海外に行きたいのに親に反対されたら(南スーダン編)

先日、これから南スーダンへ行くという若い方にお会いしました。首都ジュバにあるユネスコ事務所でインターンをするためだそうです。せっかくのチャンスを得たのはいいけれども「治安面での不安があります」とおしゃっていました。

 

確かにそうですよね。

私も一番はじめの赴任地東ティモールへ赴任した時の治安面での不安は大きかったのをよく覚えています。

 

では、その南スーダンですが、国連要員の一番の死亡原因はずばり何でしょう?

 

夜9時以降は外に出ない(現時点での国連の南スーダンの治安対策による)

無線の使い方をしっかり覚える(現地に着いたら配られます)

無線の点呼に参加する(治安レベルによって行なわれます)

など、まず現時点での国連の南スーダンの治安対策に従うことは必須条件です。

 

その上で、何が国連要員の死亡原因となるのでしょうか?

 

南スーダン(UNMIS)における国連要員の死亡原因

 

① 病気 41件(68.3%)

② 事故 11件(18.3 %)

③   分類不明4件(6.65%)

④   悪行(malicious act)4件(6.65%)

合計60件(2005-2011年の間)

 

国連本部PKO局ウェブサイトより

http://www.un.org/en/peacekeeping/resources/statistics/fatalities.shtml

 

①   病気

病気の原因の多くはマラリアです。病院施設が限られていること、インフラの不備で輸送手段が限られるため、状態がひどくなった時に搬送まで時間がかかる(場合によってはヘリコプターを使う)ことが理由として挙げられます。

実際には、現地でのストレスレベルが日常的に高いことが認識されないまま、毎日「ついがんばってしまう」こと、積み重なったストレスが免疫レベルを下げてしまうこと、マラリアだと気づかないこと、マラリアくらい大丈夫だと思ってしまうこと、があるようです。実際、母国では実戦を経てきた頑強そうな人たちが病気で命を失くす例が私の周りでもありました。

その病気ですが、統計を改めて確認すると、2006年という始めの国連が首都を越えて地方に展開し始めた一年目で13件と一番多く起きていることが分かり、その後輸送やオフィスの整備が進むにあたり2010年では3件と数が大きく減っています。つまり、輸送手段や医療整備の整備とそのまま関連している事が分かります。

② 交通事故

二番目の原因は交通事故です。PKOの場合は、軍事オブザーバーなどパトロールを行なう時に自分で車を運転する必要のある職種が多々あるのですが、多くの国・場所で交通事故が大きな死亡原因としてあがります。自分の国ではない「解放感」、政府機能が崩壊している国ということで気が緩んでしまう、ストレスが高くなる環境で運転でストレス解消しようとすること、他に娯楽がない環境で仕事中毒になる、などが原因として挙げられます。

すると、直接的原因は6.65%ということになります。この数字を大きいとみるのか小さいとみるかはその国の情勢にもよるので一概には言えませんが、この6.65%の出来事が組織的なものなのか、突発的なものなのかという点でこの数字の評価はさらに変わります。

つまり、南スーダンのような紛争に近い最前線の勤務地・国であっても、93.35%以上は、直接的な行為ではない原因だということです。

 

アフリカ

南スーダン

内戦が再発

民族間の衝突

 

確かにそれだけで「危そう」に聞こえるし、不安が「漠然」と膨らみそうです。

知らないことが多い時には漠然と不安が大きくなるものですよね。

 

ただ、全然で紛争予防や治安維持をする人たちの間でさえ、一番の死亡原因は病気と交通事故だということです。

 

何が本当に気をつけるべきことなのかーそれがはっきりすると不安はずいぶんと和らぐと思います。

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「ミス南スーダン」スーパーモデル進出中

世界でも最も背が高いとされる人たちがいる南スーダン。

その身長を活かしてアメリカでNBAのバスケットプレーヤーとして活躍している選手もいます。

女性は背が高い方が美しいとされている国だけあって、そのスーパーモデルなみの体格を活かして、南スーダンから世界のスーパーモデルを育成しようという動きがあります。

その登竜門としてのミスコン。

まず、ユニークなのは、多民族(部族)国家ということもあって、ミスコンではその人の出身部族の踊りを披露すること。

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そして、

国が独立したばかり(2011年7月独立)ということもあって、あなたは新しい国のためにどんな貢献ができますかというテーマに自分の応えをプレゼンテーションするということ。

写真は2012年度のミスコン優勝者 Atong Demach。

 

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わっ、きれい!!!

今度のミスユニバーサルのコンテストに進出する南スーダンの代表に注目してます。

死ぬ前に◯◯したいー50才の元兵士の言葉

南スーダンで元兵士の社会復帰支援をしていた時のことです。

ある時自称50才の元兵士3人組の方にお会いしました。

 

40年近くも続いた内戦の影響で、栄養状態も悪いので南スーダンの平均寿命は40歳~50歳程です。

南スーダンで50才と言えば日本の80代の感覚です。

頭には白髪もあって、顔にはしわも拡がっていました。

 

会った場所は南スーダン人の友人が開講したばかりの小さな大学でした。大学と言っても小さな建物があるだけです。たまたま、そこに見学に来たところでした。

単純にそのことに興味を持った私は彼に聞いてみました。

「どうしてこちらに見学に来られたのですか?」

すると、小学校を終える前に紛争に巻き込まれてしまったこと、今から小学校には入れないため、こちらの大学で勉強をさせてくれると聞いたので来たということを教えてくれました。

そして、彼は私の目をまっすぐに見つめて言いました。

 

‘I was fighting in bush all my life. I want to go to school before I die.’

「わたしは人生のほとんどを戦って過ごしてきました。学校へ行ってから死にたいのです。」

 

紛争で家族や故郷から離れていた人たち、特に元兵士の人たちが故郷に戻る時、彼らは家族に対する自分の「役割」を果たすという意味でも、収入を得ることを優先します。だから、この選択はけっして軽いものではありません。

それでも、あえて、この50才の元兵士の人たちは学校へ行きたいと毎日何キロも歩いて通ってくるのだそうです。

 

学校へ行くということ ー

それは、彼にとって、

「人間である」ことの象徴なのだと理解しました。

 

 

 

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⇧ 開講したばかりの「大学」。屋根などの資材はウガンダから一つづつ運ばれてきた。

南スーダン出身の世界の有名人たち

今の南スーダン政府の政権を担っているのはディンカ族という部族の人たちです。このディンカ族の人たちは、世界の中でも一番身長が高い部族らしいのですが、その身長を生かしてアメリカのNBAでバスケットボール選手として活躍している人が何人かいます。

まず、南スーダン(ディンカ族)出身者としてはじめてNBA入りしたマヌート・ボル選手(Manute Bol)。

1985年から10年間NBAでプレーし、圧倒的な身長と手足の長さを活かしたプレースタイルでリーグ屈指のディフェンダーとして知られています。1985-86年のシーズン中は397ブロックをマークし、新人記録を打ち立てます。出場時間1分間につき、176ブロックというNBA史に残る通算記録も残しています。

ちなみに、彼のお父さんは203cm、お母さんは208cm、おじいさんは240cmあったらしいです(!)

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写真⇧ マヌート・ボル選手

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写真⇧ ルオル・デン選手

そして、亡命先のエジプトでマヌート・ボルに出会い、バスケットを習ってNBAの選手になったのがルオル・デン選手(Luol Deng)。

2004年からNBA入りして、06-07年は82試合全てに先発出場を果たし、フェアにプレーし、オフコートでもリーグの見本となる行動をしたプレイヤーに送られる賞、「スポーツマンシップ・アウォード」を受賞しています。2010-11シーズンは、チームのキャプテンを務めています。

南スーダンの若者にバスケットボールを教えたりするEnough Projectを立ち上げています。

南スーダンで求婚される?!の巻(2)

黒くて背の高い人が美しいとされる南スーダン。黒くないし背も低いワタシ。そんな私が求婚されることに。。。?!

同僚のフィリピン人の家に南スーダン人の高校生アコルくんが居候していました。このアコル君、南スーダンの北西に位置するワラップ州というところの出身で、自分の生まれ故郷には高校がないとかで、学校へ行きたいとの思いを捨てきれず、一人で街に出てきたそうです。

親戚も知り合いもいない街でしたが、外国人を見つけては、

家の手伝いをしますから家に住ませて学校に行かせて下さい、とお願いをして周ったそうです。

何件か周った後で、このフィリピン人にたどり着きます。家といっても、電気もないとてもシンプルな家でしたが、

水を汲んだり、ご飯をたいたり、家の掃除をする「試用期間」を無事に合格し、

私が出会った頃はすでに学校に通いはじめ何ヶ月かたった頃でした。

 

南スーダンの現役の高校生がどんなことを学んでいるのかに興味があったので、私はそのフィリピン人の家に遊びに行く度に、よく彼とおしゃべりをしていました。

「はろー アコル、学校はどうだった?」

「今日はどんなことを勉強したの?」

一度見せてもらった数学の宿題が、2×5=(  )」だったことにびっくりして、

同じ日の別の宿題が、アフリカの戦略的な課題は何ですか?なんていう博士課程のようなテーマだったので、さらにまたびっくりしたことがありました。

彼は確か高校2年生だったと思うのですが、紛争が終わったばかりで、教科書やカリキュラムが存在していない中、実際に教えられる内容は先生の力量にほとんど頼っている状態だったのです。

ある日アコルがこちらを見て、モジモジしていました。

彼は言います。

「チカ。。。僕チカと結婚したい。。。

僕は学校に通っているから、まだ牛は渡せないんだけど。。。」

(ディンカ族では花婿の家族が花嫁の家族に牛を渡すという習慣があります。)

彼のあまりにピュアな気持ちに思わず胸がキュンとしてしまいました。

家族と離れて暮らす中、お母さんや家族が恋しかったと思うし、彼の生まれ故郷では日本のような恋愛カルチャーはないので、結婚と言っても、もっとあなたとお話しがしたい、というようなニュアンスだったように思います。

この件については、まず学校を終わらせようね、そしてまた遊びに来るからいつもの通りにお話しをしようね、という事で落ち着きました。

 

今思い出しても胸がキュンとなります。。。(≧∇≦)

アコル、今でも元気で南スーダンでがんばっていると思います。

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⇧ 初めてネクタイをもらって、しめ方を教えてもらうアコル

南スーダンで求婚される?!の巻(1)

黒くて背の高い人が美しいとされる南スーダン。背は低くて黒くないワタシ(≧∇≦)

そんな私が求婚されることに?!花婿の家族が花嫁に渡すとされているものとは?!

南スーダンの中でも影響力を持ち、南スーダン政府の政権を担っているディンカ族。彼らには結婚にかかわる独自の慣習があります。

まず、彼らの文化では肌が黒い方がより美しいとされています。外からアフリカに来ると、アフリカの人たちは単純にみんな黒く見えるのですが、目が少しづつ慣れてくるとディンカ族の人たちはその中でもさらに黒いのが分かります。

とてもキメの細かい美しいお肌を持っているので、時々思わず見惚れてしまいます。

そして、背の高い人が美しいとされています。ディンカ族の人たちは牛を放牧して暮らし、6歳くらいまでひたすら牛乳を飲んで成長するらしいのですが、2m級の人がごろごろいます。

政府のカウンターパートの一人にディンカ族の人がいましたが、彼も2mを超えてたので、毎朝「ウィリアム おはよう!」と挨拶をするのに、私は首を60度以上にあげないと彼の顔がみれない程でした。

ある日、彼が言いました。

「チカ、僕はね、家族の中で一番背が低いんだ。

小さい時はね、その事ですごく悩んでいたんだ。

6歳の時かな、始めて生まれ故郷を出て街に出た時ね、そこで始めてディンカ族じゃない人達を見たんだ。

あんな小さい人たちがいるんだってびっくりしたんだ!」

 

っていうか、その人たち小さくないから!思わず突っ込みたくなります。(笑)

ディンカ族の人達は結婚する時に、新郎の家族が新婦の家族に「牛」を贈るという習慣があるのですが、この結婚のためには牛を何頭用意すればいいか、ということがディンカの人たちの大きな話題になります。

花嫁さんが黒くて背が高い人だとより沢山の牛を用意しないといけないからです。また、相手の家族が土地の有力者(知事、軍人など)だとさらに沢山の牛が必要となります。

さて、背は低くて肌もあんまり黒くないワタシ。人間やっぱり気になるものなのです。私はどうなるの?と。

ある時、とある州の州知事と世間話をしていて話題が牛に及んだので思い切って聞いてみました。

ワタシ:あの~知事、結婚する時、背が高くて肌が黒い方がいいって聞いたのですが、私みたいな外国人の場合はどうなるんでしょう?

知事:ああ、君の場合ね、確かに黒くないし背は低いんだけど教育があるからね。

ワタシ:そっかあ、教育は尊重されるんですね!(自分も対象になると知ってホッとする(笑))

州知事:そうだ!僕のところに嫁に来たらいい。

ワタシ:(えっ???!!!)

州知事:ディンカ族は一夫多妻性もオッケーだから。僕なら300頭払えるよ!

ワタシ:知事、えーとえーと、それは大変光栄です。

ありがとうございます。

一度日本の両親に相談しないといけないので、両親から400頭お願いするように言いますね!!!

 

300頭というのは、は破格なオファーらしいのですが、こうしてディンカ族の人に求婚される(させた)一件はあっさりと終わったのでした。(笑)

そして再びディンカ族の人に求婚されることに。今度はずい分年下の人から。。。その相手とは。。。(続く)

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南スーダンからのクリスマスメッセージ

この時期にうれしいのは、あちこちにいる友人たちからクリスマスや新年のメッセージが届くこと。

ガーナやニュージーランド、バングラデシュ、スーダンなどなどからクリスマスや年始のメッセージが届きました。

中でも南スーダンの友人からのメッセージは感激深かったです。

なぜなら、その友人はちょうど一年前に勃発した南スーダンでの内戦で姪っ子を亡くし、治安の悪化で自身も強盗に襲われるという目にあい、しばらく落ち込んでいましたが、自分の国の平和は自分たちで取り戻すしかない、と最近自らNGOを立ち上げたのです。

だから、彼から送られてきたメッセージは短かったけど、

I wish you Merry Christmas and Happy New Year 2015. May you continue to prosper and your wishes granted abundantly.

Happy year year my dear!

その言葉にはそんな環境におかれていても、立ち上がって前に進み続ける南スーダンの人の強さが詰まっているように感じました。

大変なはずの彼ら・彼女たちに東京で暮らしている私は勇気をもらい、励まされる思いでした。

南スーダンに平和が戻ること、南スーダン人たちが平和に新年を迎えられていることを祈ります。

南スーダンが世界に教えられること(3)

世界で一番新しい国の一番新しい大学の生徒に書いてもらったエッセイが手元にあります。住民投票で独立が決まって間もない2011年1月だったので、自然と独立に関連したものになりました。

「『南スーダン』が『スーダン』の体験から学び、新しい国の国づくりに活かすことは何ですか?」「部族化を超えて国をまとめるものは何ですか?」「南スーダンのビジョンは何ですか?そのためのあなたの役割は何ですか?」「独立が決まったばかりの南スーダンが世界に教えられることは何ですか?」その中からテーマを自由に選んでもらいました。

南スーダンの人たちが望んでいることはとてもシンプルなこと ー 彼らの想いが、独立後内紛を始めた南スーダンのリーダー達に届くことをを願います。

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私は今の南スーダンにとって一番必要なのは教育だと思います。なぜなら、教育を受けることで農村に住む人にも街に住む人にも礼儀正しく接することができるからです。礼儀正しく接するということは、違う考えを持っている人たちを理解するということです。相手を理解することができれば、部族の間の争いも無くなると思います。そうすることで、南スーダンは世界の様々な活動に参加できるようになると思います。

米米米

私が望むのは、全ての子どもたちが学校へ行けるようになることです。全ての子ども達が学校へ行けるようになるので、字が読めない人・書けない人がいなくなります。それによって全員が社会に役に立てることをみつけます。教育は特に女の子にとって重要だと思います。なぜなら、女の子が平等に扱われるための手段だからです。学校へ行くと悪い影響があると考える親たちがいますが、それは間違った考えだと思います。私はそのような偏見をなくしたいです。

米米米

私は農業を拡げたいです。たくさんの物資を輸入している南スーダンですが、もっと肥沃な土地がを活用して、農業を輸出資源とすることができると思います。

米米米

私は教育が南スーダンをまとめる鍵だと思います。教育があれば、理解が生まれます。教育があると民主的な制度ができます。民主的な制度があると、誰かが抑圧されたり搾取されたりすることがなくなります。汚職もなくなります。新しい国では誰もが平等に扱われるようにしたいです。

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南スーダンが世界に教えられること(2)

世界で一番新しい国の一番新しい大学の生徒に書いてもらったエッセイが手元にあります。南スーダン人のジョンボスコさんが私財を投じ開講した大学、South Sudan University of Science and Technologyの生徒さんです。

「新しい国に役に立てる人になるために教育を受けたい」「学校へ行ってから死にたい」という人達に教育を届けたいという想いで大学が開かれました。そんな彼の意気込みに感化され、小さな奨学金を設けることになり、エッセイを書いてもらったら、思った以上の力作が集まりました。

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(写真上)ウガンダから屋根などの地道に資材を運びようやく第一段の校舎が完成。(写真右)大学開設に奮闘中のジョンボスコ

住民投票で独立が決まって間もない2011年1月だったので、独立に関連したものになりました。「『南スーダン』が『スーダン』の体験から学び、新しい国の国づくりに活かすことは何ですか?」「新しい国をまとめるのに必要なことは何ですか?」「南スーダンのビジョンは何ですか?そのためのあなたの役割は何ですか?」「独立が決まったばかりの南スーダンが世界に教えられることは何ですか?」これらのテーマの内から自由に一つを選んでもらいました。

国をまとめる原動力になるものは何か?暴力の連鎖を断ち切るものは何か?何が人々を和解に向かわせることになるのか?紛争地で仕事をしてきた私自身一緒にヒントを考えたいという想いでした。

南スーダンは2011年7月の独立を経て、2013年12月以来、再び政情不安が起きていますが、今読み返してみると、これらのエッセイに書かれていることに驚きます。南スーダンの人はまさに今の状況で何が大切なのかを十分に知っている、と感じます。

米米米

住民投票の日には一票を投じるために並ぶ人の長い列ができていました。何時間もかかりましたが自分の順番を待ち続けました。すぐ暴力に訴えると言われる南スーダンの人たちですが、脅しも暴動も全くありませんでした。とても平和な雰囲気の中で投票が行われました。それは、差別ではなく平等に扱われること、争いではなく平和を選ぶという意思表示でした。長年の願いが叶った瞬間でした。誰も私たちの尊厳を奪うことはできません。

私たちは植民地と独裁政権を体験をしたからこそ、平等に扱われることの価値を知っています。だからこそ、民主的な国を作ることができます。

私たちは長年の「敵」であったスーダン共和国と最高の友好関係を築きます。私たちは国際連合の加盟国となりその友好の精神を国際社会に伝えます。それが、わたしたち南スーダンが「世界へ教えられること」です。

軍隊の人たちが目を輝かせた瞬間

国連の平和維持活動に関わることのユニークな体験の一つは、軍人の人達と一緒に働くということだったかも知れません。南スーダンにいた時には、30カ国以上の軍人の人達と日常的に接していました。一緒に情報収集をしたり、計画をたてたりとお互いが必要になるのです。

そんな私ですが、最初は「軍人」に対する偏見がかなりありました。究極のヒエラルキー組織である軍隊を相手に、最初はどの階級がどの順番に偉いのかさっぱり分かりませんでした。。。

彼らと一緒に働く中で「軍人」という人に対する偏見はかなり溶けたものの、軍人という人たちをようやく少し理解できたと思えたのは、個人専門家としてアジアや中東の国の軍隊に対して国連PKOに関するトレーニングの講師を努めていた時でした。

「みなさんは国連の精神を示しに行くのです。みなさんの行動一つ一つが国連の信頼に関わります。」国連要員としての心構えを教えることが大きな目標の一つでした。住民の人たちから見れば、軍人の人達も私たちのような文民も同じ国連の要員だからです。

それには、今までとは「真逆なこと」を実践するということも含まれました。
例えば、今までは「敵を倒す」ことを訓練されてきたのに、国連PKOの現場では「敵」は存在しない、と言われます。
相手が「武装勢力」や暴徒であっても、彼らは敵ではなく話し合いをする相手だからです。

まず交渉すること、
武器は最後の最後の手段として正当防衛にのみ使用すること、
ただし一般住民を保護する時には使ってよいこと、
住民への暴力を防ぐために積極的に行動すること、
人権を尊重することなどが、求められます。

住民役の人たちを雇って、具体的なシーンを再現した本格的な演習も行いました。身体が反応してしまうのか、発砲音を聞いたら自動的に「敵」を追いかけてしまうということもありました。

「その判断をしたのは何でですか?」
「みなさんは地域の住民の人にとってどう映りますか?」
「紛争を『予防』するために何をしますか?」
「みなさんは軍隊のスキルを人を助けるために使うことができます」

住民の人達と向き合う時の姿勢、情報収集のためのコミュニケーションのし方、紛争を「予防」するというあり方にまで注意を向けました。
内容が内容なだけに全員が必死です。

この経験は、私にとって軍人という人たちの視点や体験を理解する貴重な機会になりました。自分自身の安全を保ちながら住民を保護するという仕事は、相当な精神力と技術的な鍛錬が求められるということ、そのプレッシャーの大きさを実感しました。面白いことに、こちらが相手を理解し始めると、それが相手にも伝わるのか、トレーニング中にいろんな人が私に話しかけてきてくれました。

「今まで人を倒す戦術しか習って来なかった。初めて国連の理念に触れることができて嬉しい。」(モンゴル軍オフィサー)
「僕は2回目のイラク派遣で、ようやく『敵』も人間だって気づいたんだ負傷したイラク兵を病院に運んだよ。僕たちはたとえ戦闘中だって敵を人間として扱うべきなんだ。」と米軍の同僚がバングラデシュ軍を相手に語り始めました。
「ネパール軍に戻ったらこんなこと言えないけど、僕はずっと『反政府勢力』ともっと対話をするべきだって思ってたんだ。」(オフィサー)
「軍隊にいて長年葛藤があったけど、『人間』らしくあることを自分に求めていいんだって思えた。」(バングラデシュ軍オフィサー)

実際、軍人の人たちがそのスキルを人を助けるために使える場があると発見する時、人が変わったように生き生きし始める瞬間を現場でたくさん見てきました。私が彼らのことを知りもせず、見たいように見ていたら、そんな会話は成り立たなかったかも知れない。。。人間というのはその人がどんな職業をしていたとしても人にどう思われていようとも、究極的には誰でも人の役に立ちたいと思ってる、彼らはそんなことを教えてくれたように思います。