかにひどいことが起きているかを話すことが求められていた訳でもありません。

 

そして、個人的にもそれがいい方法だとも思わないけれども、

 

とはいえ、「希望的エンディング」で無理やり終わらせようとしている自分がいました。

 

 

無意識的にですが、きっと自分の奥深い部分にあった「絶望」に触れるのを避けていたのでしょう(確かに南スーダンでも、簡単な解決策は見えていませんが)

 

 

それ以来、数ヶ月が経ち、一見「平穏」のようだったのですが、私を「揺さぶる」出来事が続きました。

 

昨年の初夏にバングラデシュで日本人が亡くなるテロ事件が起こった時、私の知人が現場に呼ばれ、

 

同じ頃、南スーダンでは再び内戦が勃発し、銃弾が飛び交う中「たった今も銃弾の音が聞こえる」と南スーダン人の友人からメッセンジャーが送られてきました。

 

今度は、バングラデシュ人の友人から「テロ事件にショックを受けている」と相談が来ました。

 

 

 

 

まあ、なんとも「世界」はほんとうに小さいです 😅

 

 

こうして、私は、自分の中の「未完了」に向き合わざるをえなくなりました。

 

ただ、たった今、心から安堵を感じるのは、そんなこんなさえも含めて、私は「谷」の「向こう側」に到達することができたという事です。

 

人間に対する激怒も絶望も原理主義も紛争もいったん受け入れることにしたのです。

 

これは賛同するとも、諦めるという意味でもなくて、人間の強さも弱さも美しさも醜さも含め、人間という存在を受け入れた、自分が変えられないことに対して闘うことをやめた、というニュアンスの方が近いでしょうか。

 

 

モラル的に正しいからという意味でもなくて、それが私にとって楽になる方法だったからです。

 

そして、人を「インスパイアー」したいのなら、自分が「インスパイアー」されていよう、と。

 

 

今回の講義では、南スーダンでの仲裁についての私の体験談を中心にお話ししましたが、

 

言葉を超えて伝わったのは、そんな私の心境だったかも知れません。

 

「実際に紛争を見てきた人の話しを聞いたことで、戦争をする人への見方が変わりました。その人が子どもの時から紛争が起きていて隣に銃があって、紛争が起きているのだとしたら、それが当たり前になってしまって、解決策が分からなくなってしまうのだと思いました。」

 

「紛争地域でのお話は一つ一つがとても印象的だった。争っている人たちは、その生活が当たり前となっていて、ただ話しをきくだけでいい、それだけで心は変わるという言葉にとても感銘を受けた。」

 

IUHW感想文.jpg

 

そんなことも受け入れると(今の私でできる範囲ですが)、逆にそこから伝わるものがあるということ ー これは今回体験した大きな発見でした。

 

私の目的の一つは、悲惨さを伝えるのでもなく、残虐さを伝えるものでもなく、人間として感じてそれぞれ考えて欲しいということだったので、そういう意味では私にとっては大成功でした。

 

 

そして、この「ブレークスルーな境地」をまだまだ体験中です。◕‿◕。

 

映画監督のスティーブン・スピルバーグは、「戦争は人間を極限の状態に置き、人間の選択を問う」と言いました。

 

「人間は悲しみも苦しみも受け入れるほど、喜びを受け取る器も大きくなる。」という賢人の言葉もあります。

 

 

世界はあいからず激動のようですが、自分の中にそれと同調するものがなければ、そうしたことに心乱されることはありません。

 

自分がコントロールできないことを変えることはできないのだとしたら、自分の中で穏やかでいる方法をみつけたいものです。◕‿◕。