マイストーリー⑫ 原爆の投下ってアメリカにとって『勝利』とは思えないんだ

どうしたら「憎しみの連鎖」を断ち切ることができるんだろう?

和解やゆるしを促すものは何か?

どうしたらその人や国の中で紛争や戦争が終わったと言えるんだろう?

 

南スーダン以来、そんな疑問がわたしの中に残っていました。

そんな中、スリランカ軍対象のトレーニングの講師を打診されました。

 

えっ?スリランカ軍?

一般市民の犠牲者を大勢だして内戦を制圧したばかりのあのスリランカ軍?!

 

スリランカ軍といえば、ちょうどその3年前に、内戦を武力で「制圧」したばかり。タミールタイガーが「人間の盾」で必死の抵抗を試みる中で、スリランカ軍は、一般市民が巻き添えになること知りながら圧倒的な武力で制圧を敢行。何万人もの死者を出したとして当時の責任を当時国連の人権委員会や各地の人権団体から追及されている「張本人」でした。

 

今度はスリランカかあ。

 

私自身、紛争中のスリランカを訪れたことがあり、私が通ったばかりの同じ幹線道路上でたった数時間後に爆破テロがあったことを知ったこともあったし(私はホテルに戻ってそのニュースを知りました)、タミールタイガーのテロによって焼かれたバスを目撃したこともありました。

 

 

さすがに数日迷ったものの、

引き受けようと思ったのは、

 

どうしたらその人や国の中で紛争や戦争が終わったと言えるんだろう?

内戦が終わった3年後のスリランカの状況はどうなんだろう?

「ゆるす」という行為はどうしたら進むんだろう?

そんな私の中の深い部分での関心でした。

 

シンガポールを超え「カレー文化圏」に入ると、女性たちの衣装が華やかになります。

私は紛争中の緊張感を覚えていたので、首都のコロンボでの紛争が終わった街と人々の「開放感」を肌で感じながら、ああ、紛争が終わるってこういうことなんだあ、と感慨深さを味わっていました。

 

もしかしたら、思っているより悪くないかも?!

首都の明るい雰囲気にわたしの気持ちは少し弾んでいました。

 

そんな雰囲気もあってか、

部屋に戻る前に、まだなんとなくブラブラしていたい気分だった私は、宿泊先のホテルの売店を覗いて帰ることにしました。

観光客向けのサファリの本が並んでいるのを見て(スリランカは野生の虎が有名です)、ああ、紛争も終わってこれからサファリに行く時代なんだな、とやはり少し感慨深い気持ちを覚えていました。

 

その隣にはスリランカの内戦について書かれた本が数冊並んでいました。

スリランカのような国では観光客向けにそういう類の本が並んでいることは珍しくありません。

 

なにげなく、パラパラとページをめくる中で私の目に飛び込んできたもの ー

 

それは、タミールタイガーに切落とされたスリランカ軍や警察の死体、一般市民が狙われたバスなどの写真の数々でした。

 

!!!ーーーーーーーーー

 

どこかにあった「淡い期待」は、

どーーーーーーーーーーーーーーーーーん!と一気に吹き飛ばされてしまいました。

 

そう、スリランカではそのようなテロが日常茶飯事だったのです。

そして、その報復にスリランカ軍や警察は、タミル系住民への迫害を強めていたとも言われていました。

 

この人達はまさにその最中にいた人たち。。。

 

私は彼らにどう向き合えばいいんだろう?

この研修で私がやることは何だろう?

私が彼ら・またはスリランカの人たちに届けられる言葉はいったい何だろう?

 

私の中で答えはでないままに、研修がはじまりました。

 

ちょうど同じ週に国連の人権委員会が現地調査に来ることも関係していたのでしょう。

彼らは、無言の、しかし、はっきりとしたメッセージを発していました。

「そのことには触れてくれるな」と。

 

たしかに。。。

 

最初の数日は、相手はこの研修のテーマ(紛争や国連の平和維持活動)といったテーマについてどう感じているんだろう、どう話せばいいんだろう?

互いに「探りあい」のような状況が続きました。

 

さて、今日で研修の前半は終わりという時、講義の最後の質疑応答の時間に彼らの一人の手があげられました。

 

「あのー。。。」

「タミル地域ではこういう事もあったんです。」

 

 

彼らの発言内容に対して同意する・しないは一旦保留しながら(事実と証拠がないので判断もできません)、まず、そうしたコメントを「受け止める」ことが大切だと思いました。

 

それは、あくまでも、彼らにとっての体験ではあるのでしょうが、彼ら自身、自分の体験を話したい・聞いてもらいたいという現れの一つだと私は解釈しました。(自分の体験を話す・聞いてもらうこと自体に大きな癒しの効果があることはよく知られています。)

 

彼らが直接言葉にはしなくても彼らの中にも大きな葛藤があるのをひしひしと感じていました。

「この内戦にはどんな意味があったのか?」

「『制圧』は正しかったのか?」

 

そして、軍隊だけでなく、

「なんで自分の家族が?」

「なんでこんな戦争を許してしまったんだろうか?」

 

シンハラ系住民にもタミル系住民の間にも、それぞれに大きな苦しみがあり、

同時に、もう二度と内戦には戻りたくないという強い思いが社会全体にあるのを感じました。

 

さて週明けは何と言ったらいいんだろう?

今スリランカで必要とされていることは何だろう?

 

9.11のテロの被害者にとっては何が役に立ったのかをまとめたアメリカの大学の研究

日本から持参した日本のB級戦犯の手記

世界の紛争地での事例。。。

 

紛争の原因や経過について分析した研究は何万とあるけれども、個人と社会全体の和解や癒しのプロセスについて体系的に書かれたものはそんなに多くない。。。

 

「答えのない問い」だけれども、いろいろな人のいろいろな角度で書かれた体験やまとめを読みながら、私は和解について考え続けていました。

 

ようやく、自分の中で「ストン!」と何かが「腑に落ちる」感覚を得て、

結局、研修の後半では、こんな話しをしました。

 

「『被害者』は加害者に事実を認めて欲しい、どんな影響があったのか理解して欲しい、謝罪して欲しい、二度と同じことを起こさないと誓って欲しいと望みます。

『加害者』は、被害者に対面するのが怖いということ、『加害者』としての苦しみや傷もあることを理解して欲しいと望みます。可能ならば受け入れられることを望みます。

両方が傷を負うという意味においては、両方ともが「被害者」であると言えます。」

 

紛争後、元兵士の社会復帰を支援するために、どんなことが重要か?あくまでも「一般的には」という文脈での話しでした。実際に言葉として伝えることができるのはほんの一部です。

 

その後、ある大佐の人が私のところにやって来て言いました。

「この内戦の中、何人もの部下を自分の目の前で殺された。腕にはその時の傷もある。それでもタミールタイガーを赦したい。自分が楽になるためにそれが必要だと思うから。」

もしかしたら、彼は外国人である私に対して、スリランカ軍はそう思っているよ、という「ジェスチャー」も含めてそう言ったのかも知れません。ただ、その時、彼の中にある苦悩に触れたのを感じた時、もしかしたらジェスチャーとも言えないかもと感じました。

 

苦しい。

この苦しみから楽になりたい。

この苦しみから楽になれる道があるとしたらそれは「ゆるす」ことしかない、と。

 

けっして、軽い意味では言えないであろう事を伝えに来てくれた彼の言葉のトーンを今でも覚えています。

そして、講師チームを一緒に組んでいた同僚のアメリカ人(ルワンダなどで人道支援にあたっていた)の人が言いました。

 

「アメリカでこんなことを言う人は少ないけど、原爆の投下ってアメリカにとって『勝利』とは思えないんだ。」

 

スリランカの経験について学んでいたと思っていながら、これはそのまま日本に当てはまることかも知れない ー そんなことを思いました。

 

戦争に「勝者」はいない。。。

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紛争。

憎しみ。

ゆるし。

 

けっして簡単に向き合えるテーマではないし、

ぶっちゃけ答えも正解もない。

 

私がその時期に人権侵害の当事者であるスリランカ軍の研修を務めたことでさえ、いいかどうかなんて分からない。

 

あの時何を言えばよかったのか?

言わなかったらよかったのか?

ただ、実際に言葉として伝えることができるのはほんの一部。

 

ただ今の時点でもし何か言えることがあるとしたら、

自分なりに「答えがない問い」に向き合い続けること

 

もしかしたら、その姿勢を通して何かしら伝わるものがあるかも知れない。

 

そんなことを思ったスリランカでの体験でした。

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マイストーリー⑤ はじめての国連面接ー電気のないところで暮らせますか?

転機は突然やってくるというのは本当らしい。

大学院を卒業して、国連で働きたいと思っていて応募はしていたものの、いつ面接に呼ばれるかも分からない中で、私は大学の先生がくれた翻訳の仕事をしながら、仕事を探していました。

 

東ティモールでの選挙支援のポストに応募してからすでに数ヶ月たち応募したのも忘れた頃、一通のeメールを受け取りました。

「厳正なる書類審査の結果、貴殿は書類審査に合格しましたので、つきましては面接を実施したく都合のよい日程をお知らせください。なお、派遣が決まった際には、数週間以内に派遣されることが求められます。」

マジーーーー!

マジ!!!私はすっごく興奮した。

さっそく東ティモールの情勢について調べることにした。

東ティモールとは、インドネシアの最南西に位置する島で、パプアニューギニアに近いところで、文化や民族的にも太平洋の影響が強いということ、

その東ティモールでは、前年に独立を問う住民投票が行なわれ、その時の争乱で国全体が壊滅的な打撃を受け、その復興と選挙の実施を含め東ティモールという国が独立するための支援を国連がしていること、

それが大まかな状況だった。

 

ふむふむ、東ティモールの情勢について少しは分かったものの、

国連の面接なんて、いったい何を聞かれるのか全く検討がつかない。

分かっているのは職務内容が選挙支援であること、派遣国は東ティモールであることだけ。

しかも初めての英語での面接。しかも電話でやるというから相手の表情が見えにくい。。。

 

不安も要素もたくさんあったけれども、

ともかく行きたいのだからその気持ちをぶつけるしかない!

そんな心境だった。

 

面接当日。面接まであと1時間、あと30分、あと5分、、、後にも先にもこんなに緊張して手に汗をかきながら面接を待ったのは初めてだったかも知れない。

Good Afternoon Ms. Onaka. My name is ◯◯. Very pleased to talk to you today.  I am calling you today to conduct an interview for a post of Civil Registration Officer with UNTAET (United Nations Transitional Administration in East Timor). Please feel relaxed.

Let us begin.

さっそく面接がはじまった。

「なぜこの仕事に応募しようと思ったのですか?

この仕事を遂行するにあたり、あなたが大切だと思うことは何ですか?

今まであなたが関わったことで大変だったことは何ですか?どうやってそれを乗り越えましたか?」

 

そこまでは想定内だった。

 

この次の質問までは。

「あなたは電気のないところで暮らせますか?」

 

「えーと。。。」

 

「小さい頃にはよくキャンプに行っていたのでテントで寝ることは慣れています。ニュージーランドでトレッキングをした時には数日間電気がない体験をしました。」

正直テントで寝るのは好きではないけどこう言うしかない、内心はそんな思いでなんとかクリアしたかと思いきや、面接官は別の質問をした後、また同じことを聞いて来ました。

「あなたは電気のないところで暮らせますか?」

しかも、最初の方に一回、真ん中で一回、最後にまた一回、計3回も(!)

なるほど、私の履歴書だけを見たら、オックスフォード大学院卒業の「エリート」の「お嬢様」に見えるかも知れないし、この人はほんとうに現場でやっていけるだろうか?と相手は確めたかったのだと思う。

今なら分かるのですが、当時の東ティモールの事情を考えたら、確かに、トレッキングの時に電気のない体験をしたことがあります、ではまったく説得力がなかったのです。

相手が聞いているのは、あなたは国連の平和維持活動の一環として東ティモールで選挙支援をしたいと言っているけれども、

本当にそれやる気あるの?

大学院で理論を習うこととも違うよ。

そういうことだったのです。

 

ありがたいことにその面接官はまたも同じことを聞いてくれました。

3回もこの質問をされた時には、さすがの私も目が覚めたのです。

 

この質問に対して相手を納得させなければこの面接は通らない!!!

私は覚悟を決めました。

 

声をやや若干低めに落とし、こちらの本気度が伝わるようにゆっくりめに一言一言話しました。

「はい、私には粘り強さがあります。一度決めたことは最後までやりとげます。」

正解を答えるというよりも、こちらの意気込みが相手に伝わったという感触をようやく得た時、初めての国連面接は終わったのでした。

後で聞いたところによると、実際に派遣されてもインフラが破壊された東ティモールでの生活に慣れず、すぐに辞めてしまう人が多かったとかで、最後まで任務を遂行できるかどうかという点が重視されていたとのことでした。

ところで、東ティモールにおける国連のプレゼンスは何ですか?という質問も聞かれ、上手く答えられなかったのだけれども、合格したので、国連に関する知識よりも意欲が伝わることの方が大切だ、ということをこの時に身を持って学んだのでした。

さて、晴れて採用通知を受け取ると、その感慨にふける暇もなく、その実感もないまま忙しく準備が始まりました。健康診断に予防注射。そして、山ほどの書類にサインをして送りました。

その書類の一つは、宣言(Declaration)というものでした。

「私は国際連合で働く者として、自国の利益ではなく国連憲章の精神を優先することを国連事務総長に誓います」

私は、当時の国連事務総長コフィー・アナンに向けて、心の中で宣言し、署名をしたのでした。この時はさすがに身が引き締まる思いでした。

カンボジア元気日記を読んでからちょうど6年ちょっとでした。

「東ティモールで緊急援助に関わるために本国を通過する許可を与えます」、というオーストラリア政府発行の緊急人道ビザを受け取り、オーストラリアのダーウィン経由で東ティモールに向けて出発したのです。

 

マイストーリー⑤-女に仕事はできない?! そんな同僚と一緒に働けるかワタシ(≧∇≦)

マイストーリー⑦ 一から新しい国を創る

国連の理想と現実のギャップをしばらく受け入れられず、ふてくされていた私でしたが、

今思えば、

150以上もの国籍もの人たち、バックグラウンドも文化背景も違う人たちが一緒に集まって働くことを成り立たせるにはどうしたらいいのか、というリアルな現場への「イニシエーション」のようなものでした。

 

それは、

自己主張をしないといけない時を知り、

「アサーティブ」(効果的に意見を伝えること)であること、と同時に

チームとして何かを成し遂げていくことの体験そのものだったのです。

 

 

いい仕事やってやる!私の中で「スイッチ」が入りました。

 

私の初仕事は選挙の支援でしたが、東ティモールには選挙を実施するための「当たり前」がまずありません。

選挙名簿です。

まず、役所の書類がすべて焼けてしまっています。そして、国境を超えて難民となった人もいるので、誰が残っているのか人口も有権者の人数もわかりません。

なので、文字通り担当地域の村々を一つづつ訪問して、村長さんと一緒に選挙名簿をつくることからはじまります。

 

「これから東ティモールは新しい独立国となります。

みなさんの国の代表を選ぶために選挙というのを行います。

新しい国の自分たちの代表を選ぶ機会です。

この人たちが行う一番はじめの重要な仕事は憲法を決めることです。

憲法とは東ティモールという国がどんな国になるのか、何を大切にするのか、を宣言する一番重要な国の決まりです」。

 

東ティモール人のスタッフが教えてくれ、こうした説明を全部現地語のテトン語で言えるようになりました。

 

選挙名簿をつくる際には、生まれた場所や今住んでいるところ、生年月日などを登録していくのですが、年配の方は自分が何歳なのか知らない人がほとんどです。その場合はこういう質問をします。

 

「おばあちゃん、こんにちは。

おばあちゃんが生まれたのいつですか?

ポルトガル時代ですか?

日本時代ですか?

インドネシア時代ですか?」

 

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有権者を登録していく作業は順調に進んで行きましたが、雨期になると川の増水で孤立する村があることが分かりました。

誰もその村にたどり着いていないので、詳しいことは分からないけれども、年寄りのおばあさんなどは川を渡るのは無理だろうから、選挙に参加したくても有権者登録から漏れている人がいるんじゃないか?

深い山の中に位置するその村に着くために、車で行けるのは最初の3分の1くらい。私は東ティモール人のスタッフと相談して、いくら時間がかかってもいいから、歩いてその村まで行くことを決めました。

 

目の前にはひざ上までの川もあります。こんなこともあるかも知れないと、軍人の人にも一緒に来てもらったのですが、誰かが抱えてくれるわけでもありません。

えい!と私が懸命に勇気を振り絞って渡ろうとするすぐ側には、赤ちゃんを抱いたお母さんも一緒にいました。毎回こうやって川を渡るのだと言っていました。

東ティモール川を渡る

東ティモール川を渡る②

 

川を越え、岩を越え、山をを越えて

私たちはようやくそこに無事にたどり着きました。

案の定そこには有権者登録から取り残された人たちがいました。

 

乾季になるのを待ったら、この人たちは有権者登録が間に合わない。有権者登録ができなかったら、この人たちは人生ではじめての選挙に参加できなくなってしまう。私は迷わず、選挙登録作業をするためにヘリコプターに出動してもらうことを提案しました。

幸い、同僚も東ティモール人スタッフも賛成し、協力をしてくれました。

 

私たちは先に歩いていって、ヘリコプター降り場もない、パイロットも初めて降りる山奥でなんとかヘリコプターが着地できそうな平地を探しました。

そして、私は、ヘリコプターが見え始めると、下から思いつくままに旋回するヘリコプターに向かって夢中になって手を振りました。布かなんかの「旗」があると分かりやすいと知ったのはその後のことでした。

 

東ティモールヘリコプター積み込み

東ティモールヘリコプター積み込み②

⬆️ ヘリコプターへ積み込みを一緒にしてくれた同僚たち

 

そんな中、私達もパキスタン人のチームリーダーの発言に対して、私たちも意義を唱えることになっていきました。

 

「そうは思いません。」

最初は、ともかく反論することが私の目的でした。

 

黙っているよりは一歩進んだと思ったのですが、こちらが反論すればする程、相手はカチンとくるのでしょう。相手は防御的になっていきます。

言葉の応酬はあっても、コミュニケーションが成り立った感じもしないし、お互いの理解が進んだようにも感じられません。しばらく、相変わらず、同じ状況が続いていました。

 

記録をとり、男性の同僚からも証言をもらうことになりました。

国連のような官僚組織では記録をとり、書類を準備することは非常に重要になります。非公式に仲介役の人が入ることになりました。

 

私たちはその仲介役の人を挟んで向かい合わせに座っています。それまでの事実関係が確認がされてから、感情が高まった私はこう言いました。

「この人は、まったく人の気持ちがわかっていない!」

仲介役の人は、一旦こちらの言い分を聞いた上で、落ち着いてこう言いました。

 

「『人』と『行為』を分けてください。」

 

はっ!確かにその通りでした。

相手の行為には同意できなくても、相手が人として間違っている訳ではないのです。

 

相手はあたかも人格を攻撃されたかのように感じ、必死に言い訳を繰り返し、

それでこちらはカチンとくるという悪循環が続いていたのです。

 

あくまでも行為自体を指摘することー人と行為を別けるということの大切さを実感したリアルな体験でした。

 

国連という組織ではこちらが黙っているだけでは、誰かが助けてくれるわけでもありません。

私のコミュニケーションには足らない点がたくさんあったのですが、

今思えば、150以上もの国籍もの人たち、バックグラウンドも文化背景も違う人たちが一緒に集まって働くことを成り立たせるにはどうしたらいいのか、という点で大事なことをこの時にたくさん学んだように思います。

 

◎「アサーティブ」(効果的に意見を伝えること)であること、

◎ 自己主張をしないといけない時を知ること、

◎ ノーという時をを知ること、

◎ 事実(facts)と人(person)を分けること、

◎ 周りの人に協力してもらうこと

 

パワハラやセクハラに関して言えば、

◎ 記録をとること、

◎ 事実関係を客観的に説明できるようになること、

◎ こういう類いのことは一人ではなく他の女性や特に男性と共に訴えること、

が役に立ちました。

 

後に、国連という組織では上司や部下、または、チームメンバー間のハラスメントに対する異議申し立てが極めて多いこと、それが時には、国籍や人種にからめれて捉えられることを知りました。

ニューヨーク本部の人事部が年間を通じて「効果的なフィードバックの仕方」や「仲裁」に関する研修を実施している事を考えると、180以上もの国籍もの人たち、バックグラウンドも文化背景も違う人たちが一緒に集まって働くことはけっして当たり前のようになされる訳ではなく、それを成り立たせるには大きな努力が必要なのだと改めて思ったものでした。

結局、パキスタン人のチームリーダーは選挙の2月前位に別の地域に移動となりました。

 

そして、気づけば選挙まで後1ヶ月となりました。民兵グループによる選挙に対する妨害の可能性が心配されており、緊張が生まれてくるのも感じました。

 

私の担当の村は住民投票後に東ティモールを破壊する側に周った民兵の出身者が多い村でした。選挙の準備が進んでいくうちに村の人たちがこんなことをポツポツと言い始めました。

 

「選挙はいいけれども、東ティモールが独立した後、民兵側についた人たちをどうやって受け入れたらいいんだろうか。。。」

 

紛争という状態の中で人々は生き残るためにぎりぎりの選択を迫られ、同じ民族・国民同士が敵対関係につくことを迫られることがある。

今までは東ティモールの人たちはインドネシアという「共通の敵」から独立を勝ち取るために団結していた。

 

確かに、彼らが言うように、これから、この人たちは自分の村を破壊した人たちをどんな気持ちで受け入れていくんだろう?

いわゆる「少数派」の人たちが「多数派」になった時、同じことを繰り替えさないためにはどうしたらいんだろう?

「共通の敵」がいなくなった後、何が国をまとめていく力になるんだろう?

 

 

選挙は大きな出来事ではあるけど、これからの長いプロセスのたったはじめの一つにすぎない。これからが東ティモールの人たちにとっての「本番」なんだろうなあ。

東ティモールでの体験は、私に大きな宿題をくれたように感じました。

 

実際、これらの質問がその十年後、南スーダンでも未だに大きな意味を持っていること、南スーダンだけでなく、その後に続いていくアラブの春以降の世界情勢の中で、いまだに本質的な質問であることに気づきます。

 

さて、待ちに待った選挙の日がやってきました。

 

始めて自分の国の代表を選ぶ「晴れ舞台」に、おばあちゃんたちが朝の4時から一張羅を来て列に並んでいました。

自分の国の将来を自分で決めるこの一票を投じるために、何十年も待たなくてはならなかった人たちの一票にかける想いがひしひしと伝わってきました。

東ティモール2001選挙

 

民兵グループによる選挙に対する妨害はまったくなく、その際の想定訓練もしてはいたのですが、蓋を開けてみれば何もなく無事に投票は行なわれました。

投票率%は、91.3%でした。

その日を境に国全体のエネルギーが変わったのをはっきりと覚えています。

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⬆️ 選挙を無事に終え誇らしげな選挙スタッフ。

私が最初に赴任してから独立するまでのたった一年4ヶ月の間に警察ができ、憲法ができ、学校が再開されました。

東ティモールは2002年5月に独立国家として正式に独立を果たしました。

 

マイスト−リー⑦なぜそこまで学校に行きたいの?

 

マイストーリー⑧ なぜそこまで学校に行きたいの?

東ティモールでの勤務の後、カザフスタンとニューヨークでの勤務を経て、再び現場に赴任することになりました。今度は、当時世界で一番争いが深いと言われ、40年近くも続いた紛争が終わり、和平合意が結ばれたばかりの南スーダンです。

自ら志願して南スーダンに赴任することになったのは、新しい国を創るという過程に再び関わりたいというか、東ティモールでもらった「宿題」を進めたいというような思いでした。 (ちなみに、国連は基本的には自動昇進も自動更新もない志願制です)。

ニューヨークの本部にいることもできたのに、マンハッタンのど真ん中に住んでいた暮らしから、自ら志願して南スーダンに赴任することが決まった時には、友人たちが「本当に行くの?」ともの珍しいものを見るように何度も私に聞いてきたものでした (ちなみに、国連は基本的には自動昇進も自動更新もない志願制です)。

マンハッタンのど真ん中に住んでいた暮らしから一転、再び数ヶ月電気のない生活になった時にはさすがに私も「ああ、私ってほんとにもの好きだなあ」と思いました。

そして、南スーダンに降り立った瞬間、東ティモールの時とはチャレンジが一気に10倍に上がったような感覚を肌で感じました。

 

争いの深さ、国の大きさ、教育のレベル、これから必要な政府やインフラの規模、南スーダンの人々の気性。。。実際、全てにおいて、南スーダンは私にとっても全く体験したことのない領域でした。

 

さて、南スーダンでの仕事は、除隊兵士の人たちの社会復帰を支援することでした。

南スーダンでは、紛争の最中、生きるため安全のために軍に参加すること、または親や家族が目の前で殺された子どもがそのまま「軍」に参加し、その後兵士として生きることも珍しくありません。

直接的に兵士にはならなくてもほぼ全員がなんらかの形で紛争に関わっているという意味では、メンタリティー的にも誰もが「紛争時代」から「平和の時代」にシフトすることがなんらかの形で求めらます。

 

当時、私が関わっていた国連のプログラム (DDRプログラム)では、新しいスキルや収入を得る手段を身につけるサポートとして、職業訓練、農業、小規模事業と教育などを提供していました。

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⬆️ 出張では外でシャワーを浴び、テントで寝泊まりしたこともあった。

当時、驚くくらい道路も建物もない南スーダンで、職業訓練施設を一つ立てることは文字通りネジから屋根まで一つづつウガンダかケニアから運んでくることを意味しました。

建物を借り、先生の確保し、除隊兵士の人に実際に集まってもらって職業訓練や農業訓練を一つ提供することは、多大な労力を求められます。

そこで私が直面したことー

それは、

そこまで大きな苦労をして、いくら素晴しい職業訓練施設を建てて、訓練を提供しても、当たり前ながら学ぶ人もいれば学ばない人もいるということ、

学べない人の中には、技術的なものを学ぶ前に「あの紛争はなんだったんだ?」という心の整理がまだ終わっていない人がいるんじゃないか?

南スーダンの人たち自身、「あの紛争はなんだったんだ?」という心の整理をしたがっているんじゃないか?ーということでした。

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⬆️ 女性は比較的早く紛争時代の心の整理ができるように見えた。

 

そして、気になったのは、南スーダンの人たちが日常会話の中でまったく疑問なくかわす会話でした。

 

親が子どもに言います。

「アラブ人は人間じゃないから話したらいけないよ。」

そして、「アラブ人」は南スーダンの人たちのことをこう言います。

「アフリカ人は『野蛮人』だからイスラム教が必要だ」。。。

 

私が勉強をたまに見てあげていた高校生のアコルくんの宿題にはこんなものもありました。

「アコル、今日はどんなこと習ったの?」

「今日はね、『今のアフリカの戦略的な課題はなんですか?』っていう質問だよ。」

「へえ?!博士論文みたいな随分難しい質問をやったんだねえ。それでどんな答えだったの?」

「アフリカが貧しいのはアラブのせいです。」

「誰が言ったの?」

「先生だよ」

 !!!

 

個人の偏見や思い込みが宗教や民族の違いに置き換えられ、紛争が終わっても繰り返し受け継がれている「負の連鎖」。

 

職業訓練などの技術的な知識はそれなりに提供することはできるけれども、本当に平和になるにはこれこそどこかで断ち切られなければる必要があるんじゃないか?

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⬆️ ネクタイをプレゼントされるアコル

 

そんな時、学校に行きたいという自称50歳の元兵士の人に会いました。

内戦の影響で、南スーダンの平均寿命は42歳程度なので、日本の感覚では80代です。頭は白髪で、顔にはしわも拡がり苦労を重ねられて来た様子が伺えます。

場所は南スーダン人の友人が開講したばかりの小さな大学でした。大学と言っても小さな建物があるだけです。しかも、バスや電車があるわけもありません。

それでも、この50才の元兵士の人は学校へ行きたいと毎日何キロも歩いて通ってくるのだそうです。

長年紛争で家族や故郷から離れてきた人たち、特に元兵士の人たちが故郷に戻る時、彼らは家族に対する自分の「役割」を果たすという意味でも、収入を得ることを優先します。

だからこの選択はけっして軽いものではありません。

 

「なんでそこまでして学校に行きたいのですか?」

私は思い切って、彼に聞いてみました。

 

彼は私の目をまっすぐに見つめて、ゆっくりとはっきりと言いました。

‘I was fighting in bush all my life. I want to go to school before I die.’

「わたしは人生のほとんどを戦って過ごしてきました。学校へ行ってから死にたいのです。」

 

学校へ行くということ ー

それは、彼にとって、

「人間である」こととほぼ同義語なんだと理解しました。

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⬆️ 一からこの大学を建てた南スーダン人の友人ドン・ボスコ

除隊兵士の社会復帰プログラムではソーシャルワーカーを呼び、微力ながら心のケアを取り入れることになりました。

私は心の課題や平和を生む「教育」とは何か?ーそういうことに興味を持つようになりました。

/マイストーリー⑨あなたは「私たちが可哀想だから来たのか?

海外へ行く人必見!ー安全を創る3つの視点①

 

誰と誰が争っていて何が原因なのか?

 

最近の世界情勢をみていると、なんだか紛争やテロが多いようだけれども、ニュースでも「ホームグランドテロ」という言葉は聞いても、断片的な情報ばかり。

 

民族が違うと人は争うのか?

いったい何が原因なのか?

私たちは何を知ったらいいのか?

 

本質的なことを知りたいと思っている人はけっこういるんじゃないか?

大学の講義での反応などを見るととても強く感じます。

 

そんなことを自分の体験を含めてただ今、執筆作業を進めていますが、その中から今日紹介したいのは、

 

このような世界情勢の中、

なんらかの危険が実際にあるのかどうか、

何に目を配り、意識を向け、

どう判断したらいいのか?

ということに対する視点です。

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実際、私が南スーダンで働いていたと言うと、よく危ない目にあったことはありますか?怖くないですか?と聞かれます。

もちろん、日本に比べれば直接的な被害に巻き込まれるという可能性だけでなく、医療施設の有無から病気にかかる可能性まで「リスク」レベルは格段に上がります。

 

例えば、南スーダンで働いていた時には、万が一人質にとられた時のための訓練を受けましたし(アフガニスタン、南スーダンやソマリアなどに派遣される人は現地に赴任してから受けることが義務付けられています。国連だけでなくNGOの人もこうした研修を受ける体制がとられています)、

東ティモールでは銃が発砲された場面で近距離に居合わせたこと、また、南スーダンでは兵士に直接銃を突きつけられたことが一回だけありますが、相手はお金をせびってきた兵士だったと判断できたので落ち着いて対処できました。

 

私たちは知らないことに対して必要以上に「不安」を覚えます。いわゆる「未知の恐れ」と呼ばれるものです。

 

まず、現状を確認をすることから始めたいと思います。

 

さて、質問です。

私がいた南スーダンを例にとります。南スーダンの場合の国連要員の死亡原因と割合はいったい何だったと思いますか?

 

① 病気 68%

② 事故 18 %

③   分類不明 6.65%

④   直接的原因 6.65%

(UNMIS 南スーダン国連PKO 2010年度の場合)

 

病気の原因の多くはマラリアです。病院施設が限られていること、インフラの不備で輸送手段が限られるため、状態がひどくなった時に搬送まで時間がかかる(場合によってはヘリコプターを使う)ことが理由として挙げられます。

実際、現地でのストレスレベルが日常的に高いことが認識されないまま、毎日「がんばってしまう」こと、積み重なったストレスが免疫レベルを下げてしまうこと、マラリアくらい大丈夫だと思ってしまうこと、マラリアだと気づかないこと、があります。実際、母国では実戦を経てきた頑強そうな軍人たちがマラリアで命を失くしたケースが私の周りでもありました。

二番目の原因は、交通事故です。PKOの場合は、軍事オブザーバーや文民を含め、日常的に視察やパトロールのために自分で車を運転する必要のある職種が多々ありますが、交通事故は大きな死亡原因の一つです。

南スーダン(独立前)の場合、直接的原因での死亡は6.65%ということになります。そうした出来事が組織的なものなのか、突発的なものなのかという点で「脅威」の認識は大きく変わりますが、まず、アフリカで一番長い内戦をしてきた南スーダンでされ、国連要員の人たちの一番の死亡原因が93.35%紛争ではない、と事実を確認したいと思います。

 

その上で、

なんらかの危険が実際にあるのかどうか、

何に目を配り、意識を向け、

どう判断したらいいのか?

という視点です。

 

その中から、例えば、リスク分析や脅威分析と呼ばれるものを、紛争地での情勢の分析に応用し、

安全面でのリスクレベルを脅威(threat)× 脆弱性(vulnerability)と捉える考え方を見ていきます。

海外へ行く人必見!安全を創る3つの視点②

海外(その地域)でなんらかの危険が実際にあるのかどうか、

何に目を配り、意識を向け、

どう判断したらいいのか?

 

私たちは知らないことに対して必要以上に「不安」を覚えます。いわゆる「未知の恐れ」と呼ばれるものです。

同時に、

なんらかの危険が実際にあるのかどうか、

何に目を配り、意識を向け、

どう判断したらいいのか?

 

誰も完全に予見できる人はいないにしても、そうしたものの見方を訓練することは十分に可能です。

 

まず、リスク分析や脅威分析と呼ばれるものを紛争地での情勢の分析に応用し、安全面でのリスクレベルを脅威(threat)× 脆弱性(vulnerability)と捉える考え方を見ていきましょう。

 

まずは、脅威(threat)とは何か?です。

それぞれの国によって、明らかな「敵対勢力」がいる場合もあれば、または、個人がゆるく繋がった意図のはっきりしない組織など様々なケースがありますが、

 

ここでは、

相手にはどんな能力があるのか(能力)

相手の動機や目的は何か?(意図)

それは突発的なものなのか繰り返されそうなものなのか(機会)等の、

彼らの能力 × 意図 × 機会の3点に注目します。

 

脅威(threat)とは

◯ 能力⇒ 人員、リソース、資金源、統制能力はどうなのか?

◯ 意図⇒ こちらに危害を与える理由があるとしたら何か?動機は何か?グループ全体の目的は何か?

◯ 機会⇒ 最近の例や前例からパターンがあるか?それによると機会は増えているのか減っているか?歴史的背景は何か?

 

次に、そうした脅威に対して、相手からこちらの国籍や性別、民族、宗教といった属性はどう見られ、それはこちらにどう影響するか?という視点です。

例えば、その国では日本人であるということはどう思われているのか?ある国で選挙があって政権が交代したとして、今度はどういう人たちが政権をとり、その地域の宗教や民族の人たちにとって日本人はどう思われているのか?といった視点、または、その国や地域で女性であることの影響などです。

また、個人または組織の対応能力も含まれます。この場合の対応能力とは、安全に対する知識や住居や車両といった設備や手段を持っているかどうか、といったことであり、環境的要因は、その国の中で住んでいる地域がどこであるのか(都市の中心地なのか、空港の近くなのか、軍の設備などの近くなのか)などに関することです。

どの国籍や宗教や政治的属性がリスクになるかはその時々の政治的な情勢などによって変わりますが、今は世界のニュースが一瞬にして世界中に発信される時代なので、こうした要因もやはり刻々と変化し続けるものだと認識しておくことが役に立つでしょう。

脆弱性(vulnerability)とは

 ◯ 社会的要因⇒ 年齢、民族、宗教、政治的属性、性別、社会的地位などの影響など cf. 女性であることは活動地域においてどのように捉えられているか? 

◯ 能力⇒ 現地の政情などを含めた現地社会について理解、安全に対する意識、住居や車両といった設備面なども含めた管理体制があるか等、など

◯  政治的要因⇒ 現在の世界情勢の中において「日本人」であるということ、 「日本の組織」や日本の企業の一員であることは活動地域においてどのように捉えらているか? その地域の有力者が属する政党や民族との関係はどんな影響があるか? など

◯ 環境・地理的要因⇒ その国の中で活動している地域がどこであるのか(都市の中心地なのか、空港の近くなのか、軍の設備などの近くなのか)など

 

ここまでをまとめると、コントロールできない面はあっても、リスクは、脅威のレベルを適切に認識し、脆弱性(vulnerability)に対して対策をすることでリスクを下げることができるという考え方です。

こうした分析で見られるように、まず、二つの視点が重要になります。

① 相手はなぜこちらに危害を与えようとするのか ー 相手の意図や動機、目的は何なのか?というこちらの相手に対する理解

同時に、

②こちらが相手にどう見られているのか、という視点です。

この二つを理解することは、脅威のレベルを適切に認識することの重要な一部であると言えます。

 

ここまでは、リスクは、脅威のレベルを適切に認識し、脆弱性(vulnerability)に対して働きかけることができるという考え方を紹介しました。

ただ、こちらは脅威をできる限り避け、受身的に身を守るという対策しかできないのでしょうか?

次には、脅威のレベルを適切に認識し、それに対する脆弱性(vulnerability)を下げると同時に、③ こちらは相手にどう働きかけることができるのかー特に、どうしたら相手の動機に働きかけることができるか?という視点を見ていきたいと思います。