今大きな変化が世界で起こる中で必要なものー「知恵を捨てるな。それがあなたを守る」

今大きな変化が世界で起こる中、これまでの自分にとっての快適ゾーンを出て、新しく道を切り開いていくような力も必要になってくるように感じます。

 

中国でのサプライチェーンの再構築も時間はいるでしょうし、これまでとは同じようにいかない時には、これまでとは違うようなことをやったり、知恵が必要とされるような状況におかれることもあるでしょう。

 

自分がすでに持っているものの価値に気づいたり、または自分の中でまだ発揮されていない力を発見するかもしれません。

 

今のキーワードの一つとしては、知恵、レジリエンス、信じる、ビジョン、再生といったものが思い浮ばれます。

 

そんな時、思い出すのは南スーダンで出会ったホテルオーナーです。

 

約40年も続いた内戦の影響でインフラがほぼ破壊されていた南スーダンで、職業訓練センターを建てるにも、文字通り釘やネジ一つを隣国のウガンダやケニアから輸送しなければいけない中で、ホテルを建てていた人がいたのです。コンゴ民主共和國(DRC)の国境に近いヤンビオという街でのことした。

 

彼は、みんながなんとか生き延びていたような内戦の時に、ホテルだけでなく、トラックを何台も持っていて、日本(名古屋)へ行き、日本車(トラック)を輸入していました。

 

しかも、それは川で魚を釣って、それを売ったことからすべてが始まったそうです。

 

彼の経験談は、ないと思われるような環境で、自分に与えられたものを忠実にそして知恵を持って扱うこと、私たちにとっては信じられないような状況でも道は拓かれることを教えてくれるように思うので、シェアさせていただきたいと思います。

 

さて、彼に会ったのは、南スーダンのコンゴ民主共和國(DRC)の国境に近いヤンビオという街でした。

 

すでに、40年続いた内戦を終結させた和平合意が署名されてから5年経っていましたが、首都のジュバでさえ道路が塗装され始められたばかりで、地方へ続く道路は雨季にはまったく通れなくなるような悪路でした。

 

首都と地方への移動・輸送は国連が平和維持と人道支援の目的に運営する国連機にほぼ頼っているような状況で、視察で降りた先でそのホテルを見つけた時にわたしは少しびっくりして、大きな興味をそそられました。

 

ホテルといっても、もちろん日本のきれいなホテルとは比べることはできませんが、シャワーがあって、数時間だけど発電機で発電されたクーラーもありました!

 

テラスに座って、アメリカ人の同僚と少しのんびりしていると、このホテルのオーナーらしき人がやってきました。

 

30歳後半くらいに見える南スーダン人のオーナーでした。

あちらも初めての客に興味があったのでしょう。

挨拶を交わし、会話が弾みました。

 

何をやるにも日本の何十倍ものお金がかかるだけでなく、仮にお金があっても何をやるのも大変な環境。ここにホテルを建てられるこの人、いったいどんな人なんだろう?

 

タイミングを見計らって聞きかかったことを聞いてみました。

 

「どういう経緯でここにホテルを建てることになったのですか?」

 

好奇心半分で聞いた質問だったのですが、そこで聞いた彼の「答え」は私の想像をはるかに超えたものでした。

 

人間の持つ底力と、何もないような状況でも知恵によって道を切り開いていくたくましさを彼に教えてもらったと思います。

 

「それはね。。。」

 

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彼が生まれた時、南スーダンは紛争の最中でした。

紛争が激化し、学校も中断されてしまう中で彼は思ったそうです。

「このままではただ戦争から逃げ回るだけの毎日になってしまう。自分で生きる『つて』を持たないといけない。」

 

ともかく、「元手」(もとで)を貯めないといけないと思い、お兄さんと一緒に毎日毎日川に釣りに行くようになりました。

 

毎日毎日川で魚を釣っては魚を市場に運び、それを売りました。

ともかく、何日も何日も毎日それを続けました。

彼が13歳の時でした。

 

車はおろか自転車もなかった時です。

 

毎日それを続け、一年たった頃、二人で貯めたスーダンポンドが100ドル程になったのを確認しました。

 

それをより安全な外国のお金に替えた方がいいと思った彼は外国人を探しました。

 

紛争は激しくなっていましたが、すぐには見つからず、自分の稼いだスーダンポンドを家の近くの土の中に埋めました。

 

それからしばらくして、ようやく外国人を見つけました。宣教の目的で来ていたシスターでした。スーダンポンドを彼女とアメリカドルに交換して、生まれて始めて100米ドルを手にしました。

 

その100ドルを大切にしまい、歩いてコンゴ民主共和国へ渡りました。

 

丸3日歩き続けたそうです。当時、紛争で物資が限られていた南スーダンとは違い、コンゴ民主共和国 (DRC)はなんでも揃う夢のような場所でした。

 

彼は考えました。

 

この100ドルで買えるもので、

南スーダンにはなくて

人々が必要としているもので

売れそうなものは何だろう?

彼が思いついたのは女性のドレスでした。

 

「あのね、女性っていうのは紛争中でもおしゃれしていたいものなんだよ。」

 

(ああ、たしかに!!!私は紛争が終わってしばらくしてから首都のジュバで女性向けのネイルサロンがオープンしたのを思い出しました。)

 

「ほら、コンゴのドレスってカラフルできれいでしょ。南スーダンに持って帰ったら飛ぶように売れたんだ。それでね、最初の100ドルが何倍ものお金になったんだ。

 

それでね、またコンゴ民主共和国に行って、またドレスをどっさり仕入れてくるんだ。

しばらくそれを続けたよ。」

 

「次は自転車を仕入れたんだ。当時は車もバイクもなくてね、何度もコンゴ民主共和国に行くようになったんだけど、歩くと丸3日かかるんだ。自転車があったらもっと早くいけるのになあって思って、友人から自転車を借りたのがきっかけさ。」(たしかに!)

 

「これも『読み』が当たって、自転車を欲しがる人が殺到したんだ。最後の方はコンテナ一台分丸ごと運んで来たんだよ。」

 

それからね、発電機の部品を売ることにしたんだ。

ほら、南スーダンって電気がないでしょ。だからNGOとかいろんなところが発電機を調達してくるんだけど、一旦故障すると修理する部品が手に入らないもんだから放っぽらかされる発電機がほんとうに多かったんだ。

 

たしかに!今でもそうです!✨💡💡💡✨

 

これもみごとに「当たったんだ。」

そして、街中の発電機が復活したんだ。

 

次はね。。。

 

(その頃には、私はすっかり前のめりで彼の体験に聞き入っていました。ここからホテルまでどう「たどり着く」んだろう?)

 

「今度はね、貸しトラックを始めたんだ。ほら、発電機にしろ何にしろコンゴとかジュバ(首都)から、物資を運びたいよね。自分で車は持てないけど、1日なら借りたい人は多いと思ったんだ。」

 

これまた納得!そ、そ、そして?

 

「中古の日本車を輸入しに名古屋港に行ったよ。それでね、SUSHIってものが美味しいって読んだから食べたんだけど、うーん、あれだけは、悪いけど、今でも苦手だよ。」

 

彼はちょっと困ったような顔をして、でもこれはゆるしてね、といったような表情を見せました。それからね、、、そして最初のホテルに繋がってきました。

 

「貸しトラックを始めたら、資材を運ぶ人が多いことに気づいたんだ。資材はたいてい家とか施設とかの資材。紛争が終わって安全になると、ようやく壊される心配なく家を建てることができると、貸しトラックの需要が一気に増えたんだ。トラックは何台もあったよ。

 

それでね、人の移動もさらに活発になってきたから、次はホテルが必要になると思ったんだ。

(確かに!!!)

 

と、ここまでが「魚釣り」から「ホテルオーナー」になった経緯でした。

 

自転車にしろ「輸送力」はサバイバルに直結するもの。歩いて何度も国境を越えた体験がそういう発想を生むんだろうなあ、私は彼の発想と、それを紛争の最中のわたしには想像も超えるような環境で実行し、成し遂げたのであろう彼の行動力に感嘆したのでした。

 

「途中、大変なことも多かったんじゃないですか?」

 

「うーん、そうだね。紛争が激しかった時には、国境の途中でよくSPLA(南スーダン人民解放戦線=現在の南スーダン政府の母体)の兵士に止められたよ。お前は何のためにコンゴに行くんだって?聞かれて『商売のためだ』って行ったら、南スーダンの独立のためにみんなが闘っている時に、なんて『愛国心のないやつだ』って言われたんだ。」

 

「それでそうしたんですか?」

「『物資も経済の発展も国のために必要だとみんなが知る時がくる。これが僕にとっての南スーダンに対する貢献だ。通せ!』って言い続けたんだ。」

 

あくまでも「さらっと」話していた彼でしたが、紛争という状況下で、しかも銃を持っている兵士を相手に、それがどれだけ大変なことだったのか、それは決して簡単なことではなかったと思います。しかも、電気も電話もインターネットもない時代と環境の中で。。。

 

今、このような書いてしまえば、なにか筋の通った話のようにもしかしたら聞こえるかもしれません。けれども、このすべてのステップは決してその時には先がわかっていたわけでもなく、その時に置かれた状況と環境の中でベストを尽くし、その時に与えられていたすべての資源(わたしたちには「何もない」ように見える)、を忠実に扱い、最大限に活かして、その一つ一つの道を切り開き続けた「結果」で、そこまで歩み続けた、彼の行動力と遂行力に感嘆したのでした。

 

どんな環境でも、人は可能性を切り開くことができるー

 

彼の体験は少し特別かも知れませんが、戦火から逃れ、生き延びてきた南スーダンの人たちから教えてもらったのは、人間の底力と七転び八起きの精神でした。

 

無邪気な笑顔をたたえながらも、全体と見通すような知恵の雰囲気を兼ね備えた彼。

私は彼に丁寧にお礼を言って別れたのでした。

 

ビジネスに知恵を求める欧米のビジネスマンが読む聖書の箴言(Proverbs)には、こうあります。

 

勤勉な者の手は人を富ます。(箴言10:4)

知恵を捨てるな。それがあなたを守る。(箴言4:6)

知恵はへりくだる者とともにある(箴言11:2)

「神と人の前に好意を得、聡明であれ。」(箴言3:4)

 

「渇いたのどと干上がった地をうるおす水を、 ふんだんに与えよう。 あなたの子どもたちには、 わたしの霊と祝福とを注ごう。」(イザヤ44:3)

 

彼から聞いた話しは文字にはずいぶんと前に書き留めてはあったのですが、今回改めてまとめてみて、励まされると同時に、背筋がシャンと伸びる思いです。

 

忠実な人は多くの祝福を得る。しかし富を得ようとあせる者は罰を免れない。(箴言28:19)

 

 

このような時代だからこそ、淡々とよい行いを行っていきたい思います。

 

このウイルスが速やかに収束して、経済への影響が全世界において最低限に済むように祈ります。ウイルスから守られ、仕事や経済が守られますように。そして、私たちの一人一人が心静まって謙虚になり、一番大切なものを大切にできますように。

 

「道を切り拓くもの」(way maker)

こちらの曲もおすすめです!

 

 

 

⭕️⭕️がないと 受験だ、就活だ、婚活だとベルトコンベアに乗せられていくだけ「これでは薄っぺらい自分のない人間しかできあがりません」

自分で考えたことがないと、「受験だ、就活だ、婚活だと、『そんなものだ』とベルトコンベアに乗せられていくだけ。これでは薄っぺらい自分のない人間しかできあがりません。」

 

 

「『自分のアタマで考える子』の育て方」の中で、子どもの能力を伸ばす教育で知られる高濱正伸さんはさらに続けます。

 

「『生きるってなに』『私ってなに?』『何のために学ぶの?』『就職ってしないといけないんだろうか?』とさまざまに悩み、本を読み、誰かと議論する中で、「生きていくための軸」となるものを掴んでいくのです。

中略

それ(自分で考えること)をしなければ、根なし草のような自分しか持てなくなります。

 

そんな状態でいくら自分探しをしたところで見つかるわけがありませんし、聞こえのいい言葉を並べるだけの中身のない人間にしかならないでしょう。

 

それは『自分で考える』ところからしか生まれてこないものなのです。」

 

そもそも人間は思春期から青春記にかけては、人間は本来「哲学」するものとも言っています。

 

わざわざ「哲学」という言葉を使わなくても、子供は小さいながらにいろいろなことを感じています。

 

それを口にするかどうかは別にして、例えば、なんで戦争は起こるの?なんで戦争はなくならないの?環境問題はどうしたらいいの?

といった疑問を純粋に持ちます。

 

「生きる」とは真逆のことをなぜするのか?、

お互いになぜ殺し合い、傷つきあう行為をするのか?、と単純に思うのです。

 

「考えること」の本質は「疑問を持つこと」なので、子供の方が本能的に物ごとの「核心」をわかっていることも珍しくありません。

 

なので、

こうした疑問を持つことは、考えること、そして、なにより人生の中でもとても重要な問いである、自分にとって大切なことは何なのか?と同義語です。

つまり、自分はどう生きたいのか?何をしたいのか?の土台となる部分です。

 

今思えば、高校の時に「本質的なことを追求することをよし」とする校風で学ぶことができたのはとても幸運でした。

 

校長先生や倫理の先生が「人として生きるとはどういうことか?」と毎週本気で伝えようとしてくれました。

 

国連での勤務などを経て、10数年ぶりに先生を訪ねた時に改めて気づいたのは(今は校長先生になられています)、当時私たちが見せてもらっていたことは、人生には常に続く「問い」が存在すること、同時に、問いや自分の価値観をもって生きている人は美しいという姿でした。

 

こうした時期に、自分にとって大切なことは何なのか?=つまり、自分はどう生きたいのか?と考え、模索した体験がなかったら、南スーダンなどの紛争地で働くことも、紛争という事実に直面するような「ふんばり」も持てなかったかも知れません。

 

ただ、

そうした課題意識や探求心が尊重され評価される欧米と違って、日本ではそうしたことを話しあえるような場も機会も限られていて、ニュースは表面的な出来事しか伝えません。

 

テレビにしろ、必ずしも本当に重要なことが話されている訳でもなく、そもそも関心がない、またはどう答えていいのか分からない、大人が諦めてしまっているという事実に子どもはショックを受けます。

 

大人の社会にはがっかり、失望、無力感や諦めさえも蔓延しています。

(日本社会は残念ながらこの感覚が世界の中でも強いように感じます。)

 

そんな体験を重ねるうちに、そんなことを考えても無駄だ、無意味だ、とショックや落胆、失望が深く抑圧されていきます。

 

ただ、人間にとって、「理解されない痛み」は実はとても大きいものです。

「理解されないと人は生きていけない」と指摘する人さえいます。

 

もちろん、表面的には生きていけます。

 

これは、クライアントさんとのセッションで見せていただいたことですが、

 

例えば、医師としてプロフェッショナルに活躍されておられる方でさえ、

(そしてある意味、そうした体験や問題意識こそが、その人を医師にさせた言動力となった面もあるのですが)

ある段階になると、そうした体験が人生において「重荷」として浮上してきます。

 

わざわざ「重荷」という表現を使ったのは、

 

プロフェッショナルとして活躍され、尊敬もされる立場にあり、日常的には問題なくコミュニケーションがとれている人でも、

 

理解されない・わかってもらえないという体験や思いから、無意識に自分の意見を正当化しようとしたり、相手を説得しようとしたりすることがあったり、

または、ある部分が「満たされない」ような感覚として体験する人もいます。

 

人間にとって、「理解されない痛み」はそれ程までに大きいのです。

 

そして、これもまたセッションで見せていただいたことですが。そうした体験や想いが受け止められ、「理解される」体験をすると、文字通りその人の中の大きな「重荷」が解放され「次の扉」が開きます。

 

力がみなぎるのを感じて、身体が自然と動くようになったり、今までできなかったことができるようになった人もいます。

 

おそらく「理解されない痛み」によって奪われていたエネルギーや本来の力が戻ってきたのでしょう。

 

そして、理解されると、人を受け止める「器」が大きくなっていくのです。

 

そうした「重荷」が受け止められ、解放されると、今度は、その方自身が周りの似たような体験や想いを持つ人を受けとめ、理解していくことができるのです。

 

そうして個人から「平和」が周りに広がっていくのですね。

 

「理解されたかったらまずは相手を理解せよ」とはよく言われることですが、

 

相手を「理解する」ためにも、その余裕を持てるためにも、まずは自分が「理解される」ことを満たしてあげてください。

 

「『だからこそ』あなたが輝くための55の質問」配布中です!

 

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だからこそあなたが輝くための55の質問目次.001

 

目次

あ、今の自分の状態について把握する

い.自分の「ストレス反応」を知る

う.今気になっていることについて観察する

え.喪失(後悔、自責、サバイバーズギルト)に気づく

お.自己像、自己肯定感、自己受容度に気づく

か.自分の中の「不安」を意識化・言語化する

き.自分のコーピングスタイルを知る

く.自分と相手との優先順位(境界線)と当事者レベルを知る

け.自分のストーリー(解釈・認知)に気づく

こ.回復のストーリーをみつける

さ.試練の中の「意味」について知る

し.再結合・新しい自己の創造

す.回復・再生のためのステップ 

せ.トラウマからの回復・再生のプロセスで体験しうること

そ.トラウマからの回復の三段階

 

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