なぜ久しぶりに目にするものが小さく見えたり、違って見えたりするのか?ー自分の記憶と過去と優しく付き合うヒント

わたしは留学や海外勤務で海外にいるとき、日本に帰国するのはたいてい年に一回ほどでした。

 

すると、久しぶりに目にするものが小さく見えたり、違って見えたりすることを最初は不思議に思っていました。

 

「あれっ?これってこんなに小さかったっけ?」

「あれっ、これってこんな感じだったっけ?」

 

という具合に、私の記憶の中では、とても立派に見えたビルやショッピングモールががなんだか小さく見えたり、街全体がちょっと違って見えたりという具合です。

 

そんな体験を最初はただ「不思議だなあ~」位に思っていたのですが、そんな体験を繰り返す内に、これは自分の「経験値があがって」「なにかしら成長した示し」だと思うようになりました。

 

みなさんもずっと前に卒業した小学校や中学校の前を懐かしい気持ちで通ると、当時はすごく大きいと思っていた体育館や校庭が小さく見えたりした体験はありませんか?

 

それはまさに文字通り自分が「大きくなった証拠」で、今の大人の自分は当時の自分と比べると、小学生の頃の自分には出来なかったような沢山のことが出来るようになって、それ以来たくさんの経験を積んでいます。

 

すると、文字通り自分の記憶の中で「大きい」と思っていたことが「小さく」見えるのです。

 

そうしたことの積み重ねで、人間の「認知」や「記憶」というものはどんどん変わっていくと言われています。

 

わたしは、同じような事をニューヨークという街に対して感じことがあります。

 

ニューヨークで働いていた頃の1年目は、国連本部で働く人はこうあるべきだ、と必要以上に自分にプレッシャーをかけていた時期でした。

 

せっかくニューヨークという街にいながら、どこかで仕事のことを考えていたりと、あまり街を楽しむ余裕もなかったように思います。

 

その数年後にまったくプライベートでニューヨークを訪れる機会があり、マンハッタンの西側(ウェストサイド)の端から東側の端(イーストサイド)まで、当時よく歩いていたマンハッタンの真ん中辺りを西から東へ突き抜け、ブラブラと歩きました。

 

ちょうど4月初旬の頃で、ワシントンDCではポトマック川沿いに桜が咲きほこり、マンハッタンにも優しい春の風が吹いていました。

 

当時住んでいた辺りを散歩したり、新しいカフェをみつけたり、そんな普通のことが楽しくて、仕事のプレッシャーから解放されたニューヨークはなんとも楽しかったこと!

 

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マンハッタンを西から東へブラブラと歩きながら、タイムズスクエアを通り、

五番街やパークアベニューを通り抜け、お馴染みのビル群が見えます。

 

そんなビルの風景にされ、どこか優しい春の風を感じました。

 

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そして、歩いている間に突然当時の記憶がよみがえってきて、自分でも不思議だと思ったのは、大変だったと思っていた時さえもいろいろな人を通じて必要なサポートがもたらされていたことが突然思い出されてきたのです。

 

その記憶の波は次から次へとやってきて、当時はよくわからなかったことが腑に落ちたり、パズルのピースがはまるように、当時はネガティブだと思っていたことが実は自分を必要な方向に導いてくれたことなどが突然「わかった」のです。

 

こうして、たった数時間の間に私の中のニューヨークの記憶はまったく変わってしまったのでした。

 

当時のわたしには視野も狭くなっていた面もあったのでしょう。

 

人間の「認知」や「記憶」というものはとても主観的で曖昧で、このように常に書き換えられていくと言われています。

 

つまり、自分がより体験を積んで、人生の出来事や自分に対して理解や洞察を深めていったり、自分がオープンになったりすると、自分の見る景色も体験も文字通り変わっていくのですね。

 

職場の人間関係に悩んでいる人、今大変な時期にあるなと思う人、視野が狭くなっているかもと思う人は、よかったら、小学校や中学校、高校、昔の職場などを眺めに行ってみてください。

 

もしかしたら、まったく違って見えるかも知れませんよ。

 

今の自分はその時の自分より確実に成長しているのです。

 

大変なときほど、そういうことを感じ、確認できるといいですね。

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ストーリーと共感で新しい時代をつくる EMPATHY IMPACTを始めました❗️ー会社だけが人生じゃない!軽やかに輝く人たちを紹介します

この度、船井幸雄氏の元で経営コンサルタントを務めた鹿毛俊孝さん、ブランディングデザイナーSUMICO ABEさんと

 

「新しい時代をつくるストーリーと共感を紡ぐ」EMPATHY IMPACTを始めました。

 

https://www.facebook.com/empathyimpact/

 

変わりゆく時代を生きるためのヒントや元気になる話題をお伝えしていきます。

 

ブログとはちょっと違った投稿、一言メッセージなどありますので、覗いてみてください。

 

その中の新企画として、

 

「新しい時代をつくるストーリーと共感を紡ぐ」をコンセプトに新しい時代の価値やサービスを体現する輝く個を紹介するシリーズをはじめます。

 

「会社だけが人生じゃない!」自由で多様な「生き方」や「働き方」をしている輝く人を紹介します。

 

今は就職か起業かという時代ではなく、自分が大切にしていることを表現し、軽やかに自分のやりたいことを形にしていっている人たちが沢山います。

 

始めたばかりの人、ベテランの人いろいろですが、その人たちはどんなきっかけでそれを始めたのか、「始めの一歩」やそれぞれの方の体験やストーリーに触れることで、「自分の道を生きる」ことがもっと簡単にもっと身近に感じられると思います。

 

それぞれの方のストーリーから、自分もできそう・これやってみようと思う実践的なヒントやインスピレーションを受け取ると思います。

 

第一回目:キャベツ専業農家が新宿伊勢丹で連日完売のおしゃれ発信地になるまで 大吉農園 大吉七菜海さん

 

第二回目:沖縄小浜島のおばあが92歳で海外公演に呼ばれるようになったわけ

天国に一番近いアイドル KBG84 小浜島ばあちゃん合唱団

 

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第三回、第四回、第五回。。。

 

続きは

 

ストーリーと共感で新しい時代をつくる

EMPATHY IMPACTにて!

 

お楽しみに!

「いいね」お願いします。(*^-^)ニコ

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「ネガティブな自分」に向き合えば運命は拓ける!ノーベル平和賞に3度ノミネートされた女性から学ぶ「内的な力」

クーリエジャポン2018年1月2日掲載

 

人間は誰しも心に闇を抱えている。心理学的には「シャドー」と呼ばれるこの負の感情が原因で、ときに我々は暴走し、せっかく持つ才能や成功のチャンスを逃してしまうこともある。では、我々はシャドーとどのように付き合っていけばいいのだろうか?

 

人間の「内的な力」に気づき、自分だけでなく周囲のシャドーに向き合うことで、世界を核軍縮に導いたひとりの女性の物語を紹介しよう。

「シャドー」にどう向き合うべきか

 

前回は、ネガティブな感情や人には見せたくない自分の嫌な部分「シャドー」が、いかに内在する暴力性を助長させ、創造性や才能に負の影響を与えるかについて書きました。では、私たちはどのように自己のシャドーと向き合うべきなのでしょうか?

 

日々、決断を繰り返しながら生きている私たちの頭には、次のような問いが頻繁に浮かんできます。

 

AとBのどちらを選ぶか?
なぜいま私はこれを選んだのか?
自分にとってよりよい選択はどれか?

 

即座に決められることもあれば、迷うこともあります。自分が導かれている方向にすぐに気がつけるときと、そうでないときもあります。

 

あるとき、プレゼンの準備をしていて、突然手が止まってしまったことがありました。「こんな単純な内容ではバカにされるんじゃないか?」という思いが頭をよぎったからです。

 

内閣の安全保障のブレーンとされている人や学者が集まる会であることを、意識していたのだと思います。

 

ところが、友人に電話で相談するとすぐにこう言われました。

 

「『難しくて立派な発表』をすれば、気分はよくなるの?」

 

その一言ですぐに我に返り、集中力を取り戻すことができました。結局、当初通りの発表には、自分の予想を超えた反応がありました。

 

自分にとっての「真実」とは何か? 本当に大切なことに応えているか?

 

すぐにそれに気づけば、もっと楽に物事を決めることができるようになります。

 

そうした日々の決断にも、シャドーが関係しています。

ノーベル平和賞に3度ノミネートされた女性

 

冷戦期に核軍縮のための国際的な対話を成功させた功績によって、ノーベル平和賞に3度ノミネートされたシーラ・エルワージーの、著書『内なる平和が世界を変える』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)に南アフリカのアパルトヘイトでの和解での貢献でノーベル平和賞を受賞したデスモンツツ司教はこう序文を寄せています。

 

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「世界は危機に瀕している。だから、内的な力と外的な行動を結合できる人材が必要だ。

 

内的な力とは、習慣的な内省や瞑想を通して、克己心、自我への鋭い観察力と自制を磨くことから生まれる。

 

望むような外的変化は内的変化抜きに実現しない。これが現在の進化プロセスなのだが、ほとんどの人がまだそれを理解していない。

 

あなたの自覚の質(自己認識の質)が、あなたが生み出す結果の質に直接影響する。

 

紛争を変容させ、世界の問題を解決するための創造的イノベーションとエネルギーもそこから作り出される」

 

では、ツツ司教の言う「内的な力」、そして「自己認識の質」とはいったい何を指しているのでしょうか?

少女たちを救うための「トレーニング」

 

英国出身の平和活動家であるエルワージーは、ハンガリー動乱(1956年)の際に忘れえぬ経験をしたと言います。

 

当時13歳だった彼女は、テレビでソ連軍がハンガリーの首都ブダペストに侵攻し、小さな子供たちが戦車で轢かれるニュースを目撃します。

 

「とにかく、ブダペストに行かなきゃ」と奮起したエルワージーは、さっそく荷造りを始めます。ところが、そんな娘に対して母は冷静にこう言いました。

 

「あなたの気持ちはわかったわ。でもね、あなたは少女を救うために必要な『トレーニング』を受けてないの。どうしたらそれを受けられるのか、一緒に考えてみましょう」

 

その後、彼女は大学へ進学し、難民キャンプやアルジェリアの孤児院で働きながら、紛争やトラウマが人間にどれほど深刻な影響を与えるかも、身をもって学びます。

 

さらに核保有国の政策者に聞き取り調査をして論文を書き、博士号を取得。アフリカで働き、結婚して子供も授かりました。その後、国連のコンサルタントをつとめ、リサーチにも関わるようになります。

 

しかし、これだけのキャリアを積みながらも、彼女が13歳のころから求めてきた「トレーニング」を受けることはできなかったそうです。それを痛感したのは、1982年に国連ニューヨーク本部で開催された第2回国連軍縮特別会議に参加したときでした。

なぜ「核軍縮会議」は失敗したのか?

 

冷戦期だったその当時、米国、旧ソ連、そして英国の持つ核兵器がかなりの数に達したことから、核戦争の偶発的な勃発に国際社会は危機感を募らせていました。

 

それゆえ、同会議は国際的にも注目され、日本を含め世界中から多くの関係者が参加。ニューヨークのセントラルパークでおこなわれたデモには、核軍縮を求めて100万人が集まりました。米紙「ニューヨーク・タイムズ」が核問題について5ページの大特集を組んだことからも、問題への関心の高さがうかがえます。

 

ところが、会議は期待外れなものでした。各国の担当者がただ自分の立場を主張し続け、具体的な成果が何も生まれない──エルワージーが目の当たりにしたのは、そんなシビアな結果でした。

 

落胆と失望のなかで、このままではまずいと感じたエルワージーは、問題の本質は何だったのかと考えはじめます。

 

そのとき、彼女の頭のなかを駆け巡ったのは、「誰が真の意思決定者なのか?」という問いでした。そして、「ともかく、その意思決定者に会わなければ!」というひらめきのような衝動と、「本当に変化をもたらすために必要なもの」を見つける粘り強さが彼女を突き動かしたのです。

対話を成功させるために必要なものは…

 

まず、問題の解決には、核保有国の意思決定者や核兵器の設計者、研究者に軍幹部といった世界中の核政策関係者が一堂に会することが不可欠だとエルワージーは考えました。

 

しかし、1980年初頭は、米ソの緊張が再び高まり、西側陣営と東側陣営の間に大きな溝がある時代でした。

 

そんな状況で、どうすれば全関係者を集めた核軍縮の対話を始められるのか──考えに考えた末、エルワージーは3つのことに気がついたのです。

 

続く

 

クーリエジャポン2018年1月2日掲載 大仲千華「答えを求めない勇気」

 

(写真)ダライ・ラマとデスモンドツツ司教

 

(シーラ・エルワージーのTedトーク)

国連ニューヨーク本部の’働き方’ーいつでも家で仕事してもいいし、ランチでワインも飲むのに仕事ができるわけ❓‼️

大雪の日は在宅勤務。

 

いつでも自由に家で仕事してもいい(完全自己申告)。

 

各国外交団とのランチ(情報交換)ではワインも飲むし、高級寿司店やイタリアンにも行く。

 

国連PKO局を代表してBBCに出演する上司の部屋にはシェリーもあって’外交’も活発。

 

室長・課長裁量も高いから、室員全員でセントラルパークにいった日もあった。

 

その前提は「自分で自分の仕事を知っていること」。

 

仕事のポイントを知ってること。

 

 

わたしがニューヨークでいた部署は、国連の中でもとびきり優秀な人たちが集まったところで、ほんとうにそれぞれが仕事のポイントを押さえていたのだと思う。

 

自己管理を要するのは間違いないけれども、ここで言いたいことは、そういう働き方は可能だということ。

 

忙しくしていることで安心したり、女性が働き続けられないモーレツ社員的「働き方」で、国が少子化になっていたらあまりに悲しい。

 

日本の企業は本気で「生産性」を考える段階にあると思う。

 

(写真)ニューヨーク セントラルパーク

LIFEシフト時代こそ生きる知恵をおばあに聞こう!ー92歳で海外公演をする離島で聞いた「人生100年時代の楽しみ方」

東京から2000km離れた、沖縄県八重山地方の離島、小浜島。

 

エメラルドグリーンの海に囲まれたこの小さな島には、一面サトウキビ畑が広がります。信号は一つもなく、道ばたでのんびりと歩いているヤギに遭遇することも珍しくありません。

 

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⬆️沖縄の原風景が残る小浜島

 

近年、この島を有名にしたのは、平均年齢84歳のアイドルグループ「KBG84」です。

 

小浜【K】ばあちゃん【B】合唱団【G】の頭文字と、メンバーの平均年齢が84歳であることから命名されました。

 

80歳にならないとグループに入ることができず、入団式ではウェディングドレスを着て、恋バナを披露するのが慣例になっています。

 

彼女たちはすでにメジャーデビューをしていて、オリジナルソングも出しています。

 

「天国に一番近いアイドル」というキャッチコピーを掲げて活動するうちに、「元気なおばあちゃんたち!」とインターネット上で評判になり、「徹子の部屋」をはじめさまざまなテレビ番組でも取り上げられました。

 

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英「BBC」で取り上げられたことから海外でも注目されるようになり、高齢化に悩むシンガポールから「元気の秘訣を教えて欲しい」と招待を受け、2016年末についに初の海外公演を果たしました。

 

「センター」を務める92歳の仲目トミさんが、事前に英語の勉強に励む様子はNHKでドキュメンタリーとして放送され、話題を集めました。

 

2017年にはアルゼンチンのドキュメンタリー映画制作チームが、彼女たちを撮影するために来島しました。

 

離島で聞いた「人生100年時代の楽しみ方」

 

2016年以来話題の『ライフ・シフト 100年時代の人生戦略』(リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット著、東洋経済新報社)を読まれた方も多いかも知れません。

 

この本には、人間が100年生きるこれからの時代、人生を「学校」「会社」「引退」という3つのステージで捉える前提自体が変わり、働き方や価値観がますます多様化すると書かれています。

 

今後はこの3つのほか、自分の体験や分野を広げていく時期や、自分で仕事を生み出していくステージなどが加わり、いくつものステージが同時平行で進む「人生のマルチステージ化」が進み、100年ライフをよりよく生きるためにも「無形資産」が一つの鍵になると言われています。

 

無形資産はモーチベーションや人間関係、健康、好奇心や探求心、新しいことを学べる「オープンさ」などを指します。

 

著者の一人であるグラットンも、人生を支える「資源」をより広い観点から捉え直すことが大切だと説いています。

 

この本を読んでいるとき、小浜島のおばあたちのことが頭に浮かびました。

 

彼女たちこそ、「無形の資源」を積み上げながら、人生のライフ・シフトを楽しんでいると感じたからです。

 

なぜ信号が一つもない小さな離島のおばあたちが、海外公演までする「アイドルグループ」になったのか?

 

──そんな素朴な疑問にお答えしながら、彼女たちの持つ知恵をもとに、ライフ・シフト時代を生きるためのヒントをご紹介したいと思います。

引きこもり防止の食事会から「アイドルグループ」が誕生!

 

小浜島の人口は、およそ600人。

 

最寄りの石垣島から、約30分高速船に乗ります。ちなみに、東京─石垣島間は1950kmで、東京─上海間よりも距離があり、羽田発の国内線のなかでは最長距離路線だそうです。

 

小浜島は起伏のある地形なので、どこにいても海が見えます。島の周りにはサンゴ礁が広がっているので、エメラルドグリーンに光る海は本当に綺麗です。

 

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⬆️透明な海が一面に広がります。この写真は何の加工もしてません!

 

島の主な産業は、さとうきびなどの農業と畜産業。島の中心部には、小さな商店が1軒と民宿が数件あるだけで、沖縄の原風景を残すのどかな集落があります。

 

さて、小浜島のおばあたちの一日は、「ある日課」で始まります。

 

慶田盛英子さん(88)は、まず先祖に向かって手を合わせ、自分の子供たちとその家族、孫9人、ひ孫13人の1日の無事と健康、幸せを祈ります。

 

そして、お隣りの家へ歩いて行き、「おーい、あんた生きてるか? 一緒に東京に(合唱団の公演に)行くんだよー。まだ死んだらダメだよー」と声をかけるのだそうです。東京公演は、おばあたちの新たな目標なのです。

 

80歳を超えたおばあたちが公演することになったもともとのきっかけは、一人暮らしになったおばあたちの引きこもりを防ぐために始められた月一回の食事会でした。

 

気づいたら、島のおばあたちのほとんどは夫に先立たれて一人暮らしになり、歳も80を超え始めていました。

 

みんなに集ろうと声をかけた花城キミさんも当時すでに80歳を超えていました(現92)。そこで「残りの人生楽しく過ごすため、何かみんなで元気になれる方法はないかねえ」という話になりました。

 

そこで、キミさんが「初恋話」を始めたところ、これがものすごく盛り上がりました。

 

おばあたちの時代は戦争のせいで恋愛や結婚に心をときめかせている余裕はなかったので、「死ぬ前にウェディングドレスを着てみたい!」という声があがり、せっかくだからお化粧も華やかに着飾ってみんなで写真撮影をすることになりました。

 

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⬆️80代のおばあには見えないほど綺麗です!

 

これを機に「小浜島ばあちゃん合唱団」が結成され、新人メンバーの入団式にはウェディングドレスを着て、恋バナを披露するのが恒例になりました。

 

すると島内にあるリゾート施設のイベントに呼ばれようになり、初めてお客さんの前で合唱を披露したら「おばあたちの歌声を聞くと元気になる!」と大好評。毎年ステージに立つようになりました。

 

それ以来、島在住のシンガーソングライターつちだきくおさんが、月一回の練習をサポートしてくれることになりました。

 

彼が半分冗談で、「東京でおばあたちが歌って踊ったらうけるだろうね」と言うと、おばあたちから「じゃあ連れてって!」という声があがり、その場で東京行きが決定しました。

 

⬆️公演のため小浜港から船で旅立つ前に「うーとーと」(祈りの意味)するおばあたち

 

「死ぬ前に山手線に乗れる!」と、それはそれは賑やかな旅だったそうです。

 

東京では品川プリンスホテルで歌を披露し、テレビ番組にも出演しました。

 

ちなみにつちださんは、おばあたちのウェディングドレスの相手役を10年近く務めており、数年前におばあたちから賞状を受け取ったそうです。そこにはこんな一言が書かれていました。

 

「あなたは私たちのよき息子であり、よき彼氏です。」

 

ユーモアも忘れないそんなおばあたちの元気で明るい笑顔には、沖縄の太陽にも負けない「芯の強さ」と「知恵」があります。

 

不便な離島こそ「果報の島」

 

小浜島に簡易水道ができたのは1963年。それまでは天秤棒をかついで、井戸から水を汲んでいました。水道の蛇口から水が出るようになったのは、西表島からの海底水道が完成した1977年のこと。

 

電気が通じるまでは石油ランプでの生活で、テレビは長い間NHKのみ。民放放送が始まったのは、1993年でした。

 

⬆️ さとうきび畑が広がる

 

戦後の食料難に、離島ならではの不便さが加わり、台風が来たら5日間の停電は当たり前という厳しい生活。たくさんの苦労を経験したことは想像に難くありません。。。

 

それでも、おばあたちは、私に何度も何度も小浜島は「カフー(果報)の島=恵まれた島」だと何度も言うのです。

 

「平たくて水源が限られた他の島と違ってね、小浜島はとても水に恵まれている。島にはたくさんの湧水があるおかげで米や麦、サトウキビや野菜、なんでも作ることができた」

 

小浜島は、石垣島と西表島の間に位置するため、外洋の荒波から守られ穏やかな海岸に囲まれています。集落から歩ける距離にある海辺に出れば、アーサー(海藻の一種で沖縄では天ぷらにされる)やしじみを採ることができます。

 

さらに小浜大豆と呼ばれる島原産の大豆を使って、おばあたちは味噌も醤油も一から作ってきました。着るものも、学校の制服以外はほとんど自分たちで縫ったそうです。

 

小浜島のおばあたちが「着るものを自分で作る」と言うのは、綿花を育てて収穫し、糸を紡いで染色して、機織りし、着物に仕立てるということを指します。

 

綿だけでなく、苧麻(ちょま)や芭蕉という植物からも糸を紡いだり、琉球藍から自分の好みの色を出すなど、作り出す布地の種類も豊富。

 

しかも、おばあたちはこの全行程を誰もが一人でできるそうです! 元気な頃は家族全員分の着物を用意していたそうです。

 

「買ったものを着ると暑い。やっぱり麻がいい」と、藍染の名人でもある慶田盛英子さんは、自分で仕立てたというお気に入りの麻の藍染の写真を見せてくれました。

 

こうした作業は、日常生活に根付いた「祈り」でもあった、と言います。

 

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小浜島は沖縄のなかでも「芸能の島」として知られ、五穀豊穣に感謝する祭など年に4回ほど大きな祭事があります。その際のお供えものを用意すること、そして、神さまを島にお迎えする儀式を執りおこなうことは島の女性の重要な役割でした。

 

「神さまに、スーパーで買ってきた米や小麦粉で作った餅をお供えすることはできません。だから手作りします。砂糖はサトウキビから作り、塩は海水を汲んできて釜で塩炊きします。赤味噌、白味噌、酢も作りました。なければ作るのが当たり前でした。」

 

「お供えをするためにはいつ種をまき、いつ収穫したらいいのかがわかります。」

 

そう話すのは、合唱団最年長の山城ハルさん(99)です。

 

島の人たちの生活は祭事を中心に周っているとも言えます。

 

島の人は薬草の知識も豊富。熱冷ましのために使うもの、あせもを抑える薬草など、島に自生するものでほとんどの病気を治してきたというハルさん。

 

彼女が生まれて初めて健康保険証を作って病院に行ったのは、なんと97歳のときでした!

 

⬆️カジマヤー(97歳のときにおこなわれる長寿のお祝い)の祝福を受ける山城ハルさん。子供6人、孫18人、ひ孫31人、玄孫5人に恵まれた。お祝い当日は石垣島、沖縄本島、東京などから大勢の家族・親戚がお祝いに駆けつけた。PHOTO: KIKUO TSUCHIDA

 

変化があるときほど、「変わらないもの」を意識する

 

島の人にとって「生きる」ということは、「何もない」環境で必要なものを育てつくること。それがけっして当たり前じゃないことを知っているからこそ、島の祭事では人々の表情が変わります。

 

島民全員が島の女性が紡ぎ織った正装を着用し、(島の祭事には伝統衣装を着なくては参加することができません)、男性は笛を吹いて太鼓をたたき、三線の調べに合わせて歌い、踊ります。女性も一緒に歌い踊り、自然界への感謝を伝えます。

 

世界の儀礼や祭事を突き詰めていくと、人間が生きていくための知恵を伝えていくための社会の仕組みだという共通点があると、ある人類学者が言っていたことを思い出しました。

 

台風が来たらすべてが寸断される環境において、小浜島のこうした祭事は、一人ではけっして生きられない島で生まれ受け継がれてきた知恵を、おじいやおばあが全身で後世に伝えていく神聖な空間なのでしょう。

 

そうした祭事は、「人にはそれぞれの役割があって、誰もがお互いを必要とするもの」という精神を伝え、後世に受け継がれているように感じました。

 

97歳の長寿を祝う「カジマヤー」というお祝いでは、小浜島の小学校の全校生徒が竹笛をふき、孫やひ孫はもちろん、島全体でおばあたちを祝福しました。

 

小浜島おばあ④

 

小学校の授業で竹笛をはじめて取り入れた花城正美さん(元小浜小学校校長)はこう話してくれました。

 

「子供たちに、ただ『やりなさい』と言ってもやらない。でも、おばあの喜ぶ顔を見たいと、みんながんばって竹笛を練習しました。おかげで全員が笛を吹けるようになりました」

 

小浜島は、藍染めと織物でも有名です。ただ、小浜島の織物は、島の祭事で着るための正装として織られてきたため、商用として島外に出ることもなく、世に知られることもありませんでした。

 

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⬆️結願祭と言われる島での重要な行事(国の無形文化財に指定)

 

それでも、おばあたちは糸を紡ぎ、孫やひ孫一人ひとりの幸せと健康を祈って着物を織り続けてきました。

 

どこで知ったのか全国各地から「藍染や織物、祭事について聞かせてください」と、けっこうな数の来訪者があるそうです。

 

経験豊富なおばあたちの話は、「聞いておくべきことがある」と感じさせるもので、私自身も取材中に知りたいことが尽きませんでした。

 

ただ、いくら地域の繋がりが強い沖縄といっても、こうした繋がりが自動的に生まれるわけでもありません。

 

この小浜島も、かつては「保守」か「革新」かと政治をめぐって二分されたことがありました。そのせいで、島の主要作物であるさとうきびの収穫の際にはお互いに手伝うのが慣例だったのに、それが中断された時期もありました。

 

「そういうこともあったね。80過ぎると楽しく生きたいと思う。いまはみんなで笑ってるさあ」

 

小浜島のおばあの笑顔は、人生の涙も苦労も乗り越えた後の人生の勲章なのでしょう。

 

島のおばあたちは「私が生きている間に(藍染や織物)を学びなさい」と伝えています。

 

人生で何が一番大切なのかを学びなさい──私にはそんな風に聞こえました。

 

先述の『ライフ・シフト』には、「人生の移行や変わることがあるからこそ、何が変わらないのかを知ることが重要になる」とあります。

 

当たり前ながら、人の価値は物やお金だけでは図れない。

 

生産や消費とまったく関係ない次元に、存在する価値というものがある。

 

「ない」ように見えるときでも、常に「果報(恵み)」は存在する──。

 

おばあたちの存在と知恵は、私たちにライフ・シフト時代を生き抜くために必要なものを教えてくれます。

 

2016年12月、おばあたちは海を渡り、6,000人もの聴衆を前に堂々とシンガポールの晴れ舞台に立ちました。

 

おばあたちの中にはこれが初めての海外渡航になった人もいましたが、毎年祭事を執り行い、人前で歌い踊る経験を80年近くも積んできた経験がここで大いに役に立つことになったのでした。

 

「たくさんの人に元気を届けたい!」とステージに立つその姿は、まさに「自分の役割を果たす」小浜島の精神そのものでした。

 

自ら紡ぎ、染め、織った着物を身にまとって。

クーリエジャポン 2017年9月15日掲載  大仲千華

 

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新しい時代をほんとうの自分で生きるガイドブック「EMPATHY IMPACT」運営中。

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運営者プロフィール

 

国連ニューヨーク本部、東ティモール、南スーダン等で現地国政府の人材育成や元兵士の社会復帰支援に約10年従事に従事。国連の平和支援の最前線である南スーダンで80人強の多国籍チームのリーダーを務める。リーダーシップや仲裁について研鑽を積む。

 

米海軍大学院付けの専門家として、世界的な研修プログラムにおいて唯一の日本人女性として講師を務める。

 

燃え尽き症候群と二次受傷(PTSD)になり、心理学やカウンセリングを学び始め、回復・再統合する過程で直観能力とヒーリング能力が飛躍的に開花。

 

自由に活き活きと生きる人を増やしたい、応援したい、世界の課題にチャレンジする人たちをサポートしたいと思い、コーチングとカウンセリングを始める。

 

人生で尊敬する人は、沖縄小浜島のおばあたち。(*^-^)ニコ

 

https://www.facebook.com/empathyimpact/

2020東京五輪ホスト国として知っておきたいことー1964年東京五輪から2016年リオ五輪参加国はなぜ2倍になってるの❓❓❓

1964年東京オリンピック参加国はいくつ❓

なぜリオではおよそ2倍になってるの❓

1964年から2016年の間に何がおこったのでしょうか?

 

国連加盟国よりもリオ五輪参加国が多いのはなぜでしょうか❓

 

東京オリンピック vs リオ五輪.001

 

まず先に答えをお伝えします。

 

1964年東京オリンピック参加国は=94

2018年国連加盟国数=193

2016年リオデジャネイロオリンピック参加国=207です。

 

リオ五輪参加国がおよそ2倍以上になっているのは、1964年当時アフリカは多くの国がまだ「植民地」だったからです。

 

まだ独立国として東京五輪に参加できていなかったからです。

 

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「1964年10月24日、東京五輪閉会式の日、アフリカのザンビア共和国は独立した。
開会式とは違った新国旗を持って、残留したたった一人の選手が、誇りたかく入場行進してきた。満員の観覧席からは、精一杯の拍手が送られた。」

吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草より

 

当時の読売新聞にはこうあります。
「ザンビアのプラカードと旗手が入場し、最後に開催国日本の旗手・小野喬(体操)が入場した直後、各国の選手たちが一丸となって入り混じり、互いに手を握り、肩を叩き、抱き合い、踊りながら入場してきた。そして、すぐさま追いついた、日本とザンビアの旗手を肩車にして担ぎ上げた。」

 

1964年東京五輪は、敗戦後の悔しさから日本が国際社会への復帰をアピールする機会だと捉えられました。

 

では当時参加する人たちにとって1964年東京五輪はどんな機会だったのでしょうか?

 

アメリカの選手団もほとんどが白人選手です。まだ人種差別が公然と行われていた時代でした。

 

「平和の祭典」と言っても、世界の半分も参加していないですね。

 

では2020年東京五輪に参加する人たちにとって、五輪というのはどういう場なのでしょうか?

 

2020年五輪には国籍のない人たちや「難民」と呼ばれている人たちも参加できるのでしょうか?

 

ほんとうの意味での「平和の祭典」にするには、ホスト国として「私たちの視点」だけでなく、「彼らの視点」も持ちたいものです。

 

さて、中学校の総合的な学習の時間ではそんなお話しもしました。

 

なにより、国連の現場で見て感じたことをそのまま伝えることを一番大切にしています。

 

専門用語は使わず、わかりやすく心に届くようにお話しします。

 

「世界のことをもっと知りたいです!」
「勇気をもらいました!」

 

本何十冊読んでもピンとこなかったことが、腑に落ちますし、世界の最前線の現場の生の声に触れることによって、もっと知りたいと思って自然にやる気がおこります。

 

なにより、勉強する意味や目的ができることこそが一番貴重なことだと思います。

 

こんな感想をいただいています。

 

「答えを提示するわけでもない」という言葉に触れて、「自分の考えが間違いでも答えが一つだけではないと教えてもらい、私の支えとなりました。」

 

「私が使っている教科書には、紛争が起こる原因として宗教の違いと書かれて、私もそうだとずっと思っていました。でも、大仲さんのお話しの中で、ケニアの難民キャンプでは宗教が違くても普通に暮らしていたと伺いました。それを聞いて、紛争が終わらない理由は、みんなが宗教の違いが原因だと思い込んでいるからだと思いました。」

 

「一番印象に残っているのは、『大人になったら答えのない問題に立ち向かわないといけなくなる。だから、学生のうちから答えのない問いに立ち向かっていく勇気を持つことが大切』というお話しです。これからはこのことを意識して生活していきたいと思います。」

 

「現代社会の先端を生きる大仲様の話しはとてもおもしろかったです。」(笑)

 

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どうぞご連絡ください。

たくさんの人にお話しできることを願っています!

 

就職・転職活動に落ちても人は「死なない」ー肩書きも所属先もないときにどうするか?

就職活動に落ちても転職が決まらなくても人は「死なない」。

 

私は紛争地にもいたことがあるから分かりますが、人間っていうのは、基本的にはけっこう強い生き物です。

 

それよりも、私たちにとって、おそらく一番怖いことはどこにも属してない、社会から置いていかれるような感覚のことだと思います。

 

先日は、人間の根源的な欲求と不安について書きました。

参考記事➡️ 前に進みたいと思っているのに悩んで決められない時は、 「不安」を一つ一つ分解する

 

私自身、それを痛いほど痛感したのは、センター試験の2週間前に交換留学先のニュージーランドから帰国して、高校に在籍するよりも、卒業して自分で大学受験の勉強をすると決めた時でした。

 

卒業することを選んだのは、留学中に思ったよりも英語が話せなかった悔しさがあって、英語を勉強することなど、その方が自由に勉強ができると思ったからでした。

 

しかし、卒業して学生証もなくなって、高校時代の友人はすでに大学に入学している中で、私をおそってきたのは、先に何の保証もない一人取り残されたような感覚と、「自分はなにものでもない」という感覚でした。

 

「浪人生」という言葉の後ろ向きな響きも嫌だったし、英語や大学受験の勉強をしていたものの、すぐに勉強の成果が結果に表れるわけでもありません。

 

自分のモーチベーションを保つために、「自分はなにをしたいのか?」「自分はなんのためにこの勉強をしているのか」、「大学に入って自分は何をしたいのか?」ということに向き合わざるをえなくなりました。

 

結果を先にいうと、幸い希望の大学に入学することができました。

 

けっして簡単な時期ではなかったのですが、今振りかえってみると、人生の早いうちの段階で「なにものでもない」ことを体験できたのはよかったと思います。

 

日本には、4月一斉入社という世界の中でも稀有な制度があるため、大企業への就職を目指す人はとくに、大學四年生になると何十万人という学生が一斉に動き始めます。

 

そして、日本では、卒業したらすぐに会社に入るという流れになっています。

 

この制度では、「何物でもない自分」として一から自分はほんとうに何をしたいのか?と考える時期も機会もなく会社に入り、人によっては(今は減ってきていますが)そのまま会社を退職します。

 

すると、自分のアイデンティティーや拠り所が会社・所属先だけになってしまいます。

退職するとすぐに老ける人もいます。

 

私は国連という大組織にもいたのでわかりますが、大きな組織に入ると、 自分の価値=「組織の肩書き」のように錯覚してきて、 今度はその傘を出るのがすごく怖くなります。

 

欧米では、4月一斉入社という制度がないので、人それぞれに自分のペースで自分のやりたいことに向き合ったり、働く前に他の国でインターンをするといった体験をするなど、就職する前に自分の視野や体験の幅をひろげる体験を持つことが評価されます。

 

「なにものでもない自分」になれることはとても有り難いことなのかも知れません。

 

自分の「価値」は何かをやってることでも、肩書きとか所属先から来るものでもないとしたら、「自分はこういう人間です」と自分で自分の価値も存在も決めることができるから。