マイストーリー⑫ 原爆の投下ってアメリカにとって『勝利』とは思えないんだ

どうしたら「憎しみの連鎖」を断ち切ることができるんだろう?

和解やゆるしを促すものは何か?

どうしたらその人や国の中で紛争や戦争が終わったと言えるんだろう?

 

南スーダン以来、そんな疑問がわたしの中に残っていました。

そんな中、スリランカ軍対象のトレーニングの講師を打診されました。

 

えっ?スリランカ軍?

一般市民の犠牲者を大勢だして内戦を制圧したばかりのあのスリランカ軍?!

 

スリランカ軍といえば、ちょうどその3年前に、内戦を武力で「制圧」したばかり。タミールタイガーが「人間の盾」で必死の抵抗を試みる中で、スリランカ軍は、一般市民が巻き添えになること知りながら圧倒的な武力で制圧を敢行。何万人もの死者を出したとして当時の責任を当時国連の人権委員会や各地の人権団体から追及されている「張本人」でした。

 

今度はスリランカかあ。

 

私自身、紛争中のスリランカを訪れたことがあり、私が通ったばかりの同じ幹線道路上でたった数時間後に爆破テロがあったことを知ったこともあったし(私はホテルに戻ってそのニュースを知りました)、タミールタイガーのテロによって焼かれたバスを目撃したこともありました。

 

 

さすがに数日迷ったものの、

引き受けようと思ったのは、

 

どうしたらその人や国の中で紛争や戦争が終わったと言えるんだろう?

内戦が終わった3年後のスリランカの状況はどうなんだろう?

「ゆるす」という行為はどうしたら進むんだろう?

そんな私の中の深い部分での関心でした。

 

シンガポールを超え「カレー文化圏」に入ると、女性たちの衣装が華やかになります。

私は紛争中の緊張感を覚えていたので、首都のコロンボでの紛争が終わった街と人々の「開放感」を肌で感じながら、ああ、紛争が終わるってこういうことなんだあ、と感慨深さを味わっていました。

 

もしかしたら、思っているより悪くないかも?!

首都の明るい雰囲気にわたしの気持ちは少し弾んでいました。

 

そんな雰囲気もあってか、

部屋に戻る前に、まだなんとなくブラブラしていたい気分だった私は、宿泊先のホテルの売店を覗いて帰ることにしました。

観光客向けのサファリの本が並んでいるのを見て(スリランカは野生の虎が有名です)、ああ、紛争も終わってこれからサファリに行く時代なんだな、とやはり少し感慨深い気持ちを覚えていました。

 

その隣にはスリランカの内戦について書かれた本が数冊並んでいました。

スリランカのような国では観光客向けにそういう類の本が並んでいることは珍しくありません。

 

なにげなく、パラパラとページをめくる中で私の目に飛び込んできたもの ー

 

それは、タミールタイガーに切落とされたスリランカ軍や警察の死体、一般市民が狙われたバスなどの写真の数々でした。

 

!!!ーーーーーーーーー

 

どこかにあった「淡い期待」は、

どーーーーーーーーーーーーーーーーーん!と一気に吹き飛ばされてしまいました。

 

そう、スリランカではそのようなテロが日常茶飯事だったのです。

そして、その報復にスリランカ軍や警察は、タミル系住民への迫害を強めていたとも言われていました。

 

この人達はまさにその最中にいた人たち。。。

 

私は彼らにどう向き合えばいいんだろう?

この研修で私がやることは何だろう?

私が彼ら・またはスリランカの人たちに届けられる言葉はいったい何だろう?

 

私の中で答えはでないままに、研修がはじまりました。

 

ちょうど同じ週に国連の人権委員会が現地調査に来ることも関係していたのでしょう。

彼らは、無言の、しかし、はっきりとしたメッセージを発していました。

「そのことには触れてくれるな」と。

 

たしかに。。。

 

最初の数日は、相手はこの研修のテーマ(紛争や国連の平和維持活動)といったテーマについてどう感じているんだろう、どう話せばいいんだろう?

互いに「探りあい」のような状況が続きました。

 

さて、今日で研修の前半は終わりという時、講義の最後の質疑応答の時間に彼らの一人の手があげられました。

 

「あのー。。。」

「タミル地域ではこういう事もあったんです。」

 

 

彼らの発言内容に対して同意する・しないは一旦保留しながら(事実と証拠がないので判断もできません)、まず、そうしたコメントを「受け止める」ことが大切だと思いました。

 

それは、あくまでも、彼らにとっての体験ではあるのでしょうが、彼ら自身、自分の体験を話したい・聞いてもらいたいという現れの一つだと私は解釈しました。(自分の体験を話す・聞いてもらうこと自体に大きな癒しの効果があることはよく知られています。)

 

彼らが直接言葉にはしなくても彼らの中にも大きな葛藤があるのをひしひしと感じていました。

「この内戦にはどんな意味があったのか?」

「『制圧』は正しかったのか?」

 

そして、軍隊だけでなく、

「なんで自分の家族が?」

「なんでこんな戦争を許してしまったんだろうか?」

 

シンハラ系住民にもタミル系住民の間にも、それぞれに大きな苦しみがあり、

同時に、もう二度と内戦には戻りたくないという強い思いが社会全体にあるのを感じました。

 

さて週明けは何と言ったらいいんだろう?

今スリランカで必要とされていることは何だろう?

 

9.11のテロの被害者にとっては何が役に立ったのかをまとめたアメリカの大学の研究

日本から持参した日本のB級戦犯の手記

世界の紛争地での事例。。。

 

紛争の原因や経過について分析した研究は何万とあるけれども、個人と社会全体の和解や癒しのプロセスについて体系的に書かれたものはそんなに多くない。。。

 

「答えのない問い」だけれども、いろいろな人のいろいろな角度で書かれた体験やまとめを読みながら、私は和解について考え続けていました。

 

ようやく、自分の中で「ストン!」と何かが「腑に落ちる」感覚を得て、

結局、研修の後半では、こんな話しをしました。

 

「『被害者』は加害者に事実を認めて欲しい、どんな影響があったのか理解して欲しい、謝罪して欲しい、二度と同じことを起こさないと誓って欲しいと望みます。

『加害者』は、被害者に対面するのが怖いということ、『加害者』としての苦しみや傷もあることを理解して欲しいと望みます。可能ならば受け入れられることを望みます。

両方が傷を負うという意味においては、両方ともが「被害者」であると言えます。」

 

紛争後、元兵士の社会復帰を支援するために、どんなことが重要か?あくまでも「一般的には」という文脈での話しでした。実際に言葉として伝えることができるのはほんの一部です。

 

その後、ある大佐の人が私のところにやって来て言いました。

「この内戦の中、何人もの部下を自分の目の前で殺された。腕にはその時の傷もある。それでもタミールタイガーを赦したい。自分が楽になるためにそれが必要だと思うから。」

もしかしたら、彼は外国人である私に対して、スリランカ軍はそう思っているよ、という「ジェスチャー」も含めてそう言ったのかも知れません。ただ、その時、彼の中にある苦悩に触れたのを感じた時、もしかしたらジェスチャーとも言えないかもと感じました。

 

苦しい。

この苦しみから楽になりたい。

この苦しみから楽になれる道があるとしたらそれは「ゆるす」ことしかない、と。

 

けっして、軽い意味では言えないであろう事を伝えに来てくれた彼の言葉のトーンを今でも覚えています。

そして、講師チームを一緒に組んでいた同僚のアメリカ人(ルワンダなどで人道支援にあたっていた)の人が言いました。

 

「アメリカでこんなことを言う人は少ないけど、原爆の投下ってアメリカにとって『勝利』とは思えないんだ。」

 

スリランカの経験について学んでいたと思っていながら、これはそのまま日本に当てはまることかも知れない ー そんなことを思いました。

 

戦争に「勝者」はいない。。。

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紛争。

憎しみ。

ゆるし。

 

けっして簡単に向き合えるテーマではないし、

ぶっちゃけ答えも正解もない。

 

私がその時期に人権侵害の当事者であるスリランカ軍の研修を務めたことでさえ、いいかどうかなんて分からない。

 

あの時何を言えばよかったのか?

言わなかったらよかったのか?

ただ、実際に言葉として伝えることができるのはほんの一部。

 

ただ今の時点でもし何か言えることがあるとしたら、

自分なりに「答えがない問い」に向き合い続けること

 

もしかしたら、その姿勢を通して何かしら伝わるものがあるかも知れない。

 

そんなことを思ったスリランカでの体験でした。

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マイストーリー⑪ どうしたら究極の男性社会である軍隊が耳を傾けてくれたのか?

 

国連を退職して、燃え尽き、まったく働けなくなった時期を経て、

私は、米海軍大学院付け Center for Civil Military Coorperation (CCMR)の専門家として、アジアや中東の軍隊に国連平和維持活動について訓練する国際的なプログラムの講師となりました。

当時、そのプログラムで講師を務めていた人たちは元軍人のアメリカの人たちが多く、女性はそもそも数が少なく、日本人の女性としては私のみでした。

 

相手は現役の軍人。母国で内戦に関わった人たちもいる。

さて、彼らにいったい何と説明をしたら耳を傾けてくれるんだろう???

 

 

そもそもなぜ私が雇われたのか?

その理由の一つは、私が「女性」だったからでした。

 

では、なぜ女性が必要なのか?

 

国連の平和維持活動の目的は「敵」を倒すことではありません。

国連の現場では「敵」はいないと言われます。

なぜなら、たとえ 相手が「武装勢力」や暴徒であっても、彼らは話し合いをする相手だからです。

 

暴力を止めさせること、

なんとか話し合いの糸口をつかむこと、

交渉することが求められ

武器は最後の最後の手段として正当防衛にのみ使用することが許されています。

 

同時に、住民を暴力から保護する時には武器(銃)を使ってよいこと、

日常的に紛争を予防すること、

住民への被害を防ぐために積極的に行動すること、

人権を尊重することも求められます。

 

ではその肝心の「現地住民」のことを私たちはどれだけ知っているのか?

その住民の半分は当たり前ながら女性。

 

わたし自身、特に女性だからというアイデンティティーはあまり持っていないのだけれども、現地の人たちとの信頼関係を築くことが紛争の予防のための一つの鍵だとしたら、

 

実際には女性だからこそ出来る領域が存在することは事実なので、講師に女性がいるのは私自身もいいことだと思いました。

 

とは言え、それが彼らにとってどこまで説得力を持つのかはまったく別の話しです。

 

この研修では2~3週間かけて、現役の軍人に国際人道法からジェンダーから、武器使用基準から交渉までをみっちりトレーニングします。

 

究極の男性社会である軍隊に(しかも内戦をしてきた人達に)ジェンダーの話しがどこまで通じるんだろう???

いったい彼らに何と説明をしたら聞いてくれるんだろう???

内戦をしてきたかもしれない彼らに私が伝えられることは何だろう???

 

 

私は緊張したまま、バングラデシュへ出発しました。

バンコクで乗り継ぎ、首都のダッカに到着。ダッカからさらに車で3時間ほど走り、バングラデシュ軍の国連PKO訓練センターに到着しました。

研修の部屋のレイアウトを確認し、女性トイレの場所を確認し(軍の施設では女性の数が圧倒的に少ないのでこれが大切です)、次の日に備えました。

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訓練の1日目。

冷静を装っていたつもりだったけれども(多分ばれてた)内心、私の心の中は緊張でバクバクでした。

2日、3日たって、大きなバクバクが小さなバクバクになってきてよかったと、ホッとしたと思ったのもつかの間、講義の最後の方で質問がでました。

 

「とはいっても、国連は◯◯で何も出来てないじゃないか?」

 

確かに。。。

ある意味健全な反応だと思う。

だって、その中にいる私なんて、本当に本当にしょっちゅうフラストレーションを感じるているんだから!!!

実際に、国連という組織の理念が大きければ大きいほど、現実のギャップを目のあたりにする時、そういう疑問やフラストレーションもさらに大きく感じます。

 

ただ、その質問に対してはいろんな角度から応えることができると思いましたが、この場合、質問の真意は別のところにあると感じました。

 

その質問の真意とは、

「公式意見じゃなくてあなた個人の意見を聞きたい。」

 

もっと言うと、

「あなたはどういう気持ちでこの課題を捉えているんだ?」

 

もっと言うと、

「あなたっていう人はどんな人なんだ?」

 

もっと言うと、

「僕たちは実際に内戦をしてきた軍隊なんだ。単なる理想主義も理論も信じられない。どうしたらあなたの言うことを信じられるのか?」ということだったと思うのです。

 

その通りなのです!!!

ただね、こっちだって本気なんだよ!!!!!

私は経験上、こういう時にはこちらの本気度が試されていることを直感的に感じました。

 

わたしも腹をくくりました。

わたしは真っ直ぐ彼の方に向きなおし、ゆっくりとしかし一言一言はっきりと話し始めました。

「私個人の意見をお伝えします・・・」

 

正確な表現は覚えてないけど、それ以来、流れが「ガラッと」変わり始めたのをはっきりと覚えています。

 

それはいわば、お互いを理解してみようかという「はじまり」だったのです。私が彼らに半身半疑だったのと同じだったように、彼らだって私に半身半疑だったのは当たり前。

南スーダンにいたと時には、30カ国以上の軍人の人たちと日常的に接していた私でさえ、自分の中にある根強い「偏見」というか、誰かを「悪者」にしておきたいという誘惑に直面することになりました。

完全にわたしの「偏見」がなくなったとは言えなかったけれども、それは一旦脇において、ともかく目の前の訓練に集中しようと思いました。

 

 

「みなさんは国連の精神を示しに行くのです。

みなさんの行動一つ一つが国連の信頼に関わります。」

現地の住民の人達から見れば、軍人も私たちのような文民も同じ国連の要員です。実際のところ、紛争地であればある程、最後に自分の身を守るのは信頼関係です。

 

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「その判断をしたのは何でですか?」

「みなさんは地域の住民の人にとってどう映りますか?」

「紛争を予防するために何をしますか?」

 

住民の人達と向き合う時の姿勢、

情報収集のためのコミュニケーションのし方、

銃の構え方にまで注意を向けました。

 

面白いことに、こちらが相手を理解しようとするとその姿勢が相手にも伝わるのか、

訓練がもうすぐ終わろうという頃、一人一人ポツポツと私に話しかけてきてくれました。

 

「長年軍隊にいて葛藤があったけど、『人間』らしくあることを自分に求めていいんだって思えた。」(バングラデシュ軍オフィサー)

 

「僕は2回目のイラク派遣で、ようやく気付いたんだ。

『敵』も人間だってことを。

僕たちはたとえ戦闘中だって敵を人間として扱うべきなんだ。」(米軍同僚)

 

「ネパール軍に戻ったらこんなこと言えないけど、僕はずっと『反政府勢力』ともっと対話をするべきだって思ってたんだ。」(ネパール軍オフィサー)

 

「実はぼく軍隊をやめようと思っていて。。。」

 

えっ?!これそういうトレーニングだったっけ?!(汗。。。)

 

「みなさんがすでに持っているスキルを人を助けるために使うことができますよ。」

たった2週間のうちに、人が変わったように生き生きし始める瞬間を目の前で私は目撃することになったのでした。

人というのは、究極的には誰でも人の役に立ちたいという願望を持っている存在なんじゃないか?

 

たとえ相手が誰であっても、

自分の中の偏見や判断が完全になくならなかったとしても、

それを一旦保留し、一人の人間としてただ目の前の人に向き合うということー

 

この一見とても静かなアプローチにはとても大きな効果があるんじゃないか?

 

 

そんなことを体験してトレーニングは成功りに終了しました。

 

大仲千華 経歴

2001-2002年 国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)選挙担当官

2002-2003年 国際協力事業団(JICA)準客員研究員

2003-2004年 UNESCO 中央アジア事務所 社会科学・人権担当官

2004-2006年 国連ニューヨーク本部 PKO局 DDR 担当官

2007-2008年 国連平和維持活動スーダンミッション(UNMIS)DDR 担当官

2009-2011年 国連開発計画(UNDP)南スーダン事務所 社会復帰支援専門家

2012-2013年 米国政府 海軍大学院 Center for Civil-Military Relations, Global Peace Operations Initiative(GPOI)専門家

英国 オックスフォード大学より全額奨学金を授与され修士号(MSc Social Anthropology)を修了 (New Century Scholar)。


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マイストーリー⑨あなたは私たちが「可哀想」だから来たのか?

私は、赴任先の南スーダンで今までにないチャレンジに直面していました。

除隊兵士の社会復帰の支援という仕事 ー この長いプロセスのための作業は山積み。仕事をこなしながら、現役の軍人から政府の高官からシスターなどいろいろな人とも関係を築かないといけない。

私は身体が強いわけではないし、体力があるわけでもない。みかけは華奢な体つき。

このままではいくらやっても燃え尽きるのは時間の問題。

さて、私がやることは何だろう???

私の南スーダンでの仕事の一つに、和平合意が守られているかどうか当事者同士で確認するための定期会合にに文民の一員として参加するというものがありました。

世界の中でも最も争いの根が深い紛争の一つとされた南スーダンでは、和平合意が結ばれた後、和平合意が結ばれ守られるためにいろいろな仕組みがありました。その一つが、国連が第三者として中立の場所を提供し、定期的に和平合意を結んだ人たち本人が定期的に集ってもらうことでした。

その定期会合は、一万2千人強の国連軍を指揮するForce Commanderと呼ばれる軍人のトップ(General=大将レベル)が議長を務める国連の役割の中でも最も重要なものの一つで、かなりの緊張を強いられる会合でした。なぜなら、お互いが不信をぶつけあうからです。

「こんなことが起きた (怒り)」

「これは和平合意違反じゃないのか!(怒り)」

特に「南スーダン人民解放戦線 (SPLA)」側の激怒です。

彼らは40年も続いたスーダンの内戦の中で、「反政府勢力」、ある時期においては「テロリスト」と呼ばれた人たちです。

一旦彼らが発言を始めると彼らの怒りが止まらないのです。

自分たちの地域だけ学校も病院もない、南スーダン出身という理由だけで公務員試験さえ受けられない、「野蛮人」と呼ばれてきた等の歴史的背景。

今はかろうじて停戦しているものの、独立はおろか、また紛争が再会するのではないか等、彼らの怒りと不信には根深いものがありました。

一方通行な発言と怒りとフラストレーションの応酬が続くことも多く、時には答えの見えないまま、何時間もそれを聞き続けます。

その会議にいるだけで疲れるという人がいる一方で、私はその会合はその場にいる全員にとって大きな機会だと思いました。

 

なんで彼らはあんなことを言うんだろう?

彼らの本当のメッセージは何だろう?

私(たち)は何をすればいいんだろう?

 

何回も会議を重ね、何時間も彼らの怒りを聴いてようやく気づいたことがありました。

彼らの本当のメッセージはこうなんじゃないか?

 

「あなた達はどこかで『なぜこの人たちは殺し合いを続けるのだろう?』

そして『何時間も怒り続けるんだろう?』と他人事のように思っている。

あたかも『私たちはこんなことはしない』と見下されているようだ」と。

 

彼らの経験がそうさせるのか、彼らは敏感にその場の「力」を感じ取ります。

国籍、経済レベル、肌の色、性別、教育、組織、役職といった「力」が圧倒的に強い人が、その自覚なしに、『怒りをおさえて冷静になりましょう』とも言おうものなら、それ自体も暴力だと言わんとばかり、彼らはさらに怒り続けるのです。

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それは、正式な会議を離れた時でも、一対一の関係でも同じでした。

彼らは敏感です。

 

 

「あなたは『正しく』て私たちは『間違ってる』と言いにきたのか?

私たちが『可哀想な助けが必要な人たち』だからあなたは来たのか?」

 

 

こちらが国連の肩書きを持っていようがそんなものだけでは関係は成り立ちません。

私自身、表現は違ったけれども、似たようなことを言われたことがありました。

 

 

同時に、「抑圧される側」は「怒りの中毒」にはまる傾向があることにも気づきました。

彼ら自身、怒りはじめたらそれをなかなか納めることができないのです。

 

そんな時には、一旦ランチ休憩になります。

ランチはケニア軍、中国軍、インド軍などなど国連軍が持ち回りで用意するのですが、

「さすがインドのカレーは美味しいよね」と

スーダン軍とスーダン解放戦線と一緒に同じテーブルを囲み、おしゃべりしている時の彼らは当たり前ながら一人の人間でした。

(ところで、一緒にご飯を食べることの「紛争解決力」は大きいと思います。)

 

 

そして、次の日はヘリコプターに乗って彼らの言い分を確かめに実際に「現場検証」に行きます。

一緒に現場に行く先で、「会合で取り上げられていたことはこうでしたが、実際に起きていることはこうでした」と一つ一つ確認をするのです。

 

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現場についたら、指摘されていた駐屯地での兵士の数が合意の範囲内であるかどうかを確認します。これを実際に数えるのはミリタリーオブザーバーという軍人の人です。

 

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会合で何度も顔を合わせている内に、徐々に彼らと信頼関係が生まれてきました。

ヘリコプターに乗って一緒に「現場」に行く先でも、個人レベルでは敵同士でも信頼が生まれるのを見ました。

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⬆️ スーダン軍とスーダン解放戦線の「敵」同士の人たちが一緒に座っているところ

 

ー お互いの言い分を判断なく聞くこと

ー どちらかが怒りだすことなども含めてそこで起きているダイナミックスをただ理解すること

ー 中立の「場を保つ」こと

 

これは仲裁 (mediation)と呼ばれます。

 

一見、何もしてないような「もどかしい」状況に見えながら、仲裁の効果というのは思っている以上に大きいんじゃないか?

 

和平合意の定期会合のようにフォーマルなものだけでなく、実際には、一緒にご飯を食べることや、一見ただ雑談をしているようでありながら「聴く力」を発揮している場合も含めてです。

 

そして、そういう場があること、そういう人が一人でも多くいることが大切なんじゃないか?

 

それなのに南スーダン政府には、コミュニケーションに関する研修がまったくないことに気づきました。私はさっそく南スーダン政府にコミュニケーション能力に関する研修を提案し、講師を勤めた研修が終わると、政府の人は言いました。

 

「もっと早くコミュニケーションを学んでおけばよかった。これこそ南スーダンが必要なものだ」と。

そして、私は多国籍チームのリーダーに抜擢され、チームメンバーや同僚の言うことに耳を傾け、地元の知事や大佐、敵対する人達同士が言うことにも耳を傾けました。「聴く」ことーその力とそれ自体私の大きな強みであることを発見していきました。

 

争いのある環境だからこそ、人は理解されることを切実に求めているんじゃないか?

 

紛争地では課題が山のようにあるように見えます。

何か大きなことをしないといけないんじゃないかと私は思っていました。

確かに課題は山済みかも知れないけれども、

 

本当の意味で目の前の人のことを「聴く」こと

ー目に見えない一見小さいなことだけれども、その力こそ今世界で求められていることじゃないか?そう実感した南スーダンの体験でした。

マイストーリー① 日本語が入らない?!羽田発一番長い路線で着いた島で

マイストーリー①日本語が入らない?! 台湾のそばの島で

それは私が6歳の時の体験でした。

テレビをつけるもののNHKしか映らない(しかもよく乱れる)。。。

ラジオをつけるも英語か中国語の方がはっきり入る。

海辺を歩けば、台湾側のビーチには中国語の漂流物がいっぱい(台湾がすぐそこだから)。。。

台風がやってきて丸3日間停電。。。(それまで停電など体験したことがありません。。しかも3日間も!)

 

それなのに、誰も動じた様子もなく、叔母たちが淡々とろうそくで食事の準備してくれます。

 

お店は全部で3件。いつものお気に入りのお菓子はまったく見つからない。

みんな私には「標準語」で話してくれるけれども、島の人同士が話している言葉はさっぱり分からない。。。

 

うーん?!

お母さんは海のきれいなおばあちゃんの島で遊びたい?って私に聞いてきたけど、「外国」に行きたい?って聞かなかったよなあ。。。

 

海辺を歩きながら、子供ながらにこう思いました。

 

国境なんてしょせん人が作ったものなんだ

 

それは私が6歳の時の体験でした。

 

小浜島道

 

そして、島の人達が大変身する島の祭事。

いつも見かける叔父さん達が、突然「きりっと」笛や太鼓、さんしんの名手に変身し、丸3日間、島の人は神に豊作を感謝するために踊りと歌を捧げます。

かっこいい!!!

だから、この島の子供達の憧れは三線か笛か太鼓、それから踊りが上手い人。

台風が来たらすべてが寸断される環境において、こうした「祭事」は、一人ではけっして生きれない島で生まれた「生き抜く知恵」

 

あまりにカッコよくて、

そして子どもながら感じた荘厳な雰囲気に、

大人になったら私も踊りたい!

東京での生活とは全く違う次元での生活や文化というのがあるんだ。

もっといろんな文化や国をみて見たい!

ともかくそう思いました。

 

小浜島は、東京から那覇まで飛行機に乗り、さらに那覇からは、南西航空というプロペラ機(当時)に乗って石垣島へ行き、さらにフェリーに乗ります。

ちなみに、東京ー石垣間は1950キロで、東京ー上海よりも長い羽田発の一番長い路線だそうです。

この小浜島での体験は、強烈な「異文化体験」を私の心に残し、私の外の世界への興味を一気に開いてくれたのでした。

マイストーリー②はじめての外国人の友達

マイストーリー④ 日本生まれ日本育ちの私がオックスフォードに入る

ボスニアやルワンダで民族紛争と虐殺が起きた5年後、私はオックスフォード大学院に入学しました。

専攻は社会人類学(Social Anthropology)です。

オックスフォード大学と言えば、数々のノーベル賞受賞者や首相や哲学者を生んだところ。大学内には博物館のようなところさえあります。

 

わたし授業についていけるんだろうか?

どんな人達がいるんだろう?

どんな勉強するんだろう。(ドキドキ)

 

緊張と興奮が混じり合った気持ちで、9月のある日、ロンドンのヒースロー空港からバスに乗って、オックスフォード大学のキャンパスに到着しました。

ここはどこ???

目の前には、まるで中世にタイムトリップしてきたかのような世界が広がっていました。

 

Sheldonian_Theatre_Oxford

 

オックスフォードにはいわゆる大学の校舎というものがありません。キャンパス一体には、学部とカレッジなどの石作りの建物と普通の家が研究室になったような建物が点在しています。学生はカレッジと学部の両方に所属し、基本的にはカレッジが提供する寮で暮らし生活をしながら、研究をしに学部に通います。

古いカレッジになると創立は12世紀とされ、それはまさに「ハリーポッター」の世界です。

 

その象徴の一つが、カレッジのホールで食事をするというフォーマルディナーと呼ばれるものでした。そのディナーでは、教授たちが「ハイテーブル」という一段高いテーブルに並び、全員がガウンを着て、食事の前には、ゴーンとゴングが鳴り、ラテン語で「グレイス」と呼ばれるお祈りをしてから食事をするという伝統がありました。全員が横長いテーブルに席に着き、スープからメインからデザートからコーヒーまで付くフルコースです。

 

 

ドレスコードはガウンと以下のようなものでした。

男性: 白蝶ネクタイ、白シャツ、黒スーツ、黒靴下、黒靴。

女性: 黒リボン、白ブラウス、黒スカート又はズボン、黒タイツ、黒靴。

オックスフォード入学式②

⬆️ 入学式にて。フォーマルディナーにはこのガウンを着て参加する。

 

このディナーはオックスフォードの特徴の一つで、いろいろな学部の教授や学生(修士と博士課程)たちが隣合わせで食事をすることで、自分の研究に多様な視点を取り入れることができる効果があると言われています。

教授と学生が一緒に食事をすることも、多様な視点を取り組むこともおおいに賛成!

 

ただ、あのー、もう21世紀だという時代に学ぶ私としては、ぶっちゃけ「違和感」もあります。

 

あのー、「ハイテーブル」って今でも必要なんでしょうか?

あのー、ガウンぶっちゃけ面倒くさくないですか?

もう制服とは一生おさらばしたと思ったのに。。。やれやれ。

 

実際、そう思う現代人は少なくないらしく、彬子女王殿下でさせ「赤と青のガウン オックスフォード留学記」の中で、もっと表現はもっと穏やかでも似たようなニュアンスのことをおっしゃられているのを発見した時、わたしは皇室に大きな親近感を覚えたのでした(笑)。

 

これでも私の所属していたカレッジはかなり簡素化されていたらしいですが、よくも悪くも「伝統」というものの力を感じたものです。

 

ただ、多様な視点をお互いに交換できる環境や仕組みがあるというのは学校や学生全体にとってとても大きなメリットだと思いました。

 

私がとてもワクワクしたのは、学部と寮がまさに「多様性」だった点でした。

オックスフォードの教員の41%は100ヶの国や地域の出身者で、留学生の出身国は140の国(と地域)にのぼり、大学院では62%がイギリス以外の国からの留学生です。

 

4階建ての一軒家が「寮」となりました。ハウスメートは、ポルトガル系アメリカ人、インド系イギリス人、中国人、タンザニア人、スリランカ系イギリス人とイギリス人夫婦、そして日本人の私でした。

オックスフォード寮

⬆️ 寮のハウスメートたち。楽しみは一緒にご飯を食べること

毎日、本を読んで小論文を書くことの繰り返しの生活。私たちの大きなの楽しみは一緒にご飯を食べたり、外に食べに出かけることだったのですが、これだけの人たちが共同生活をするのです。時には、キッチンの使い方でけんかもありました。

「また、『あのタンザニア人』キッチン汚しっぱなし。」

「なに、『あの日本人』いつもうるさい」

かくして、私の「民族紛争」に関する研究は寮のキッチンが現場の一つになりました。(笑)

 

私が所属した社会人類学学部(Faculty of Social Anthropology)は、学部の性質上、おそらくオックスフォードの中でも一番多様性(国籍)が高い学部の一つだったと思います。人類学部のクラスメートは、トルコ人、エジプト人、パキスタン人、マリ系フランス人、イギリス人、日本人、インド人、インド系南アフリカ人などでした。

 

学問柄、旧植民地の人たちが多く、そして、当時わたしが日本では聞いたことのないような、リアルなその国の問題が議論されることが多く、最初は日本では聞いたことのない話しばかりで本当にびっくりしたのでした。

 

パキスタンから来た二人の女性の留学生は、奨学金をもらえないと留学できないという国だけあって、二人とも優秀かつ賢明な女性で、一人は、「honor killing」と呼ばれる、婚前交渉・婚外交渉を行った女性は家族全体に不名誉をもたらすという理由で、この行為を行った女性の父親や男兄弟が家族の名誉を守るために女性を殺害する風習についてをテーマにしていました。

(うわー、すごい勇気あるなあ)

インド系の南アフリカ人の女性は、アパルトヘイトが終わり、マンデラ大統領が大統領任期を終えたばかりの南アフリカのことを、「大統領は素晴らしい成果をたくさん残してくれた。ただ、南アフリカでの人種の断絶や暴力の種はまだ大きいの。私たちの国の本当の将来はこれから。」と言っていました。

 

私が人類学を志望した理由ー

それは、ボスニアでの民族紛争やルワンダでの虐殺がショッキングだったことから、民族や人種が違うとなんで争うのか、民族の違いが紛争になる時はどんな時で、それはどうしたら防げるのか?ー「民族」や「紛争」という現象について人類学・社会学的な視点から検証すること、そして民族や宗教の違いを争いの素にするのではなく、多様性にすること。

私は、さっそく、彼女たちの口から語られるリアリティーに圧倒されそうになりました。

 

そして、オックスフォードで、もう一つびっくりしたのは、学生と教授が1対1もしくは1対2で議論をしながら学んでいくチュートリアル(個人指導)というシステムでした。アメリカの大学や大学院が授業(議論)への参加と小論文の提出など授業と課題中心で進んで行くのに対し、オックスフォードでは一対一の指導が授業そのもので、授業の数自体はそんなに多くなく、チュートリアルを補完するものと考えられています。

チュートリアルには、週に1回、1時間程度、学生は、毎週与えられたテーマについて調べ、小論文を書いてのぞみます。

 

1週間で20冊位の文献リストが渡され、

そのテーマについてはすでにどういう事が言われていて(先行理論のレビュー)、

何がその点で大切だとされていることは何かをまとめ(論点の整理)、

課題の質問に答えることになります(議論の結論)。

 

言うは易し。

学期が始まるやいなや、キャンパスでは一斉に「メンタル・アスリート」のような生活が始まります。

①メンタルアスリート的生活: 読む・考える・書く

まず、20冊以上もの文献を読まないといけません。まず、図書館に行き、コピーマシーンの前に立ち続けながら、黙々とコピーの作業を始めるのが日課になります。当時はまだデジタル化されておらず、大量なのですぐに5千円のコピーカードが終わってしまうのにはびっくりしました。そして、課題のテーマについて読み始めます。

時には、何度も何度も何度も読み返します。だって、意味が分からない。。。でも、この本だけに時間はかけられない。。。ここのポイントは何なんだ?!今から残りの時間でどの本を読んで、どの部分に時間をかけて、何て結論をしたらいいんだろう。時には、自分だけが分からないんじゃないかと落ち込みながら(みんな一緒なのですが)、百年、何十年にもわたる引用と洞察の積み上げを自分の中で理解し、言語化するという作業の始まりでした。

②メンタルアスリート的生活: 伝える・議論する「なぜそうなるの?」

週一回のチュートリアルの日、徹夜明けの目をこすりながら、教授の部屋に行きます。自分の書いた小論文を読んでと促され、声に出して読みます。読み終わると、私の担当の先生は、あまり多くを語らない方でしたが、ぼそっと「これはどういう意味?」「そこをもう少し説明してくれる?」と一つか二つの反応が返ってきます。課題に対する洞察が足りない場合や全体の展開が甘い場合はその点を指摘されたりもしました。

③メンタルアスリート的生活: 私は今何が分かっていて何が分かっていないのか?

先生によってチュートリアルの雰囲気も内容もかなり変わるらしいのですが、一旦その週の課題を終えて、ホッとするも、答えがあったようななかったような、自分の中で理解が進んだような進んでいないような、大きな雲をつかむような作業が果てしなく続くように感じたものでした。

私は、「解のない問い」に向き合い自分なりの解を導き出すために必要な、「理解を積み上げるための作業」の真っ只中にいました。

そんなチュートリアルをこなしながら、同時に自分で試験の準備をしないといけません。年度末の試験で不合格になった場合、追試はなく、退学しかないという制度は私に大きなプレッシャーとしてのしかかりました。

 

毎週「本の山」と格闘。毎回ぎりぎりまでこの抽象的な議論をどう結論づけるのかに頭を悩ませ、徹夜で仕上げるのも珍しくなく、チュートリアルを楽しむ余裕はなかったのですが、

このチュートリアルは、文献や理論にもとづき議論を展開するという訓練であると同時に、

 

基本的には、正解を求めるというよりは、先人の歩みを追いながら自由に考え、新たな考えを導き出す考える過程(思考プロセス)を習っていたのだと思います。

 

今思えば、「どんなテーマでも本質的に考えることを常に追及して良い」というオックスフォードの雰囲気は、私に「自分でテーマを切り開き追求する楽しさ」、「多様な視点があってよいこと」、「解のない課題に対して考える姿勢」の土台を身につけさせてくれたように思います。

 

そして、授業が始まりました!

まず、基本課題の文献リストにびっくりです。

 

ほとんどが20世紀の文献で始まるのです。

オックスフォードの人類学は、20世紀はじめに南スーダンの部族を研究し有名になったイギリス人の人類学者であるエバンス・プリチャード(後に伯爵)が学長をつとめていた所ですが、彼の書いた南スーダンのヌエル族に関する民族誌が必須文献の一つでした。

ただ、これが1940年に書かれたとは思えない位、今現在の世界での現象にも本質的に当てはまることに驚きます。エバンス・プリチャードの著書「ヌエル族」にこうあります。

「集団との対立においてのみ、彼は自分がある集団の成員であることを認識する。」

自分たちに近ければ近いほど、ヌアーは相手の民族に近親感を抱くと同時に、容易に敵対関係にも入り、また融和することもできる。

 

簡単に言うと、部族や集団のアイデンティティーというのは、一人で確立されるものではなく、誰かとの関係において決まるものであり、人がどの集団のアイデンティティーを強調するかどうかは、その時の政治的な状況によって決まる、という訳です。

なるほど(!)、今、世界で見られる民族や宗教対立にも当てはまるように思います。

 

そして、同じ頃、前年に経済の分配と貧困・飢餓に関する研究でノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センがオックスフォードに講演にやってきたのでした。ホールはいろいろな学部の学生と教授で満席でした。

9歳の時に、200万人を超える餓死者を出した1943年のベンガル大飢饉でセンの通う小学校に飢餓で狂った人が入り込み衝撃を受け、同じ時期、ヒンズー教徒ととイスラム教徒との争いで多数の死者が出た記憶と、インドはなぜ貧しいのかという疑問から経済学者となる決心をしたと言われるセン。

経済学の中でも高度な数学論理学を使う牽引者でありながら、彼が言ったことはとてもシンプルながら、私の心に響きました。

 

経済学は数字だけを扱うのではなく、「共感性・関わり合い・利他性」(コミットメント)を重視し、弱い立場の人々の悲しみ、怒り、喜びに触れることができなければそれは経済学ではないと。

 

学生から出た質問に丁寧に応え、どこからの教授から出た難しい質問にはとても単純に応えていたのが印象に残りました。

 

真実や本質というのは多分とてもシンプルなものなんだー

 なぜかそう感じました。

 

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そして、私の中である思いがさらに大きくなっていました。

さて、人類学や社会学という視点が民族紛争の解決や予防に役に立つことは自分の中で確信した。

 

では現場ではどんなことが議論されていてどう扱われているのか?

20世紀始めの出来事じゃなくて、今現在南スーダンで起きていることが知りたい!

今の世界で起きていることに関わりたい!!!

 

その後、4年間も本当に南スーダンで働くことになるとは全く想像もしてみなかったのでした。

 

マイストーリー⑤初めての国連面接ー電気のないところで暮らせますか?

マイストーリー③私ってすっごいバカかも知れない!

マイストーリー⑧ なぜそこまで学校に行きたいの?

東ティモールでの勤務の後、カザフスタンとニューヨークでの勤務を経て、再び現場に赴任することになりました。今度は、当時世界で一番争いが深いと言われ、40年近くも続いた紛争が終わり、和平合意が結ばれたばかりの南スーダンです。

自ら志願して南スーダンに赴任することになったのは、新しい国を創るという過程に再び関わりたいというか、東ティモールでもらった「宿題」を進めたいというような思いでした。 (ちなみに、国連は基本的には自動昇進も自動更新もない志願制です)。

ニューヨークの本部にいることもできたのに、マンハッタンのど真ん中に住んでいた暮らしから、自ら志願して南スーダンに赴任することが決まった時には、友人たちが「本当に行くの?」ともの珍しいものを見るように何度も私に聞いてきたものでした (ちなみに、国連は基本的には自動昇進も自動更新もない志願制です)。

マンハッタンのど真ん中に住んでいた暮らしから一転、再び数ヶ月電気のない生活になった時にはさすがに私も「ああ、私ってほんとにもの好きだなあ」と思いました。

そして、南スーダンに降り立った瞬間、東ティモールの時とはチャレンジが一気に10倍に上がったような感覚を肌で感じました。

 

争いの深さ、国の大きさ、教育のレベル、これから必要な政府やインフラの規模、南スーダンの人々の気性。。。実際、全てにおいて、南スーダンは私にとっても全く体験したことのない領域でした。

 

さて、南スーダンでの仕事は、除隊兵士の人たちの社会復帰を支援することでした。

南スーダンでは、紛争の最中、生きるため安全のために軍に参加すること、または親や家族が目の前で殺された子どもがそのまま「軍」に参加し、その後兵士として生きることも珍しくありません。

直接的に兵士にはならなくてもほぼ全員がなんらかの形で紛争に関わっているという意味では、メンタリティー的にも誰もが「紛争時代」から「平和の時代」にシフトすることがなんらかの形で求めらます。

 

当時、私が関わっていた国連のプログラム (DDRプログラム)では、新しいスキルや収入を得る手段を身につけるサポートとして、職業訓練、農業、小規模事業と教育などを提供していました。

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⬆️ 出張では外でシャワーを浴び、テントで寝泊まりしたこともあった。

当時、驚くくらい道路も建物もない南スーダンで、職業訓練施設を一つ立てることは文字通りネジから屋根まで一つづつウガンダかケニアから運んでくることを意味しました。

建物を借り、先生の確保し、除隊兵士の人に実際に集まってもらって職業訓練や農業訓練を一つ提供することは、多大な労力を求められます。

そこで私が直面したことー

それは、

そこまで大きな苦労をして、いくら素晴しい職業訓練施設を建てて、訓練を提供しても、当たり前ながら学ぶ人もいれば学ばない人もいるということ、

学べない人の中には、技術的なものを学ぶ前に「あの紛争はなんだったんだ?」という心の整理がまだ終わっていない人がいるんじゃないか?

南スーダンの人たち自身、「あの紛争はなんだったんだ?」という心の整理をしたがっているんじゃないか?ーということでした。

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⬆️ 女性は比較的早く紛争時代の心の整理ができるように見えた。

 

そして、気になったのは、南スーダンの人たちが日常会話の中でまったく疑問なくかわす会話でした。

 

親が子どもに言います。

「アラブ人は人間じゃないから話したらいけないよ。」

そして、「アラブ人」は南スーダンの人たちのことをこう言います。

「アフリカ人は『野蛮人』だからイスラム教が必要だ」。。。

 

私が勉強をたまに見てあげていた高校生のアコルくんの宿題にはこんなものもありました。

「アコル、今日はどんなこと習ったの?」

「今日はね、『今のアフリカの戦略的な課題はなんですか?』っていう質問だよ。」

「へえ?!博士論文みたいな随分難しい質問をやったんだねえ。それでどんな答えだったの?」

「アフリカが貧しいのはアラブのせいです。」

「誰が言ったの?」

「先生だよ」

 !!!

 

個人の偏見や思い込みが宗教や民族の違いに置き換えられ、紛争が終わっても繰り返し受け継がれている「負の連鎖」。

 

職業訓練などの技術的な知識はそれなりに提供することはできるけれども、本当に平和になるにはこれこそどこかで断ち切られなければる必要があるんじゃないか?

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⬆️ ネクタイをプレゼントされるアコル

 

そんな時、学校に行きたいという自称50歳の元兵士の人に会いました。

内戦の影響で、南スーダンの平均寿命は42歳程度なので、日本の感覚では80代です。頭は白髪で、顔にはしわも拡がり苦労を重ねられて来た様子が伺えます。

場所は南スーダン人の友人が開講したばかりの小さな大学でした。大学と言っても小さな建物があるだけです。しかも、バスや電車があるわけもありません。

それでも、この50才の元兵士の人は学校へ行きたいと毎日何キロも歩いて通ってくるのだそうです。

長年紛争で家族や故郷から離れてきた人たち、特に元兵士の人たちが故郷に戻る時、彼らは家族に対する自分の「役割」を果たすという意味でも、収入を得ることを優先します。

だからこの選択はけっして軽いものではありません。

 

「なんでそこまでして学校に行きたいのですか?」

私は思い切って、彼に聞いてみました。

 

彼は私の目をまっすぐに見つめて、ゆっくりとはっきりと言いました。

‘I was fighting in bush all my life. I want to go to school before I die.’

「わたしは人生のほとんどを戦って過ごしてきました。学校へ行ってから死にたいのです。」

 

学校へ行くということ ー

それは、彼にとって、

「人間である」こととほぼ同義語なんだと理解しました。

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⬆️ 一からこの大学を建てた南スーダン人の友人ドン・ボスコ

除隊兵士の社会復帰プログラムではソーシャルワーカーを呼び、微力ながら心のケアを取り入れることになりました。

私は心の課題や平和を生む「教育」とは何か?ーそういうことに興味を持つようになりました。

/マイストーリー⑨あなたは「私たちが可哀想だから来たのか?