マイストーリー⑬ バングラデシュの女性たちとセックスについて語る「一人の女性としてそこにいて欲しい」

同じ一人の女性としてそこにいて欲しいの

ある日、私はバングラデシュ人の友人に連れられ、12人ほどのバングラデシュの女性達と一緒に座っていました。これから彼女達と一緒にあるテーマについてグループでシェアをする会に参加するためでした。

さて、そこで話されることになっていたテーマとは?

ーそれはセックスについてでした。

「あの・・・私セックスの専門家でもないし、

あの・・・その・・・そんな自信を持って人にシェアできるような体験があるようにも思えないんですけど。。。(モジモジ)」

すっかり小さくなりかかっていた私の肩を押すように友人は言った。

 

「Chikaいいの。私はあなたに同じ一人の女性としてその場にいて欲しいの。」

 

人間として当たり前の営みでありながら、途上国で、特にイスラム圏で母から娘に正しい知識が伝えられ、語られる機会はほとんどない。それが故に、正しい知識がないばかりに、簡単に防げるはずの感染症になったり、セックスがトラウマのような体験になっている女性が多いということを友人から聞いていた。

だからこそ、安全な知識を身につけるために女性同士でシェアできる会を持ちたいというのが友人の意図だった。

バングラデシュという男尊女卑が非常に強い社会において、それがどれだけ勇気のあることかを少しは理解していた私は、彼女の勇気を応援したいという気持ちで参加することになったのでした。

 

友人と目の前の女性たちはしばらくお互いの近況報告を交わしてから、さっそく本題に入っていきました。

 

「最近、悩んでいることなどシェアしたい人はいますか?(友人)

一人の女性が手をあげました。

「感染症になっているので性行為がとても苦痛です。」(女性)

「どれくらい感染症は続いているのですか?」(友人)

「もう何年もです。まだ小さい子供がいるのでミルク代をまかなうために生理用品は買えません。」(女性)

 

隣にいた友人は、一人一人のシェアを丁寧に聞き、受け止めながら、かつ、冷静に、身近なものを使い出来るだけ衛生的に保つ方法を彼女に丁寧に伝えていた。

そして、そのことについて旦那さんとできるだけコミュニケーションを持ちましょうと伝えていた。

こんなやりとりが何人も続いた。

ここで紹介できるのはほんの一部だけれども、私はただただその話しを聞きながら思った。

 

この目の前の彼女たちが男尊女卑の社会の中で生きることは毎日どれだけ勇気を要することなんだろう!!!

そして、そのバングラデシュの友人と一緒にダッカの博物館に行った時のことを思い出しました。

 

博物館を出る時に彼女に「トイレ行かないの?」と聞いた時のことです。ここで行っておかないと、今度はいつ行けるか分からないから位の軽い意味でした。

 

「わたしは大丈夫。 バングラデシュの女性は8時間くらいトイレに行かなくても大丈夫なように訓練されているのよ」

???
その意味がよく分からずにポカンとしている私に向かって彼女は優しく教えてくれたのです。
「ほら、バングラデシュではね、トイレがあまり整備されていないでしょ。 だからね、例えばバスに乗って地方に行く時などは、水もなるべく飲まないようにするの。」

 

!!!

知らなかった!

 

しかも、これは、その数週間前に、出張で3週間もバングラデシュに滞在した後の出来事だったのです。トレーニング中だったから、私の関心は紛争解決や平和維持に向けられていたとはいえ、しかも、バングラデシュ軍のPKO訓練センターでは女性トイレの数は限られていたけれども、(その場で女性は私を含めたったの二人だったのだけれども)女性トイレは存在していたからです!

 

ああ!すごいショック。。。。。

まがりなりにも国連で働き、この分野に少しは知っていると思っていたけど、

「知っていると思っている」事と「知っている」事とはこんなにも違う。。。

同じ景色を見ていたとしても、同じ国にいても、同じ人から同じ話しを聞きているようでも、簡単に見えることがあり、意識を払って見ようとしないと見えない事が本当に沢山ある。。。

 

私は紛争をしていた国や旧独裁政権の国などいろいろな国で働いてきたけれども、自分で言うのもなんだけれどもかなり繊細な心の持ち主。けっして強いタイプじゃない。

正直、見たくないことも聞きたくないことも山ほどあった。

でも、毎回とはけっして言えないけれども、なぜかその中になんというか、私の心の奥深い部分が満たされるような、極限の中で生まれる人間の知恵、勇気や強さに触れるような瞬間があった。

このバングラデシュの友人もその一人だった。私はそんな体験をさせてもらった事に対して彼女に感謝をした。

 

そして、南スーダンの女性のことを思い出したのです。

世界でもっとも争いの根が深いとされ、ほぼ40年間紛争が続けられていた南スーダン。

紛争が起きている状況で、最も厳しい状況におかれるのは女性と子供だと言われます。

南スーダンの女性たちにとって、銃よりも彼女たちと子供たちの命を奪ったものがありました。

産婦死亡率です。南スーダンでは、病院やなんらかのサポートを経て出産できる女性は1割にも満たず、9割をも超える女性たちはともかくどんな状況であってもなんとか自力で子供を産まざるをえない状況であり、そもそも栄養状態がよくない為、産婦死亡率は世界の一で、7人に1人は出産時に命を落とすと言われていました。紛争が続く中で、南スーダンの女性にとって文字通り命がけだったのは、出産だったのです。

 

そんな苦労の中で文字通り命がけで出産し、育てあげた子供たち。

南スーダンには320万丁もの銃が流通していると言われています。人口4人に1人が銃を持っている計算になります。

時に自分の息子が争いに巻き込まれ、または、家族や自分の身を守るために、または洗脳され、簡単に銃を手にしていきます。

彼らのほとんどは普通の男の子たちです。彼らが特に残酷だからではありません。日本だったら口論で終わることでさえ、銃がある環境であるがばかりに時に村同士の抗争になり、時に「部族間紛争」になり、時に「民族間紛争」になっていくのです。

 

南スーダンの女性たちが日々直面している困難はあまりにも大きいと言わざるをえません。

こんな状況はもう我慢できない!!!

南スーダンの女性は立ち上がり、こう言ったのです。

私たちは息子を人殺しマシーンにするために産んだんじゃない!!!

こんな争いばかり続けるならもう子供は産まない!

南スーダンの女性は、セックスをボイコットすることを宣言しました。

そしてこうも言ったのです。

「全てのにんげんは女性から生まれる。

私たちはもうこの子たちに互いを殺しあうようなことはさせたくない。

私たちにはこの子たちに争いをさせないように育てる責任がある。」

 

イスラエルペレス大統領がオバマ大統領から、「何が中東の民主主義と和平を妨げているのですか?」と質問され『争い合う男どもです』と答えたそうです。

また、アラブの女性たちとユダヤの女性たちが対話をすれば和平が実現するだろうとも言われています。

南スーダンでは紛争中でも女性はおしゃれを諦めませんでした。紛争が終わってから首都に真っ先にオープンした店の一つは美容院とネイルサロンでした。女性たちは直観的にどちらの方が楽しいかを知っているのだと感じます。

 

「女性のリーダーが増えれば戦争や不祥事は減るだろう」

世界13ヵ国で行われた調査で、65%の人が「女性のリーダーが増えれば戦争や不祥事は減るだろう」と回答しています。フランス、ドイツ、ブラジル、インド、韓国、中国、日本などで行われたこの調査では、経済危機後の世界がリーダーに求める資質としてあげられたのは、信頼や謙虚、寛容、共感、柔軟性など、どちらかと言うと女性的だと言われてきた特徴が圧倒的に上位に上げられたのです。そこで浮かび上がっているのは、感傷的ではなく賢明で静かな強さがある、プライドや権力よりも全体の理念に集中できるといったリーダー像です。

同じ調査ですが、「男性がもっと女性のような発想をしたら、世界は好ましい方向に変わるだろう」という アンケートに対して、66パーセントの男性がイエスと回答し、日本では79%、 フランスとブラジルでは76%、ドイツでは70%の男性がイエスと答えています。

8-13-13-feminine-leadership-values

ユナイテッド航空など世界的企業のブランディングに関わってきたジョン・ガーズマという消費者行動の専門家の人が経済危機後の消費者行動の変化から導き出した「女神的リーダーシップ」(原文 The Athena Doctrine)は、ニョーヨークタイムズのベストセラーになっていたのでした。

41M9d5Vs7BL

経済危機後の世界がリーダーに求める特徴はつながり、共感、寛容 ①

 

そう!私が現場での体験を通じて直感的に感じてきたことを裏付けるものでした!

 

今こそ、世界が求めるリーダー像は、プライドや権力よりも全体の理念に集中でき る賢明で芯の強さを持つリーダー。

だとしたら、賢明で静かな強さをたたえている日本の女性の力こそ今こそ世界に求められているものではないか?

 

紛争のような大きな問題を目にすればするほど、私たちは何か大きなことをしないといけないと思いがちです。

ただ、バングラデシュの友人が私に教えてくれたのは「同じ女性としてそこに一緒にいて欲しい」ということ。

特別なことや大きなことをやる必要もない。

私たちがその国の人の友達になること、時に一緒にいることーそれ自体、私たちが思ってる以上にすごい価値なんじゃないか?

 

バングラデシュの友人は私に大切なことを教えてくれたように思いました。

 

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

民族や宗教の違いを超えて人を繋げるリーダーを育てること、

特に、仲裁や対話の力のよる争いの解決の方法について伝えること、

日本の女性の力を世界のために役に立てること、

日本と世界がお互いに学び合い、お互いの力を世界の課題の解決のために役にてること、

若い人たちの才能を育み、伸ばし、表現していくことをお手伝いすること(キャリアコーチング)

こうした活動を行っています。

http://peaceblossom.net

⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

Anju

 

 

広告

マイストーリー⑫ 原爆の投下ってアメリカにとって『勝利』とは思えないんだ

どうしたら「憎しみの連鎖」を断ち切ることができるんだろう?

和解やゆるしを促すものは何か?

どうしたらその人や国の中で紛争や戦争が終わったと言えるんだろう?

 

南スーダン以来、そんな疑問がわたしの中に残っていました。

そんな中、スリランカ軍対象のトレーニングの講師を打診されました。

 

えっ?スリランカ軍?

一般市民の犠牲者を大勢だして内戦を制圧したばかりのあのスリランカ軍?!

 

スリランカ軍といえば、ちょうどその3年前に、内戦を武力で「制圧」したばかり。タミールタイガーが「人間の盾」で必死の抵抗を試みる中で、スリランカ軍は、一般市民が巻き添えになること知りながら圧倒的な武力で制圧を敢行。何万人もの死者を出したとして当時の責任を当時国連の人権委員会や各地の人権団体から追及されている「張本人」でした。

 

今度はスリランカかあ。

 

私自身、紛争中のスリランカを訪れたことがあり、私が通ったばかりの同じ幹線道路上でたった数時間後に爆破テロがあったことを知ったこともあったし(私はホテルに戻ってそのニュースを知りました)、タミールタイガーのテロによって焼かれたバスを目撃したこともありました。

 

 

さすがに数日迷ったものの、

引き受けようと思ったのは、

 

どうしたらその人や国の中で紛争や戦争が終わったと言えるんだろう?

内戦が終わった3年後のスリランカの状況はどうなんだろう?

「ゆるす」という行為はどうしたら進むんだろう?

そんな私の中の深い部分での関心でした。

 

シンガポールを超え「カレー文化圏」に入ると、女性たちの衣装が華やかになります。

私は紛争中の緊張感を覚えていたので、首都のコロンボでの紛争が終わった街と人々の「開放感」を肌で感じながら、ああ、紛争が終わるってこういうことなんだあ、と感慨深さを味わっていました。

 

もしかしたら、思っているより悪くないかも?!

首都の明るい雰囲気にわたしの気持ちは少し弾んでいました。

 

そんな雰囲気もあってか、

部屋に戻る前に、まだなんとなくブラブラしていたい気分だった私は、宿泊先のホテルの売店を覗いて帰ることにしました。

観光客向けのサファリの本が並んでいるのを見て(スリランカは野生の虎が有名です)、ああ、紛争も終わってこれからサファリに行く時代なんだな、とやはり少し感慨深い気持ちを覚えていました。

 

その隣にはスリランカの内戦について書かれた本が数冊並んでいました。

スリランカのような国では観光客向けにそういう類の本が並んでいることは珍しくありません。

 

なにげなく、パラパラとページをめくる中で私の目に飛び込んできたもの ー

 

それは、タミールタイガーに切落とされたスリランカ軍や警察の死体、一般市民が狙われたバスなどの写真の数々でした。

 

!!!ーーーーーーーーー

 

どこかにあった「淡い期待」は、

どーーーーーーーーーーーーーーーーーん!と一気に吹き飛ばされてしまいました。

 

そう、スリランカではそのようなテロが日常茶飯事だったのです。

そして、その報復にスリランカ軍や警察は、タミル系住民への迫害を強めていたとも言われていました。

 

この人達はまさにその最中にいた人たち。。。

 

私は彼らにどう向き合えばいいんだろう?

この研修で私がやることは何だろう?

私が彼ら・またはスリランカの人たちに届けられる言葉はいったい何だろう?

 

私の中で答えはでないままに、研修がはじまりました。

 

ちょうど同じ週に国連の人権委員会が現地調査に来ることも関係していたのでしょう。

彼らは、無言の、しかし、はっきりとしたメッセージを発していました。

「そのことには触れてくれるな」と。

 

たしかに。。。

 

最初の数日は、相手はこの研修のテーマ(紛争や国連の平和維持活動)といったテーマについてどう感じているんだろう、どう話せばいいんだろう?

互いに「探りあい」のような状況が続きました。

 

さて、今日で研修の前半は終わりという時、講義の最後の質疑応答の時間に彼らの一人の手があげられました。

 

「あのー。。。」

「タミル地域ではこういう事もあったんです。」

 

 

彼らの発言内容に対して同意する・しないは一旦保留しながら(事実と証拠がないので判断もできません)、まず、そうしたコメントを「受け止める」ことが大切だと思いました。

 

それは、あくまでも、彼らにとっての体験ではあるのでしょうが、彼ら自身、自分の体験を話したい・聞いてもらいたいという現れの一つだと私は解釈しました。(自分の体験を話す・聞いてもらうこと自体に大きな癒しの効果があることはよく知られています。)

 

彼らが直接言葉にはしなくても彼らの中にも大きな葛藤があるのをひしひしと感じていました。

「この内戦にはどんな意味があったのか?」

「『制圧』は正しかったのか?」

 

そして、軍隊だけでなく、

「なんで自分の家族が?」

「なんでこんな戦争を許してしまったんだろうか?」

 

シンハラ系住民にもタミル系住民の間にも、それぞれに大きな苦しみがあり、

同時に、もう二度と内戦には戻りたくないという強い思いが社会全体にあるのを感じました。

 

さて週明けは何と言ったらいいんだろう?

今スリランカで必要とされていることは何だろう?

 

9.11のテロの被害者にとっては何が役に立ったのかをまとめたアメリカの大学の研究

日本から持参した日本のB級戦犯の手記

世界の紛争地での事例。。。

 

紛争の原因や経過について分析した研究は何万とあるけれども、個人と社会全体の和解や癒しのプロセスについて体系的に書かれたものはそんなに多くない。。。

 

「答えのない問い」だけれども、いろいろな人のいろいろな角度で書かれた体験やまとめを読みながら、私は和解について考え続けていました。

 

ようやく、自分の中で「ストン!」と何かが「腑に落ちる」感覚を得て、

結局、研修の後半では、こんな話しをしました。

 

「『被害者』は加害者に事実を認めて欲しい、どんな影響があったのか理解して欲しい、謝罪して欲しい、二度と同じことを起こさないと誓って欲しいと望みます。

『加害者』は、被害者に対面するのが怖いということ、『加害者』としての苦しみや傷もあることを理解して欲しいと望みます。可能ならば受け入れられることを望みます。

両方が傷を負うという意味においては、両方ともが「被害者」であると言えます。」

 

紛争後、元兵士の社会復帰を支援するために、どんなことが重要か?あくまでも「一般的には」という文脈での話しでした。実際に言葉として伝えることができるのはほんの一部です。

 

その後、ある大佐の人が私のところにやって来て言いました。

「この内戦の中、何人もの部下を自分の目の前で殺された。腕にはその時の傷もある。それでもタミールタイガーを赦したい。自分が楽になるためにそれが必要だと思うから。」

もしかしたら、彼は外国人である私に対して、スリランカ軍はそう思っているよ、という「ジェスチャー」も含めてそう言ったのかも知れません。ただ、その時、彼の中にある苦悩に触れたのを感じた時、もしかしたらジェスチャーとも言えないかもと感じました。

 

苦しい。

この苦しみから楽になりたい。

この苦しみから楽になれる道があるとしたらそれは「ゆるす」ことしかない、と。

 

けっして、軽い意味では言えないであろう事を伝えに来てくれた彼の言葉のトーンを今でも覚えています。

そして、講師チームを一緒に組んでいた同僚のアメリカ人(ルワンダなどで人道支援にあたっていた)の人が言いました。

 

「アメリカでこんなことを言う人は少ないけど、原爆の投下ってアメリカにとって『勝利』とは思えないんだ。」

 

スリランカの経験について学んでいたと思っていながら、これはそのまま日本に当てはまることかも知れない ー そんなことを思いました。

 

戦争に「勝者」はいない。。。

Bali 2010 637

 

紛争。

憎しみ。

ゆるし。

 

けっして簡単に向き合えるテーマではないし、

ぶっちゃけ答えも正解もない。

 

私がその時期に人権侵害の当事者であるスリランカ軍の研修を務めたことでさえ、いいかどうかなんて分からない。

 

あの時何を言えばよかったのか?

言わなかったらよかったのか?

ただ、実際に言葉として伝えることができるのはほんの一部。

 

ただ今の時点でもし何か言えることがあるとしたら、

自分なりに「答えがない問い」に向き合い続けること

 

もしかしたら、その姿勢を通して何かしら伝わるものがあるかも知れない。

 

そんなことを思ったスリランカでの体験でした。

Bali 2010 708

 

マイストーリー⑪ どうしたら究極の男性社会である軍隊が耳を傾けてくれたのか?

 

国連を退職して、燃え尽き、まったく働けなくなった時期を経て、

私は、米海軍大学院付け Center for Civil Military Coorperation (CCMR)の専門家として、アジアや中東の軍隊に国連平和維持活動について訓練する国際的なプログラムの講師となりました。

当時、そのプログラムで講師を務めていた人たちは元軍人のアメリカの人たちが多く、女性はそもそも数が少なく、日本人の女性としては私のみでした。

 

相手は現役の軍人。母国で内戦に関わった人たちもいる。

さて、彼らにいったい何と説明をしたら耳を傾けてくれるんだろう???

 

 

そもそもなぜ私が雇われたのか?

その理由の一つは、私が「女性」だったからでした。

 

では、なぜ女性が必要なのか?

 

国連の平和維持活動の目的は「敵」を倒すことではありません。

国連の現場では「敵」はいないと言われます。

なぜなら、たとえ 相手が「武装勢力」や暴徒であっても、彼らは話し合いをする相手だからです。

 

暴力を止めさせること、

なんとか話し合いの糸口をつかむこと、

交渉することが求められ

武器は最後の最後の手段として正当防衛にのみ使用することが許されています。

 

同時に、住民を暴力から保護する時には武器(銃)を使ってよいこと、

日常的に紛争を予防すること、

住民への被害を防ぐために積極的に行動すること、

人権を尊重することも求められます。

 

ではその肝心の「現地住民」のことを私たちはどれだけ知っているのか?

その住民の半分は当たり前ながら女性。

 

わたし自身、特に女性だからというアイデンティティーはあまり持っていないのだけれども、現地の人たちとの信頼関係を築くことが紛争の予防のための一つの鍵だとしたら、

 

実際には女性だからこそ出来る領域が存在することは事実なので、講師に女性がいるのは私自身もいいことだと思いました。

 

とは言え、それが彼らにとってどこまで説得力を持つのかはまったく別の話しです。

 

この研修では2~3週間かけて、現役の軍人に国際人道法からジェンダーから、武器使用基準から交渉までをみっちりトレーニングします。

 

究極の男性社会である軍隊に(しかも内戦をしてきた人達に)ジェンダーの話しがどこまで通じるんだろう???

いったい彼らに何と説明をしたら聞いてくれるんだろう???

内戦をしてきたかもしれない彼らに私が伝えられることは何だろう???

 

 

私は緊張したまま、バングラデシュへ出発しました。

バンコクで乗り継ぎ、首都のダッカに到着。ダッカからさらに車で3時間ほど走り、バングラデシュ軍の国連PKO訓練センターに到着しました。

研修の部屋のレイアウトを確認し、女性トイレの場所を確認し(軍の施設では女性の数が圧倒的に少ないのでこれが大切です)、次の日に備えました。

2013 Spring 833

 

訓練の1日目。

冷静を装っていたつもりだったけれども(多分ばれてた)内心、私の心の中は緊張でバクバクでした。

2日、3日たって、大きなバクバクが小さなバクバクになってきてよかったと、ホッとしたと思ったのもつかの間、講義の最後の方で質問がでました。

 

「とはいっても、国連は◯◯で何も出来てないじゃないか?」

 

確かに。。。

ある意味健全な反応だと思う。

だって、その中にいる私なんて、本当に本当にしょっちゅうフラストレーションを感じるているんだから!!!

実際に、国連という組織の理念が大きければ大きいほど、現実のギャップを目のあたりにする時、そういう疑問やフラストレーションもさらに大きく感じます。

 

ただ、その質問に対してはいろんな角度から応えることができると思いましたが、この場合、質問の真意は別のところにあると感じました。

 

その質問の真意とは、

「公式意見じゃなくてあなた個人の意見を聞きたい。」

 

もっと言うと、

「あなたはどういう気持ちでこの課題を捉えているんだ?」

 

もっと言うと、

「あなたっていう人はどんな人なんだ?」

 

もっと言うと、

「僕たちは実際に内戦をしてきた軍隊なんだ。単なる理想主義も理論も信じられない。どうしたらあなたの言うことを信じられるのか?」ということだったと思うのです。

 

その通りなのです!!!

ただね、こっちだって本気なんだよ!!!!!

私は経験上、こういう時にはこちらの本気度が試されていることを直感的に感じました。

 

わたしも腹をくくりました。

わたしは真っ直ぐ彼の方に向きなおし、ゆっくりとしかし一言一言はっきりと話し始めました。

「私個人の意見をお伝えします・・・」

 

正確な表現は覚えてないけど、それ以来、流れが「ガラッと」変わり始めたのをはっきりと覚えています。

 

それはいわば、お互いを理解してみようかという「はじまり」だったのです。私が彼らに半身半疑だったのと同じだったように、彼らだって私に半身半疑だったのは当たり前。

南スーダンにいたと時には、30カ国以上の軍人の人たちと日常的に接していた私でさえ、自分の中にある根強い「偏見」というか、誰かを「悪者」にしておきたいという誘惑に直面することになりました。

完全にわたしの「偏見」がなくなったとは言えなかったけれども、それは一旦脇において、ともかく目の前の訓練に集中しようと思いました。

 

 

「みなさんは国連の精神を示しに行くのです。

みなさんの行動一つ一つが国連の信頼に関わります。」

現地の住民の人達から見れば、軍人も私たちのような文民も同じ国連の要員です。実際のところ、紛争地であればある程、最後に自分の身を守るのは信頼関係です。

 

IMG_4002

 

「その判断をしたのは何でですか?」

「みなさんは地域の住民の人にとってどう映りますか?」

「紛争を予防するために何をしますか?」

 

住民の人達と向き合う時の姿勢、

情報収集のためのコミュニケーションのし方、

銃の構え方にまで注意を向けました。

 

面白いことに、こちらが相手を理解しようとするとその姿勢が相手にも伝わるのか、

訓練がもうすぐ終わろうという頃、一人一人ポツポツと私に話しかけてきてくれました。

 

「長年軍隊にいて葛藤があったけど、『人間』らしくあることを自分に求めていいんだって思えた。」(バングラデシュ軍オフィサー)

 

「僕は2回目のイラク派遣で、ようやく気付いたんだ。

『敵』も人間だってことを。

僕たちはたとえ戦闘中だって敵を人間として扱うべきなんだ。」(米軍同僚)

 

「ネパール軍に戻ったらこんなこと言えないけど、僕はずっと『反政府勢力』ともっと対話をするべきだって思ってたんだ。」(ネパール軍オフィサー)

 

「実はぼく軍隊をやめようと思っていて。。。」

 

えっ?!これそういうトレーニングだったっけ?!(汗。。。)

 

「みなさんがすでに持っているスキルを人を助けるために使うことができますよ。」

たった2週間のうちに、人が変わったように生き生きし始める瞬間を目の前で私は目撃することになったのでした。

人というのは、究極的には誰でも人の役に立ちたいという願望を持っている存在なんじゃないか?

 

たとえ相手が誰であっても、

自分の中の偏見や判断が完全になくならなかったとしても、

それを一旦保留し、一人の人間としてただ目の前の人に向き合うということー

 

この一見とても静かなアプローチにはとても大きな効果があるんじゃないか?

 

 

そんなことを体験してトレーニングは成功りに終了しました。

 

マイストーリー⑩ 「本当の勇気は弱さを認めること」

3.11の朝、私は早朝の便で成田空港に帰国する便に乗っていました。私が南スーダンから帰国してちょうど1ヶ月くらいたった頃でした。

乗っていた便はほぼ定刻とおりに到着し、荷物を引き取り、首都高を経由してバスで自宅に向かっていました。ああ、無事に着いてよかった。ああ、春も近いなあ、とぽかぽかする春の日差しをはっきりと覚えています。

のんびりするのもつかの間、それから1時間後に家が揺れたのです。

幸い私自身も家族も全員無事で、親戚や友人にも直接的に被害にあった人もいませんでした。

 

しかし、私の中で何かが起きたように感じました。

この時の地震で、私の中の「箱」が開いたのです。

震災が、私が南スーダンにいる間に無感覚になっていた部分の箱を開けたのです。

 

もしかしたら、何か少しおかしいんじゃないか?と感じたのは、満開の桜の花びらの下に立っていた時でした。

それまで海外生活の長かった私にとって生の満開の桜を見ることはとても楽しみにしていたことでした。

それなのに、その桜を目の前にしながら、私はきれいだとも美しいともうんともすんとも感じられなかったのです。

 

どうしたんだろう。。。

きっと疲れているからに違いない。しばらく寝て休んだら元に戻るよ。自分に言い聞かせるように思いました。

それからしばらく朝起きれない、という状態が続きました。

身体が空っぽになってしまったかのように、身体にまったく気力が入らないのです。

1日のルーティンといえば、ゆっくり起きて近くを散歩するのがやっと。何もやる氣がしない。誰かに会う気力さえないし、誰にも見られたくもない。。。

 

まさか自分が。。。

それまでバリバリを仕事をこなしていただけに、この自分の状態を受け入れることにはしばらく時間がかかりました。

そして、紛争や世界のニュースに関することをまったく聞きたくなくなり、テレビのニュースを見ることもほとんどなくなりました。

 

トラウマケアに関する研修を受けた時の資料にこう書いてあります。

「私たちの安全を脅かすような出来事に会ったり、極度の緊張状態が続いている時、それは脳の神経系統に影響を及ぼします。

それは、竜巻のようなエネルギーが身体の中に溜まっている状態です。そのエネルギーが数週間のうちに解放されるか統合されないと、いわゆるトラウマの状態を後に引き起こすことがあります。」

記憶は断片的になり、思い出すことができる時もあれば思い出せない時もある。感情を抑圧し無感覚状態(numbness)になります。自然災害や似たような出来事に遭遇することによって抑圧された部分が思い出される時、それは癒しの機会である。

時には激怒や不安、鬱や絶望としても現れる。こうした体験は同時に私たちの人生の『意味』も崩壊させることがある。」

「そうした環境に長い間身を置くこと、または、そうした影響を強く受けた人たちに関わることによって似たような症状を受けることがあり、それは『二次トラウマ』(secondary trauma)と呼ばれる。」

 

ああ、これだ!と知ったのは随分、後のことでした。

 

そして、無感覚な状態は、傷に鈍感になるだけでなく、

創造性、愛や喜びにも鈍感になってしまう、ことを知りました。

 

私は、自分の体験がここまで抑圧されていたとはまったく気づかなかったのですが、

こうした現象は、紛争地でなくとも、カウンセラーや看護師さんといった対人援助職に就く人にも多く見られること、

特に繊細なタイプの人や共感能力の高い人は自分の痛みと他人の痛みを区別すること(自分と他人との間に健全な境界線を持つこと)を学ぶ必要があることを知りました。

 

 

そして、

同時に、

これは、

 

私にとって、

「本当の勇気は弱さを認めること」だと学ぶこと、

そして、少し大げさに聞こえるかも知れませんが、

生きる意味を再発見していくプロセスでした。

 

この時の私の体験をとても上手に表現してくれている本があります。

(著者のTEDでのスピーチは視聴回数ベスト3にランクインしています)

 

自分がどんな人間で、どんな体験をし、何が大切なのかを認め、人生の不完全さを引き受けるには、不完全さの中に美があることを知る必要があります。

そのために役に立つことは、

・心の痛みを無視したり、自分を批判するのではなく、自分自身の温かい理解者になること

・人間は誰でも悩み、自分の無力さを感じることを知ること

・否定的な感情を抑えすぎず誇張もせず受け入れること。痛みを無視したら痛みに共感することはできない。弱みや不完全さを認めず、あるべき姿にそぐわない部分を切り捨て、認められるためにヘトヘトになるのでもなく、否定的な感情や思考と「一体化しすぎない」こと、です。

ブレネー・ブラウン「本当の勇気は弱さを認めること」2013年、より

http://edu-dev.net/2012/08/29/ted_vulnerability/

本当の勇気は「弱さ」を認めること-ブレネー-ブラウン-ebook/dp/B00GTAV3P6

Brene Brown

 

ああ、これだ。

決して、簡単には聞こえなかったけれども、解決の方向が分かった気がして、安堵を覚えました。

 

私は少しづつ、

自分の弱さを受け入れること、

ないものではなく、あるものに目を向けること、

すでにあるものに感謝すること、

を学び始めました。

 

その頃、国連の平和維持活動のトップリーダー(国連事務総長代表)研修参加者の募集の案内を見ました。国連事務総長代表とは、リタイアするくらいの人たちの一握りの人たちが検討される位のポストです。

30代の私が受ける研修ではないのはないのだけど、なぜか私は履歴書を送っていました。

数週間後、東京の外務省のある会議室に私は座っていました。隣には、世界で初の防衛大臣になったフィンランドの元大臣や国連特使、国連PKOの元司令官などの方たちが座っています。

私は「オブザーバー」という立場での参加がゆるされたのです。この研修を受けるには1~2周りも年齢も若いけれども経歴が買われ、正式に「話す」権利はないけれども、研修にいてもいいよという訳でした。

 

さて、この研修は、Senior Misson Leaders Trainingと呼ばれ、国連の平和維持活動を指揮する国連事務総長代表候補者を養成するという目的でした。

参加者としては、各国から推薦された軍人や警察のトップ、ニューヨークやアフリカやアジアなどで現地のトップを勤める国連の幹部などの人たちが揃っていました。

彼らは、国を代表している立場であり、この研修で推薦され国連外交で主要ポストにつくことが目的なので、すべての講義や課題が評価の対象となるのでかなり真剣です。

 

私は「オブザーバー」という立場での参加だったので、正式に発言することはできません。

前線で活躍してきた講師陣の生のリーダーシップについての体験を聞ける機会がありながら、課題をしたり発言をするプレッシャーから解放されているのですから、ある意味とても理想的なシチュエーションだったかも知れません。

米軍が作っただけあって課題はけっこう本格的で、内容が面白かったので、正式には何の評価にもならなかったけれども、資料は読んだし、私だったら答えはこうかなあと課題にも取り組んでました。

 

その様子があまりに熱心に映ったのか、初めの1週間が過ぎてから、特使がパネルのメンバーとして参加して欲しいと言ってくれました。

「えっ?でも、私『オブザーバー』だし、みなさんそれぞれの国のトップのような方たちですけど。。。」

断わるのはあまり得意ではなく、せっかくのチャンスだし、除隊兵士の武装解除・社会復帰支援(DDR)という分野での南スーダンでの体験は私しか喋れる人が他にいなかったので、引き受けることになりました。

 

私にふられた質問は一つ。話した時間は3分くらいでしょうか。

 

そこからの展開には自分でも自分で驚きました。

その5分後、私は国連特使から他の国の軍隊に国連の平和維持活動についてトレーニングをするプログラムの講師にスカウトされたのです。

 

そして、自分の心境の変化にもっとびっくりしていました。

関わり方は違っても、また世界の紛争や国連のPKOという現象に向き合ってみよう、と。

 

少しづつ気力が戻っていたのを感じました。

 

何かに向き合うことーそれは、自分に力を取り戻してくれるんだと、この研修に参加することで体験したように思います。

大仲千華 経歴

2001-2002年 国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)選挙担当官

2002-2003年 国際協力事業団(JICA)準客員研究員

2003-2004年 UNESCO 中央アジア事務所 社会科学・人権担当官

2004-2006年 国連ニューヨーク本部 PKO局 DDR 担当官

2007-2008年 国連平和維持活動スーダンミッション(UNMIS)DDR 担当官

2009-2011年 国連開発計画(UNDP)南スーダン事務所 社会復帰支援専門家

2012-2013年 米国政府 海軍大学院 Center for Civil-Military Relations, Global Peace Operations Initiative(GPOI)専門家

英国 オックスフォード大学より全額奨学金を授与され修士号(MSc Social Anthropology)を修了 (New Century Scholar)。


IMG_2752

476231_152658588238516_447504132_o

IMG_2968

マイストーリー⑨あなたは私たちが「可哀想」だから来たのか?

私は、赴任先の南スーダンで今までにないチャレンジに直面していました。

除隊兵士の社会復帰の支援という仕事 ー この長いプロセスのための作業は山積み。仕事をこなしながら、現役の軍人から政府の高官からシスターなどいろいろな人とも関係を築かないといけない。

私は身体が強いわけではないし、体力があるわけでもない。みかけは華奢な体つき。

このままではいくらやっても燃え尽きるのは時間の問題。

さて、私がやることは何だろう???

私の南スーダンでの仕事の一つに、和平合意が守られているかどうか当事者同士で確認するための定期会合にに文民の一員として参加するというものがありました。

世界の中でも最も争いの根が深い紛争の一つとされた南スーダンでは、和平合意が結ばれた後、和平合意が結ばれ守られるためにいろいろな仕組みがありました。その一つが、国連が第三者として中立の場所を提供し、定期的に和平合意を結んだ人たち本人が定期的に集ってもらうことでした。

その定期会合は、一万2千人強の国連軍を指揮するForce Commanderと呼ばれる軍人のトップ(General=大将レベル)が議長を務める国連の役割の中でも最も重要なものの一つで、かなりの緊張を強いられる会合でした。なぜなら、お互いが不信をぶつけあうからです。

「こんなことが起きた (怒り)」

「これは和平合意違反じゃないのか!(怒り)」

特に「南スーダン人民解放戦線 (SPLA)」側の激怒です。

彼らは40年も続いたスーダンの内戦の中で、「反政府勢力」、ある時期においては「テロリスト」と呼ばれた人たちです。

一旦彼らが発言を始めると彼らの怒りが止まらないのです。

自分たちの地域だけ学校も病院もない、南スーダン出身という理由だけで公務員試験さえ受けられない、「野蛮人」と呼ばれてきた等の歴史的背景。

今はかろうじて停戦しているものの、独立はおろか、また紛争が再会するのではないか等、彼らの怒りと不信には根深いものがありました。

一方通行な発言と怒りとフラストレーションの応酬が続くことも多く、時には答えの見えないまま、何時間もそれを聞き続けます。

その会議にいるだけで疲れるという人がいる一方で、私はその会合はその場にいる全員にとって大きな機会だと思いました。

 

なんで彼らはあんなことを言うんだろう?

彼らの本当のメッセージは何だろう?

私(たち)は何をすればいいんだろう?

 

何回も会議を重ね、何時間も彼らの怒りを聴いてようやく気づいたことがありました。

彼らの本当のメッセージはこうなんじゃないか?

 

「あなた達はどこかで『なぜこの人たちは殺し合いを続けるのだろう?』

そして『何時間も怒り続けるんだろう?』と他人事のように思っている。

あたかも『私たちはこんなことはしない』と見下されているようだ」と。

 

彼らの経験がそうさせるのか、彼らは敏感にその場の「力」を感じ取ります。

国籍、経済レベル、肌の色、性別、教育、組織、役職といった「力」が圧倒的に強い人が、その自覚なしに、『怒りをおさえて冷静になりましょう』とも言おうものなら、それ自体も暴力だと言わんとばかり、彼らはさらに怒り続けるのです。

CJMC 110407 014

 

それは、正式な会議を離れた時でも、一対一の関係でも同じでした。

彼らは敏感です。

 

 

「あなたは『正しく』て私たちは『間違ってる』と言いにきたのか?

私たちが『可哀想な助けが必要な人たち』だからあなたは来たのか?」

 

 

こちらが国連の肩書きを持っていようがそんなものだけでは関係は成り立ちません。

私自身、表現は違ったけれども、似たようなことを言われたことがありました。

 

 

同時に、「抑圧される側」は「怒りの中毒」にはまる傾向があることにも気づきました。

彼ら自身、怒りはじめたらそれをなかなか納めることができないのです。

 

そんな時には、一旦ランチ休憩になります。

ランチはケニア軍、中国軍、インド軍などなど国連軍が持ち回りで用意するのですが、

「さすがインドのカレーは美味しいよね」と

スーダン軍とスーダン解放戦線と一緒に同じテーブルを囲み、おしゃべりしている時の彼らは当たり前ながら一人の人間でした。

(ところで、一緒にご飯を食べることの「紛争解決力」は大きいと思います。)

 

 

そして、次の日はヘリコプターに乗って彼らの言い分を確かめに実際に「現場検証」に行きます。

一緒に現場に行く先で、「会合で取り上げられていたことはこうでしたが、実際に起きていることはこうでした」と一つ一つ確認をするのです。

 

DSC01130

 

 

IMG_8105

 

現場についたら、指摘されていた駐屯地での兵士の数が合意の範囲内であるかどうかを確認します。これを実際に数えるのはミリタリーオブザーバーという軍人の人です。

 

May 2007 024

 

会合で何度も顔を合わせている内に、徐々に彼らと信頼関係が生まれてきました。

ヘリコプターに乗って一緒に「現場」に行く先でも、個人レベルでは敵同士でも信頼が生まれるのを見ました。

May 2007 019

Wau Nov 2007 017

⬆️ スーダン軍とスーダン解放戦線の「敵」同士の人たちが一緒に座っているところ

 

ー お互いの言い分を判断なく聞くこと

ー どちらかが怒りだすことなども含めてそこで起きているダイナミックスをただ理解すること

ー 中立の「場を保つ」こと

 

これは仲裁 (mediation)と呼ばれます。

 

一見、何もしてないような「もどかしい」状況に見えながら、仲裁の効果というのは思っている以上に大きいんじゃないか?

 

和平合意の定期会合のようにフォーマルなものだけでなく、実際には、一緒にご飯を食べることや、一見ただ雑談をしているようでありながら「聴く力」を発揮している場合も含めてです。

 

そして、そういう場があること、そういう人が一人でも多くいることが大切なんじゃないか?

 

それなのに南スーダン政府には、コミュニケーションに関する研修がまったくないことに気づきました。私はさっそく南スーダン政府にコミュニケーション能力に関する研修を提案し、講師を勤めた研修が終わると、政府の人は言いました。

 

「もっと早くコミュニケーションを学んでおけばよかった。これこそ南スーダンが必要なものだ」と。

そして、私は多国籍チームのリーダーに抜擢され、チームメンバーや同僚の言うことに耳を傾け、地元の知事や大佐、敵対する人達同士が言うことにも耳を傾けました。「聴く」ことーその力とそれ自体私の大きな強みであることを発見していきました。

 

争いのある環境だからこそ、人は理解されることを切実に求めているんじゃないか?

 

紛争地では課題が山のようにあるように見えます。

何か大きなことをしないといけないんじゃないかと私は思っていました。

確かに課題は山済みかも知れないけれども、

 

本当の意味で目の前の人のことを「聴く」こと

ー目に見えない一見小さいなことだけれども、その力こそ今世界で求められていることじゃないか?そう実感した南スーダンの体験でした。

マイストーリー① 日本語が入らない?!羽田発一番長い路線で着いた島で

マイストーリー①日本語が入らない?! 台湾のそばの島で

それは私が6歳の時の体験でした。

テレビをつけるもののNHKしか映らない(しかもよく乱れる)。。。

ラジオをつけるも英語か中国語の方がはっきり入る。

海辺を歩けば、台湾側のビーチには中国語の漂流物がいっぱい(台湾がすぐそこだから)。。。

台風がやってきて丸3日間停電。。。(それまで停電など体験したことがありません。。しかも3日間も!)

 

それなのに、誰も動じた様子もなく、叔母たちが淡々とろうそくで食事の準備してくれます。

 

お店は全部で3件。いつものお気に入りのお菓子はまったく見つからない。

みんな私には「標準語」で話してくれるけれども、島の人同士が話している言葉はさっぱり分からない。。。

 

うーん?!

お母さんは海のきれいなおばあちゃんの島で遊びたい?って私に聞いてきたけど、「外国」に行きたい?って聞かなかったよなあ。。。

 

海辺を歩きながら、子供ながらにこう思いました。

 

国境なんてしょせん人が作ったものなんだ

 

それは私が6歳の時の体験でした。

 

小浜島道

 

そして、島の人達が大変身する島の祭事。

いつも見かける叔父さん達が、突然「きりっと」笛や太鼓、さんしんの名手に変身し、丸3日間、島の人は神に豊作を感謝するために踊りと歌を捧げます。

かっこいい!!!

だから、この島の子供達の憧れは三線か笛か太鼓、それから踊りが上手い人。

台風が来たらすべてが寸断される環境において、こうした「祭事」は、一人ではけっして生きれない島で生まれた「生き抜く知恵」

 

あまりにカッコよくて、

そして子どもながら感じた荘厳な雰囲気に、

大人になったら私も踊りたい!

東京での生活とは全く違う次元での生活や文化というのがあるんだ。

もっといろんな文化や国をみて見たい!

ともかくそう思いました。

 

小浜島は、東京から那覇まで飛行機に乗り、さらに那覇からは、南西航空というプロペラ機(当時)に乗って石垣島へ行き、さらにフェリーに乗ります。

ちなみに、東京ー石垣間は1950キロで、東京ー上海よりも長い羽田発の一番長い路線だそうです。

この小浜島での体験は、強烈な「異文化体験」を私の心に残し、私の外の世界への興味を一気に開いてくれたのでした。

マイストーリー②はじめての外国人の友達