「コントロールする側はコントロールされる側におびやかされ、いつ反乱されないかという不安と猜疑心に悩まされる」心理学者が指摘する力の行使の限界

この数日国連総会で北朝鮮が話題の中心になっています。

 

アメリカも北朝鮮も、お互いの発言がエスカレートしていて、ロシアの外相からは「幼稚園児のけんかだ」などと言われる始末です。

 

弱気な態度をみせては「相手になめられてしまう」とばかり、安倍首相まで国連総会の議場で過激な発言を繰り広げています。

 

これまでは、戦争が仮に軍需産業や戦争経済のためであっても、これまでは、「テロの撲滅」など一応表向きの「大義」がかかげられました。

 

ロシア外相の「幼稚園児のけんか」発言に、「ほんとうにその通り」と思った人も多いと思います。本来なら幼稚園児レベルのはずが、破壊兵器を持っているのがやっかいなところです。

 

では、かりに幼稚園児同士がけんかをしているとしましょう。

 

それをやめさせたいとして、相手に罰を与えることはどこまで効果があるのか?

人は批判されたり、なんらかの強制を受け続けるとどうなるのか?

罰は相手の行動を変えることができるのか?

 

いったん、国際政治(「『国際政治』のふりをした大きい体をもっった子どものけんか」という方が正しいかも知れませんが)を脇において、こうした点を親と子どもの関係性を例にとって見てみたいと思います。

 

「従来の『しつけ』では、罰は子どもの攻撃的な行動を防止するものとされてきました。

 

しかし、「きびしく、懲罰的な、力に基づく罰は、実際には子どもの攻撃性を引き起こす」と指摘するのは、心理学者で、親が子どもに対して本当の影響力を持つことを学ぶ「親業」と呼ばれるプログラムを世界各地で何万人もの人たちに教えてきたトマス・ゴードン博士です。

 

親業.jpg

 

ゴードン博士は、子どもに罰を加えることは、何らかの意味で子どもの欲求を満足させないことであり、不満のある時人は攻撃しやすくなる、と続けます。

 

親業では、力で子どもの言うことを聞かせようとすることがもたらす結果について以下の点を指摘しています。

 

この場合の力とは、体罰や罰を与えることといった身体的な力だけでなく、過干渉や言葉による暴力なども含まれ、なんらかの方法で親の望むように動いて欲しいとコントロールしようとすることです。

 

1、暴力の連鎖を引き起こす

暴力は子どもの攻撃的な行動を促進する。「欲しいものが手に入らないときは、そのために闘え」「対立で勝つのは大きくて強いほうだ」という考え方を植え付ける。攻撃を抑するためにさらに力を使うことは当たり前だと考える。子どものときに体罰や暴力を受けて育った人は、配偶者や子どもに暴力をふるう傾向が高い。

 

2、人を力でコントロールするには大きな労力がかかる

人を力でコントロールするには時間もかかるし、カネもかかる。効果を確実にするには細かい監視がいる。おとなの命令や要求に子どもは抵抗するので、その抵抗を取り除くことに時間がかかる。従わない子どもにはなんらかの対処をしなくてはならない。

 

3、おとなの罰はいずれ品切れになる

子どもが青年期になるにしたがって、体格は大人並みになり力も強くなる。大人が罰を使おうとすれば子どもからの仕返しを受ける危険がある。相手が大人になるにしたがって、それまで頼りにしていた力のほとんどを大人はもう持っていないことに気づく。

 

4、強制は困難で時間がかかる。

コントロールされる側は、押し付けられた決定をすすんで実行しようとしない。一方的にルールを作ったり、意思決定するのは最初は時間が少なくて済むように見えるが、命令や決定事項を受け入れさせるには限りなく時間がかかる。

 

5、コントロールしている側が力の限界を知っている

コントロールする側はコントロールされる側におびやかされている。いつ力を失わないかと不安になる。周りの人に猜疑心や不信感がたえず安心できない。強権的な方法で一時的に反対勢力をおさえられても、相手は地下に潜り後で爆発する。どのような力ももともと不安定である。コントロールしている側が、こうした反乱の連鎖と力の限界をあるレベルでわかっているからこそ、不安と不信の「心理的ドロ沼」に陥る。

 

南スーダンでなぜふたたび内戦が起きたのか、一般的には民族紛争と説明がされていますが、その根底にはこの反乱の連鎖がある、と私は思っていますが、その根底にあるのもこうしたメカニズムです。

 

力でコントロールされてきた地域では、力を取り戻した方がさらに強権的になる、という連鎖が起きやすいのです。

 

 

こうした力のダイナミックスは、家庭や会社、組織、政府にそのまま当てはまります。

 

親と子の関係は、会社での上司と部下の関係にも当てはまります。

 

「あまりにも長い間、私たちは力を崇拝し続け、力は効果があるものだと錯覚してきた。その破壊性と大きな限界についてあまりにも知らなすぎた。」

 

ゴードン博士の言葉です。27年前の発行(日本語訳)ですが、今まさに私たちはもうこれ以上見ないふりができない程に「力」の限界を見せつけられています。

 

私たちがすぐに出来ることは、私たちの日常の関係の中における力関係を見直すことでしょう。

 

では、コントロールされた側はどう反応するのでしょうか?

子どもは従順に従うのでしょうか?

もし子どもに不満があったとすると、子どもはどう反応するのでしょうか?

 

ゴードン博士は24の子どもの反応をあげています。

 

力で人に言うことことを聞かせようとするのは可能なのか?親に強制される子どもはどう反応するのか❓」に続く。

グーグルと国連で求められる究極の「訓練」②

グーグルと国連で求められる究極の「訓練」①

 

認知の力を鍛える方法の1つは、脳の機能を踏まえた上で、自分の思考や見方を、いい・悪いといった評価や判断をくだすことなく、「第三者の目」で観察することです。

メンが勧めているのは、毎日2分間、ただ頭に浮かぶことをありのままに浮かび上がらせる練習です。この意図は、自分のなかで自動的に発生する思考に、より意識的になることです。それによって、自分の思考とそれに対する反応の間にあるギャップに気付くことができます。

認知の力を鍛える次のステップは、相手の視点に立って同じ状況を眺めることです。ある状況に対して、自分の視点だけではなく、他者の視点から俯瞰できるようになると、文字通り視野が広がり、対処できる選択肢の幅が広がるからです。

 

この認知のプロセスを、メンはエンジニアらしくこう表現しています。

「自己統制が上手くなるのは、復元メカニズムをアップグレードするようなものだ。問題が発生した後、システムがどう復元するかを把握していれば、問題が起きたとしても落ち着いていられる」と。

 

グーグルは、先入観や偏見にとらわれない見方ができることは、仕事における生産性・創造性に影響する、そして、すばらしいリーダーシップを発揮するための鍵だと考えているのです。

 

グーグルでは、この自己認識力を高めるため、「相手は私とまったく同じ人間」と考える練習をするそうです。

 

メンは言います。「私たちは、相手のことを、顧客や部長、交渉係ではなく、ひとりの人間だと気づかなければならない。相手も私とまったく同じ人間だ。そう思えれば、どんな場面でも信頼構築のための下地が作られるだろう。難しい状況ではとくにそうだ。」

 

たしかに、こちらが相手に対してなんらかのネガティブな印象や見方を持っていると、たとえ言葉にしなくても、相手との距離や抵抗を生むものです。人はそうしたこちらの態度を感じ取るからです。

 

私自身、内戦を戦った軍隊の人たちとの関わりを通じて、相手を同じ人間だと見れるかどうかが、仕事の結果を左右するくらいに重要だったと痛感した体験があります。

2012年、私は米軍の専門家として、国連の平和維持活動(PKO)に参加するアジアの軍隊に派遣され、国連PKOに関する研修の講師を務めるという仕事をしていました。

 

派遣先の一つはスリランカ軍だったのですが、打診を受けた時、私の頭にまっ先に浮かんだのは「えっ、あのスリランカ軍?!」でした。スリランカと言えば、シンハラ系住民とタミル系住民との間で26年にも渡って内戦が続き、「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」による爆破テロが日常茶飯事だった所です。

 

⬆️ 首都コロンボからインド洋を眺める。内戦中にはこの道路沿いにいくつもの関門があったが、内戦が終わって市民が自由に散歩できるようになった。

 

スリランカ軍もLTTEへの弾圧を強め、反対派を黙らせるための拉致(強制失踪)の数は世界一とも言われました。2008年にはLTTEの拠点を続々と攻略。内戦の最終局面では、追い詰められたLTTEが、北部の半島で身動きが取れなくなった33万人の一般市民を「人間の盾」にとり必死の抵抗を試みる中で、軍は圧倒的な武力で制圧を敢行します。(数字は国連事務総長専門家パネル発表)

 

結果、双方によって一般市民が巻き添えになる形で殺され、内戦終結前の5ヶ月間だけで4万人以上もの死者を出す結末となりました。軍は、市民の巻き添えをゆるしただけでなく、その間の人道援助の輸送を妨害し、病院を意図的に攻撃するなど「人道に対する罪」を国連などから追及されている「張本人」だったのです。

 

私自身、内戦中のスリランカを訪れたこともあり、自分が数時間前に車で通ったばかりの幹線道路上で爆破テロがあったことを知ったこともあれば、爆破テロで燃やされたバスの残骸を見たこともあり、スリランカ内戦の「重さ」については少しは分かっているつもりでした。

 

さすがに数日迷ったものの、結局引き受けようと思ったのは、そうしたことも含め、内戦が終わった後のスリランカの状況を、自分の目でありのままに見てみたいという気持ちでした。

 

研修で私が担当することになっていたテーマに関するリサーチやプレゼンの準備は進めていたものの、私がなによりも決定的に重要だと感じていたのは、直接的にも間接的にも何万人もの人たちを殺したかも知れない人たちに対して向き合うことができるかという私の中の「心の準備」でした。

 

 

 

内戦を戦ってきた軍人を相手に私はいったい何を伝えることができるんだろう?

私の役割はいったい何だろう?

 

それに対する答えはすぐには出なかったけれども、そのためにも、まず私は彼らのことを理解しなければならないーそれに対しては強い確信がありました。

 

軍人であることを職業にするってどういう事なんだろう?

もし私が制圧に関わった一人だとしたら今どういう気持ちなんだろう?

本当に紛争が終わるってどういう事なんだろう?

 

私は出発までそんなことを思い巡らせていました。

 

こうした「心の準備」が功を奏してか、スリランカに到着し、スリランカ軍の施設に移動しても私は落ち着いていました。

 

首都のコロンボでは、紛争が終わった街の活気と開放感を感じながら、「ああ、紛争が終わるってこういうことなんだあ」、とインド洋を眺めながらしばらく感慨にふけっていました。

 

そして、軍や政府、街の人たちなどと接していく中で、リアルに迫ってくる感覚があるのを感じていました。

 

それは、あえて言葉にするならば、「もう戦争はたくさん」「なぜこの内戦をゆるしてしまったのだろう」という、軍やLTTE、シンハラ系、タミル系といったものを超えた、あたかも社会全体を覆っているかのような圧倒的な葛藤と苦しみでした。

 

その葛藤と苦しみを感じた時、相手が軍服を着てようが、大佐だろうが、ただ苦しみを持った人間にしか見えなくなったのです。

 

こちら側のそうした態度が伝わったのか、研修は順調に進みました。スリランカ軍の参加者が個人的な体験を話し始めるなど、国連や外部の立ち入りや調査団を何度も拒否してきたスリランカ政府の歴史から考えても、驚くような展開もありました。

 

まさに「相手を同じ人間として見る」という力を感じた瞬間でした。

 

「この人は私とまったく同じで、体と心をもっている。

この人は私とまったく同じで、悲しかったり、怒ったり、傷ついている。

この人は私とまったく同じで、苦しみから解放されたいと願っている。」

 

 

これは、仏教の「慈悲」(compassion)の教えを基にグーグルで実践されている瞑想の一つだそうです。

 

 

当時私はこの言葉は知りませんでしたが、私がスリランカで感じた心境を表しているように感じます。

 

 

アリストテレスは言います。「ある考えに賛同することなく、それについて認識できることは学識ある心のしるしだ」

 

 

老子は言いました。「『慈悲』を持つものは、あらゆる戦いに勝利し、どんな敵に攻められても必ず守りきる。『慈悲』を持つものなら、常に勝者となる。」

 

グーグルで実践されていることも、紛争地で求められていることも究極的な意味では同じなのかも知れません。

 

どんな人でも「同じ人間」として見れるようになることは大きな「武器」になるのです。

 

 

⬆️ 慈悲のマントラをマレーシアの歌姫Imee Ooiの歌声にのせて

難民を迎えに自ら空港へ行ったトルドー首相ーこういう人に税金を払いたい!

今私たちは、第二次世界大戦以来の「難民危機」を迎えています。

 

特にシリア内戦を逃れてきた「難民」たちの状況は相変わらず深刻で、2016年に入って減少したが、今も、ほとんど毎日のようにギリシャとイタリアの海岸沖から難民が救助されています。

 

この「難民危機」の本質はいったい何なのでしょうか?

私たち人類は何を学ばなければいけないのでしょうか?

 

この課題の最中、先週には、世界中のリーダーが国連に集まり、国連総会でスピーチを行い、各国の難民に対する姿勢が改めて浮き彫りになりました。

 

その中でも、特に脚光を浴びているのは、難民を快く受け入れる姿勢を示しているカナダのジャスティン・トルドー首相です。

 

トルドー首相は19日、カナダの人道支援予算を今年度10%増額し、援助を必要とする難民の移住を推進する意向を改めて表明し、2015年には、シリア難民がカナダに到着した際には、彼らを歓迎しに自ら空港にも行った彼。

 

「彼らは『難民』としてこの空港に到着します。

この空港を出る時、彼らは定住する先を持つ人間としてこの空港を後にします。」

 

 

2016年9月21日国連総会にて

 

カナダのトルドー首相。単なるイケメンだけじゃない。
新しい時代の政治家バンザイ!!!

 

マイストーリー④ 日本生まれ日本育ちの私がオックスフォードに入る

ボスニアやルワンダで民族紛争と虐殺が起きた5年後、私はオックスフォード大学院に入学しました。

専攻は社会人類学(Social Anthropology)です。

オックスフォード大学と言えば、数々のノーベル賞受賞者や首相や哲学者を生んだところ。大学内には博物館のようなところさえあります。

 

わたし授業についていけるんだろうか?

どんな人達がいるんだろう?

どんな勉強するんだろう。(ドキドキ)

 

緊張と興奮が混じり合った気持ちで、9月のある日、ロンドンのヒースロー空港からバスに乗って、オックスフォード大学のキャンパスに到着しました。

ここはどこ???

目の前には、まるで中世にタイムトリップしてきたかのような世界が広がっていました。

 

Sheldonian_Theatre_Oxford

 

オックスフォードにはいわゆる大学の校舎というものがありません。キャンパス一体には、学部とカレッジなどの石作りの建物と普通の家が研究室になったような建物が点在しています。学生はカレッジと学部の両方に所属し、基本的にはカレッジが提供する寮で暮らし生活をしながら、研究をしに学部に通います。

古いカレッジになると創立は12世紀とされ、それはまさに「ハリーポッター」の世界です。

 

その象徴の一つが、カレッジのホールで食事をするというフォーマルディナーと呼ばれるものでした。そのディナーでは、教授たちが「ハイテーブル」という一段高いテーブルに並び、全員がガウンを着て、食事の前には、ゴーンとゴングが鳴り、ラテン語で「グレイス」と呼ばれるお祈りをしてから食事をするという伝統がありました。全員が横長いテーブルに席に着き、スープからメインからデザートからコーヒーまで付くフルコースです。

 

 

ドレスコードはガウンと以下のようなものでした。

男性: 白蝶ネクタイ、白シャツ、黒スーツ、黒靴下、黒靴。

女性: 黒リボン、白ブラウス、黒スカート又はズボン、黒タイツ、黒靴。

オックスフォード入学式②

⬆️ 入学式にて。フォーマルディナーにはこのガウンを着て参加する。

 

このディナーはオックスフォードの特徴の一つで、いろいろな学部の教授や学生(修士と博士課程)たちが隣合わせで食事をすることで、自分の研究に多様な視点を取り入れることができる効果があると言われています。

教授と学生が一緒に食事をすることも、多様な視点を取り組むこともおおいに賛成!

 

ただ、あのー、もう21世紀だという時代に学ぶ私としては、ぶっちゃけ「違和感」もあります。

 

あのー、「ハイテーブル」って今でも必要なんでしょうか?

あのー、ガウンぶっちゃけ面倒くさくないですか?

もう制服とは一生おさらばしたと思ったのに。。。やれやれ。

 

実際、そう思う現代人は少なくないらしく、彬子女王殿下でさせ「赤と青のガウン オックスフォード留学記」の中で、もっと表現はもっと穏やかでも似たようなニュアンスのことをおっしゃられているのを発見した時、わたしは皇室に大きな親近感を覚えたのでした(笑)。

 

これでも私の所属していたカレッジはかなり簡素化されていたらしいですが、よくも悪くも「伝統」というものの力を感じたものです。

 

ただ、多様な視点をお互いに交換できる環境や仕組みがあるというのは学校や学生全体にとってとても大きなメリットだと思いました。

 

私がとてもワクワクしたのは、学部と寮がまさに「多様性」だった点でした。

オックスフォードの教員の41%は100ヶの国や地域の出身者で、留学生の出身国は140の国(と地域)にのぼり、大学院では62%がイギリス以外の国からの留学生です。

 

4階建ての一軒家が「寮」となりました。ハウスメートは、ポルトガル系アメリカ人、インド系イギリス人、中国人、タンザニア人、スリランカ系イギリス人とイギリス人夫婦、そして日本人の私でした。

オックスフォード寮

⬆️ 寮のハウスメートたち。楽しみは一緒にご飯を食べること

毎日、本を読んで小論文を書くことの繰り返しの生活。私たちの大きなの楽しみは一緒にご飯を食べたり、外に食べに出かけることだったのですが、これだけの人たちが共同生活をするのです。時には、キッチンの使い方でけんかもありました。

「また、『あのタンザニア人』キッチン汚しっぱなし。」

「なに、『あの日本人』いつもうるさい」

かくして、私の「民族紛争」に関する研究は寮のキッチンが現場の一つになりました。(笑)

 

私が所属した社会人類学学部(Faculty of Social Anthropology)は、学部の性質上、おそらくオックスフォードの中でも一番多様性(国籍)が高い学部の一つだったと思います。人類学部のクラスメートは、トルコ人、エジプト人、パキスタン人、マリ系フランス人、イギリス人、日本人、インド人、インド系南アフリカ人などでした。

 

学問柄、旧植民地の人たちが多く、そして、当時わたしが日本では聞いたことのないような、リアルなその国の問題が議論されることが多く、最初は日本では聞いたことのない話しばかりで本当にびっくりしたのでした。

 

パキスタンから来た二人の女性の留学生は、奨学金をもらえないと留学できないという国だけあって、二人とも優秀かつ賢明な女性で、一人は、「honor killing」と呼ばれる、婚前交渉・婚外交渉を行った女性は家族全体に不名誉をもたらすという理由で、この行為を行った女性の父親や男兄弟が家族の名誉を守るために女性を殺害する風習についてをテーマにしていました。

(うわー、すごい勇気あるなあ)

インド系の南アフリカ人の女性は、アパルトヘイトが終わり、マンデラ大統領が大統領任期を終えたばかりの南アフリカのことを、「大統領は素晴らしい成果をたくさん残してくれた。ただ、南アフリカでの人種の断絶や暴力の種はまだ大きいの。私たちの国の本当の将来はこれから。」と言っていました。

 

私が人類学を志望した理由ー

それは、ボスニアでの民族紛争やルワンダでの虐殺がショッキングだったことから、民族や人種が違うとなんで争うのか、民族の違いが紛争になる時はどんな時で、それはどうしたら防げるのか?ー「民族」や「紛争」という現象について人類学・社会学的な視点から検証すること、そして民族や宗教の違いを争いの素にするのではなく、多様性にすること。

私は、さっそく、彼女たちの口から語られるリアリティーに圧倒されそうになりました。

 

そして、オックスフォードで、もう一つびっくりしたのは、学生と教授が1対1もしくは1対2で議論をしながら学んでいくチュートリアル(個人指導)というシステムでした。アメリカの大学や大学院が授業(議論)への参加と小論文の提出など授業と課題中心で進んで行くのに対し、オックスフォードでは一対一の指導が授業そのもので、授業の数自体はそんなに多くなく、チュートリアルを補完するものと考えられています。

チュートリアルには、週に1回、1時間程度、学生は、毎週与えられたテーマについて調べ、小論文を書いてのぞみます。

 

1週間で20冊位の文献リストが渡され、

そのテーマについてはすでにどういう事が言われていて(先行理論のレビュー)、

何がその点で大切だとされていることは何かをまとめ(論点の整理)、

課題の質問に答えることになります(議論の結論)。

 

言うは易し。

学期が始まるやいなや、キャンパスでは一斉に「メンタル・アスリート」のような生活が始まります。

①メンタルアスリート的生活: 読む・考える・書く

まず、20冊以上もの文献を読まないといけません。まず、図書館に行き、コピーマシーンの前に立ち続けながら、黙々とコピーの作業を始めるのが日課になります。当時はまだデジタル化されておらず、大量なのですぐに5千円のコピーカードが終わってしまうのにはびっくりしました。そして、課題のテーマについて読み始めます。

時には、何度も何度も何度も読み返します。だって、意味が分からない。。。でも、この本だけに時間はかけられない。。。ここのポイントは何なんだ?!今から残りの時間でどの本を読んで、どの部分に時間をかけて、何て結論をしたらいいんだろう。時には、自分だけが分からないんじゃないかと落ち込みながら(みんな一緒なのですが)、百年、何十年にもわたる引用と洞察の積み上げを自分の中で理解し、言語化するという作業の始まりでした。

②メンタルアスリート的生活: 伝える・議論する「なぜそうなるの?」

週一回のチュートリアルの日、徹夜明けの目をこすりながら、教授の部屋に行きます。自分の書いた小論文を読んでと促され、声に出して読みます。読み終わると、私の担当の先生は、あまり多くを語らない方でしたが、ぼそっと「これはどういう意味?」「そこをもう少し説明してくれる?」と一つか二つの反応が返ってきます。課題に対する洞察が足りない場合や全体の展開が甘い場合はその点を指摘されたりもしました。

③メンタルアスリート的生活: 私は今何が分かっていて何が分かっていないのか?

先生によってチュートリアルの雰囲気も内容もかなり変わるらしいのですが、一旦その週の課題を終えて、ホッとするも、答えがあったようななかったような、自分の中で理解が進んだような進んでいないような、大きな雲をつかむような作業が果てしなく続くように感じたものでした。

私は、「解のない問い」に向き合い自分なりの解を導き出すために必要な、「理解を積み上げるための作業」の真っ只中にいました。

そんなチュートリアルをこなしながら、同時に自分で試験の準備をしないといけません。年度末の試験で不合格になった場合、追試はなく、退学しかないという制度は私に大きなプレッシャーとしてのしかかりました。

 

毎週「本の山」と格闘。毎回ぎりぎりまでこの抽象的な議論をどう結論づけるのかに頭を悩ませ、徹夜で仕上げるのも珍しくなく、チュートリアルを楽しむ余裕はなかったのですが、

このチュートリアルは、文献や理論にもとづき議論を展開するという訓練であると同時に、

 

基本的には、正解を求めるというよりは、先人の歩みを追いながら自由に考え、新たな考えを導き出す考える過程(思考プロセス)を習っていたのだと思います。

 

今思えば、「どんなテーマでも本質的に考えることを常に追及して良い」というオックスフォードの雰囲気は、私に「自分でテーマを切り開き追求する楽しさ」、「多様な視点があってよいこと」、「解のない課題に対して考える姿勢」の土台を身につけさせてくれたように思います。

 

そして、授業が始まりました!

まず、基本課題の文献リストにびっくりです。

 

ほとんどが20世紀の文献で始まるのです。

オックスフォードの人類学は、20世紀はじめに南スーダンの部族を研究し有名になったイギリス人の人類学者であるエバンス・プリチャード(後に伯爵)が学長をつとめていた所ですが、彼の書いた南スーダンのヌエル族に関する民族誌が必須文献の一つでした。

ただ、これが1940年に書かれたとは思えない位、今現在の世界での現象にも本質的に当てはまることに驚きます。エバンス・プリチャードの著書「ヌエル族」にこうあります。

「集団との対立においてのみ、彼は自分がある集団の成員であることを認識する。」

自分たちに近ければ近いほど、ヌアーは相手の民族に近親感を抱くと同時に、容易に敵対関係にも入り、また融和することもできる。

 

簡単に言うと、部族や集団のアイデンティティーというのは、一人で確立されるものではなく、誰かとの関係において決まるものであり、人がどの集団のアイデンティティーを強調するかどうかは、その時の政治的な状況によって決まる、という訳です。

なるほど(!)、今、世界で見られる民族や宗教対立にも当てはまるように思います。

 

そして、同じ頃、前年に経済の分配と貧困・飢餓に関する研究でノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センがオックスフォードに講演にやってきたのでした。ホールはいろいろな学部の学生と教授で満席でした。

9歳の時に、200万人を超える餓死者を出した1943年のベンガル大飢饉でセンの通う小学校に飢餓で狂った人が入り込み衝撃を受け、同じ時期、ヒンズー教徒ととイスラム教徒との争いで多数の死者が出た記憶と、インドはなぜ貧しいのかという疑問から経済学者となる決心をしたと言われるセン。

経済学の中でも高度な数学論理学を使う牽引者でありながら、彼が言ったことはとてもシンプルながら、私の心に響きました。

 

経済学は数字だけを扱うのではなく、「共感性・関わり合い・利他性」(コミットメント)を重視し、弱い立場の人々の悲しみ、怒り、喜びに触れることができなければそれは経済学ではないと。

 

学生から出た質問に丁寧に応え、どこからの教授から出た難しい質問にはとても単純に応えていたのが印象に残りました。

 

真実や本質というのは多分とてもシンプルなものなんだー

 なぜかそう感じました。

 

Amarthya Sen.jpg

 

そして、私の中である思いがさらに大きくなっていました。

さて、人類学や社会学という視点が民族紛争の解決や予防に役に立つことは自分の中で確信した。

 

では現場ではどんなことが議論されていてどう扱われているのか?

20世紀始めの出来事じゃなくて、今現在南スーダンで起きていることが知りたい!

今の世界で起きていることに関わりたい!!!

 

その後、4年間も本当に南スーダンで働くことになるとは全く想像もしてみなかったのでした。

 

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誰と誰が争っていて何が原因なのか?

 

最近の世界情勢をみていると、なんだか紛争やテロが多いようだけれども、ニュースでも「ホームグランドテロ」という言葉は聞いても、断片的な情報ばかり。

 

民族が違うと人は争うのか?

いったい何が原因なのか?

私たちは何を知ったらいいのか?

 

本質的なことを知りたいと思っている人はけっこういるんじゃないか?

大学の講義での反応などを見るととても強く感じます。

 

そんなことを自分の体験を含めてただ今、執筆作業を進めていますが、その中から今日紹介したいのは、

 

このような世界情勢の中、

なんらかの危険が実際にあるのかどうか、

何に目を配り、意識を向け、

どう判断したらいいのか?

ということに対する視点です。

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実際、私が南スーダンで働いていたと言うと、よく危ない目にあったことはありますか?怖くないですか?と聞かれます。

もちろん、日本に比べれば直接的な被害に巻き込まれるという可能性だけでなく、医療施設の有無から病気にかかる可能性まで「リスク」レベルは格段に上がります。

 

例えば、南スーダンで働いていた時には、万が一人質にとられた時のための訓練を受けましたし(アフガニスタン、南スーダンやソマリアなどに派遣される人は現地に赴任してから受けることが義務付けられています。国連だけでなくNGOの人もこうした研修を受ける体制がとられています)、

東ティモールでは銃が発砲された場面で近距離に居合わせたこと、また、南スーダンでは兵士に直接銃を突きつけられたことが一回だけありますが、相手はお金をせびってきた兵士だったと判断できたので落ち着いて対処できました。

 

私たちは知らないことに対して必要以上に「不安」を覚えます。いわゆる「未知の恐れ」と呼ばれるものです。

 

まず、現状を確認をすることから始めたいと思います。

 

さて、質問です。

私がいた南スーダンを例にとります。南スーダンの場合の国連要員の死亡原因と割合はいったい何だったと思いますか?

 

① 病気 68%

② 事故 18 %

③   分類不明 6.65%

④   直接的原因 6.65%

(UNMIS 南スーダン国連PKO 2010年度の場合)

 

病気の原因の多くはマラリアです。病院施設が限られていること、インフラの不備で輸送手段が限られるため、状態がひどくなった時に搬送まで時間がかかる(場合によってはヘリコプターを使う)ことが理由として挙げられます。

実際、現地でのストレスレベルが日常的に高いことが認識されないまま、毎日「がんばってしまう」こと、積み重なったストレスが免疫レベルを下げてしまうこと、マラリアくらい大丈夫だと思ってしまうこと、マラリアだと気づかないこと、があります。実際、母国では実戦を経てきた頑強そうな軍人たちがマラリアで命を失くしたケースが私の周りでもありました。

二番目の原因は、交通事故です。PKOの場合は、軍事オブザーバーや文民を含め、日常的に視察やパトロールのために自分で車を運転する必要のある職種が多々ありますが、交通事故は大きな死亡原因の一つです。

南スーダン(独立前)の場合、直接的原因での死亡は6.65%ということになります。そうした出来事が組織的なものなのか、突発的なものなのかという点で「脅威」の認識は大きく変わりますが、まず、アフリカで一番長い内戦をしてきた南スーダンでされ、国連要員の人たちの一番の死亡原因が93.35%紛争ではない、と事実を確認したいと思います。

 

その上で、

なんらかの危険が実際にあるのかどうか、

何に目を配り、意識を向け、

どう判断したらいいのか?

という視点です。

 

その中から、例えば、リスク分析や脅威分析と呼ばれるものを、紛争地での情勢の分析に応用し、

安全面でのリスクレベルを脅威(threat)× 脆弱性(vulnerability)と捉える考え方を見ていきます。

海外へ行く人必見!安全を創る3つの視点②

海外(その地域)でなんらかの危険が実際にあるのかどうか、

何に目を配り、意識を向け、

どう判断したらいいのか?

 

私たちは知らないことに対して必要以上に「不安」を覚えます。いわゆる「未知の恐れ」と呼ばれるものです。

同時に、

なんらかの危険が実際にあるのかどうか、

何に目を配り、意識を向け、

どう判断したらいいのか?

 

誰も完全に予見できる人はいないにしても、そうしたものの見方を訓練することは十分に可能です。

 

まず、リスク分析や脅威分析と呼ばれるものを紛争地での情勢の分析に応用し、安全面でのリスクレベルを脅威(threat)× 脆弱性(vulnerability)と捉える考え方を見ていきましょう。

 

まずは、脅威(threat)とは何か?です。

それぞれの国によって、明らかな「敵対勢力」がいる場合もあれば、または、個人がゆるく繋がった意図のはっきりしない組織など様々なケースがありますが、

 

ここでは、

相手にはどんな能力があるのか(能力)

相手の動機や目的は何か?(意図)

それは突発的なものなのか繰り返されそうなものなのか(機会)等の、

彼らの能力 × 意図 × 機会の3点に注目します。

 

脅威(threat)とは

◯ 能力⇒ 人員、リソース、資金源、統制能力はどうなのか?

◯ 意図⇒ こちらに危害を与える理由があるとしたら何か?動機は何か?グループ全体の目的は何か?

◯ 機会⇒ 最近の例や前例からパターンがあるか?それによると機会は増えているのか減っているか?歴史的背景は何か?

 

次に、そうした脅威に対して、相手からこちらの国籍や性別、民族、宗教といった属性はどう見られ、それはこちらにどう影響するか?という視点です。

例えば、その国では日本人であるということはどう思われているのか?ある国で選挙があって政権が交代したとして、今度はどういう人たちが政権をとり、その地域の宗教や民族の人たちにとって日本人はどう思われているのか?といった視点、または、その国や地域で女性であることの影響などです。

また、個人または組織の対応能力も含まれます。この場合の対応能力とは、安全に対する知識や住居や車両といった設備や手段を持っているかどうか、といったことであり、環境的要因は、その国の中で住んでいる地域がどこであるのか(都市の中心地なのか、空港の近くなのか、軍の設備などの近くなのか)などに関することです。

どの国籍や宗教や政治的属性がリスクになるかはその時々の政治的な情勢などによって変わりますが、今は世界のニュースが一瞬にして世界中に発信される時代なので、こうした要因もやはり刻々と変化し続けるものだと認識しておくことが役に立つでしょう。

脆弱性(vulnerability)とは

 ◯ 社会的要因⇒ 年齢、民族、宗教、政治的属性、性別、社会的地位などの影響など cf. 女性であることは活動地域においてどのように捉えられているか? 

◯ 能力⇒ 現地の政情などを含めた現地社会について理解、安全に対する意識、住居や車両といった設備面なども含めた管理体制があるか等、など

◯  政治的要因⇒ 現在の世界情勢の中において「日本人」であるということ、 「日本の組織」や日本の企業の一員であることは活動地域においてどのように捉えらているか? その地域の有力者が属する政党や民族との関係はどんな影響があるか? など

◯ 環境・地理的要因⇒ その国の中で活動している地域がどこであるのか(都市の中心地なのか、空港の近くなのか、軍の設備などの近くなのか)など

 

ここまでをまとめると、コントロールできない面はあっても、リスクは、脅威のレベルを適切に認識し、脆弱性(vulnerability)に対して対策をすることでリスクを下げることができるという考え方です。

こうした分析で見られるように、まず、二つの視点が重要になります。

① 相手はなぜこちらに危害を与えようとするのか ー 相手の意図や動機、目的は何なのか?というこちらの相手に対する理解

同時に、

②こちらが相手にどう見られているのか、という視点です。

この二つを理解することは、脅威のレベルを適切に認識することの重要な一部であると言えます。

 

ここまでは、リスクは、脅威のレベルを適切に認識し、脆弱性(vulnerability)に対して働きかけることができるという考え方を紹介しました。

ただ、こちらは脅威をできる限り避け、受身的に身を守るという対策しかできないのでしょうか?

次には、脅威のレベルを適切に認識し、それに対する脆弱性(vulnerability)を下げると同時に、③ こちらは相手にどう働きかけることができるのかー特に、どうしたら相手の動機に働きかけることができるか?という視点を見ていきたいと思います。

スーチーさんが23年ぶりに解放された時に発した言葉とは?

11月8日に行われたミャンマーの総選挙でアウンサン・スーチーさんの率いる野党が圧倒的な勝利を収めました。

 

23年ぶりに海外に出たという彼女のバンコク空港での一声をBBCニュースで聞いた時には涙がでたのを覚えています。

 

ミャンマーで民主化を進めた功績で1991年にノーベル平和賞を受賞しながら、ミャンマーの軍事政権から約14年にもわたって自宅軟禁を繰り返された彼女がその軟禁からようやく解放されたのが3年半前の2012年の5月。

 

日本は先進国の中でも難民を受け入れ数が圧倒的に少ないのですが、その日本が2010年にはじめて第三国定住という制度で難民を受け入れたのがミャンマーの少数民族カチン族という人たちでした。

その時の理由が、「『ミャンマーでの和平の展望が乏しい』ため」だったので、それを考えるととても感慨深いですことです。

 

そして、同じ2012年の6月、1991年にノーベル平和賞を受賞しながら、軟禁のために授賞式に参加できなかったスーチーさんがオスロで21年ぶりに(!)ノーベル賞受賞式典に出席しスピーチをしたのでした。

 

その数日後には、国家元首以外ではじめての女性としてはじめてのアジア人として英国議会で演説もしています。

 

14年もの軟禁を解かれ、23年ぶりに海外に出た彼女が発した言葉とは何だったのでしょう?

 

アウンサン・スーチーさんのノーベル平和賞受賞スピーチを一部紹介します。

 

「自宅軟禁中は私の家が世界のすべてでした。自分が世界から切り離されてしまったように感じることがよくありました。

私の世界そのものである家と、刑務所にいる仲間たちとそれ以外の自由な人たちがあたかも別々の惑星で暮らしているように感じました。

 

自分の家だけが「世界」だと感じた時もありましたが、ノーベル平和賞は、この一見孤立したように見える世界も同じ人類社会とつながっていることを思い出させてくれました。

 

私たちはとても恵まれています。なぜなら、私たちは人道に対する支援というのが尊重されている時代に生きているからです。

世界から忘れられなくなったのです。忘れられるとは、「自分の一部が死ぬこと」というフランス語の表現があります。

 

先月タイのミャンマー人難民や労働者を訪問した時「わたし達を忘れないで!」と言われました。それは、わたし達もあなたの世界の一部であることを忘れないで、という意味なのです。

 

平和のために共に努力することは、信頼と友情のもとに個人を、そして国家を結び付けます。

 

完全な平和というのはこの地球上には存在しないかも知れません。

 

だからこそ、そこへ共に向かう旅こそが、私たちの一人一人、そして国家を結び付けます。

 

そして、そこで生まれた信頼と友情こそが、人類共同体をより安全に、より思いやり(kind)のあるものにするでしょう。

 

思いやり(kindness)ということの価値を私はこの何十年もの体験で実感しています。

 

思いやりがあるとは、共感と温かさを持って人々の希望や状況に反応することです。

 

ちょっとした思いやりでも沈んだ心に光を照らすことができます。

 

一つ一つの考え、言葉、行動が平和への貢献です。」

 

2012年 6月16日 アウンサン・スーチーさん

ノーベル平和賞受賞スピーチ抜粋

Absolute peace in our world is an unattainable goal. But it is one towards which we must continue to journey, our eyes fixed on it as a traveller in a desert fixes his eyes on the one guiding star that will lead him to salvation. Even if we do not achieve perfect peace on earth, because perfect peace is not of this earth, common endeavours to gain peace will unite individuals and nations in trust and friendship and help to make our human community safer and kinder.

I used the word ‘kinder’ after careful deliberation; I might say the careful deliberation of many years. Of the sweets of adversity, and let me say that these are not numerous, I have found the sweetest, the most precious of all, is the lesson I learnt on the value of kindness. Every kindness I received, small or big, convinced me that there could never be enough of it in our world. To be kind is to respond with sensitivity and human warmth to the hopes and needs of others. Even the briefest touch of kindness can lighten a heavy heart. Kindness can change the lives of people.

Every thought, every word, and every action that adds to the positive and the wholesome is a contribution to peace. Each and every one of us is capable of making such a contribution. Let us join hands to try to create a peaceful world where we can sleep in security and wake in happiness.

Nobel Lecture by Aung San Suu Kyi,

Oslo, 16 June, 2012

http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/1991/kyi-lecture_en.html

 

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ロスジェネ世代がゆとり世代に伝える「戦争と平和」②

 

「アメリカではこんなこと言う人少ないけど。。。」

世界中の同僚とのおしゃべりの中で今でも覚えている瞬間ー分かり合えないだろうと思っていた事で一瞬でも分かり合えた時、戦争をも超えられる時。人間って捨てたもんじゃないな。

 

ある時、チームメンバーのアメリカ人が言いました。

「アメリカではこんなこと言う人少ないけど、原爆ってアメリカにとって『勝利』とは思えないんだ。。。」

 

それは、スリランカでスリランカ軍対象の国連PKOに関する研修を行っていた時の出来事でした。

スリランカは、ちょうど2年半前にシンハラ人とタミル人の間の内戦が終結していた時で、

「もう戦争はたくさん」「この内戦にはどんな意味が?」「なんでこんな戦争を許してしまったの?」

「『制圧』は正しかったのか?」-関係者それぞれの苦しみと、もう二度と内戦には戻りたくないという共通の思いが強く感じられた時でした。

 

研修では、国連やアフリカなどの事例を通じて、

「被害者」も「加害者」も、「勝者」も「敗者」も両方が傷を負うという意味では、どっちも被害者なのです、そんな話しになりました。

 

 

自然と彼らは自分の国の体験に向き合うことになったのでしょう。

研修に参加していたセンター長の大佐が私のところにやってきて言いました。

「私は目の前で仲間と部下を何人も殺されたのだけど、相手を赦したいと思っている。自分が楽になるために。」

彼らは制圧した(勝った)側としてさんざん批判されている最中でしたが、彼らの中にさえ(だからこそ)「相手を赦したい」「和解を選びたい」という思いをはっきり感じました。

 

同時に、スリランカの経験について学んでいたと思っていたのに、日本について学んでいたことに気づきました。

「スリランカの人たちが体験していることは、そのままアメリカと日本に当てはまるよね。だって、原爆の投下ってアメリカにとって『勝利』とは思えないんだ。戦争って『勝つ』方も全く勝利じゃないよ」ーアメリカ人の同僚とそんな会話になりました。

そして、スリランカの人に言いました。

「人類は進歩しているのでスリランカの人たちはもっと早く立ち直れると思いますよ。」

「そうですね、日本のように戦後の絶望から見事に復興した国があると希望が持てます。津波の時もそれを見せてくれましたよね。」と返してくれました。

 

研修は、「内戦が終わった今軍隊の目的はなんですか?例えば、インドとパキスタンの仲裁など地域の平和に役に立つこともできます。

戦争をした国だからこそ平和に貢献するという道もありますよ。」と終わりました。

 

戦争を体験した国だからこそ世界に伝えられる価値があると思いました。

Sri Lanka Kandy 051

(写真)スリランカコロンボ

冷戦後にタイムトリップすると見えること

冷戦直後にタイムトリップした気分になりました。

「カンボジア元気日記」という本を20年ぶりに読みました。一年間のニュージーランド高校留学から帰ってきて同級生は大学に進学する中、受験勉強があまりにつまらなくてやる気をなくしていた時に、たまたま図書館で手にとったのがこの本でした。

ページを開きはじめたら最後、「そうそうワタシこういう仕事がしたいの!」と興奮して一気に読んでしまい、予備校の帰りだったかの電車の中で、「よし、わたしもこういう仕事をするぞ!」と密かに「決意」をしたのを覚えています。

その本を手にとってから、7年後に東ティモールで全く同じ選挙支援の仕事についたのですから、その時の決意が叶ったことに自分でもびっくりします。

ふと思い出して読みたくなったのは、

4年勤務した南スーダンが再び内戦状態になったり、

世界に争いが絶えなかったりと国連の活動ってなんだっんだろう?って「原点」の1つに戻りたかったのだと思います。

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南スーダンやら東ティモールやらを経て再び手にとった「カンボジア元気日記」はいまだに衝撃的でした。冷戦が終結して、戦争が国家間の「戦争」から、同じ国の人たちが争い合う「内戦」に移りはじめ、国連自身も国を再建するというはじめての大きな支援の中、どうしたらカンボジアに平和を取り戻せるのか、と文字通り一人一人が「奮闘」するのです。

当時カンボジアに派遣された方々がこうした道を切り開いてくれたことを改めて想いました。冷戦後にタイムトリップした気分になって、この20年で成し遂げられた事もたくさんあるじゃない?少しづつそう思えてきます。

平和を壊すのも人。

平和をつくるのも人。

その人を動かすのは、これまた当たり前だけど人。

どんな仕事に関わってるのか、組織とか個人とかでもなく、

一人の人として、その人が関わる人たちに影響を与えられることがあるー

著者(福永美佐さん)の方の一人の人間としての記録を通して、そんなことをしばし思い出させてもらいました。