「~しなければならない」は、自分のパワーを奪う言葉ー自分が選択することが自分が体験すること❗️

このところ続けて強いインスピレーションを受け取っています。

今の世界の情勢は、私たちが同じ生き方を続けられないと知らせてくれています。

 

前回の記事で、今自分がいるところからしか始まらない、とお伝えしました。

 

別の言い方をすると、自分の選択に責任をもち直すということです。

「原因と結果」に責任をもつということです。

責任のレベルを上げるということです。

 

この場合の責任とは役職や重苦しい義務を指すわけでもありません。

 

ここで言う責任とは、自分の行動・言動(選択)に完全に受け止めるということ、誰かのせいにもしないということです。

 

それこそが自分に本当の力や勇気、インスピレーションをくれるからです。

 

「『誰かのせい』なんてしてないよ」と思うかもしれませんが、

私たちの口ぐせや意識には、会社上司のせい、政府のせいや学校のせい、無意識的には親のせい、などなど、誰かのせいにしている部分がけっこう多いのです。

 

明らかに「誰かのせい」にしてないと思う場合でも、自分の言葉に気づいてください。

 

あなたが一日でとるすべての行動に対して、あなたは100%はっきりと「したいからする」と言えますか?

 

とりあえず

した方がいい

~しなければならない

~するべき

 

これらはすべて自分からパワーを奪う言葉です。

 

会社に言われたから?

家族に言われたから?

親に言われたから?

みんながそうしているから?

これまでそうだったから?

 

確かにそういう状況はあるでしょう。

でも、そうした言い方は完全に自分の選択を認めていない、ということになります。

 

どこかで、「~に言われたから」という逃げ道と言い訳をのこしています。

 

これでは自分の本当の力も才能も発揮することができません。

受け身で、逃げ腰です。

 

責任をもっている人は、自分が選択することが自分が体験することだと知っています。

 

自分が望むことを明確にすることに時間をとり、自分が望むことを選び続け、求め、それを体験します。

 

もし自分が望まないことがあるなら、選択をし直します。

 

自分が選択することが自分が体験することなのです。

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一つの意見が優勢になってくると逆の立場をとろうとする力が強くなるー中庸とバランスに向かうまで

前回、バランスや中庸ということについて書きました。

 

記事⇨新しい仕事/パートナー/家/お金/人間関係があったら人生はもっとよくなると思っている時ー感情的な「幻想」をつくりあげてしまってませんか?

 

何もこれは難しいことではなく、私たちは本能的にやっています。

 

例えば、この数年の国政選挙でもそうした傾向が見られました。

 

一つの意見が優勢になってくると逆の立場をとろうとする力が強くなるという力学です。

 

戦争でたいへんな思いをした体験から、戦後長い間、現在の憲法には強い支持がありました。

 

一方で、「『平和憲法』って言うけどさ、憲法さえ自分たちで書いてもないし、戦争反対とはいってもすでに国内(沖縄)から戦争にも(例えば、アフガニスタンへの攻撃)かかわってるじゃん」という意見がでてきます。

 

沖縄に核が配備されることはほぼ既成の事実として知られていますし、日本は唯一の被爆国なのに、「核兵器禁止条約」には参加しない、という、あくまでも「アメリカの核の下における『平和』」という矛盾もよりはっきりと見せつけられることになりました。

 

その延長として、だから日本も「普通の国」になろうよ、という意見もでてきます。

 

同時に、とはいえ、十分な議論もないままに長年の国の方針を一内閣の「解釈」で変えられちゃうのってやっぱ「おかしいじゃん」という意見もでてくるわけです。

 

だから、「保守」と「リベラル」の間をいったりきたりする有権者は少なくなく、今回の選挙で言えば、立憲民主党にそうした票が流れたのでしょう。

 

日本における平和や憲法をめぐる議論は、極端に流れがちだったので、

私は個人的にはそうした投票パターンはこのテーマに対する議論がより深まっていくまでありえると思っています。

 

そこで議論が終わらず、これからさらに議論を深めていくことが大切でしょう。

 

中庸やバランスの原則は国単位の政策も議論も当てはまるのです。

なぜ小池都知事は自信まんまんに「排除します」と言ってしまったのか?ー力士やフツーの人もキレさせてしまう正体「シャドー」について

弁護士によるタクシードライバーへの暴行

横綱力士による暴行

感情をおさえきれなくなって一時間も車で暴走を続けた会社員。。。

 

最近、「爆発」を抑えなくなる人たちの例が続けてニュースになっています。

 

世界情勢も騒がしいこともあって、なんだか社会も人間もおかしくなっていってるのではないか、という印象を受ける人もいるかもしれません。

 

確かにそういう面もあるとは思いますが、

にんげんという存在が突然変わったわけではなく、

人間がそもそも持っている「シャドー」や社会の「闇」が表面化しているのだと思います。

 

シャドーとはユングがつくった言葉ですが、

自分の中の「嫌な部分」「認めたくない部分」です。

 

今は、テクノロジーの進化などと合わせて、今は、隠されてきたものがどんどん明らかになっていく「透明化」(transparency)の流れがあります。

 

ウィキリークスの暴露があったりと、数年前からこの流れは強くなっていて

 

ごく最近では、

東芝の不正会計

神戸鉄鋼

日産の検査

から

 

ハリウッドスターに対するセクハラ告発

それに伴うme tooムーブメント

 

また

 

パナマ文章

パラダイスペーパー

などなど、これらも同じ流れだと言えます。

 

またアメリカでは、

トランプ大統領の移民制限政策に刺激されて

人種差別や分裂がさらに表面化しました。

 

 

孫子の兵法には、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という有名な言葉があります。

概念としては聞いたことはあっても、実際にこのことを実感している人は少ないのではないかと感じます。

 

『敵』とは、「私たちが理解していない(扱い方)を知らない自分自身の衝動」のことです。

 

それを否認したり抑制している限り、私たちは本当の「敵」(シャドー)に負け続けることになります。

 

弁護士がタクシードライバーをけった事件も、

普通の会社員が車を商店街を暴走して人をひいてしまったのも

 

はたまた

政治家が突然おかしな「暴言」(本音)をはいて失脚するのもシャドーがでてきてしまうからです。

 

小池東京都知事が自信まんまんな顔で「排除します」と言ってしまったのも「シャドー」がでてきてしまった例と言えます。

 

1980年代以来、北アイルランドやボスニア・ヘルツェゴヴィナなどの数々の紛争で、当事者間の対話に携わってきたアーノルド・ミンデルはこう言ってます。

 

「反テロや反差別主義は、その問題に取り組むことをかえって難しくしてしまう。

 

もし、本当の解決を願うならば、一人一人が自分の中にあるおそれや弱さ、差別意識や偏見などを一度浮上させ、自覚する必要がある」と。

 

先日2017年11月11日にクーリエジャポンで配信された記事の中で、なぜ内戦が泥沼化したのかという南スーダンの例をつかってお伝えしたのも、「私たちは自分たちが否定し、避けようとしているものになる」という力学でした。

 

反テロや反差別を道徳的に訴えることはできますが、それでは双方の怖れや偏見を一時期地面の下に埋めてしまい、根本的な解決をかえって遠ざけてしまいます。

 

ましてや反差別叫んでも相手側の気持ちを変えることはできません。

 

また、誰かを一方的に「悪」とし、排除しようとすれば、その力そのものが更に彼らの抵抗を生みます。

 

本当の解決を願うならば、一人一人が自分の中にあるおそれや弱さ、差別意識や偏見などを自覚する必要があるのです。

 

反テロや反差別を道徳的に訴えることはできますが、それでは双方の怖れや偏見を一時期地面の下に埋めてしまい、根本的な解決をかえって遠ざけてしまいます。

 

ましてや反差別叫んでも相手側の気持ちを変えることはできません。

 

また、誰かを一方的に「悪」とし、排除しようとすれば、その力そのものが更に彼らの抵抗を生みます。

 

さらに、

 

自分のやりたいことが分からない

本当の気持ちがわからない

自分をもっと伸び伸びを表現したいのに小さく縮じこまっている…

 

という人の場合、

そのより根本的な理由はまさに「シャドー」だったりします。

 

なぜなら、

「本当の自分がでてきてしまったらどうしよう?!」と無意識に自分を抑えてしまっているからです。

 

でも困ったことは、抑えてしまうのはシャドーだけでなくて、自分の才能やありのままの表現でもあることです。

 

今の時代、世界の動きがとても激しいので、それを抑えようとするだけで多大なエネルギーを使うことになります。

 

自分の可能性や才能をみつけるどころかエネルギー切れをおこしたり、文字通り息づまったり、やる気を失ってしまいます。

 

今までなんとかかろうじて抑えられてきたつもりのことも、無理になっていくでしょう。

 

グッドニュースは、シャドーは受け入れ、統合すれば光となって、自分のエネルギーとなってくれることです。

 

自分が欠けた存在であるという認識から「これもわたし。それでもオッケー🙆」という「安心感」「全体感」を取りもどさせてくれます。

 

いい面しか持たない「片面」だけのにんげんなんてそもそも存在しないのです。

 

才能を発揮し、輝いている人たちは、自分の嫌な面を受け入れ「統合」したか、乗り越えた人たちです。

 

それができるまで形を変えて、いろんな形でそのシャドーに出会うことになるでしょうから、やっぱり根本的な解決方法はシャドーに向き合うことです。

 

でもいざ向き合ってみると、「自分がこわがっていたものはこんなんだったの?!」とその小ささにびっくりすることもあります。

 

最後にシャドーのみつけ方&統合のエクササイズを紹介します。

 

シャドーなんてないよ〜という人はにんげんではありません(笑)

または幻想の中に生きています。

 

周りの人に見える自分をイライラさせるものーそれは自分の中のシャドーだと思っていいでしょう。それを単に人に投影しているだけからです。

 

やってみるととても楽になるので驚きますよ。

 

そして一度はまるとその効果にやみつきになるかも知れません!😊

 

《エクササイズ》

嫌な気持ちをさせる相手や出来事を象徴するものを3メートルくらい先におく(人形やペットボトルなどを置いてもいい)。

その人(もの)に向かって一歩一歩進む。

一歩進む度に、心の中で「あなたはわたしです。わたしはあなたです。これを見せてくれてありがとう」と言う。

相手のところまで来たら相手をハグする。

相手の中に見ていたシャドーが光になるのを感じる。

 

楽になっていくまでぜひ続けてみてください!

 

 

新しい仕事/パートナー/家/お金/人間関係があったら人生はもっとよくなると思っている時ー感情的な「幻想」をつくりあげてしまってませんか?

幸せという状態について多くの人は大きな誤解をもっています。

 

例えば、

幸せというのは、

 

心通うパートナーがいて、通じあう体験や会話があって、

ときに笑いがあって、

自分を大切に扱ってくれて、

安らげる住まいがあって、

やりがいのある仕事があって、

助け合う人間関係があって、

充足感を感じていて、

いろんなことを話せる友人がいて、

健康に恵まれ、

充分なお金もあって、たまにはおしゃれして豪華な食事をしたり、旅行にいったりコンサートにもいくことができる。。。

 

社会の価値観が多様化しているので、

幸せの形もいろいろあると思いますが、

多くの人が思い描く「幸せ像」の一例をあえて言葉にしてみるとこういう形ではないでしょうか?

 

これ自体にはなんの異議もないのですが、

でも、「幸せ」や、または「人生」というゲームについては大きな誤解があるようなのです。

 

どんな誤解かというと、

そうでない状態は幸せではない、という誤解です。

 

例えば、仕事で嫌な人に会うこともあるかも知れません。誰かに自分の意見を否定されることもあるでしょう。

 

でも、それは、人になんと言われてもぶれない自分の自信を身につけることに役立っているかも知れません。自分のにんげんとしての器を広げるためかも知れません。

 

協力的な人間関係を築いていく「過程」には、もしかしたら「衝突」や「行き違い」があるかもしれません。

 

充実した仕事の影には、

試練も障害も

元気づけられることも

骨のおれることも

平和的なことも

対立的なことも

協力的なことも

競争的なことも

楽しいことも

苦しいことも

あります。

 

同様に、

人との関係でも

この楽しさをシェアできる人がいてくれてよかった

やっぱり食事は一人より二人の方が美味しい

と思うときもあれば、

けんかをする

相手の都合で何かをキャンセルすることになった

などなど、

 

パートナーがいるからこその喜びもあれば、

その逆もあります。

 

シングルの人は既婚者をうらやましがって、

既婚者は自由な独身者をうらやましがる、

というジョークは世界共通なくらいですから😅

 

つまり、

どんなことであっても、片面だけで成りたつことはありえません。

 

幸せというにはいつも望み通りにスムーズにいっている状態のことを

指すわけではありません。

 

試練を乗り越え自信をつけていくからこそ、充実感も感じるのです。

 

人生という「ゲーム」においては

半分だけを取り出して体験することはできないのです。

 

ちょっと、想像してみてください。

仮にあなたの周りにいる人たち全員が

みんなあなたを褒め称え、賞賛するとします。

誰もがあなたに向かって、ただただ賛同するのです。

 

最初のうちは確かに気持ちがいいかもしれません。

でも、あなたはきっとすぐに飽きるでしょう。

 

そして、相手に挑戦したくなるでしょう。

「何かあなたの。意見はないの???」と。

反対意見や刺激を求めたくなるのです。

 

ごうまんになって、チャンレジすることも人間としての成長も止めるでしょう。

なにより意欲ややる気自体を失うかもしれません。

 

多様性がないと人間は生きていけないですから。

 

なんでもうまくいって、

自分が絶好調だと思っているとき、

なんらかの予期せぬ出来事を体験することもあります。

 

どんな状況でも、常に物事には「両面」あります。

楽しいだけのこともないし、苦しいだけのこともありえません。

これは、単に表面的な慰めで言っているのではありません。

 

新しい仕事/パートナー/家/お金/人間関係(など)があったら人生はもっとよくなるに違いないと思いがちです。

 

でも、それは実際のところ、感情的な「幻想」をつくりあげて、逃げているだけかも知れません。

 

自分が見たいようにしか見ていないのかも知れません。

 

もしそうだとしたら、せっかく新しい仕事に恵まれても、人や職場がかわっても、別の装いで自分が避けてきたことを体験することになります。

 

どんな状況でも、常に物事には「両面」あります。

 

中庸、バランス、調和ー

 

仏教、ヨガ、ヒンズー教ー表現こそ違え、ありとあらゆる教えの中で、中庸の大切さが言われてきました。

 

人間が体験することのすべてはこのことを体験し、学び、人生を通して「中庸」にいたるためにあるとも言ってもいいのかも知れません。

 

真実は両方、そして目指すのは「中庸」ーその真ん中です。

Facebookの最高責任者サンドバーグさんが突然夫を亡くしてから言ったこと「人はどんなことを成し遂げたことだけでなく、(逆境を)どう乗り越えたかで判断される」

「レジリエンス」「逆境力」

 

人が困難な状況から再び立ち上がっていくプロセスに注目が集まっています。

 

例えば、レジリエンスという概念が注目され、「精神的回復力」、「復元力」
などと訳されています。

 

Facebookの最高執行責任者のサンドバーグ氏が、「どうしたら女性が仕事で成功できるか」を書いた前作「LEAN IN」発表後、突然の事故で最愛の夫を失い、いかに逆境に向き合いそれを乗り越えるか「レジリエンス」について学ぶことになった、と語っています。

 

その時の体験については今年5月にカリフォルニア大学バークレー校の卒業式のスピーチで、初めて公けに彼女の体験や心境について語っています。
その中で、彼女は「人はどんなことを成し遂げたことだけでなく、(悲劇的な状況を)
どう乗り越えたかで判断される」という言葉を残しています。

 

また、全世界でもっとも視聴されたTEDベスト5にランクインし続けるブレネーブラウンの最新刊「立て直す力」も、人はどうしたらそんな状況から立ち上がれるのか?まさに似たようなことをテーマにしています。

 

立て直す力.jpg

 

逆境力、レジリエンス、回復力、立て直す力、トラウマ後の成長(post-traumatic growth) ー 言葉こそ違えど、そんな人たちの体験やPTSDからの回復に関する研究からは、ある共通項があることがわかりつつあります。

 

そうした過程にある共通点の一つは、自分のストーリーの再構築です。

 

自分の人生のストーリーを紡ぎ直すことです。

 

同じ場にいて、同じ人の話しを聞いていても、人それぞれ印象も覚えているところも違うことを体験したことがありますか?

 

私も南スーダンで分析の仕事をしていた時、同じ国にいて同じ人から同じ話しを聞いても人によって視点がまったく違ってびっくりしたことがあります。

 

そう。「現実世界」は一つしかないように見えても、感じ方・読み取り方は人それぞれ本当に違います。

 

社会認知に関する研究が示すとおり、私たちは人それぞれの「認知」や「観念」「レンズ」を通じて、身の回りの出来事や世の中を見ています。

 

つまり、自分が「事実」だと思っていることと、自分の「解釈」や「物語」とは同じとは限らない、ということです。

 

人間は「意味」を求める生き物なので、人は日々目にすること、耳にすること、体験することを自分なりの視点で判断し、「意味付け」しながら生きています。

 

そうして日々意味付けされたものの連続が、その人の「人生の物語」をつくっている、と言えます。

 

もっと言うと、自分の「解釈」や「物語」こそが、日々の「体験」をつくっている、とも言えます。

 

場所や職場、関わる人が変わっても、似たような体験をすることがあるのはこのためです。

 

「逆境」は、自分の「解釈」や「人生の物語」を含め、それまで自分が考えも疑いもしなかったことを見直す機会をくれます。

 

じゃあ、今度は、自分はどんな物語を紡ぎたいのか、どんなことを体験したいのか?

 

まったく新しくフレッシュに自分の「ストーリー」「物語」「体験」を始める機会を持てるのです。

 

「人生ってどうせこんなもの」?

「人生は苦労するもの」?

 

「人生は奇跡と喜びに溢れている✨✨✨」

 

せっかくなら、そんな物語がいいなと、私自身これを書きながら改めて思っているところです!

 

 

トラウマとまで言わなくても、人生では自分の思うようにならない時もあれば、理不尽なことも起こります。一人ではどうしたらいいのか分からなくなることもあるでしょう。

 

そんな波の中にいる時にどうしたいいのか?

 

少しでもそんなヒントになるように、トラウマやPTSDの回復理論やレジリエンスに関する研究と私自身の燃え尽き症候群やPTSDからの回復体験を質問形式にしてまとめました。

 

ここで挙げている質問は、リラックスして、まずは眺めてみて、思い浮かぶことをありのままに観察してみるというアプローチをオススメします。

 

質問を読んでもに何も思いつかなくても、ふとした瞬間に何か思い浮かぶ事もあるでしょう。

 

自分が前に進んだからこそ、意味を持ってくる質問もあるので、ぜひ定期的に眺めてみて下さいね。

 

ダウンロード・登録⭕️こちら⭕️よりどうぞ 

 

だからこそあなたが輝くための55の質問目次.001

 

目次

あ、今の自分の状態について把握する

い.自分の「ストレス反応」を知る

う.今気になっていることについて観察する

え.喪失 (後悔、自責、サバイバーズギルト)に気づく

お.自己像、自己肯定感、自己受容度に気づく

か.自分の中の「不安」を意識化・言語化する

き.自分のコーピングスタイルを知る

く.自分と相手との優先順位(境界線)と当事者レベルを知る

け.自分のストーリー(解釈・認知)に気づく

こ.回復のストーリーをみつける

さ.試練の中の「意味」について知る

し.再結合・新しい自己の創造

す.回復・再生のためのステップ 

せ.トラウマからの回復・再生のプロセスで体験しうること

そ.トラウマからの回復の三段階

 

ダウンロードは⭕️こちら⭕️よりどうぞ 

 

人生から成功も幸せも奪う「いい人」という病──国連ニューヨーク本部で学んだ真実|大仲千華 「答えを求めない勇気」

「人から認められたい」「誰からも嫌われたくない」という思いから、ついつい「いい人」を演じてしまう人は多いのではないだろうか。だが、他人から高評価を得るためのこの行動が、実は成功や幸せを遠ざける原因になっているという。

「いい人」は損もしないが得もしない

 

「『いい人』のままでは、誰にも君のことを覚えてもらえないよ」

 

これは、私が国連のニューヨーク本部で働いていたときに当時の上司に言われた言葉です。いい人は無難な意見ばかりを口にするけれど、そんなものは国連では何の役にも立たないし、誰の記憶にも残らない。彼にそう言われて私はかなりショックを受けましたが、「確かにその通りだ」とも思いました。

 

当時、私は国連平和維持活動(PKO)に携わっていました。国連が扱う業務のなかでも最も直接的に紛争にかかわり、国際政治や人の生死にも影響を与える仕事が単なるいい人に務まらないことは、私にも本能的にわかっていました。

 

しかしながらいい人を否定することは、私にとっては大きなチャレンジでもありました。日本で生まれ育った私に、「いい人であることは悪い」という発想はまったくなかったからです。けれども上司のその一言によって、いい人でいることは、大きな損はしないけどその代わり得もしない、いわば「守りの姿勢」ではないかと考えるようになりました。

 

いい人を演じれば、自分の本当の意見や立場を明らかにする必要がないので、自分が受け入れられなかったり、批判にさらされたりする危険を避けることができます。

 

実際、国連本部で働きはじめてからまだほんの少ししかたっていないにもかかわらず、気がつけば私は発言を求められると公式見解を繰り返すようになっていました。官僚の答弁のような物言いをすることによって、私は自分が傷つく事態を懸命に防ごうとしていたのだと思います。

「いい人」ほどトランプに怒りを感じる

 

私には米国やカナダで暮らすコーチ・カウンセラー仲間が何人かいるのですが、彼らに言わせると、いい人ほどトランプ氏が米大統領選に勝利したことに失望を感じていたそうです。

 

この場合のいい人は、「自分はいい人であるべき(はず)」、または「自分は正しい」という思いが強い人を指します。たとえば、社会的な役割が多い人、仮面(ペルソナ)を何重にもかぶっている人、公的な立場と自分のアイデンティティが一体化している人などがこれに当たります。

 

特に欧米では、社会的地位の高い人ほど「ポリティカリー・コレクト」(発言やふるまいに差別や偏見がなく、道徳的)であることが求められるので、 肩書きや社会的役割と自分のアイデンティティが同一化されていく傾向が強くなります。

 

もちろん、トランプ大統領の乱暴な物言いや、移民・イスラム教徒に対する差別的な発言に、純粋に怒りや不快感を覚えた人も多いでしょうが、「自分はいい人で正しい」と思っている人ほど、トランプの傍若無人な言動が許せないと感じたそうです。

 

人間には誰でも強みと弱みがあります。自分のなかにはいい部分もあれば、嫉妬や無力感に苦しむ嫌な部分もあることをみんな理解しています。しかし、「自分はいい人で正しくなければいけない」と思い込んでいる人ほど、人間の性質をありのままに受け入れることが難しくなってしまうのです。

 

いい人でいることのもう一つの恐ろしい弊害は、いい人を演じ続けなけばいけない義務感、そしてこうすれば人から評価されるという期待感に囚われてしまうことです。

 

「いい人」ほど怒りをため込む

 

私たちは子供の頃から勉強ができるとかスポーツが得意とか、行儀がいいとか褒められた体験を通じて、「こうすれば認められる」という観念体系を学んでいきます。そしてその経験は、大人になってからも私たちを「人を喜ばせよ、有能であれ、完璧であれ」と煽りたてます。

 

そこには、「自分の価値は、残した実績に対する他人からの評価によって決まる」という思い込みがあります。内なるモチベーションよりも、他人からどう見られるかに意識が向いてしまうのです。

前回の記事で、ニューヨークで働いていたときの私は、能力も努力も常に足りない気がして焦燥感とストレスに悩まされていたと書きました。いま思うと当時の私を苦しめていたのは、「国連の本部で働く人はこうあるべき」という思い込みと、「自分をそう見せなければ」と自ら課したプレッシャーでした。

 

このように、私たちは人に認められたいあまりにヘトヘトになり、心をすり減らしてしまうのです。しかも、そんな人ほど実は心のなかで怒っているのです。

 

彼らは「自分はこんなに我慢しているのに」「自分はこんなに尽くしているのに」と思う一方で、相手からは期待するような反応や評価が返ってこないことに対し、常にイライラや不満をためているのです。自分の満足が、コントロールの及ばない他人の反応に左右される状況は、当然、人に非常に大きなストレスを与えます。

日本人特有の「受動攻撃性」とは

 

私が長年の海外生活を経て日本に帰国して驚いたのは、日本人の受動攻撃性の高さでした。

受動攻撃性とは、あからさまに怒りをぶつけて攻撃をするのではなく、無視、無関心、連続して遅刻やミスをするなどの無気力な態度で「抗議」することを指します。私は日本人特有のこの性質を、満員電車の乗り降りのときに特に強く感じました。これも恐らく普段からいい人を演じていることからくる弊害なのでしょう。

 

いい人は、自分の意見を持たない、もしくは自分よりも他人の意見や価値観を優先させることによって、自分で自分を傷つけています。我慢し過ぎて自分の希望がわからなくなったせいで、無気力に陥り、鬱を発症するケースさえあるのです。

 
また、必要以上にいい人になろうとすると、期待に応えられなかったらどうしようという不安にとりつかれ、失敗や批判が怖くてたまらなくなります。その結果、ちょっとした失敗に対しても自己嫌悪を感じる状態に陥ってしまいます。つまり、いい人でいることは、成功の妨げにもなるのです。

 

このような状況から抜け出すには、自分で自分に課しているハードル、そして、社会やメディア、学校や親から植え付けられた以下のような「理想像」に自分が無意識に囚われていることにまず気づかなければなりません。

 

男性は「弱み」を見せてはいけない。
いつもいい成績をとらなければいけない。
絶対に失敗をしてはいけない。
周囲の人に賞賛されなければいけない。
やるからには成功しならなければいけない。
誰よりも優れていなければいけない。
スマートでなければいけない。
もっと痩せなければいけない。
人気者にならなければいけない。
かっこよくなければいけない。
おしゃれでなければいけない。
女性は若くなければいけない。
母親は常に子供思いで優しくなければいけない。

 

私がこうした「いい人」の呪縛から逃れられたのは、ニューヨークでストレスのピークを体験した後にPKOで南スーダンに赴任したことがきっかけでした。

まず、灼熱の南スーダンで、私はスーツを着なくなりました。

 

そして、国連で働く人はこうあるべきだという思い込みを実現するためではなく、現地の状況に合わせて最善を尽くすことに自分の目的がシフトしたとたん、変化が起きました。このとき初めて私は、自分のエネルギーが内から外に向かうのを感じました。

 

人の評価を求めてストレスにさらされるよりも、少しでもいいから毎日自分が成長したと感じられるほうが、自分の力で人生を歩んでいる実感が得られます。南スーダンでは別の意味でのチャレンジがたくさんありましたが、これに気づいたおかげでどれだけ気持ちが楽になったかわかりません。

 

それからは、多国籍チームのリーダーに抜擢され、国連の幹部に「うちの部署で働かないか」と誘われたこともありました。南スーダン政府や南スーダン人民解放軍との会合では、私が話しはじめると白けていた人たちが耳を傾けてくれるようにもなりました。

 

当時の南スーダンは、いつ紛争が再発してもおかしくない状況でした。そんななか、「たったいま、私がここにいる人たちに届けられる一言は何だろう?」と私なりに必死に考え、それを伝えようとしたことによって、気持ちが相手に伝わったのだと思います。

 

人は「正論」では動きません。なんらかのメッセージが人の心に届いたとしたら、それはその意見が立派だからでも正しいからでもありません。伝える人間が心の奥から湧き出るものを表現しようとするときにこそ、言葉を超えた思いが相手に伝わるのです。自分の保身のためにいい人を演じ続けていたら、言葉さえ力を失ってしまいます。

 

「どんなときでもあなたは一人しかいない。だから、あなたの表現は必ずユニークなものになる。もしそれを表現しないのならば、それは世界にとっての損失である。自信を持って踏み出しなさい」──これは、モダンダンスを開拓した米国の舞踏家マーサ・グラハムの言葉です。

 

彼女の言う通り、あなたという存在からしか伝えられないものが必ずあります。

 

私たちはもっと自分が自分であることを表現し、もっと正直にわがままに生きていいのです!

 

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《新プログラム》開始しました❗️

 

沖縄には、人がその人本来の姿でない状態を表わすのに「魂が抜けている」と言うことがあります。人は、その人の自然な想いや本当の気持ちに繋がるとき、その人本来の力と輝きを取り戻します。

 

自分の人生について改めて考えたい、前に進みたいという時に、普段の環境と切り離されることはとても役に立ちます。

 

普段無意識に感じている「こうでなければならない」という囚われや集合意識、過去の経験から物理的に離れることができるからです。
この特別プログラムでは、世界の中でも自然がピュアで、生命エネルギーが高い形で残る沖縄の西表島へ行きます。

 

https://peraichi.com/landing_pages/view/krgi1

 

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日本人はいつからロボットのようになってしまったのか?!ー言われたことはできるけどマニュアル外のことができない人の本当の理由

ベジタリアンのカナダ人の友人と一緒に出かけた時のことです。

ベジタリアンなので、食べる場所を選ばなくてはいけません。

 

カフェメニューで、アボガドサーモン丼というものがあったので、そこからサーモンを除いていただいて、アボガドとサラダだけ出していただくことはできますか?

と聞きました。

 

ご飯の上にそれを盛るだけだから、単純にできそうだと思います。

 

こういう時、お店(店員さん)の対応は見事に二極化します。

キッチンも店員さんも、「できません」というケース。

 

なんとか考えてごめんなさいね、というのではなく、マニュアに書かれたことは出来るけど、そこをちょっとでもずれると自分で考えて対応できない、という態度がくっついています。

 

そして、「今あるものでなんとかしたいと思います」と言ってくれるケース。

 

時には、シェフの方がわざわざ出てきて、今あるのはこういうものですが、こちらは大丈夫ですか?と聞いてくれることもありました。とうぜん、こういうお店の印象はアップ。次回も寄りたいなと思います。

 

けっこう前者が多いのでびっくりします。

 

しかも、ロボットのように「できません!」と言う人が(けっこう)いることに驚きます。

 

ランチ時の忙しい時でもないし、スーパー難しいことを頼んでるわけでもないのに、何がどう「できない」のでしょうか???

 

マニュアル的な決められたことはできるけど、自分で対応できない人が増えてる、とは聞いたことがあるけど、まさにこういうことか!と思いました。

 

できない!とパニクったり、いっぱいいっぱいになってしまうのかもしれません。

 

常に携帯でググれば「答え」がでてくることに慣れてしまって、やり方が一から最後まで書いてあるのをなぞることは出来るけど、

 

自分で判断する機会があまりないのかもしれません。

 

こういう場合に求められているのは、

お客さんは何を求めているのか?ちゃんと聞く・理解すること

キッチンに伝えること

または自分がシェフだったらアボガド(または何が出せるのか判断する)を出す

ということです。

 

 

イレギュラーな件にパニクる人たちは、

極点に失敗を恐れているにも感じます。

 

自分で考える=判断する=間違うのが怖い

 

でも、そもそも、「正解」も「間違い」もないのです。

 

そして、「正しくやること」に価値があるという誤解をしています。

 

「完璧」「ちゃんと」やらないといけない、と思ってます。

 

客が求めているのはそんなことじゃないのに。

 

自分に意識が向いている典型的な守りの姿勢です。

 

お客の立場をして感じたことですが、こちらの要望・言っていることをほとんど聞いていない人さえ多いのです。

ベジタリアンだって人間なんだから、ただご飯が食べたいのに、でも困ってるんだよ、というだけなのに。

 

そのことをただ理解してくれて、もし少しでも共感してくれたなら、お店の印象がどれだけアップすることか!

 

ロボット人間じゃなくて、人間が増えてくれることを願います!