相手に罪悪感を抱かせる、無言で威嚇、被害者になる、無知や混乱をよそおう相手をコントロールしたい「羊の顔をまとうオオカミ」という人たち

誰かのなんらかの行為をやめさせたいとして、相手に罰を与えることはどこまで効果があるのか?

人は批判されたり、なんらかの強制を受け続けるとどうなるのか?

罰は相手の行動を変えることができるのか?

 

前回は、

力で人に言うことことを聞かせようとするのは可能なのか?親に強制される子どもはどう反応するのか

 

という記事の中で、親からなんらかのコントロールや強制を受ける子供がとる「反応」について紹介しました。

 

人に罰を与えるという考え方は、人はなんらかの過ちを犯したときや批判やなんらかの社会的な制裁を受けたら、罪悪感やうしろめたさ、羞恥心を抱くものである、よって行動をあらためるものだ、という前提がありました。

 

しかし、最近では、こうした従来の精神分析の理解では説明不足である、という考えがより一般的になっています。

 

むしろ、大きく騒いだり、または、騒動を起こすほど注目されるといった側面を本人が望んでいるから、と言われています。

 

例えば、なぜ普通の若者が次々とイスラム国に参加することになったのか?という点において、ヨーロッパ社会におけるイスラム系住民に対する有形無形の差別や孤立、言語や仕事の壁、ヨーロッパで移民として馴染めなかったからという大きな社会背景があるにせよ、

 

「注目されたい」「パワーを得たい」「何モノかになりたい」といった面は動機としてかなり強かったのではないか?ということが指摘されています。

 

私自身も国連のPKOで南スーダンで元兵士の社会統合支援にかかわっていた時にこの点を実感したことがあります。

 

武装解除と元兵士の社会統合の支援は、まず生計をたてる手段を確保することのサポートにフォーカスしますが、兵士をやめたくないという人たちが少なからずいたのです。

 

そうした人たちと話しをして気づいたのは、そうした人たちにとっては、たとえ生計を得る手段を与ることができたとしても、それよりも、兵士として得られる「パワー」や「プライド」の方が断然に大きい、ということでした。

 

南スーダンの内戦の場合、「植民地解放」(アフリカ最後の「植民地」解放と呼ばれた)と「独立闘争」として始まったので、そうしたことに関わってきたことの「プライド」という側面は確かにあると思います。

 

同時に、この場合のプライドには、地位、尊敬、注目も含まれます。

そして、銃を持ち相手を従わせる力といったパワーも含まれます。

こうした側面が人間の決定におよぼす影響はおそらくかなり大きいのです。

 

これは、南スーダンの例ですが、人間にはある程度誰でも「パワー」や「支配」「注目」を得たいという欲求がありますし、そうした行為は実際日常的にみられます。

 

同時に、私たちが日常的に気付いていないところで、目にしたり、体験しているかもしれないのは、おそらく「コントロール」や心理的な「マニピュレーション(操作)」です。

 

マニピュレーション(操作)とは、相手を無視をしたり、心理的に罪悪感をもたせるなどなんらかの心理的なかけひきをすることによって、相手を自分の意のとおりにコントロールしようとすることを指します。

 

かわいい例から始めると、子どもがだだをこねて親におもちゃを買ってもらおうとすることだったり、または、もっと巧妙になってくると、「まともな親ならこんなことはしない」と言って相手に罪悪感を抱かせようとしたり、無言で威嚇をしたり、自分がいかに被害を受けたのかを強調したり、無知や混乱をよそおったり、相手の弱みをついたり、自信を失わせようとすることをわざと言ったりする場合など、です。

 

ブラック企業が内情をばらされないように心理的な脅しをおこなうこと、職場での足の引っ張り合い、女性が泣いて男性に罪悪感をもたせようとすることなども当てはまるでしょう。

 

人間は誰でもなんらかの「攻撃性」を持っている存在である、という前提で、人間のもっている「力」を持ちたい欲求、人はどうやって「攻撃」をしかけてくるのか、相手とのかけひきに対して、どのようにして自分を守っていけばいいのか、を理解することが大切だと説くのは、臨床心理学者のジョージサイモンです。

 

ジョージサイモンは以下のような行為を操作の例として挙げています。

 

はぐらかす

問題をすり替える

大事なことを伝えない(事の真相を秘密にしておく)

相手の羞恥心を刺激する

被害者を演じる

人をそそのかす

人のせいにする

無視する

無知・混乱を装う

相手に怒りをぶつけてコントロールする

脅す

「あなたの心を操る隣人たち:忍び寄る『マニピュレーター』の見分け方、対処法」p.154-180より

 

いずれも間接的に相手を自分の意のとおりに従わせようとすることです。

 

相手があからさまに敵対的な態度をとる場合もあるかも知れませんが、「操作」と呼ばれるこうした行為の特徴は、「なんか違和感があるけど自分が攻撃されていることに気づかない」「問題があるのはこっちの方」と思わせること、です。

 

ふっっっーーー

(いったん深呼吸をして息をはきましょう)

 

書いていてあまり楽しいテーマではありませんが、人間にこういう面があることは事実ですよね。。。

 

そして、人がある程度キャリアを積もうとすると(特に組織において)、どこかでこうした問題に直面すると考えておいた方がいいと思います。

 

私がこのテーマについて今回書こうと思ったのは、最近ある親ごさんの相談を受けて、まさにこうした「操作」について改めて学ぶことになったこと、それを通じて過去私の足を引っ張ろうといじわる(「いじわる」なんて表現を超えていましたが)をしてきたある上司の行動パターンや作戦がより理解できたこと、

 

こうしたことが、職場での人間関係など実は日常的な関係においてひっそりと行われているかもしれないこと、南スーダンでの内戦再発といった国際情勢にも当てはまると思ったからです。

 

「人は人をいじめ得る前提で考えておきましょう」なんてけっして学校では習わないし、もちろん猜疑心や不信感を持ちすぎるものも不要です。

 

 

でも、人間はこうした面をもっていることを頭のどこかで理解しておけば、そんな時に冷静に対処できことがまったく違ってくるでしょう。

 

しかも、どちらかといったら「いい人」といったタイプの方が、こうした操作的なやり方の被害者になりやすいのです。

 

ちなみに、ジョージサイモン氏の本の中のサブタイトルは「『羊の顔をまとうオオカミ』の特徴を理解する」です!

 

 

では、こうしたマニピュレーターの作戦による被害を避けるにはどうしたらいいのでしょうか?

 

羊の顔をまとうオオカミの特徴と対処法」続く

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力で人に言うことことを聞かせようとするのは可能なのか?親に強制される子どもはどう反応するのか❓

この数日国連総会で北朝鮮が話題の中心になっています。

 

弱気な態度をみせては「相手になめられてしまう」とばかり、日本の首相まで過激な発言を繰り広げています。

 

しかし、そもそも力で人に言うことことを聞かせようとするのは可能なのでしょうか?

 

なんらかの行動をやめさせたいとして、相手に罰を与えることはどこまで効果があるのでしょうか?

人は批判されたり、なんらかの強制を受け続けるとどうなるのか?

罰は相手の行動を変えることができるのか?

 

これらの点を親と子どもの関係性を例にとって見てみたいと思います。

 

「きびしく懲罰的な力に基づく罰は、実際には子どもの攻撃性を引き起こす」と指摘する心理学者の見解として、以下の5点をを力の限界としてお伝えしました。

 

1、力は暴力の連鎖を引き起こす

 

2、人を力でコントロールするには大きな労力がかかる

 

3、おとなの罰はいずれ品切れになる

 

4、強制は抵抗や断絶、離縁など副作用が大きい

 

5、力を使うと結局は力を弱める

 

では、自分の意思に反して、子どもが親(学校、教師、権威)によってなにかを強制される時、子どもはどういう反応をするのでしょうか?

 

ゴードン博士は以下の24の反応をあげています。

 

1、抵抗する。無視する。否定する。

2、反抗する。服従しない。反発する。文句を言う。

3、復讐する。やり返す。反撃する。蛮行に走る。

4、他人を殴る。好戦的になる。戦う。理屈っぽくなる。

5、他人にいばる。いじめる。

6、かんしゃくを爆発させる。怒る。

7、競争する。勝ちたがる。負けを嫌う。他人をかっこう悪く見せる。

8、引きこもる

9、あきらめる。負けたと感じる。

10、話さない。無視する。相手が話しても沈黙する。

11、いい子、先生のお気に入りになろうとする

12、恥ずかしがる。臆病になる。新しいことを試すのを嫌がる。

13、不安に感じる。いつも承認さえることを求める。保障を求める。

14、おびえる。へつらう。ゴマをする。

15、おとなしくなる。言われたことに従う。同調する。

16、依存症になる(ネット、お酒、ネットショッピング、ワーカホリックなど)

17、ウソをつく。欺く。真実を隠す。

18、他人のせいにする。非難する。告げ口する。

19、逃げる。家へ帰らない。さぼる。退学する。

20、落ち込む。希望がないと思う。

21、病気になる。心身症になる。

22、食べ過ぎ。(過食症、)

23、群れをつくる。おとなに対抗してまとまる。

24、規則や法律を破る。

 

参考「自立心を育てるしつけ―親業・ゴードン博士

 

前回も言いましたが、ここでいう強制や力の行使は、物理的な「力」に限らず、言葉による暴力や心理的な脅しなどの「支配」や「マニピュレーション」(心理的な脅しなどの操作)も含まれます。

 

例えば、「いじめ」はこうした攻撃性の連鎖の一つとしても捉えることができます。

攻撃された方は、自分よりも弱い対象を探し、気分を晴らしたい(自分よりも弱い対象を探して自分の力を確認したい)という構図があるからです。

 

上のリストを読まれて気づいた方もいると思いますが、力の行使による副作用はわかりやすい「反撃」に限りません。

 

リスト上の方が物理的な反応を書いてあるのに対して、8番からは、心理的な反抗という側面が強くなってきます。

日本では、少年の犯罪行為が厳しい親のしつけに対する反抗であることがよく言われるように、過度な期待や過干渉なども含まれます。

 

アメリカだど、薬物依存や犯罪行為に結びつきやすくなるのでしょうが、日本の場合には、そうした分かりやすい反抗というよりも、忘れものが多くなる、ミスが多くなる、あきらめ、引きこもり、無気力といった形で出る方が多いのだと思います。

 

学校という公的な制度が、上から下に一方的に「答え」を伝えるという前提を植え付けていること、東京一極集中型経済&大企業主義、「本音と建前の社会」なども関係しているかも知れません。

 

親と子どもの関係は、その人の権威一般や社会との関係性にも現れることがありますから、なにより「どうぜ何やっても無理」といった社会全般に対する無関心やあきらめ、無力感が日本にとっての大きな損失ではないかと個人的には感じます。

 

人間は誰でもなんらかの「攻撃性」を持っている存在である、という前提で、人間のもっている「力」を持ちたい欲求、人はどうやって「攻撃」をしかけてくるのか、相手とのかけひきにはどのようにして対応して自分を守っていけばいいのか、

 

を理解することが大切だと説くのは、臨床心理学者のジョージサイモンです。

 

続く

国連での勤務の1年目、苦い体験を通して学んだ本当の議論のためのルール

自分がある出来事についてどう思っているかは、自分が決めればいい、というお話しをしました。

 

でも、みんながそれそれ違う意見を持ったらどうなるの?

という漠然とした疑問というか、不安を持つ人もいるようです。

 

 

それは、

日本では、

議論のルールというものを習ったことがない

議論というものをしたことがない

または、本当に違う意見を交わしてより理解が深まったという体験したことがない、

または意見はトップダウンで決められるものでただ従えばよい、

答えは「上」から与えられるもの

という権威主義的なやり方を当たり前とする文化や経験の問題だと思います。

 

 

でも、自分の意見を言わないことは、

相手を尊重していることにはならないし、

本当の関係を築くことにならないのも事実です。

 

そして自分の意見を持つことを止めるものに、いろんな誤解が理由としてあるようですが、

 

その一つは、人の意見と人格を同一視してしまうというものです。

 

 

私はその誤解を国連での勤務の1年目、苦い体験を通して学びました。

 

国連勤務の1年目初めての赴任地東ティモールでの出来事でした。

 

初めて、オーストラリアのダーウィンから初めて国連機というものに乗って東ティモールの首都、ディリに向かった日のことは今でも覚えています。

 

一緒に働くことになったのは、

チリ生まれのオーストラリア人、パキスタン人、イギリス生まれのパキスタン人、カメルーン生まれのドイツ人、オーストラリア警察から出向中のオーストラリア人の女性と日本人のわたしでした。

 

さて、チリ生まれのオーストラリア人はチリ人っぽいのか、それともオーストラリア人っぽいのか?

国籍を聞いただけではこの人たちはどんな人たちなのかさっぱり分かりません。

 

さて、始めての会議。

 

その中でチームリーダーに選ばれた一回り年上のパキスタン人の同僚の口からは、ショックな言葉が続きました。

「女は仕事ができない。」

そして、男性には挨拶をして、女性は無視するかのような態度。

 

オーストラリア警察から出向していた女性と私は顔を見合わせてまず怒りました。

そして、悩みました。

 

結論から先にいうと、そんな言動が続き、本部からヒアリングと事実確認、調停を担当する人が派遣されてきました。

 

その調停人の方は、まず双方の言い分を聞き、事実確認をするための質問をいくつかしました。

私は事前に書面で伝えていたことと同じことを伝えました。

 

そして、何回かそのようなやり取りが続きた後、

途中「だからこの人は何もわかってない!」と

私の方がカッとなってしまいました。

 

私がよく覚えているのは、その時の調停人の言葉です。

 

彼は落ち着いた口調でこう言いました。

「事実と人格を分けてください。」

「ここで聞いているのは(確認をしている)のは事実関係です。

何があったのかという「事実」だけを述べてください。

相手のパーソナリティーに言及することは慎んでください。」

 

私は、その瞬間にハッ!と気づいて本当にその通りだと思ったのです。

 

「「事実」だけを述べてください」とは、日本人の感覚からするともしかしたら冷たい印象を与えるのかも知れません。

でも、その時に私はすごく解放された気がしたのです。

 

 

この人はイスラム圏で生まれ、おそらくこれまで女性と働いたことがなかったんだろう。

そういう文化背景で、おそらくそういう考え(女性は仕事はできない)を持つようになって、

ただそれだけなのだ、と。

 

 

そういうことを平然と言い続ける人と一緒に働くのは決して心地よかったわけじゃないけど、

私個人に向けられたものではなかった、と。

 

 

私たちは、自分とまったく違う意見と持っている人に会ったり、自分の意見が否定されたりすると、あたかも自分という個人が否定された、と感じがちです。

 

相手の意見と人格をごちゃまぜにしてしまいがちです。

 

でも、その人の意見は世界の72億あるうちのたった一つの意見であって、

 

自分にとって真実でもなければ、同意する必要もないし、

その人の意見個人的に捉える必要はまったくないのです。

 

最近続けて職場でハラスメントを受けている・受けていたという相談を受けていますが、

それを聞く中でも、そこにショックや傷ついた体験がごちゃまぜになっていることが多いのを感じます。

 

まず、事実と感情を分けること、

事実と人格を分けることが大切です。

 

すると、事実関係が自然に整理されていきます。

 

 

《まとめ》

事実と感情をわける

意見と人格を分ける

事実を淡々と整理する

人の意見が自分の意見と違うからといって、それは個人的に嫌われたとか、尊重されていないとは違う

もしそういう感情や感覚があるとしたら、それは本当にそうなのか確認すること。

国連のトップのトップ研修では答えではなく理由を聞かれる。

さて、この数日間、オックスフォード大学で行われるチュートリアルと呼ばれる一対一の個人指導の体験を例に、答えは一つではないこと、をお伝えしてきました。

 

これを読んでいるみなさんの中には、でもそれは学校という場だから成り立つんだろう、と思う人もいるかも知れません。

 

では、国連での研修を例にとって、「答えは一つではない」ということがどのように捉えられ、実践されているのかお伝えしたいと思います。

 

私は国連事務総長特別代表候補者養成研修(Senior Mission Leaders’s Training)というものに参加したことがあります。

 

これは、国連事務総長の代表として紛争地の最前線で国連のPKO活動を指揮する国連のトップのトップを養成する研修です。

 

国連事務総長特別代表とは、閣僚経験者などが任命されることも多く、この研修に参加できる人は各国から推薦された警察や軍隊のトップ、国連で働く人の中でも参加できるのはほんのわずかです。

 

そんな私が30代半ばにして参加できたのは、南スーダンなどでの経験や経歴が評価され、「オブザーバー」という正式に参加する(選抜される)権利はないけれども、研修には参加してもいいという機会をいただいたからでした。

 

さて、そんな研修ですから講師陣には経験豊富な方々が並んでいました。

 

女性で世界で初めての防衛大臣になったフィンランドの元大臣、内戦中の軍隊と交渉を担ってきたある国連特使、元国連事務総長特別代表、そして、紛争地で一万人以上の国連軍を指揮してきた元司令官など、経験豊富な方々が並んでいました。

 

参加者の人たちの多くは、国を代表している立場であり、「国連事務総長特別代表」として任命され、その国の外交プレゼンスを上げることが目的なのでかなり真剣でした。しかも、2週間も続く研修では、10センチ近い資料も渡されました。

 

私と言えば、紛争地の最前線で指揮をとってきた方々から直接体験談を聞ける機会がありながら、課題をこなしたり発言をするプレッシャーから解放されているのですから、ある意味とても理想的なシチュエーションだったかも知れません。

 

米軍が作っただけあって課題はけっこう本格的で、内容が面白かったので、正式には何の評価にもならなかったけれども、資料は読んだし、私だったら答えはこうかなあと課題にも取り組んでました。

 

さて、そんな機会に恵まれた私が興味を持ったのは、研修の内容や講師の方々の体験談もそうでしたが、この研修がいったいどのように評価されているのか?という点でした。

 

研修は、講義と演習の組み合わせで構成されていました。

 

演習では、毎日渡される課題に対して、仮想国のトップとして自分ならどう判断するのか、という意思決定の過程を学んでいくものでした。

 

その演習の策定には、米軍も関わっているというだけあって、シナリオは世界各地の事例が集約されたような本格的な内容でした。

 

事例には、例えばこのようなケースがありました。

 

ーある勢力間で武力衝突が起こる可能性が高いという情報を受け取った。国連はどう対処をするすべきか?

 

ー国の北部で部族間衝突がおきた。隣国が国境を封鎖し、避難民が足止めされることになった。国連がとる手段は何か?

 

ー国の東部と北部でそれぞれ避難民が発生した。水と食料を必要としているが、現在確保されている輸送能力と人員では全ての人に配給することはできない。次の物資補給までには少なくとも3~5日がかかる。今ある資源を何に使いどこに向けるべきか?

 

ー来週ある大規模なデモが予定されている。そのデモが国連事務所へ向かう可能性がある。国連はどう対応するべきか?

 

ー過去に民族衝突が起きたことのある地域住民から弾圧の恐れがあるという訴えを受け、保護を求められた。国連はその要請を受け入れるべきかどうか?

 

ちなみに、ここで挙げられた例は、多少形こそ違えど、私が働いてきた国でも体験してきたことでした。

 

私は、こうした課題をする必要はありませんでしたが、あまりにリアルな課題だったので、

 

その事例に触れただけで、すっかり目が覚めてしまいました。

 

私の頭は急回転し始めました。

 

さて、

 

いったい何が「答え」なんだろうか?

そもそも「答え」などあるんだろうか?

講師の人たちは何と答えるんだろう?

 

そして研修は、参加者が事例に取り組む時間が与えられた後で、講師の人たちから意見を求められたり、質問が投げかけられる、といった形で進んでいきました。

 

そして、それぞれの参加者の意見や回答に対して、そこで鍵となる点に対して、それぞれの講師の人たちから体験談やコメントがシェアされました。

 

それぞれの方の体験談自体もとても興味深かったのですが、個人的に面白いと思ったのは、たった一つの「答え」もなければ、その場にいた講師の人たち全員が用意した「共通の回答」があった訳でもなかったことでした。

 

そして、面白かったのは、参加者と講師陣との間のやり取りでした。

 

講師の人達から参加者の人たちに繰り返し投げかけられていた質問はこのようなものでした。

 

なんでそう思ったのですか?

それはどういう意味ですか?

こういう可能性についてはどう思いますか?

 

あなたは、「なぜそう考えたのか」という根拠と思考プロセスを確認するという作業でした。

 

そして、「こういう可能性についてはどう思いますか?」という議論から漏れていた視点についての問いかけがあったり、思考を広げるような別の視点が投げかけられることがありました。

 

ここでも質問されていたのは、オックスフォードのチュートリアルとまったく同じ趣旨の質問でした。

 

つまり、何か決まった「回答」がある訳ではなく、ここでも問われていたのは、あなたはなぜその結論にいたったのか?という意思決定にいたるまでの思考プロセスでした。

 

国連のトップのトップ研修が教えてくれるように、課題が難しいからこそ、決まった「答え」ではなくその考えにいたるまでのプロセスを鍛えていくのです。

国際機関応募書類の添削サービスについて

国連の応募書類の添削について問い合わせがありましたのでお知らせいたします。

 

添削にあたり、整理する点は以下の項目です。

 

どんな職種を目指すのか?

どの職種に応募するのか?

これまでどんな経歴を経てきて、どんな職種に応募して、その職種ではどんな経歴が重視されるか?

 

その上で、応募する職種に関連して、どんな経歴があるか、どんな点を強調して、どのような表現にするか(どのように魅せるか)?の対策を考えることになります。

 

基本的には、私は一緒にこうした点を考えていくサポートをします。

 

なので、私が「添削」するわけではありません。

適切な表現になっているかなどは簡単にレビューのお手伝いはいたします。

 

一緒に話しながら進めていくスタイルなので、コーチングセッションと同じ料金(初回90分15,000円、二回目以降60分18,000円、90分22,000円、それぞれプラス消費税)になります。

 

こうした点が現時点でどれ位整理されているか、にもよりますが、2〜3回あるとまとまると思います。

 

手順としては最初にp.11または英文履歴書とカバーレターを送っていただき、それに基づいてフィードバックするという形になります。

 

お気軽にお問い合わせください。

 

 

オックスフォードで学んだ「一流」とは悔しい思いをたくさんした人ーみんな何者かになりたくて悩みもがく日々

「考える力」という視点から最近、オックスフォードで勉強してきたことを書いています。

 

オックスフォードで勉強したのは、私にとってはもう随分と前のことですが、改めて書いてみると、「一流」ってどういうことなのか?何がどう一流なのか?

 

それをどう日常的なことに応用できるのか?という視点で振り返るいい機会になっています。

 

今日のテーマは、何が「一流」を「一流」にたらしめているのか?です。

 

オックスフォードやハーバードと聞くと、どんなイメージでしょうか?

 

きっとみんな自信満々の天才なんだろう、と思いますか?

 

頭脳明晰で自信に満ち溢れた人たちを想像するかも知れません。

 

でも、私の知っている等身大のオックスフォード大の学生たちはそうではありませんでした。

 

 

むしろ、私も含め、みんな何者かになりたくて悩み、もがいていました。

 

そして、自分の能力の限界や無力感に打ちひしがれていました。

 

なぜなら、できる人たちが一杯いるからです。

 

ちょっと努力しただけではとてもかないそうもないことをすぐに発見するからです。

 

 

これまでの環境では、自分はある程度できる人だったかも知れないけれども、オックスフォードに入ったらそれは当たり前になります。

 

そして、自分にはできないことを簡単にやってしまう人たちがいるのをまさに目の当たりにします。

 

入学してまず私がびっくりしたのは、クラスメートの経験でした。

 

 

私が学んだ人類学部は、学問の内容から旧植民地出身の人たちが多く、オックスフォードのなかでも特に多様性の高い学部の1つでした。

 

2015年度の留学生の出身国は約140ヵ国・地域にものぼり、大学院では62%を留学生が占めています。

 

クラスメートの出身国はフランス、アメリカ、エジプト、トルコ、南アフリカ、ジンバブエ、マリ、パキスタン、インドなど本当に多種多様でした。

 

私がチュートリアルのペアを組んだ女性は、インド系3世の南アフリカ人でした。1994年にアパルトヘイトが終わって、ようやく英国で学ぶ機会を得たのだそうです。

 

当時はまだ、アパルトヘイトが終わって数年しか経っていない時期で、彼女は母国の現状を次のように話してくれました。

 

「マンデラ大統領は、黒人と白人の間で衝突が起きてもおかしくなった状況の中で国を一つにまとめるという偉業を成し遂げてくれた。ただ、私の国では人種の断絶や暴力の種がまだまだ大きいの。南アフリカの未来はこれからよ。」

 

 

パキスタン出身でジャーナリストの女性は、長年パキスタンの女性の地位について関わり、研究してきました。

 

オックスフォードでは、婚前交渉・婚外交渉を行った女性は家族全体に不名誉をもたらすという理由で、家族の名誉を守るために女性が殺される慣習(オナーキリング=honor killing)をテーマにしていました。

 

 

さすがに、奨学金をもらえないと留学できないという国から選ばれただけあって、みんな優秀で賢明なだけでなく、とても勇気のある人たちばかりでした。

 

日本ではほとんど聞いたことがなかったようなリアルな「世界」が、クラスメートの口から次から次へと語られることに私は圧倒されました。

 

 

そして、そんな彼らの姿に触れると、私はそんな問題に直面することもなくぬるま湯につかっ過ごしてきた世間知らずの日本人のようにさえ感じました。

 

 

そして、そんな彼らの姿に触れることで、「じゃあ、あなたは何をしたいの?」という常に問われているように感じたものでした。

 

こんな大きな問題に私ができることことなんていったいあるんだろうか???

 

民族紛争について研究したいと思っていたのに、彼女たちのように自信をもって答えられない自分がいました。

 

自分の能力の限界と同時に、無力感さえ感じたことは一度や二度ではありません。

 

オックスフォードやハーバードの学生と聞くと、頭脳明晰で自信に満ち溢れた姿を想像するかも知れません。

 

でも、人が自分の専門分野やなんらかのテーマを追求していく過程では、誰もがなんらかの形で自分の限界や無力感を感じるのではないかと思います。

 

ただ、今になって振り返ると、こうしたプロセスこそが、私が後に国連や米軍で働くために必要な土台をつくってくれたとわかるのです。

 

他の人にかなわないことを痛感してこそ、または、限界や無力感を感じるからこそ、自分にしかできない分野やテーマを探すようになるからです。

 

自分にできないことが分かって自分にできることを必死に求めるからです。

 

そして、自分の限界や無力感に触れると、「表面的な理由」や「にせものの理由」がはぎ落とされていきます。

 

「なぜあなたはそのテーマに興味があるのか?」「それでもあなたはやりたいのか?」と問われ続けても、イエス!と言えることだけが残るからです。

 

私は、オックスフォードといった一流が集う環境に身を置く一番の価値はまさにここにあると思っています。

 

本当に悔しかった。何度も泣きそうにもなった。

 

それでも、誰かに当時の体験を取り上げるよ、と言われたら私はきっと必死になって抵抗するでしょう。だって、そんな体験を通じて自分を発見し、自分を知るのだから。

 

一流とは一部の才能に恵まれた人ではありません。

 

一流とは、悔しい思いをたくさんした人なのです。

 

そういう意味では、自分の弱みも強みもわからない人というのは、ぬるま湯に浸かったままなのかも知れません。

 

 

そして、私はそんなオックスフォードでの一年間を経て、ある思いがさらに強くなっているのに気がつきました。

 

 

人類学という視点が民族紛争の解決に役に立つことは確信した。

では現場ではどんなことが議論されていてどう扱われているのだろうか?

南スーダンの部族について書かれた民族誌についてはたくさん読んだけれども、今現在南スーダンで起きていることが知りたい!

今の世界で起きていることに関わりたい!!!と。

 

 

一流との交わりは、自分の奥深くにある思いを揺さぶるのです。

 

 

その後、4年間も南スーダンで働くことになるとは全く想像もしてみなかったのでした。

マークザッカーバーグのハーバード卒業式スピーチに何度も出てくる単語「Purpose」ーこれこそ日本の問題を解決する鍵だ!

 

Facebook創始者マークザッカーバーグのハーバード大学の卒業式で行ったスピーチが話題になっていますね。

 

スピーチでは、初めての授業に行くのにシャツを逆に着てたことや、「僕のハーバードでの最高の思い出は、プリシラ(・チャン。ザッカーバーグの奥さん)に会ったことです。」など今の奥さんに会ったことなどパーソナルなエピソードも出てきます。

 

 

そんなトーンで始まるスピーチですが、Facebookが大きくなるに従って、買収したいというオファーがあった時、そして同僚たちに反対意見にあった時会社を売るかどうかという大きなプレッシャーの中でも、彼にはある自分の判断基準があったと言います。

 

それを示すある単語がスピーチで何度も何度も出てきました。

 

 

そして、それこそが今の閉塞感を抱える日本にこそ必要なものだと思います。

 

 

それは「Purpose」、または「a sense of purpose」という単語です。

 

 

 

このスピーチの日本語役はいくつかでていますが、日本語では、目的意識や存在意義と訳されているようです。

 

さて、以下スピーチの引用です。

 

 

今日、僕は「目的」について話します。しかし「あなたの人生の目的を見つけなさい的なよくある卒業式スピーチ」をしたいわけではありません。僕らはミレニアル世代なんだから、そんなことは本能的にやっているはずです。

 

 

だからそうじゃなくて、今日僕が話したいことは、「自分の人生の目標を見つけるだけでは不十分だ」という話をします。僕らの世代にとっての課題は、「”誰もが”目的感を人生の中で持てる世界を創り出すこと」なのです。

 

 

「私の大好きな話があります。ケネディ大統領がNASA宇宙センターを訪問したとき、ほうきを持った用務員の男性を見つけて、何をしているのかと尋ねました。男性はこう答えました。『大統領、私は人類を月に運ぶ手伝いをしています』と。

 

 

目的とは、自分よりも大きいものの一部であるという感覚です。必要とされている、取り組むべきより良いものに携わっているという感覚です。目的こそが、真の幸福をつくります。

 

 

そして、自身の目的を持つだけでは不十分です。他の人のためにも目的意識を生まなければなりません。

 

 

私はそれを厳しい体験から学びました。私がやりたかったのは、会社を築くことではなく、インパクトを与えることでした。 たくさんの人たちが参加してきましたが、数年後、複数の大手企業が買収したいと言ってきました。

 

 

Facebookを率いるうえで、最も厳しい時期でした。孤独に感じました。 悩みました。

 

 

今、数年が経ちますが、より高い目的意識がないとこうなるのだと思っています。

 

 

みなさんは、このことが特に重要な時代に卒業しようとしています。両親が卒業したとき、目的意識は、仕事、教会、コミュニティから、確実に得られました。しかし今日、テクノロジーと自動化は多くの仕事を奪っています。コミュニティへの関わりは減っています。多くの人は、つながりを失い、落ち込み、人生の虚無感を埋めようと努めています。

 

 

社会を前進させるために、世代的な課題があります。新しい仕事を創造するだけではなく、新たな目的意識を創造することです。

 

 

 

目的感は仕事からのみ来るものではありません。3つめの話は、コミュニティを作ることでみんなに「目的感」を与えることができるという方法です。そして僕らミレニアル世代が「everyone」という時、それは「(アメリカ国内だけでなく)世界中のみんな」のことです。

 

 

それが正しいからだけではありません。より多くの人がその夢を偉大なことに変えることができれば、私たち皆がよくなれるからです。

 

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人間には目的が必要ー本当に本当にそうだと思います。

 

ま私たちは誰かの役に立っていることやより大きな目的がある時にこそがんばれるー

 

私は軍人に国連のPKOについて訓練する講師を務めた時に、まさにそれを目の当たりにしました。

 

日本ではあまりピンとこないかも知れませんが、国によっては、軍人こそエリートの職であったり、軍にしか就職できないという人もいます。

 

つまり、自分の選択があまりない場合です。

 

それでも、彼らが軍人として身につけてきたスキルを人を助けるために使えると知った時に、文字通り顔と目の色が変わるのを見てきました。

 

今日はある都内の中学校の「総合的な学習」で「平和と国際貢献」というテーマで私が体験してきたことをについてお話しをしてきました。

 

自分の勉強に忙しくてそんなことを考える暇はない?

自分の将来が心配で世界のことに興味がない?

 

もしかしたらそう感じるかも知れません。

 

 

それも一見もっとものように聞こえますが、世界や自分のことだけでなくより大きな世界のことに興味を持って、助かるのは本当は自分なのです。

 

 

特に、ミレニアル世代にとって意義を感じられることはとても大切なことです。

 

 

自分の勉強や仕事のことばかり考えていたらいつの間にか視野も狭まってしまうことも珍しくありません。

 

気が付いたらなんだかいつも不安や焦燥感に悩まされている、ことも簡単な時代です。

 

 

 

そんな時代だからこそ、

 

誰かの役に立っていること、

 

そして、みんなのこと(地球全体)を考えること

 

によって、いつもだったら思いつかないようなアイデアを思いついたりするかも知れません。

 

目の前のことがどう役に立っているのか、という自分だけのことではないより大きな目的を感じることができるのです。

 

ほうきを持った用務員の男性が自分の仕事を「人類を月に運ぶ手伝いをしています」と言ったようにね!^^

 

仕事の内容自体ではなく、自分の意識がどこにあるかです。

 

自分以外のものに意識を向けて、助かるのは自分なのですね!

 

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ザッカーバーグのスピーチ⇩