人生凹んだ時も順風満帆のときも沖縄の離島のおばあに学ぼうー92歳ではじめてパスポートを取ったおばあ達が海外公演をするようになったお話

東京から2000km離れた、沖縄県八重山地方の離島、小浜島。エメラルドグリーンの海に囲まれたこの小さな島には、サトウキビ畑が広がります。信号は一つもなく、道ばたでのんびりと歩いているヤギに遭遇することも珍しくありません。

 

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⬆️沖縄の原風景が残る小浜島

 

近年、この島を有名にしたのは、平均年齢84歳のアイドルグループ「KBG84(小浜【K】ばあちゃん【B】合唱団【G】の頭文字と、メンバーの平均年齢が84歳であることから命名)」です。80歳にならないとグループに入ることができず、入団式ではウェディングドレスを着て、恋バナを披露するのが慣例になっています。

 

彼女たちはすでにテイチクレコードからメジャーデビューをしていて、オリジナルソングも出しています。

 

「天国に一番近いアイドル」というキャッチコピーを掲げて活動するうちに、「信じられないほど元気なおばあちゃんたち!」とインターネット上で評判になり、「徹子の部屋」をはじめさまざまなテレビ番組にも出演。

 

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英「BBC」で取り上げられたことから海外でも注目されるようになり、高齢化に悩むシンガポールから「元気の秘訣を教えて欲しい」と招待を受け、2016年末に初の海外公演を果たします。

 

「センター」を務める92歳の仲目トミさんは「みんなに元気を届けたい」と事前に英語の勉強にも励み、長旅と公演を見事に成し遂げました。その様子はNHKでドキュメンタリーとして放送され、話題を集めました。

 

2017年にはアルゼンチンのドキュメンタリー映画制作チームが、彼女たちを撮影するために来島しています。

 

離島で聞いた「人生100年時代の楽しみ方」

 

2016年末に話題になった『ライフ・シフト 100年時代の人生戦略』(リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット著、東洋経済新報社)を読まれた方も多いかと思います。

 

この本には、人間が100年生きるこれからの時代、人生を「学校」「会社」「引退」という3つのステージで捉える前提自体が変わり、働き方や価値観がますます多様化すると書かれています。

 

今後はこの3つのほか、自分の体験や分野を広げていく時期や、自分で仕事を生み出していくステージなどが加わり、いくつものステージが同時平行で進む「人生のマルチステージ化」が加速します。そうした働き方やライフスタイルを可能にするには、土地や貯蓄などの有形資産だけでなく、「無形資産」が大きな鍵を握るといいます。

 

無形資産はモーチベーションや健康、新しい可能性にオープンになれる「変身資産」などのことを指します。著者の一人であるグラットンは、100年ライフをよりよく生きるためにも、人生を支える「資源」をより広い観点から捉え直すことが大切だと説いています。

 

この本を読んでいるとき、小浜島のおばあたちのことが頭に浮かびました。

 

彼女たちこそ、「無形の資源」を生み出しながらライフ・シフトを楽しんでいると感じたからです。

 

なぜ小さな離島のおばあたちが、海外公演までするアイドルグループになったのか?

 

──そんな素朴な疑問にお答えしながら、彼女たちの持つ知恵をもとに、ライフ・シフト時代を生きるためのヒントをご紹介したいと思います。

引きこもり防止の食事会から「アイドルグループ」が誕生!

 

小浜島の人口は、およそ600人。最寄りの石垣島から、約30分高速船に乗ります。ちなみに、東京─石垣島間は1950kmで、東京─上海間よりも距離があり、羽田発の国内線のなかでは最長距離路線だそうです。

 

小浜島は起伏のある地形なので、どこにいても海が見えます。島の周りにはサンゴ礁が広がっているので、エメラルドグリーンに光る海は本当に綺麗です。

 

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⬆️透明な海が一面に広がります。この写真は何の加工もしてません!

 

島の主な産業は、さとうきびなどの農業と畜産業。ときどき海でタコを釣るなど、普段の生活はシンプルなものです。島の中心部には、小さな商店が1軒と沖縄の原風景を残すのどかな集落があります。

 

さて、小浜島のおばあたちの一日は、「ある日課」で始まります。

 

慶田盛英子さん(88)は、まず先祖に向かって手を合わせ、自分の子供たちとその家族、孫9人、ひ孫13人の1日の無事と健康、幸せを祈ります。

 

そして、お隣りの家へ歩いて行き、「おーい、あんた、生きてるか? 一緒に東京に(合唱団の公演に)行くんだよー。まだ死んだらダメだよー」と声をかけるのだそうです。東京公演は、おばあたちの新たな目標なのです。

 

80歳を超えたおばあたちが公演することになったもともとのきっかけは、一人暮らしになったおばあたちの引きこもりを防ぐために始められた月一回の食事会でした。

 

気づいたら、島のおばあたちのほとんどは夫に先立たれて一人暮らしになり、歳も80を超えはじめていました。

 

みんなに集ろうと声をかけた花城キミさんも当時すでに80歳を超えていました(現92)。そこで「残りの人生楽しく過ごすため、何かみんなで元気になれる方法はないかねえ」という話になりました。

 

そこで、キミさんが「初恋話」を始めたところ、これがものすごく盛り上がったそう。

 

しかし、おばあたちの時代は戦争のせいで恋愛や結婚だけに心をときめかせている余裕はありませんでした。そのため「死ぬ前にウェディングドレスを着てみたい!」という声があがり、せっかくだからお化粧も華やかに着飾ってみんなで写真撮影をすることに。

 

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その日は、恋心が蘇ったように80歳のおばあたちに笑顔と元気が溢れ、みんなで「きゃっきゃっ」とすごく盛り上がったそうです。

 

これを機に「小浜島ばあちゃん合唱団」が結成され、新人メンバーの入団式にはウェディングドレスを着て、恋バナを披露するのが恒例になりました。

 

すると島内にあるリゾート施設のイベントに呼ばれようになり、初めてお客さんの前で合唱を披露したら「おばあたちの歌声を聞くと元気になる!」と大好評。毎年ステージに立つようになったそうです。

 

それ以来、島在住のシンガーソングライターつちだきくおさんが、月一回の練習をサポートしてくれることになりました。彼が半分冗談で、「東京でおばあたちが歌って踊ったらうけるだろうね」と言うと、おばあたちから「じゃあ連れてって!」という声があがり、その場で東京行きが決定しました。

 

⬆️公演のため小浜港から船で旅立つ前に「うーとーと」(祈りの意味)するおばあたち

 

「死ぬ前に山手線に乗れる!」と、それはそれは賑やかな旅だったそうです。東京では品川プリンスホテルで歌を披露し、テレビ番組にも出演しました。

 

ちなみにつちださんは、おばあたちのウェディングドレスの相手役を10年近く務めており、数年前におばあたちから賞状を受け取ったそうです。そこにはこんな一言が書かれていました。

 

「あなたは私たちのよき息子であり、よき彼氏です。」

 

ユーモアも忘れないそんなおばあたちの元気で明るい笑顔には、沖縄の太陽にも負けない「芯の強さ」と「知恵」があります。

 

不便な離島こそ「果報の島」

 

小浜島に簡易水道ができたのは1963年。それまでは天秤棒をかついで、井戸から水を汲んでいました。水道の蛇口から水が出るようになったのは、西表島からの海底水道が完成した1977年のこと。

 

電気が通じるまでは石油ランプでの生活で、テレビは長い間NHKのみ。民放放送が始まったのは、1993年でした。

 

⬆️ いたるところにさとうきび畑が広がる

 

戦後の食料難に、離島ならではの不便さが加わり、台風が来たら5日間の停電は当たり前という厳しい生活。たくさんの苦労を経験したことは想像に難くありませんが、おばあたちは、私に何度も何度も小浜島は「カフー(果報)の島=恵まれた島」だと言うのです。

 

「平たくて水源が限られた他の島と違ってね、小浜島はとても水に恵まれている。島にはたくさんの湧水があるおかげで米や麦、サトウキビや野菜、なんでも作ることができた」

 

小浜島は、石垣島と西表島の間に位置するため、外洋の荒波から守られ穏やかな海岸に囲まれています。集落から歩ける距離にある海辺に出れば、アーサー(海藻の一種で沖縄では天ぷらにされる)やしじみを採ることができます。

 

さらに小浜大豆と呼ばれる島原産の大豆を使って、おばあたちは味噌も醤油も一から作ってきました。着るものも、学校の制服以外はほとんど自分たちで縫ったそうです。

 

小浜島のおばあたちが「着るものを作る」と言えば、綿花を育てて収穫し、糸を紡いで染色して、機織りし、着物に仕立てるという意味なのです。

 

綿だけでなく、苧麻(ちょま)や芭蕉という植物からも糸を紡いだり、琉球藍から自分の好みの色を出すなど、作り出す布地の種類も豊富。しかも、おばあたちはこの全行程を誰もが一人でできるそうです! 元気な頃は家族全員分の着物を用意していたのだとか。

 

「買ったものを着ると暑い。やっぱり麻がいい」と、藍染の名人でもある慶田盛英子さんは、自分で仕立てたというお気に入りの麻の藍染の写真を見せてくれました。こうした作業は、日常生活に根付いた「祈り」でもあった、と言います。

 

小浜島は沖縄のなかでも「芸能の島」として知られ、五穀豊穣に感謝する祭など年に4回ほど大きな祭事があります。その際にお供えものを用意すること、そして、神さまを島にお迎えする儀式を執りおこなうことは島の女性の重要な役割でした。

 

「神さまに、スーパーで買ってきた米や小麦粉で作った餅をお供えすることはできません。だから手作りします。砂糖はサトウキビから作り、塩は海水を汲んできて釜で塩炊きします。赤味噌、白味噌、酢も作りました。なければ作るのが当たり前でした」

 

そう話すのは、合唱団最年長の山城ハルさん(99)です。

 

島の人は薬草の知識も豊富。熱冷ましのために使うもの、あせもを抑える薬草など、島に自生するものでほとんどの病気を治してきたというハルさん。

 

彼女が生まれて初めて健康保険証を作って病院に行ったのは、なんと97歳のときでした!

 

⬆️カジマヤー(97歳のときにおこなわれる長寿のお祝い)の祝福を受ける山城ハルさん。20歳で結婚後、子供6人を育てあげ、孫18人、ひ孫31人、玄孫5人に恵まれた。お祝い当日は石垣島、沖縄本島、東京などから大勢の家族・親戚がお祝いに駆けつけた
PHOTO: KIKUO TSUCHIDA

 

変化があるときほど、「変わらないもの」を意識する

 

島の人にとって「生きる」ということは、何もない環境で必要なものを育てつくること。それがけっして当たり前じゃないことを知っているからこそ、島の祭事では人々の表情が変わります。

 

島民全員が島の女性が紡ぎ織った正装を着用し、(島の祭事には伝統衣装を着なくては参加することができません)、男性は笛を吹いて太鼓をたたき、三線の調べに合わせて歌い、踊ります。女性も一緒に歌い踊り、自然界への感謝を伝えます。

 

世界の儀礼や祭事を突き詰めていくと、人間が生きていくための知恵を伝えていくための社会の仕組みだという共通点があると、ある人類学者が言っていたことを思い出しました。

 

台風が来たらすべてが寸断される環境において、小浜島のこうした祭事は、一人ではけっして生きられない島で生まれ受け継がれてきた知恵を、おじいやおばあが全身で後世に伝えていく神聖な空間なのでしょう。

 

「人にはそれぞれの役割があって、誰もがお互いを必要とする」という考え方がこれまで脈々と受け継がれてきたのだと感じました。

 

97歳の長寿を祝う「カジマヤー」というお祝いでは、小浜島の小学校の全校生徒が竹笛をふき、孫やひ孫はもちろん、島全体でおばあたちを祝福しました。

 

小浜島おばあ④

 

小学校の授業で竹笛をはじめて取り入れた花城正美さん(元小浜小学校校長)はこう話してくれました。

 

「子供たちに、ただ『やりなさい』と言ってもやらない。でも、おばあの喜ぶ顔を見たいからと、みんながんばって竹笛を練習してくれました。おかげで全員が笛を吹けるようになりました」

 

小浜島は、藍染めと織物でも有名です。ただ、小浜島の織物は、島の祭事で着るための正装として織られてきたため、商用として島外に出ることもなく、世に知られることもありませんでした。

 

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⬆️結願祭と言われる島での重要な行事(国の無形文化財にも指定されている)この島の重要な祭事でみんなが着ているのはおばあたちが家族と孫のために自ら糸を紡いで織ったもの

 

それでも、おばあたちは糸を紡ぎ、孫やひ孫一人ひとりの幸せと健康を祈って着物を織り続けてきました。

 

黙々と作業を続けてきたせいか、いまでは全国各地から、「藍染や織物、祭事について聞かせてください」と、けっこうな数の来訪者があるそうです。

 

経験豊富なおばあたちの話は、「聞いておくべきことがある」と感じさせるもので、私自身も取材中に知りたいことが尽きませんでした。

 

しかしながら、こうした地域の繋がりは自動的に生まれるわけでも続くわけでもありません。

 

この小浜島も、「保守」と「革新」という政治思想で二分されたことがありました。そのせいで、島の主要作物であるさとうきびの収穫の際にはお互いに手伝うのが慣例だったのに、それが中断された時期があったそうです。

 

「そういうこともあったね。80過ぎると楽しく生きたいと思う。いまはみんなで笑ってるさあ」

 

小浜島のおばあの笑顔は、人生の涙も苦労も乗り越えた後の人生の勲章なのでしょう。島のおばあたちは「私が生きている間に(藍染や織物)を学びなさい」と伝えています。

 

何が大切なのかを学びなさい──私にはそんな風に聞こえました。

 

先述の『ライフ・シフト』には、「人生の移行や変わることがあるからこそ、何が変わらないのかを知ることが重要になる」とあります。

 

人の価値は物やお金だけでは図れない。生産や消費とまったく関係ない次元に、存在する価値がある。「ない」ように見えるときでも、常に「果報(恵)」は存在する──。

 

おばあたちの存在と知恵は、私たちにライフ・シフト時代を生き抜くために必要なものを教えてくれます。

 

2016年12月、おばあたちは海を渡り、6000人もの聴衆を前に堂々とシンガポールの晴れ舞台に立ちました。

 

自ら紡ぎ、染め、織った着物を身にまとい、「元気を届けたい!」とステージに立つその姿は、まさに「自分の役割を果たす」小浜島の精神そのものでした。

クーリエジャポン 2017年9月15日掲載

 

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2020東京五輪ホスト国として知っておきたいことー1964年東京五輪から2016年リオ五輪参加国はなぜ2倍になってるの❓❓❓

1964年東京オリンピック参加国はいくつ❓

なぜリオではおよそ2倍になってるの❓

1964年から2016年の間に何がおこったのでしょうか?

 

国連加盟国よりもリオ五輪参加国が多いのはなぜでしょうか❓

 

東京オリンピック vs リオ五輪.001

 

まず先に答えをお伝えします。

 

1964年東京オリンピック参加国は=94

2018年国連加盟国数=193

2016年リオデジャネイロオリンピック参加国=207です。

 

リオ五輪参加国がおよそ2倍以上になっているのは、1964年当時アフリカは多くの国がまだ「植民地」だったからです。

 

まだ独立国として東京五輪に参加できていなかったからです。

 

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「1964年10月24日、東京五輪閉会式の日、アフリカのザンビア共和国は独立した。
開会式とは違った新国旗を持って、残留したたった一人の選手が、誇りたかく入場行進してきた。満員の観覧席からは、精一杯の拍手が送られた。」

吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草より

 

当時の読売新聞にはこうあります。
「ザンビアのプラカードと旗手が入場し、最後に開催国日本の旗手・小野喬(体操)が入場した直後、各国の選手たちが一丸となって入り混じり、互いに手を握り、肩を叩き、抱き合い、踊りながら入場してきた。そして、すぐさま追いついた、日本とザンビアの旗手を肩車にして担ぎ上げた。」

 

1964年東京五輪は、敗戦後の悔しさから日本が国際社会への復帰をアピールする機会だと捉えられました。

 

では当時参加する人たちにとって1964年東京五輪はどんな機会だったのでしょうか?

 

アメリカの選手団もほとんどが白人選手です。まだ人種差別が公然と行われていた時代でした。

 

「平和の祭典」と言っても、世界の半分も参加していないですね。

 

では2020年東京五輪に参加する人たちにとって、五輪というのはどういう場なのでしょうか?

 

2020年五輪には国籍のない人たちや「難民」と呼ばれている人たちも参加できるのでしょうか?

 

ほんとうの意味での「平和の祭典」にするには、ホスト国として「私たちの視点」だけでなく、「彼らの視点」も持ちたいものです。

 

さて、中学校の総合的な学習の時間ではそんなお話しもしました。

 

なにより、国連の現場で見て感じたことをそのまま伝えることを一番大切にしています。

 

専門用語は使わず、わかりやすく心に届くようにお話しします。

 

「世界のことをもっと知りたいです!」
「勇気をもらいました!」

 

本何十冊読んでもピンとこなかったことが、腑に落ちますし、世界の最前線の現場の生の声に触れることによって、もっと知りたいと思って自然にやる気がおこります。

 

なにより、勉強する意味や目的ができることこそが一番貴重なことだと思います。

 

こんな感想をいただいています。

 

「答えを提示するわけでもない」という言葉に触れて、「自分の考えが間違いでも答えが一つだけではないと教えてもらい、私の支えとなりました。」

 

「私が使っている教科書には、紛争が起こる原因として宗教の違いと書かれて、私もそうだとずっと思っていました。でも、大仲さんのお話しの中で、ケニアの難民キャンプでは宗教が違くても普通に暮らしていたと伺いました。それを聞いて、紛争が終わらない理由は、みんなが宗教の違いが原因だと思い込んでいるからだと思いました。」

 

「一番印象に残っているのは、『大人になったら答えのない問題に立ち向かわないといけなくなる。だから、学生のうちから答えのない問いに立ち向かっていく勇気を持つことが大切』というお話しです。これからはこのことを意識して生活していきたいと思います。」

 

「現代社会の先端を生きる大仲様の話しはとてもおもしろかったです。」(笑)

 

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詳細はこちら➡️goo.gl/stsivZ

 

どうぞご連絡ください。

たくさんの人にお話しできることを願っています!

 

就職・転職活動に落ちても人は「死なない」ー肩書きも所属先もないときにどうするか?

就職活動に落ちても転職が決まらなくても人は「死なない」。

 

私は紛争地にもいたことがあるから分かりますが、人間っていうのは、基本的にはけっこう強い生き物です。

 

それよりも、私たちにとって、おそらく一番怖いことはどこにも属してない、社会から置いていかれるような感覚のことだと思います。

 

先日は、人間の根源的な欲求と不安について書きました。

参考記事➡️ 前に進みたいと思っているのに悩んで決められない時は、 「不安」を一つ一つ分解する

 

私自身、それを痛いほど痛感したのは、センター試験の2週間前に交換留学先のニュージーランドから帰国して、高校に在籍するよりも、卒業して自分で大学受験の勉強をすると決めた時でした。

 

卒業することを選んだのは、留学中に思ったよりも英語が話せなかった悔しさがあって、英語を勉強することなど、その方が自由に勉強ができると思ったからでした。

 

しかし、卒業して学生証もなくなって、高校時代の友人はすでに大学に入学している中で、私をおそってきたのは、先に何の保証もない一人取り残されたような感覚と、「自分はなにものでもない」という感覚でした。

 

「浪人生」という言葉の後ろ向きな響きも嫌だったし、英語や大学受験の勉強をしていたものの、すぐに勉強の成果が結果に表れるわけでもありません。

 

自分のモーチベーションを保つために、「自分はなにをしたいのか?」「自分はなんのためにこの勉強をしているのか」、「大学に入って自分は何をしたいのか?」ということに向き合わざるをえなくなりました。

 

結果を先にいうと、幸い希望の大学に入学することができました。

 

けっして簡単な時期ではなかったのですが、今振りかえってみると、人生の早いうちの段階で「なにものでもない」ことを体験できたのはよかったと思います。

 

日本には、4月一斉入社という世界の中でも稀有な制度があるため、大企業への就職を目指す人はとくに、大學四年生になると何十万人という学生が一斉に動き始めます。

 

そして、日本では、卒業したらすぐに会社に入るという流れになっています。

 

この制度では、「何物でもない自分」として一から自分はほんとうに何をしたいのか?と考える時期も機会もなく会社に入り、人によっては(今は減ってきていますが)そのまま会社を退職します。

 

すると、自分のアイデンティティーや拠り所が会社・所属先だけになってしまいます。

退職するとすぐに老ける人もいます。

 

私は国連という大組織にもいたのでわかりますが、大きな組織に入ると、 自分の価値=「組織の肩書き」のように錯覚してきて、 今度はその傘を出るのがすごく怖くなります。

 

欧米では、4月一斉入社という制度がないので、人それぞれに自分のペースで自分のやりたいことに向き合ったり、働く前に他の国でインターンをするといった体験をするなど、就職する前に自分の視野や体験の幅をひろげる体験を持つことが評価されます。

 

「なにものでもない自分」になれることはとても有り難いことなのかも知れません。

 

自分の「価値」は何かをやってることでも、肩書きとか所属先から来るものでもないとしたら、「自分はこういう人間です」と自分で自分の価値も存在も決めることができるから。

 

ウィーンフィル奏者に取材して発見した’共通点’ー一見まったく違う分野の人の体験から学ぶことができれば、人生100倍うまく生きることができる

NHKに「達人たち」という番組があります。まったく違う分野で功績を持つ人たちが、互いに仕事の極意や大変だったこと、苦労の乗り越え方などを伝えあいます。

 

私が見たのは、井村 雅代 シンクロコーチと欧州で指揮者として活躍し、大河ドラマのテーマ曲を指揮したことでも知られる指揮者広上淳一さんのクロスインタビュー。

 

いろいろなテーマがでてきますが、音大で若い人たちに音楽を教える広上は、どうしたら今の若い人たちを、一から指導し、8回連続オリンピックメダル獲得という偉業を成し遂げることができるのか、の秘訣を探ろうとします。

 

一方はシンクロコーチ、片方は指揮者(音楽家)。

 

一見、まったく違った分野で闘っている二人ですが、二人の会話を通じて、世界を舞台とすることのメンタリティーなど自然と共通点が浮かびあがってくるのが面白いところです。

 

どの回を見ても、全く違う分野の人たちが対談をしますが、まったく違和感はないし、逆に、それぞれのユニークな体験の中に、お互いが自分に当てはまることを見つけていきます。

 

一流が一流たるゆえんは、きっと一見全く違うような文脈の中に、より大きな普遍性や法則性を見出せることなのかも知れません。

 

一人では一つの人生しか生きることができないけれども、いろいろな分野の先人たちの体験から学ぶことができたら、いろいろな人生の対処法も知恵も身につけることができますよね。

 

映画などを見てる時でも、「ああ、わかったっ!」と、自分の頭の中でとつぜんパッと💡ひらめき💡が起こるような瞬間があったりします。

 

ウィーン管弦楽団(ウィーンフィル)でソロ演奏も担うフルート奏者、ディータ・フルーリーに取材をした時、私も似たような体験をしました。

 

その中で、「どうしたらあんなに透き通った音色を出せるんですか?」と、日本の中学生からよせられた質問に答える場面がありました。

 

彼の答えはこうでした。

 

「何よりも先に自分の出したい音を想像するんだ。

それを技術と呼吸、そして、自分の持っている全てを使って表現するんだ。

その音に少しでも近づくために一生練習し続 けるんだよ。」

 

私はそれを聞いて、なるほど!とガッテンして、私も同じだ!と嬉しくなりました。

 

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私の表現方法は「書く」というものですが、私にとって書く体験とは、「まず先に全体像が頭の中にぱっと浮かんで、それをなんとかメモして、言語化していく」プロセス です。

 

言葉が追いつかなくて、全体像が浮かんでいるのに全体がまとまらない時は「気持ち悪くて」、文字にすると「すっきり」します。

 

彼にそのことを説明したら、全く違う分野の人(彼は私のことをジャーナリストだと思ったかもしれません😊)も似たような体験をするんだ、と新鮮に感じたようです。

 

来日公演時の懇親会の席では、「興味深い会話をありがとう」と立ち去る前に最後に声をかけてくれました。

 

なんでもいいから、一生懸命に何かに打ち込んだり、探求したり、何かを突き詰めた体験があると、入り口はどんな分野であっても、人間や人生についてのなんらかの普遍的な理解や洞察に至るのだと思いました。

 

わたしが紛争地で体験したこと、南スーダンで元兵士の社会統合支援にかかわったこと、自分自身の燃え尽き症候群や二次受傷からの回復のプロセスは、今のコーチングや執筆に役に立っています。

 

人がなんらかの体験から回復し、再統合(生まれ変わる)する過程は基本的には同じだからです。

 

書くにしても、表面的には3,000字の記事であっても、そこには私の紛争地での体験や洞察のすべてが土台としてあります。

 

そうした部分が3,000字を超えて、文章に「深み」や「想い」や「熱量」をくれているのだと思います。

 

一見、すぐに仕事につながらないように見えることでも、自分が興味を持ったこと、知りたいこと、なんで?と思ったことを追求するのをやめないでください。

 

試験では最短で最小限の労力で合格する作戦がある時点では成功しても、人生では、もっと長期的な戦略が必要です。

 

一見、「無駄」に見えること(すぐに結果や答えのでないことを追求してきたか)をやってきた体験があるかないかは、長い人生のスパンでは、大きな「差」となってでてきます。

 

そういう部分がないと、人はすぐにポキっと折れてしまいます。

そういう体験が、自分の「軸」となる土台をつくってくれます。

その人の「幅」になってくれ、「器」をつくってくれます。

土台のないところに何かを建ててもすぐに崩れてしまいます。

 

それが誰にでも認められるような功績として現れていなくても、自分が自分の興味を尊重し、大切にしてきた、というその時間と体験が深い部分で、自分に自信をくれます。

 

なにより、人生を豊かにしてくれます。

 

 

お金にならないからやめる?

ざんねんながら、そんな考えでは運は味方してくれません。

人生では、すぐにお金にならなくても、続けることが大事な時があるのです。

もちろん、今の仕事や収入などを全てやめたらいいという意味ではありません。

 

人生では、あなたの本気度が試されるときがあります。

それでもやり続けた時に、運もお金も味方してくれるのです。

 

自分の中の好奇心や探求をぜひ大切にして欲しいと思います。

 

ウィーンフィル取材の記事➡️

「世界のトップ」はなぜ東北を目指すのか? ハーバードとウィーン・フィルが教えてくれた世界の中の「東北」②

 

 

今時代はどう変わりつつあるのか?変化のサイン①「ライフシフト100年時代」の意味とは?

2017年は、全く新しいサイクルの初まりの年だと言われています。

時代が変わりつつあることがよりはっきりと感じられた年でした。

ではどういう時代なのでしょうか?

どう時代が変わりつつあるのでしょうか?

 

時代がこれほどに変わっていても変わっていないように見えた時でも、後で振り返れば時代の「流れ」を教えてくれていた「サイン」があったと思うことはよくあります。

 

今の段階では、今時代がどう変わりつつあるのかに対する完全な答えは誰もまだ出せないと思いますが、この一年半の出来事から読みとれる「サイン」をいくつか挙げてみたいと思います。

 

1点目は、「「ライフシフト100年時代の人生戦略」(リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット、東洋経済新報社)です。

 

「100年時代のための保険」という商品もでるなど「人生100年時代」というタイトルはインパクトがありました。

 

なかには「100年も生きたいくない」と思った人もいると思いますが、

 

この本は、100年ライフの時代では、人生を学校→会社→引退という3つのステージで捉えてきた前提自体が変わり、働き方や価値観がますます多様化し、

 

自分の体験や分野を広げていく時期や、自分で仕事を生み出していくステージなどが加えられ、いくつものステージが同時平行して進んでいく「人生のマルチステージ化」が進むだろうと言っています。

 

つまり、100年生きるということは、「一つの会社に就職する」、「雇われる」という働き方だけでは、100年スパンを考えられないよ、というわけです。

 

もっと言うと、100年生きるということは、自分がほんとうに充足感を感じることをみつけられるかどうかで人生の質は大きく変わるだろう、ということなのです。

 

ただ、それはプレッシャーに感じることではなく、仕事をしながら、新しいことを学んだり、自分の体験や分野を広げていくことが大切だよ、と言っているのです。

 

これをやった結果、新しくこういうことがわかった、それで、自分はこう思った、こう感じた、だから今度はこれを学びたい、こういうことをしたい、体験を大事にしましょう、ということです。

 

そして、100年時代が示唆していることの一つは、やりたいことは人生で何度か変わってもいい、ということです。

 

それは、沢山のことをやらないといけない、という意味ではなく、やりたいことに「間違い」はないし、やりたいことをやる方法や手段もたくさんあるよ、という意味です。

 

実際、お金を稼ぐ手段とやりたいことが別の時期もあれば、徐々にやりたいことがお金を稼ぐ手段にもなっていく、ということもあるでしょう。

 

別の言い方をすると、雇われるメンタリティーから自分でつくり出す(クリエーション)のメンタリティーへのシフトです。

 

雇われるメンタリティーは、

真面目で

人を疑うことなく素直にいうことを聞いて

仕事をこなす人が重宝されます。

 

それがまともな企業ならいいのですが、残念ながら、ブラック企業にはとっては、こうした「真面目さ」が「使い勝手にいい人」になってしまいます。

 

クリエーションのメンタリティーは、全く異なります。

文字通り「つくり出す」ことです。

 

自分の体験やオリジナリティーが求められます。

他の人にはなくて、自分にしかできない・自分だから貢献できることは何だろう?という発想です。

 

それに対する答えをみつけるための問いは、

自分はほんとうは何を望んでいるのか?何が好きなのか?何をやっている時が楽しいのか?という問いかけです。

 

同じ仕事をしていたとしても、人がやりがいを感じるポイントはまったく違いますし、人は自分が好きなことをやっている時に自然に才能を発揮します。

 

生き生きと輝いている状態です。

 

私たちは輝いている人の様子を見るだけで嬉しくなるし、元気をもらいます。

 

だから、自分が好きなこと、やりたいこと、それを才能まで伸ばしている人はそれだけで周りに元気を与えていると言えます。

 

「やらなきゃいけない」という義務感や役割、または、「自分はこうあるべきだ」という自分で自分に思い込ませている理想像やマスク(ペルソナ)、または競争心で自分をがんばらせることができるのは、せいぜい5年、10年、せいぜい15年ちょっとでしょう。

 

その頃には、疲れ果てて、自分が好きなこともやりたいことを考えるどころか思い出す気力さえなくなってしまいます。

 

テレビに映る政治家に心のなかで文句を言って、かろうじて電車に乗って、金曜日の夜に安堵する冷めた、シニカルな大人になってしまいます。

 

残念ながら、今の日本には、無関心、無気力や無関心が蔓延しているように感じます。

 

100年間、なんとなく流されて冷めて生きるにはあまりにも長い時間だと感じるのは私だけではないでしょう。

 

自分のやりたいことがわかったら苦労はしないよ?

 

そんな声が聞こえてきそうですが、やりたいことをみつけるのは難しいと思っていませんか?

 

たくさんの人がいろいろな「思い込み」にはまっているように見えます。

 

自分はやりたいことをやってもいい、

まずはそう自分に言ってみませんか?

自分の人生の目的は?何を目指せばいいのか?を知りたい人へ「人は自分が考え注目しているものになっていく」という原理

「人は自分が最も深く考えているものになっていく」という原理があります。

 

この場合の「考えている」とは、はっきりと考えているものもあれば、なんとなく意識を向けているもの、注意を向けているものも含まれます。

 

自分は普段何を考え、何に意識を向けているのか?

自分の人生はいったいどこに向かっているのか???

 

その答えを知りたい方に質問です。

 

三日目にスマホで検索していたものは何ですか?

三日前にランチで食べたものは何ですか?

本棚やよく見る記事で多いのはどういうものですか?

それはどうしてですか?何について知りたいのですか?

最近感動した映画や本は何ですか?それはなんでですか?

 

自分が普段何を考えていて、意識を向けているか?

 

たった三日前なのに食べたものがすぐに思い出せない時もあります。

 

自分なりにすごくはっきりと意識して選んだ場合には覚えていますが、

「なんとなく」「とりあえず」選んだものは覚えていないし、

スマホを手にしたら、いつの間にか「なんとなく」時間が過ぎてしまうことなどいとも簡単です。

 

「人は自分が最も深く考えているものになっていく」ということは、

 

「なんとなく」「とりあえず」では、

 

人生の目的地もわからずコンパスもないままに、新しい時代の始まりという稀有な時代に生を受けながら、ただ大海をふらふらと漂流するだけになってしまいます。

 

いくらAIがおススメの歌やおススメの商品を教えてくれたとして、それは今の自分や今の人間の延長でしかありません。

 

AIは、たくさん消費するように教えてくれるかも知れないけど、自分にとっての「人生の目的地」は教えてくれません。

 

「人生の目的地」は、「なんとなく」ではたどり着けません。

 

同時に、スマホで人が見るものが違い、同じ本を読んでも感じることがそれぞれ違うように、そこにはが注目を向けているもの、そして、自分なりの視点や切り口があるのです。

 

なぜ自分はこれに興味があるのか?

私は何を求めているのか?

わたしはなんでこれに心を動かされたのか?

 

 

ナチスによるアウスビッツ収容所を生き延び、その後精神科医となったヴィクトール・フランクルは、こう言っています。

 

「人が本当に求めているものは、安全などではない。自分の心の深いところで鼓舞され、自分の人生の目的に向かって努力していることだ」と。

 

それが何か分からなくていいのです。

求めましょう。

探求しましょう。

 

人は、自分が目を向け、注意を向け、求め、考え、探り続けているものに向かっていくのです!

ノーベル平和賞に3度ノミネートされたシーラ・エラワージー「逆説的に聞こえるかも知れないけど、人が『マスク』を抜いでもろさを出せる時にこそ成果がうまれる」

今、日本も世界も危機にあります。

同じやり方では続けられなくなっています。

にんげんとして必要なことや本当に大切なことを無視し犠牲にして自分だけが生き残るやり方で国も社会が繁栄するはずがありません。

 

この数年で気づいたら、社会全体の力も一人一人の生命力も弱ってきています。

 

真実や真理はわたしたちに活力やインスピレーションをくれるけれども、「にせものの力」は人から力を奪っていきます。

 

今の時代、私たちは本当の力や真実を見極めていかないといけません。

 

そして、「ほんとうの力」を求め、自らつくり、広げていかないといけません。

 

ノーベル平和賞に3度ノミネートされたシーラ・エルワージーの著書、「内なる平和が世界を変える」(Pioneering the Possible)の序文にこう書かれています。

 

内なる平和が世界を開ける

 

「世界は危機に瀕している。だから、内的力と外面の行動を結合できる技を持った人たちが必要だ。

 

内的力は、習慣的な内省や瞑想を通して、克己心、自我への鋭い観察力と自制を磨くことから生まれる。…

 

望むような外的変化は内的変化抜きに実現しない。これが現在の進化プロセスなのだが、ほとんどの人がまだそれを理解していない。あなたの自覚の質が、あなたが生み出す結果の質に直接影響する。

 

紛争を変容させ、世界の問題を解決するための創造的イノベーションとエネルギーもそこから作り出される。」

序文 デスモンド・ツツ

 

シーラ・エルワージーは、本の冒頭で「自分の仕事の成果は内的な力の直接的な結果だ」とも言っています。

 

これはどんな意味なのでしょうか?

 

彼女は、13歳の時のショックだった体験を紹介しています。

 

テレビでソ連軍がハンガリー・ブダペストに侵攻して、小さな子どもたちが轢かれるニュースを見たそうです。

 

「ともかくブダペストに行かないといけない」と思った彼女は、スーツケースを出してきてパッキングを始めます。

 

その彼女に対してお母さんは冷静に言うのです。

 

「わかったわ。でもね、あなたはそれに必要なトレーニングを受けてないの。どうしたら受けられるのか一緒に考えましょう」と。

 

その後、彼女は大学へ行き、難民キャンプやアルジェリアの孤児院で働き、紛争やトラウマが人間一人一人に与える影響も身をもって体験します。

 

核政策にかかわる人たち13人に深い深いインタビューを行い、博士号を習得し、アフリカでも働き、結婚し、子どもも授かります。

 

国連のコンサルタントを務め、リサーチにもかかわります。

 

しかし、それでも、彼女が13歳以来求めてきたほんとうに必要な体験もスキルもまだ学べていなかったと言います。

 

その事を痛感したのは、国連ニューヨーク本部で開催された核軍縮に関する特別会議に参加した時でした。

 

第二次世界大戦後、二回目の開催となった核に関する特別会議だけあって、日本など世界中からも多くの人が参加し、それに合わせて何千人もの人がニューヨークのブロードウェイでデモを行ったり、ロビーイングに参加し、会期中にはニューヨークタイムスが核問題について大きな特集も組んだそうです。

 

そうした熱気に触れ、「何かが変わるかも」と期待とともに会議場に戻った彼女が直面したのは、何もなかったように自国の立場を話し続ける各国の担当者と何の具体的な成果も産まずに終わった会議でした。

 

彼女は何が本当の問題だったのか?と、考え続けます。

 

その時、彼女の頭を占拠したのは、

誰がほんとうの「意思決定者」なのか?という疑問と、

ともかく、「意思決定者」に話さないといけない!

という失望の中で受け取った閃き💡のような衝動と、

 

ほんとうに変化をもたらすためには何が必要なのか?という問いでした。

 

まず彼女は、政治家や安保理常任理事国、兵器製造企業経営者や技術者などを議論に含めないといけないと考えました。

 

ちなみに、これは80年代初頭の冷戦まっただ中の話しです。

 

今のように、インターネットがあるわけでもなく、各国の防衛省や外務省の組織図が公開されているわけでもありません。

 

アメリカの担当者はロシアや中国の担当者と顔を会わせたこともないし、

会議が始まる前から彼女は参加者たちの疑いや強い緊張を感じたと言います。

 

彼女は、会議全体を注意深くデザインし準備を進めます。

会場は、英国オックスフォードの郊外にある美しい庭や緑のある場所に決まりました。

 

議題や会場、参加者の選定などを進めると同時に、彼女は、会議のサポートに関わる人にとってのほんとうの「準備」はもう少し別のところにあった、と言います。

 

ほんとうの成果が生まれるためには、それぞれが公式見解をただ一方的にスピーチするのではなく、一人の人間としてオープンに対話ができる場が必要だと彼女は考えました。

 

そのためには、彼らが緊張や不安から解放され、公的な「マスク」を一瞬でもいいから脱げるくらいの「安全な場」をつくることが鍵だと思いました。

 

彼女が会議の運営に関わる人たちと共に進めた準備とは、会議がはじまるとその場で生じるだろう不安や緊張、疑いをその人たちが自分の中で「超えていること」、そしてその状態をホールドできる「内なる強さ」を持つことでした。

 

彼女は、成果を生む場をつくるために、内的な力をマスターしている人たちを5人程呼び、その人達に会議室の真下で1日中瞑想をしてもらい、文字通り会議を下で支えてもらうことにしました。

 

会議中、米国国務省の出席者の一人がシーラのところにやってきて、言います。

「シーラ、この建物は何か特別だ。下から何か湧いてくるように感じる」と。

 

シーラは、会議室の真下の部屋で瞑想をしている人たちがいることを伝えました。

 

「みなさんのランチを配膳してくれた人たちを覚えてますか?

あの人たちが下で瞑想してくれてるの。もしよかったら本人たちに聞いてみて」

 

米国国務省の担当者は、その人たちの笑顔と穏やかさに触れ、驚きと同時に何か腑に落ちた表情で会議室に戻っていったそうです。

 

彼女はこうした対話を続け、こうした場での交流が冷戦化の対立の中で信頼関係を生み、核条約の締結につながったと言われています。

 

彼女が行った対話は非公式という条件で行われたので、当時は一言もメディアに載ることもなく、今になって彼女がずい所で明かすエピソードが示唆に満ちていて面白いのですが、

彼女にはある確信があったそうです。

 

「難しいテーマである程、会議室には言葉にされなくてもすぐに不安や疑い、怒り、フラストレーション、失望が蔓延する。そんな状態では、同じ意見の応酬が続くだけ。」

 

… (中略) …

 

「人は対話を『ソフト』なものと言い、『マッチョー』なものを求める。

でも、本当に生産的な結果を生みたかったら、私たちは怖れを超える内的な強さを持たないといけない。」

 

… (中略) …

 

「逆説的に聞こえるかもしれないけれども、人がマスクを抜いでもろさを出せる時に事が動いた。結果が生まれた。自分がありのままでいられる程、成果を生んだ。」

 

これこそが、彼女がブダペスト以来ずっと求めてきた「トレーニング」(スキル)だったのです。

 

私もニューヨークの国連本部で働いていた時に、やはり各国の担当者が一方的にスピーチするのを聴き続けてとても疲れたことを覚えています。偶然にも軍縮に関する会議でした。

 

「怖れを超えたところからしか本当の力は生まれない。」

 

本当の力とは、怖れや緊張や疑いなどネガティブな面を否定するのはありません。

 

「ありのまま」(being authentic)とは、自分の中の怖れや怒りなどを自覚し、正面からとらえ、愛をもって受け入れることによってそれらを「力」にすることができるのです。

 

彼女のエピソードがつまった動画おすすめです!

 

Scilla Elworthy: Part 1 – The Heart of Peace

Discover the core challenges & opportunities in making peace actually work with Nobel Peace Prize nominee & founder of the Oxford Research Group & Peace Direct.

 

http://globalleadership.tv/video/scilla-elworthy-part-one-the-heart-of-peace/