今一番「もったいない」ことはただ過ぎ去るのを待って過ごすことーこの時期が明けたら動くために今出来ること❗️

今週より大学でのオンライン授業が始まって、わたしも身近に今始まっている「変化の時代」を少しばかり感じています。

 

新しいシステム上で、授業を進めたり、複数のシステムやアプリに慣れなければいけないことはストレスに感じますが、自分が与えているものの本質を確認することになったり、また教員にとっても学生にとっても、より本質的な学びに目を向けられるよい機会にもなると感じています。

 

こんな時期だからこそ逆に伸びる学生がいるように感じます。

 

個人的には、今まで止まっていた事が、逆にこの時期にだからこそ動き出していることもあります。こんな時期だからこそ、自分の方向性を明確に意思表示する人に対しては、いつもにも増して恵みとサポートがあるようにも感じます。

 

今年初めに聞いた2020の年に関するあるメッセージの中で、「リセット」ということが言われていました。

 

今、このような状況になってみて、まさにそのメッセージ通りに、「リセット」が起きていることを目の当たりにしています。

 

この場合の「リセット」とは、ある意味「なんとなく」やってきたことや、なんとなく続けてきたやり方が続けられなくなってきた、とでも言えるでしょうか。

 

大学を例にして言えば、授業や教務の運営で、紙を使ってやってきたものも、今回を機にいろいろなフローの見直しにも繋がっていくと思います。だって、オンラインでやらざるを得なくなって、実際になんとかなっているのですから。

 

また教える側も講義さえすれば授業をしたつもりにもなり、また学生にしても講義を聞いてさえいれば、何かを学んでいる気持ちになっていた面があったかも知れません。

 

しかし、この状況になって、いったい私は何を学んでいるのか?学びが進んでいるとはどういう事を指すのか?さらには、わたしはどんな学びに興味があるのか?ーというように、より学びの質に目が向けられていくことにもなるでしょう。

 

さらには、わたしはどのようなことを大切にして生きていきたいのか?どのような価値を大切にしたいのか?ーという風に、自己理解を深め、自分にとっての本質により目を向けていく人たちもいると思います。

 

個人レベルだけでなく、国や社会、制度レベルにおいても、特にこの最近の「場当たり的」な政策も含め、なんらかの形でやはり「リセット」がもたらされるのではないか?とも感じます。

 

今までのやり方が変わる過程ではストレスを感じることはありますが、よい方向へ向かっていくための一つのプロセスであるとも言えます。

 

目の前のやり方や手段は変わっていくことがあっても、自分が向いている向きがはっきりとしていたら、そのストレスは軽くて済むことでしょう。

 

となると、このBefore/Afterコロナの中間期にいる今の時期は、とても重要な時期だと言えます。

 

著書「励ます力」の著者であり、その世界的な働きと影響力の大きさで、今最も注目される一人であるBill Johnsonは、この時期にこそ「種を蒔く人は100倍の収穫を得る」と言っています。

 

種を蒔くとは、例えばこのようなことです。

*今何に投資すべきか?⇨自分の将来

*今だからこそ「投資」をするとき=種を蒔き100倍の収穫を得る

*実際面でも賢く今投資するものを見極める

*よい種を蒔いて、良いものを収穫する

*その種は今食することのできる食べ物でもあるが、その種を投資に回す(代価を払って収穫を得る)

*安易で手身近いなものではなく、必要な労苦を惜しまないこと。

*自分に投資したものは無くならない。

*自分の仕事に関する本を読む。

*これからのビジョンを求める。

*知恵を求める。

*自分が大切にしたい価値を確認する。

*自分の目指す方向性を確認する。

 

この時期にこそ、自分の人生の方向性を確認することができたら、それこそ、今の時期にできる最高の投資であり、大きな恵みだと思います。

 

生産的な「振り返り」(reflection)も重要です。

 

過去にとらわれる必要はありませんが、過去の未完了が整理されると新しいものを招き入れるスペースが生まれ、自然に未来に向かって動いていくことができます。

 

なにより、過去の経験からの「学び」や「気づき」、「洞察」などの振り返りが「資源」となって、未来への方向性を指し示してくれます。もし、これまでの自分の体験を体系的に振り返ったこと(reflection)がないのであれば、その体験を振り返り、これまでの体験でなんとなく曖昧になっているものがあれば、その部分を完了させることにぜひ取り組んでください。

 

そのような作業を続けていく内に、過去と現在と未来が一つの線で繋がっていくような、「点」と「点」が「線」になっていくのを少しづつでも掴んでいくことができたら理想的です。

 

自分の方向性がある程度はっきりとしていて、この時期が開けた時には(しばらく移行期があるように思いますが)、自分の中でより確信をもって、その方向へ歩み出すことができたらベストだと思います。

 

今一番「もったいない」ことは、この時期をただ過ぎ去るのを待って過ごすことです。本当に、それではあまりにも「もったいない」です。

 

今この時を大切にして、今こそ、自分の未来に、自分の人生に、自分のビジョンにこそ投資をしてください。

 

オンラインでのセッションを受け付けています。お気軽にご連絡ください。

https://chikaonaka.com/coaching/

info(at)peace blossom.net

 

自分の軸で生きる練習ーオックスフォード・国連で学んだ答えのない時代の思考法

2020年5月27日に刊行となりました!

自分の軸で生きる練習ーオックスフォード・国連で学んだ答えのない時代の思考法

外出禁止がほぼ一年のような環境でー危機が押し出す「和解」

前回、危機の時にこそ、その人の強みや本質、その人が本当に表現したいことが現れるのではないか?ということをお伝えしました。

 

*記事⇨危機の時にこそ、その人の強みや本質、その人が本当に表現したいことが現れるということ

 

また、「危機」が押し出す「和解」ということもあります。

 

今のコロナ危機の中で、もちろん大変なことは今世界中にいくらでもありますが、危機という中での光るニュースというのもあります。

 

今回は、「危機」が押し出す「和解」という視点から、先に南スーダンでの体験を、そして今のコロナ危機での「和解」についてお伝えしたいと思います。

 

175カ国の人たちが一緒に働く国連という場。この中には対戦中の国の人たちもいます。

 

ニューヨーク本部だったら、仮にその人たちが同じ部署で一緒に働くことになったとしても数時間ほど我慢すれば、いくらでもその後は自分が好きなところへ行くことができます。

 

しかし、南スーダンではそのような街もカフェもお店もありません。

 

外に出れないわけではありませんが、3分も車を走ったら、舗装の道は終わり、そもそもお店がないので、実質的には、ほぼ一年間くらい(人によっては2年〜4年くらい)、外出自粛に近い状態とも言えるでしょうか。

 

敷地内はそれなりの距離をジョギングできる程度の広さはあります。4畳くらいの広さですが、自分の部屋もあります。

 

ですから、あえて表現するならば、ある程度の広い敷地の中で、自分の家族ではなく、175カ国の同僚たちと一緒に過ごすことになった長めの外出自粛生活と表現したらいいでしょうか。

 

そのような中で、実際にこのような状況がありました。

 

インド人の軍人とパキスタン人の軍人が国連機の運営という同じ部署に配置されました。

 

軍人という職業の人たちには、防衛に直接関わる立場として、私たちが想像できない位の制約があります。

 

例えば、「敵国」であるお互いの国に渡航することはもちろん、互いに接触することも厳しく禁止されています。正式に軍人をやめても、一生インドを訪ねること、また一生パキスタンを訪ねることも許されていません。

 

ただ、国連という彼らが派遣された新しい所属先では、自分の国の立場ではなく国連の一員として仕えることになります。

 

幸い、二人ともプロ意識が高い人だったので、互いに助け合いながら毎日テキパキと国連機を飛ばし、何百人という国連関係者や物資を南スーダン各地に送り出していました。

 

二人とも家族や母国から離れる寂しさや苦労があったでしょうから、互いの「違う点」よりも、「同じ点」に目が向いたのかも知れません。

 

気づけば、二人で仲良く一緒にチャパティー(インドやパキスタンでの主食)を焼きながら、よく一緒に食事をしていました。

 

彼らは平気な顔でしれっと言っていました。

 

「ああ、カシミールは寒かった。そういえば、あの時の銃撃には驚いたよ。敵ながらあっぱれと思ったよ。ハハハー。」

 

「まあ、ヒンドユー語とウルドユー語なんてほとんど同じなようなものだよ。チャパティーの味だって一緒だよ。」

 

「戦争をあおるのは結局政治家さ。僕は軍人として命令されたところに行くだけさ。」

 

パキスタンとインドも互いに核武装をする程の敵国で、かなり緊張状態が高まったことが数回ありましたが、けっきょく、同じ言葉を話し、同じ食事をする同じ文化圏に属する人たちなのです。

 

私はチャパティーをごちそうになりながら、二人の会話をただ聞きながら、なんだか妙に納得してしまったのでした。

 

政治や人間のプライドやエゴで、人と人や国との間の分断がいかにも簡単に起きてしまうようにも見える一方で、同じくらいに人間の中には元に戻りたい(繋がりたい)というDNAのようなものがあって、危機という現象の中に現れる恵みの中で、私たちが自分の中にある純粋な気持ちや願いを取り戻し、人間のそんな姿を見せてもらうことがあると。

 

今回のコロナ危機では、イスラエルのユダヤ系の人とアラブ系の救急隊員が共に懸命に職務を行っていることを現している写真が話題になっています。

 

イスラエルでは、救急車への出動要請は通常年間6000件のところ、コロナ危機以降10万件を超える状況だそうです。そのような嵐のような忙しさの中、奇跡のようにある瞬間に要請が止み、共に祈る時間が与えられたそうです。

 

それぞれの神にその方向を向いて祈りました。そして、こう語りました。

(逆を向いている写真ですが、逆を向きながら一致しているのです!)

 

「対処すべきことがあまりにも多く、一人一人祈る時間がないので今は一緒に祈っています。… わたし(イスラム系)は家族のことを祈っています。わたし(ユダヤ系)はこの終わりを見せてくださいと祈っています。この病気では宗教も性別も関係ないです。」

 

このような状況の中で私たちは日々いろいろなことを感じています。フラストレーションを感じることもあれば、ちょっと前までは当たり前だったことに感謝が湧くような体験もしています。

 

だからこそ、このような時にこそ、「急げば回れ」ではないですが、大切なことを大切にして、そして、(家にいながら静かな時間が持てないという人も多いとは思いますが)、なんとかして、ゆっくりとした時間をとって改めて方向性・ビジョンを求めるというというのは一つの知恵であると思います。

 

神様、危機の時だけでなく、大切な目的に目を向けることができるための知恵を私たちに与えてください。そのような気持ちを保てるように私たちを支えてください。

 

私たちの中の要らないものをそぎ落とし、私たちの中の純粋な願いを取り戻させてください!

 

イスラエル

 

参考サイト:

https://mtolive.net/ガザ製マスクを買うイスラエル:コロナ効果?-2020-3-31/

⬇️ ニューヨークタイムズ記事

 

From 3.11 to 2020 & Beyondー神の津波と日本

人にその人しか果たすことのできない神様からの計画、目的(plan、purpose)が与えられているように、国にもまったく同様に神による計画が与えられていると言われています。

 

「神の津波 日本、そしてイスラエルへ」(Peter Tsukahira著)という本 (原著2003年出版)があります。

 

著者のピーターツカヒラ師は、アメリカ生まれの日系アメリカ人で、国務省で働いていたお父さんがライシャワー在日大使の下で働くよう日本へ派遣され、ツカヒラ氏は、1961年から家族と共に10代を東京で過ごしたというユニークな経歴を持ちます。

 

その中で、日本には神によって与えられた使命がある、と言います。

 

それは何かと言うと。。。

 

その前にちょっと、もう見た人も多いと思いますが、今回のコロナウイルスに対する各国の対応に少し触れておきたいと思います。国のビジョンということにも関係すると思うからです。

 

台湾では天才大臣と呼ばれるオードリー・タン(唐鳳)氏がプログラマーのバックグラウンドを活かして、マスクの見える化をしたり、緊急時に発生しやすいデマ情報の拡散を予期して呼びかけを発信し、人々が「本当に必要な人にマスクを譲ろう」と応答した、と伝えられています。https://v.gd/sY4VgJ

 

シンガポールでは、対策のために団結を示す姿勢として、政治家の給料1割カットが打ち出されました。この記事で注目すべきは、給料カットではなく、むしろ副首相(Heng Swee Keat, Deputy Prime Minister & Minister for Finance, the Republic of Singapore)の決意と一致のあるビジョンに満ちたメッセージでした。

 

‘ We are united in our determination to preserve and enhance jobs, as well as support businesses impacted by COVID-19. We are united in our confidence that Singaporeans come out of this outbreak stronger. As long as we stay united in resilience, trust and solidarity, and to build better lives for all in Singapore, we will get through this — together.

Our unity will set the foundation for Singaporeans to press on and write the next chapter of our Singapore story. All of this is within our reach, if we work as One Singapore. Above all, let us never stop thinking and working for tomorrow.’

 

シンガポールと言えば、27年ほど前にアメリカ人の少年が器物・公共物の損壊行為等を行ったことで鞭打ちの刑を科され、アメリカ政府は刑の執行を猶予するよう要請したものの、シンガポール政府は鞭打ち刑を実行に移し、国際的に話題になりました。

 

リー・クアンユー首相(当時)の政権は経済を力強く牽引し、安全だけど独裁的、家父長的というようなニュアンスで語られました。

 

シンガポールのIT企業で働くアメリカ人の知人からは、国といっても23区ほどの領土しかないし、安全でハイテクで全て整っているけど「退屈」という声を聞くこともあります。

 

そういう面も実際あると思いますし、実力主義の国でもありますから、単純にシンガポールが住みやすいと言えるわけでもありません。

 

また、給料1割カットを打ち出したのも、世界の投資の中心地とアジアのビジネスセンターであり続けるために、対外的に分かりやすくアピールする必要もあったのでしょう。

 

それを踏まえても、シンガポールのメッセージからは、国全体が進化し続ける、前を見据えた視点を感じました。

 

今では一人当たりのGDPは、日本よりもイギリスよりも高いシンガポールですが、1964年東京オリンピック開催の時には、まだイギリスの植民地で、シンガポールという国さえ存在していませんでした(1965年8月9日独立)。

 

シンガポールより約2年前早く独立した天然資源のマレーシアに比べ、「何もなかった」小さい島国をどう発展させたらいいのか ーリー・クアンユー首相(当時)は、不眠症で倒れることもありながら、「他の国が必要とする国になる」、「我々にあるのは戦略的な立地条件と、それを活かすことのできる国民だけだ」という考えに至り、次々と施策を具現化していきました。

 

その一つは、国民一人ひとりが自立し、社会的責任を担える健全な精神を養うことだ、ということでした。

 

シンガポールの発展については別に譲りますが、本当に「知恵」をもって発展をしてきた国なのだと思います。

 

日本も同じく島国でありながら奇跡的な経済発展を遂げてきた国です。

 

わたしは、3.11の1年後、仕事でバングラデシュにいましたが、一日の稼ぎが100円にも満たない多くの人たちが、日本の復興のためにたくさんの寄付をしてくれたことを知りました。

 

その後、同じ年にフィリピンやスリランカでも「私たちは日本の復興を願ってます。戦後の焼け野原の状態からあそこまでの経済大国になった日本は私たちの希望です」ということをたくさんの人が伝えてくれました。

 

「神の津波 日本、そしてイスラエルへ」(日本語訳2011年)の中でも、冒頭で2011年3月の東日本大震災のことが触れられています。(ちなみに、2003年出版の原書タイトルはGod’s Tsunamiです。)

 

神の津波 日本、そしてイスラエルへ

 

以下引用(p.11, p.278-p.283)。

 

「これまでの歴史で、日本は地と海からのこれほどの惨状を経験したことはなかった。この恐ろしい自然災害を通じて、神が日本に何かを語りかけておられることを、私たちが理解することが必要だ。この地震と津波はかつて起こったことがない規模で、文字通り全国民を震撼させた。この意味ははっきりしている。

 

日本が、一つの国民として変わるときが来たのだ。新しい時代に適応するために変わらなくてはいけない。昔ながらの方法や考えは、もはやこの国の繁栄を保ち、発展させていくことができない。今こそ、新しい道への勇気ある一歩を踏み出さなくてはいけない。」(p.11)

 

…(中略)…

 

「日本は今、霊的な危機の中にある。自殺者の数は近年減ってきているが、一年あたりの数で二万人を超えており、国際的にとても高い水準だ。若者たちが命を絶っているだけでなく、中年の男性の自殺数が多いのが日本の特徴だ。彼らは『サラリーマン』と呼ばれ、会社に人生を捧げ、日本の「奇跡的な」経済成長を負ってきた人たちだ。

 

今日、彼らのうちの多くは、職業的な安定感を失ったことによって、自分たちのアイデンティティーの重要な部分を失っている。

 

この危機は、経済危機とされがちだが、私はむしろビジョンの危機だと考えている。

 

日本の人々は、今も熱心に仕事をし、高品質の製品やサービスを生み出している。しかし、国の政治的な指導力に対する自信と、将来に向けての社会的な指針、方向性を失ってしまった。

 

今日の日本は、まだ見ぬ新しいビジョンを得るために、馴染みはあるが時代遅れとなってしまった過去のビジョンを手放さなければならないという苦しみの中を通っている。

 

…(中略)…

 

過去一世紀の間、二回、あと一息で世界のリーダーになるところまで来た。

 

最初は、第二次世界対戦前、軍事力によって領土を拡大していたときだ。これは軍の失敗に終わり、広島と長崎への原爆投下による悲劇で終結した。

 

二回目は、戦後、工業的・商業的に領土を拡大していったときだ。戦後の日本の経済成長は、西欧社会にとって脅威となった。

 

1980年代に、ハーバード大学教授、エズラ・ボーゲルは、著書「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の中で、日本が世界経済のリーダーとして、アメリカを超えつつあると書いたが、世界中がそれを感じていた。しかし、日本の時代は1990年代に「バブル経済」がはじけるとともに終わり、その後は二十年近く経済のマイナス成長と停滞が続くことになる。

 

日本は神によって創られ、使命を与えられている。世界のリーダーとなる使命だ。しかし、神はそれを、肉の力、つまり軍事力や経済力でしてはならないと命じておられる。

 

リーダーとなるためには、生ける神から国家に与えられる力強いビジョンが必要だ。」

 

以上引用終わり。

 

今回の政府の対応を目の当たりにして、政府や日本という国のこれからについて思いを寄せることになった人も多いと思います。

 

オリンピックという過去の成功物語以上のことを描くことができず、それになんとかしがみつこうとする姿は、別の言い方をするとビジョンの欠如とも言えます。

 

日本に「新しいビジョン」が必要であることに、同感です。

 

今回のウイルスによる嵐の最中の「宝」の一つは、もうとっくに機能していないのに、かろうじて成り立っているかのように見えるモデルや価値観が今や壊れていること、そして新しいビジョンの必要性がよりはっきりしたことでしょうか。

 

国の大統領や政治家、アメリカのエンターテイメント業界のスターたちのために助言や祈りの働きをするショーン・ボルツという人がいます。

 

日本ではあまり知られていませんが、国の大統領や政治家に対して祈りを取り成したり、メッセージを伝える働きというのがあります。「神の通訳者ー自分や周りの人のために神の声を聞く」という本の中で人物は「仮名」で書かれていますが、非常に面白いです!

 

彼はこう言います。

 

「人は愛していないものに対しては、権威を持てない。」

 

愛している分だけ、相手は心を開いてくれる、という意味です。

 

英語でIntercessionという単語があります。

[名]仲裁,仲介,調停,執り成し(とりなし)をすることの意味です。

とりなし、または、とりなしの祈りは、他者に代わって神に祈る行為のことを言います。

 

今回、台湾でのウイルス対策が評価されていますが、台湾の人たちは祖国のために日常的に祈っていて、今回のような緊急時を見据えて、特に2018年からは指導者へのとりなしを行っていたと言われています。

 

私も最近とりなしの力を体験しました。

 

ちょっと前に、スピーチのクラスの大学の授業で、学生たちが素晴らしいスピーチをしてくれたことをシェアさせていただきました。

 

最初はモジモジみんなの前に出てきて、下を向いてボソボソ話すような学生もいたのに、最後は素晴らしいスピーチを次から次へと披露するので、「あら、この素敵な子たちはどこに隠れていたのかしら?!」と後ろに座っていた先生がびっくりしたという話しです😲

 

たった14回ほどの授業で、しかも英語もスピーチについても教えた部分はほんのわずかだったのに、最後に学習曲線が急上昇⤴️⤴️⤴️したのは、「とりなし」の祈り(学生の祝福を祈り、そして他の人たちにも祈ってもらう)と、あわせて、「神様のまなざし」で学生たちを見てあげるということが大きな力となったのではないかと思っています。

 

わたしも、「神様のまなざし」で受けとめられる時、大きな愛に包まれ、安心感に満たされる中で、神の導きの中にある安心感、軽やかさ、将来へ開けていく感覚をはっきりと体感したことがあります。

 

そのような「神様の愛のまなざし」を、私たちは国にも向けることができるので、日本という国を「神様の愛のまなざし」で見ることができるということです。

 

ショーン・ボルツは、こう続けます。

 

「私たちは社会に欠けていることだけに焦点を当ててしまいがちです。…  でも、神が既に何をなさったのか、そして自分たちが何を達成できたかに目を向けないと、何が欠如しているかにフォーカスしてしまい、神の業の全体像を見ずに社会正義や人権のために戦おうとしまいます。

 

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのような先駆者たちは、今ある限界を遥かに超えた全体像を見ていたのです。神のみ心にあるものを呼び起こすことが必要なのです。」

 

二人とも神様の視点というものがあるんだよ、ということを教えてくれています。

 

そして、すでに大きな流れの中で日本が位置付けられているとピーターツカヒラ師は言っています。

 

原著は2003年の出版ですが、サウジアラビアでの石油施設の攻撃や中東におけるシーア派とスンニー派の分断による二分化などが、17年も前にすでに予見され、書かれている通りに今まさに中東、世界情勢が動いていることに驚きます。

 

ただ、この本の焦点は、予見や予知というよりは、そこには神の計画という大きな全体像があるんだよ、という点にあります。

 

地上1メートル75センチくらいの視点だと、問題ばかり見えますが、もっと高い高い大きな神様の視点がある、ということです。

 

その視点を日々の中で広げ、物事を見ることができるようにただ今訓練中ですが、今回の騒動でその必要性をさらに強く感じています。

 

最後に日本の指導者のためにお祈りをしたいと思います。

 

日本で一番大切なことが一番大切にされ、必要なことが知恵をもって速やかに行われますように。そのために必要な資源と人材が最大限に活かされますように。

 

この国を愛し、この国の指導者たちを敬い、彼らのために祈れるように私たちを整え、その心を支えてください。

 

日本の指導者たちを助け、知恵を与えてください。

 

日本にあなたがくださった使命とビジョンを見せてください。

 

私たちがあなたの愛を日々溢れるほどに受け取ることができるように助けてください。私たちの心を柔らかくしてください。

 

神さま、あなたの愛がどれだけ広く、長く、高く、深いかがわかるように私たちを助けてください。

 

私たちの心が愛で満たされ、愛に留まることができるように私たちを助けてください。

 

The LORD will fulfill his purpose for me; your steadfast love, O LORD, endures forever. Do not forsake the work of your hands. (Psalm 138:8)

 

Psalm 138

⭕️⭕️がないと 受験だ、就活だ、婚活だとベルトコンベアに乗せられていくだけ「これでは薄っぺらい自分のない人間しかできあがりません」

自分で考えたことがないと、「受験だ、就活だ、婚活だと、『そんなものだ』とベルトコンベアに乗せられていくだけ。これでは薄っぺらい自分のない人間しかできあがりません。」

 

 

「『自分のアタマで考える子』の育て方」の中で、子どもの能力を伸ばす教育で知られる高濱正伸さんはさらに続けます。

 

「『生きるってなに』『私ってなに?』『何のために学ぶの?』『就職ってしないといけないんだろうか?』とさまざまに悩み、本を読み、誰かと議論する中で、「生きていくための軸」となるものを掴んでいくのです。

中略

それ(自分で考えること)をしなければ、根なし草のような自分しか持てなくなります。

 

そんな状態でいくら自分探しをしたところで見つかるわけがありませんし、聞こえのいい言葉を並べるだけの中身のない人間にしかならないでしょう。

 

それは『自分で考える』ところからしか生まれてこないものなのです。」

 

そもそも人間は思春期から青春記にかけては、人間は本来「哲学」するものとも言っています。

 

わざわざ「哲学」という言葉を使わなくても、子供は小さいながらにいろいろなことを感じています。

 

それを口にするかどうかは別にして、例えば、なんで戦争は起こるの?なんで戦争はなくならないの?環境問題はどうしたらいいの?

といった疑問を純粋に持ちます。

 

「生きる」とは真逆のことをなぜするのか?、

お互いになぜ殺し合い、傷つきあう行為をするのか?、と単純に思うのです。

 

「考えること」の本質は「疑問を持つこと」なので、子供の方が本能的に物ごとの「核心」をわかっていることも珍しくありません。

 

なので、

こうした疑問を持つことは、考えること、そして、なにより人生の中でもとても重要な問いである、自分にとって大切なことは何なのか?と同義語です。

つまり、自分はどう生きたいのか?何をしたいのか?の土台となる部分です。

 

今思えば、高校の時に「本質的なことを追求することをよし」とする校風で学ぶことができたのはとても幸運でした。

 

校長先生や倫理の先生が「人として生きるとはどういうことか?」と毎週本気で伝えようとしてくれました。

 

国連での勤務などを経て、10数年ぶりに先生を訪ねた時に改めて気づいたのは(今は校長先生になられています)、当時私たちが見せてもらっていたことは、人生には常に続く「問い」が存在すること、同時に、問いや自分の価値観をもって生きている人は美しいという姿でした。

 

こうした時期に、自分にとって大切なことは何なのか?=つまり、自分はどう生きたいのか?と考え、模索した体験がなかったら、南スーダンなどの紛争地で働くことも、紛争という事実に直面するような「ふんばり」も持てなかったかも知れません。

 

ただ、

そうした課題意識や探求心が尊重され評価される欧米と違って、日本ではそうしたことを話しあえるような場も機会も限られていて、ニュースは表面的な出来事しか伝えません。

 

テレビにしろ、必ずしも本当に重要なことが話されている訳でもなく、そもそも関心がない、またはどう答えていいのか分からない、大人が諦めてしまっているという事実に子どもはショックを受けます。

 

大人の社会にはがっかり、失望、無力感や諦めさえも蔓延しています。

(日本社会は残念ながらこの感覚が世界の中でも強いように感じます。)

 

そんな体験を重ねるうちに、そんなことを考えても無駄だ、無意味だ、とショックや落胆、失望が深く抑圧されていきます。

 

ただ、人間にとって、「理解されない痛み」は実はとても大きいものです。

「理解されないと人は生きていけない」と指摘する人さえいます。

 

もちろん、表面的には生きていけます。

 

これは、クライアントさんとのセッションで見せていただいたことですが、

 

例えば、医師としてプロフェッショナルに活躍されておられる方でさえ、

(そしてある意味、そうした体験や問題意識こそが、その人を医師にさせた言動力となった面もあるのですが)

ある段階になると、そうした体験が人生において「重荷」として浮上してきます。

 

わざわざ「重荷」という表現を使ったのは、

 

プロフェッショナルとして活躍され、尊敬もされる立場にあり、日常的には問題なくコミュニケーションがとれている人でも、

 

理解されない・わかってもらえないという体験や思いから、無意識に自分の意見を正当化しようとしたり、相手を説得しようとしたりすることがあったり、

または、ある部分が「満たされない」ような感覚として体験する人もいます。

 

人間にとって、「理解されない痛み」はそれ程までに大きいのです。

 

そして、これもまたセッションで見せていただいたことですが。そうした体験や想いが受け止められ、「理解される」体験をすると、文字通りその人の中の大きな「重荷」が解放され「次の扉」が開きます。

 

力がみなぎるのを感じて、身体が自然と動くようになったり、今までできなかったことができるようになった人もいます。

 

おそらく「理解されない痛み」によって奪われていたエネルギーや本来の力が戻ってきたのでしょう。

 

そして、理解されると、人を受け止める「器」が大きくなっていくのです。

 

そうした「重荷」が受け止められ、解放されると、今度は、その方自身が周りの似たような体験や想いを持つ人を受けとめ、理解していくことができるのです。

 

そうして個人から「平和」が周りに広がっていくのですね。

 

「理解されたかったらまずは相手を理解せよ」とはよく言われることですが、

 

相手を「理解する」ためにも、その余裕を持てるためにも、まずは自分が「理解される」ことを満たしてあげてください。

 

「『だからこそ』あなたが輝くための55の質問」配布中です!

 

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だからこそあなたが輝くための55の質問目次.001

 

目次

あ、今の自分の状態について把握する

い.自分の「ストレス反応」を知る

う.今気になっていることについて観察する

え.喪失(後悔、自責、サバイバーズギルト)に気づく

お.自己像、自己肯定感、自己受容度に気づく

か.自分の中の「不安」を意識化・言語化する

き.自分のコーピングスタイルを知る

く.自分と相手との優先順位(境界線)と当事者レベルを知る

け.自分のストーリー(解釈・認知)に気づく

こ.回復のストーリーをみつける

さ.試練の中の「意味」について知る

し.再結合・新しい自己の創造

す.回復・再生のためのステップ 

せ.トラウマからの回復・再生のプロセスで体験しうること

そ.トラウマからの回復の三段階

 

ダウンロードは⭕️こちら⭕️よりどうぞ 

日本人は自分だけが儲かればいいだけではがんばれない民族。世界のために果たすべき意義があってこそ日本本来の力が発揮される

日本人は元々自分たちだけがよければいい、儲かればいい、というようなレベルではがんばれない民族だと思います。日本人という人たちには、より根源的なレベルで自らを奮い立たすことのできる「存在意義」が必要なんじゃないか?

 

8月になって戦争関連のテレビ番組や新聞記事に触れながら、そんな想いを強くしています。

 

そして、この数日である問いが私の頭に浮かび続け、ある種のインスピレーションを受け取っています。

 

それは、なぜ日本はあんな焼け野原から世界第3位の経済大国になるまでの奇跡的な復興を成し遂げることができたのか?という問いです。

 

そして、その問いこそに、この閉塞感で行き詰まりの今の日本を抜けさせてくれるヒントがあるんじゃないか、ということを感じるのです。

 

日本の戦後の復興がいかに奇跡的であるかは、国連で紛争後の復興に関わった時改めて痛感しました。

 

例えば、東ティモールと南スーダンにおいては、国連は紛争の停戦だけでなく、その後の国の独立そして「国づくり」にまで関わりました。

 

特に南スーダンは、アフリカ(世界)最長の紛争からの独立だけあって、独立後の国づくりには、国連だけでなくEUや世界中の学者や政策アドバイザーが、それこそ復興のための最善の政策を考え、国連の活動の中でも特段大きな予算も注目もつけられました。

 

そうした外部の支援があっても、一番肝心なのは当事者たちの意思(特に新しく国づくりを担う国のリーダーたち)であるのは改めて指摘するまでもないのですが、南スーダンでは復興が進んでいないどころか、残念ながら内戦が再発し、以前よりもひどい状態になっています。

 

では、自然災害からの復興はどうでしょうか?

 

2006年12月に発生したスマトラ沖地震の津波で壊滅的な被害を受けたスリランカやインドネシアのアチェを例にとっても、その復興は日本の戦後の復興とはまったく程度が違います。

 

東日本大震災の後に、フィリピンやバングラデシュ、スリランカに出張した際には、「戦後の焼け野原から復興を遂げた日本は私たちにとっての希望。だから復興を応援している」という声をたくさん聞きました。

 

東日本大震災の時に日本が受け取った支援額の総額は個人と組織からの寄付を含め、ソマリアやスーダンの支援額を3倍も超え世界一位でしたが(2011年度)、そこには日本の支援(ODA)に対するお礼だけでなく、戦後の奇跡的な復興への「敬意」とさらなる発展に対する希望という意味合いもあると感じました。

 

日本の戦後の復興の要因としては、高い教育水準(識字率)とモラル、朝鮮戦争による特需や冷戦時代に米軍の傘の下に入りながら経済発展に邁進したこと(軍事・政治面での米国依存に引き換えという構図と引き換えに)などが一般的に挙げられてきましたが、果たしてそれだけで説明になっているのか?という指摘は根強くありました。

 

東日本大震災の時にも、今回の震災からの復興を見ることで(もしそれが再現されたなら)、日本の戦後復興の本質がより明らかになるだろう、と指摘した海外の大学教授の声もありました。

 

官僚主導による東日本大震災の復興は残念ながら成功とは言えませんが、それが逆に日本の閉塞状況を象徴するかのようで、同時に、戦後の復興の「特異性」を改めて際立たせることになったとも言えます。

 

そこで冒頭の質問に戻りますが、あらためて、なにが戦後の日本の奇跡的な復興の原動力となったのでしょうか?

 

今、改めてそこに想いをはせるとき、このような見方もできるのではないかと思うのです。

 

より根源的な原動力としては、なぜあのような戦争をゆるしてしまったのか?という悔しさと戦争・敗戦の屈辱を越えて誇りと尊厳を取り戻したいという大きな想いがあったということ、

 

だからこそ、軍事とはまったく違う力で(日本の場合、経済の力で)世界に尊敬される国として地位を再び確立したい、戦争をしたからこそ今度は平和に貢献できる国になりたい、という想いが根底にあったのではないか?と思うのです。

 

バブル崩壊以降、日本の企業や社会は、ますます内向きになり減っていくばかりの内需(人口)のパイを奪いあっています。

 

それは本当に幸せの道なのか?と確信を持てない人たち、これから何を目指したらいいのか?と違うものを求める人たち産みだしています。

 

日本人は元々自分たちだけがよければいい、もうかればいい、というようなレベルでは立ち動けない・がんばれない民族だと思います。日本人という人たちには、世界の平和というより根源的なレベルの「存在意義」があってこそ、本来の日本の力が引き出され、発揮されるのではないか?と思うのです。

 

もっと言うと、「戦争をしたからこそできる日本の貢献分野」があると思うのです。

 

これまでは、戦争をしたからこそ世界で目立ってはいけないという力学が無意識レベルで作用していたようにも感じます。

 

それが、昨年5月末のオバマ元米国大統領による広島訪問と、謝罪を求めないという広島のそれぞれの決断により、両者の和解と「日本の戦後」が大きく一歩前に進みました。

 

オバマ元米国大統領が広島を訪問して以来、日本での戦争に関する記事やテレビ番組も視点が国内だけでなくより世界へ視野が広がったような印象を受けています。

 

戦争をしたからこそできる日本の貢献分野は何か?

 

日本の強みや弱みは改めて何か?

 

そして、自分の役割は何か?

 

このお盆休みには、あえて視点を広げてそんな大きな問いかけをしてみてもいいんじゃないかな?と思います。

 

素敵なお盆休みを!

なぜ日本人は世界一高い携帯電話料金を払ってきたのか? ー地方衰退と世界一高い携帯電話料金がつながっているわけ

先日、日本三大秘境のひとつに旅行をしてきました。

 

長野県の遠山郷、南アルプスに囲まれた標高1200mの地で日本のチロル(オーストリア)と呼ばれる下栗の里というところです。

 

 

高速道路を使っても、片道7時間かかりました。

 

 

飛行機に乗ったら、沖縄の石垣島でも3時間で着いてしまう時代に、片道7時間。

 

しかも文字通り細~い山道を登っていく道中はけっこうびっくりしました。

 

 

でも、だからこそ「秘境」と呼ばれる地が残っているのですね。

 

そこまで行ったかいがあって、標高1200mの地の空気は澄んでいてとてもリフレッシュできました。

 

 

芝生の上に裸足になって寝っ転がっているだけで、身体が南アルプスのエネルギーに満たされるようでした。

 

 

さて、観光客にとってはそんな有り難い村でしたが、その村も人口減少の例外ではなく、今の小学校の人数は9名だそうです。

 

先生の数の方が多いそうです。

 

7名になると廃校になってしまうらしいので、村の存続のためにも喫緊の課題です。

 

 

人口減少と地方衰退という日本の問題がそこでもはっきりと現れていたのですが、

 

 

その帰り道の東名高速(第二東名)で寄ったサービスエリアでは、その構図の続きである大企業主義(癒着体質)をさらに目の当たりにしました。

 

 

南アルプルの山道を2時間ほど超えて、長野県の山中から静岡県の太平洋側に降りてきました。

 

浜名湖の近くで高速に乗ったので、ランチはうなぎにしよう、という話しになりました。

 

しばらく走ってから、サービスエリアに入りました。

 

うなぎがないどころか、地域の名産もほとんどなく、お店の9割は東京で見るチェーン店ばかりでした。

 

旅行者としては地域の名産が食べたいのになあ、と思いながら、今度はトイレに入って唖然としました。

 

ドアにはピンクと青に光るランプ、そして豪華パウダールームです。

 

これって必要なわけ???

 

 

癒着と天下り体質が即座に頭に浮かびました。

 

 

私は海外で10年以上暮らしていたので、日本の高速代金が世界で一番高いことを知っています。

 

こんなに高い国はありません。

アメリカでも10分の1以下です。

 

高速道路財団のビルが目に入りました。

 

 

そんなものを他の国で見たことはありません。

 

 

 

こんなの要らないから、高速代もっと安くしておくれー、と単純に思いました。

 

そして、日本の携帯料金がやはり世界で一番高いことともまったく同じ構図だと思いました。

 

海外ではもう10年以上も前から現地でSIMカードを調達して、端末にSIMを入れて使うのが当たり前でした。

 

私は国連で働いてきましたが、あちこちの国を出張する国連職員はいろんな国のSIMカードをいくつも持っていました。

 

そして、けっこう通話しても携帯の代金は3千円を超えることはほとんどありませんでした。

 

なので、日本の携帯電話料金がいかに高いか、ということは常に感じていました。

 

2年たたないと解約料をとられる制度も日本だけです。

 

ようやく日本でもSIMフリーが始まりましたが、もし東京オリンピックがなかったら、そんな体制をもっとゆるしていたんじゃないかと思うと、ゾっとします。

 

これは、電気代、ガス代、電車料金にも当てはまります。

 

決められたままの料金を疑うこともなく、私たちは「そういうものだ」と支払い続けているのです。

 

スウェーデンでは電力会社も選べます。

 

自然発電かどうかといった電気の発電方法にしたがって電力会社を選べます。

 

日本でもようやく電力の自由化解禁になりましたが、各社似たり寄ったりのサービスで、肝心の電気の発電方法にかんする情報もがまったく十分ではありません。

 

私たちはもっと単純な疑問をぶつけてもいいと思うのです。

 

そもそも電気代って最近高くない?

これってどういうこと?

どうしてそれしか選択肢がないの?

このサービスって必要なわけ???

 

「そういうものだ」というのも思考停止状態なのですよね。

 

 

だって、私たちが「そういうもの」と思っているものは、ほとんどが「そうじゃない」ってことが、日本の外に出ればすぐにわかるから。

 

 

考える力を持つことーこれは私たちの日常生活の質をつくっている、と痛感します。

 

どうして?ーやっぱり疑問を持つことをやめてはいけません!

オックスフォードの教授との個人指導では一年間で一回も答えが言われない❗️じゃあ何を学ぶの?

オックスフォード大学の大学院ではあまり授業の数は多くはなく、チュートリアルと言われる教授との一対一の個人指導で一年間の学びが進められていく、というお話しをしたことがあります。

 

記事⇨ オックスフォード流「考える力」ー一流は何をどの順番に考えればいいのかを知っている

 

授業を受けずに一対一の個人指導を受けるという制度にもびっくりしたのですが、さらにびっくりしたのは、一年間で一回も答えが示されないことでした。

 

一年のうちに約24回ほど小論文を書き、教授とのチュートリアルの時間を持ちました。

 

その一年間、私は教授からこれが答えだ、というようなことを一度も聞くことがありませんでした。

 

こんなままで年度末の試験を受けて受かるんだろうか、という心配が何度も頭をよぎりました。

 

なぜなら、自分の答えが合っているかどうかが分からなかったからです。

 

正直、この間の期間はシンドかったです。

学生が年度末試験に向けて感じるプレッシャーは相当なものです。

イギリスの場合はいくら年度中に真面目に講義を受けていたとしても、最後の試験でできなければ修士号を受けられないからです。

 

 

 

何度も、教授に「答えは何ですか?」「これでいいんでしょうか?!」と聞きたくなったものです。

 

でも、自分の意見が正しいのか合っているのかは、誰も言ってくれません。

 

 

その替わりに聞かれるのは、決まって同じ質問でした。

 

「なんであなたはそう思うのか?」と。

 

 

これは私の担当教授がいじわるだったという訳ではなく、オックスフォード大学のチュートリアルの目的とは、

 

ある一つの「正解」を聞く・知る・学ぶためではなく、自分なりの意見をや考え方をつくっていくための訓練をする時間だったからです。

 

 

そもそも試験で出される問題にさえも「正解」は存在しなかったのです。

 

私の場合は、人類学という分野の背景や鍵になる先行理論を理解して、それを踏まえているかどうかは判断されますが、その上でどんな意見を述べるかには、正解はなく、基本的にその人の思考プロセスを確認するのが試験のポイントなのです。

 

これまでの学校教育では、決められた範囲の試験の問題に対して、一つの正解を出すのが勉強だとされてきました。

 

日本で教育を受けた私たちは、問題にはなんらかの「答え」が存在するものだと思っています。

 

でも、そうした勉強の仕方では私たちが直面する問題には対処できなくなってきました。

 

スマホとYoutubeの発達で人間が一日に接する情報量は数百倍~数千倍になり、少し前の「最新情報」はすぐに「最新」ではなくなります。そして、世界情勢の変化も早く、予測不可能なことが増えています。

 

これまで上手くいった方法が万能でもありません。より柔軟に問題に対応していくこと、そして新しいアイデアや解決法が求められています。

 

ますます私たち一人一人の考えが自分の考えを持つことが大切になっています。

 

考えるために私たちの頭を柔らかくして、自分で考え新しい発想ができるようになるためにまず理解するべきことは「答えは一つではない」という事実です。

こんなこと大きな声で言えないけどトランプ時代はチャンスでもあるんじゃないかと感じている人へ

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米国次期大統領がもうすぐ就任しますね。

 

ふたを開けてみないとどうなるのか分からない「様子見」的な世界情勢ですが、

 

明日以降、就任式初日の政策関連の決定と発言でしばらくニュースが忙しくなるように思うので、私が感じる「心がまえ的」なことをシェアしたいと思いました。

 

なんというか、彼という存在は、よくもわるくも私たちをいろんな意味で「刺激する」存在であるのは確かのようです。

 

去年のクリスマスシーズン(アメリカ人が日本のお正月のように帰省する前)の頃には、家族のテーブルで政治が話題にあがった場合の対処法というメールが送られてきて、その影響の深さを感じました。

 

彼の差別的発言や彼のトーンを聞くやいなや、嫌悪感を刺激されることは確かにあるし、もちろん、差別的な発言も彼の攻撃的なトーンも(少しはトーンダウンするかも知れませんが)聞いていて、けっして心地いいわけではないのだけれども、

 

でも、同時に、

 

彼はある意味、誰もが心の中で持っている部分や思っていることをただ声に出して言っているだけじゃないのかな、と思うこともあります。

 

なんと言うか、「ああ、でもたしかに、人間ってそういう差別的な思考ってあるよね」と思ったりです。

 

誤解のないように言っておきますが、私は175カ国もの人たちが働く国連という組織で働いてきたので、これまで一緒に働いた上司や同僚の国はパキスタンからコソボからリベリアからシエラレオネまで、本当にいろいろでした。

 

独立前の南スーダンなど職場に日本人が一人もいない環境も数年ありました。

 

私が国連で働くのが好きだった理由は、実はとても単純で、紛争解決にかかわれるからでもなく、いろんな国の人がいる環境が好きだったから、でした。

 

でも、それは、けっして楽チンなユートピアな世界だったわけではなくて、誤解も差別的な考えもフツーにあって、それが直接的には言葉にはされなくても、ちょくちょく垣間見られるそんなリアルな場でもありました。

 

もちろん、国連という組織の性格上、そういうことを容認することはできないので、いろんな人事規則やら異議申し立ての制度もあって、人権条約や国際規約さえあるのですが、やっぱり規則で人のこころは制約できないよねー、と思ってしまうのです。

 

というか、仮に、地球に住む人全員が同じ肌の色をして、同じ宗教を信仰していて、同じ言葉をしゃべっていたとしても、

 

人間って誰かを区別する(差別する)なんらかの理由をつくるなんて、すごく簡単そうとも思っちゃいます。

 

あいつのマユゲはオレより太いとか?(笑)

 

マユゲ惑星と地球人との交流とかまったく比較の対象にならない場合はどうなるのかわかりませが (笑)

 

interstellar

 

でも、日常的(表面的)にはどうかというと、たとえば、イギリスといった国などは特にこういう傾向が強いと思うのですが、その人がどう思っているかよりも、そういう風に発言すべき、という規範がありますよね。

 

とくに、公的立場にいる人や社会的地位の高い人は、ポリティカリーコレクト(politically correct)でなければならない、ので、この傾向がさらに強いと言われています。

 

そういう場合、社会的地位と自分のアイデンティティーが同一視されていく傾向も強いそうです。

 

私もそうでしたが、「国連職員とはこうあるべき」、という具合ですね。

 

そして、「自分はこうあるべきだ」という自分の理想像もさらに加えられていきます。

 

なので、対外的な「鎧」やら、公的な「マスク」などの「ペルソナ」(パーソナリティー)のレイヤーは実はかなり沢山ありそうです。

 

 

こういう場合、シャドーを含む自分の「ありのままの姿」(嫉妬をしたり傲慢だったりする部分も)を認めるのが難しくなる、という指摘もあります。

 

 

この構造ゆえに、アメリカでは特に、社会的な地位の高い人、またはポリティカリーコレクト(politically correct)な人たち(であるべき人?)ほどトランプ発言を毛嫌いする傾向が強いと言っている人もいます。

 

自分のこうあるべき像にそぐわない、という訳でしょうか。

 

ただ、実際には人間っていろんな面を持ってる存在です。

 

 

多様性や移民の受け入れを前提とする『多様な価値観を認める英国像』は、政策的にも道徳的にもすっかり定着し、もはや疑問を持つことの許されない価値観であるかのように見えました。

 

 

移民や多様性を否定するような意見は『ポリティカリー・コレクト』でないとされ、不安や本音を口に出すことが難しくなっていったという背景がありました。

 

…(略)…

 

ただ、「こんなことを言ってはいけない」「こんな風に見られてはいけない」という自制や抑圧は、実際には誰のなかにもありうる「怖れ」や「偏見」を地面の下に押しとどめるだけです。

 

「反テロ」や「反差別主義」も、その問題に取り組むことをかえって難しくしてしまいます。

 

人間は誰もが怖れや偏見を持っていることを受け止め、それを一度浮上させ、自覚する必要があるのです。」

 

クーリエジャポン Vol.3  「チンパンジー化」が進む地球の上で、未知の恐怖に打ち勝つ方法|大仲千華「答えを求めない勇気」より

 

 

グッドニュースは、そういうものは一旦自覚されたら「力」を失って、統合されると、今度は自分のパワーになってくれるのです。

 

そして、その領域にこそ、自分の本当の力だったり、ギフトと呼ばれるいろんな才能が同時に埋もれていると言われています。

 

そういう領域は心地悪いのでつい避けてしまいがちですが、そこにこそ「宝もの」があるのです。

 

新しい時代の始まり。

 

どうせなら力をつけ、新しい「宝もの」をみつける ー そんな機会にしたいものです。◕‿◕

オリンピックーなんで日本人選手しか報道されない?Tokyoでは難民チームのドラマも見たい

もうすぐリオパラリンピックが閉会します。

 

華やかな舞台の陰には猛烈な練習があるんだろうなあ〜と、

人間の底力を思い出せてくれるような選手のみなさんに感謝です。

 

 

でも、2016年という時代に一つ大きな違和感があるのです。。。

 

なんで日本人選手しか報道されないの(ほぼ)???

 

いろんな人間のドラマが見たかったし、

難民チームのドラマも見たかった。

 

 

 

コマーシャリズムにドーピング妥協策、地元スラムを無視したIOC優先主義で、

今回の五輪の「意識レベル」はかなり下がったと言われています。

 

 

 

マザーテレサが愛読書だったことでも知られるホーキンズ博士の著書の中に

オリンピックについて書かれた箇所があるので以下引用します。

 

 

「オリンピックには、個人的なプライドより『無条件の愛』を表現するという全体的な設定があります。

 

私たちが一流選手を讃えるのは、より高い原理に自らを捧げ、個人的なエゴに打ち勝ったことを彼らの中に認めるからです。

 

彼らの存在自体が人類の励みになります。

 

このような能力やパフォーマンスは尊重されるべきであり、メディアやビジネスの悪用から守られなければなりません。

 

Excellence(卓越さ)を育み、その価値を認めることは人類の責任です。

 

オリンピック精神は私たちの心の中にあります。」

 

「パワーかフォースか」デヴィッドホーキンズ博士より

 

今度はTOKYO 2020。

 

今度はホスト国としてもっとオープンな五輪にしたいものです!

【メディア掲載】時代の転換期ー世界情勢の異変の背景にあるものとは?

頻発するテロ、世界的なポピュリズムの台頭、ナショナリズムー

 

いったい私たちは今何を理解することが求められているのでしょうか?

 

いま世界中で起きているこうした異変の背景には「恐怖に対する無自覚」があります。

 

いままで対峙したことのない「恐怖」に出会ったとき、我々はどう向き合うべきなのか? 

人間はチンパンジーに退化するのか?それとも??

 

 

クーリエジャポンでの連載「答えを求めない勇気」の第三回目の記事が配信されました!

 

「答えを求めない勇気」大仲千華 Vol.3 「チンパンジー化」が進む地球の上で、未知の恐怖に打ち勝つ方法

 

ご一読いただけましたら幸いです。