国際機関や外資系企業に応募する人へー自分のやってきた仕事や、研究、作品を日本を超えた世界での文脈で捉え直して、その価値を相手にわかるように表現しなおすこと

先日国際学会登壇エントリー用の構成についてご相談を受けて、いくつかアドバイスしたものが、見事に今度シンガポールで開催される国際学会でのプレゼンテーションの一つに選ばれたという報告をいただきました。

 

同じ大学の他の先生のエントリーは通らなかったのにもかかわらず、それは通ったとのことでした。3回そのようなことがありました。

 

ちょっと振り返ってみると、そのコツは、英語力でも翻訳力でもなく、論点を明確にするということ、そして「日本人的な謙遜」を超えて健全な意味で自分の仕事や研究の価値を認識し、さらに言うと、自分の「差異性」を認識するということ、だと思います。

 

これは国際機関に応募する人(p.11を書く人)の書類の書き方、海外で仕事をしたい人にもすごく関係することなので、どういうことなのか、記事に書いてみたいと思いました。

 

わたしは約10年国際機関というあまり日本人のいない環境で英語で仕事をしてきたので思考回路がかなり英語脳に近いです。

 

そして、とくに学会発表用の要約の場合に意識することは、この論文はいったい何を言いたいのか?という論点を冒頭で端的に明確にする、ということです。

 

自動的に訳を当てはめるのではなく、発表者の方が一番言いたいことと論拠や全体の結論を理解した上で英語脳的な思考回路で全体の構成を組み立て、最適な訳を当てはめるていくことです。

 

英語では、この研究はなんで重要なのか?この研究からどんな結論が導かれるのか?が非常に重要になるので、洗練された英文表現を考えるのは三番目くらいの優先順位で、論点をはっきりさせること、次に構成(ロジカルに結論まで展開されているか)の方が断然に大事であると実感しています。

 

シカゴ大学卒の学部時代の社会学のアメリカ人の先生からも、なんども「So What」? と聞かれたことを思い出します。

 

これは、英語で仕事をする人、英語でプレゼンをする人、英語で書く人にも共通する点なので、下記の「英語脳的仕事術」もぜひ読んでいただきたいと思います。

 

関連記事⇨国連ニューヨーク本部で学んだ「英語脳的仕事術/

 

そして、次に重要なのは、日本人特有の謙遜の表現を、言い直すことです。

 

日本の方が書かれるものは、結論もタイトルも全体的に控えめなものが多いように感じます。

 

ただし、英語という言語ははっきりとした結論を求める構造を持つ言語なので、この論文はいったい何を言いたんだろう?という点がわからなくなってしまうことがあります。

 

そして、おそらく一番大事なことは、自分のやってきた仕事や、研究、作品や創作活動の価値を英語圏(日本を超えた世界)での文脈で捉え直して、その価値を相手にわかりやすいように表現しなおすことであるかなと思います。

 

日本では「当たり前」だけど、世界から見たら「当たり前」ではないことも表現しなおすことも含まれます。

 

同じ思考回路を国連や国際機関、外資系企業などへの応募に応用すると、以下の通りになります。

 

(1)相手が求めていることは何か?

 

(2)自分のやってきた仕事はそれにどう当てはまるのか?

 

(3)相手の視点からみた自分の資質や仕事、経歴の強み・競争力は何か?

 

(4)自分が一番のCandidateであることの説得力や経歴とポストとの一貫性をどう持たすことができるのか?

 

(5)それをどう表現すればいいのか?

 

という5点を意識する必要があります。

 

国連に応募する方のp.11を何件か見せてもらったことがありますが、日本の文脈で自分がやってきたことの羅列に終わっているケースが以外に多いのです。

 

別の表現でいうと、

 

自分のやってきた仕事や、研究、作品や創作活動の価値を(一)世界の文脈で捉え直して、(二)その価値が説得力をもつように、(三)相手に伝わるように表現しなおすことがポイントいなると思います。

 

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答えを言うのも求めるのも簡単だけれども、自分で答えをみつけるようにサポートすること

先日、都内のある有名な老舗のお米屋さんの方とおしゃべりすることがありました。

 

こちらのお米屋さんの扱うお米はとても美味しくて、引っ越した先でもわざわざ送ってもらう人も多いそうです。

 

地元でも評判のお米屋さんです。

 

先日、「どのお米がお勧めですか?」何気なく聞きました。

 

すると答えはこうでした。

 

「うちはね、まずお客さんに数種類のお米の値段帯のお米を試すことをお勧めしているんですよ。」

 

なので、「このお米がいい」という銘柄を断定するような「答え」はありませんでした。

 

でも、その人にとってベストな「お米」をみつけられる方法を教えてくれたのだと思います。

 

そうなんです。

 

答えを言うのも求めるのも簡単ですが、いい先生は、その人が自分で必要な答えをみつける方法を教えてくれます。

 

わたしもそのような導き方でありたいと思っています。

想定外の事態、記録的、 観測史上初ーそんな形容詞が日々のニュースに溢れている今思うこととわたしたちが学ぶこと

観測史上初の記録更新、もはや形容しがたい猛暑が続き、突発的な豪雨大雨が全国各地で続いています。西日本に続き、東北地方、そして北陸地方でも突発的な豪雨があったそうです。

 

今週の月曜日には東京でも突然ゲリラ豪雨があって、駅が冠水したり停電が起きたり近所の家では雷で冷蔵庫が壊れたりしました。

 

昨日まで五日連続で台風が発生してこの現象は「観測至上初」だそうです。

 

ついたった半年ちょっと前のことなのに記憶のかなたに飛んでしまいそうですが、今年1月下旬には東京で氷点下の日が6日連続で続き、埼玉県でマイナス9.6度の寒さを記録するなど、やはり「記録的な寒波」と言われました。

 

今年の冬はかなり寒かったです❄️❄️❄️。。。

 

想定外

記録的大雨

観測史上初

考えられない条件が何重にも重なって起こった現象

前代未聞。。。

 

もはやそんな形容詞が日々のニュースに溢れています。

 

気象庁は後付けのように、いかに異常が重なった結果であるかをもっともらしく科学的に説明しようとするのですが、その説明を聞けば聞くほど感じるのは、「人間がコントロールできることなどない」ということです。

 

そして、それを人類に示すことは神さまにはまったくもって簡単なことだということです。

 

それはけっして神さまが怒っているというニュアンスではなく、わたしたち人類が目覚めるためのウェークアップコールであり、愛のメッセージだと感じます。

 

3.11東日本大震災からわたしたちが学ぶことの一つは「当たり前のことは一つもない」ということでした。

 

わたしは当時計画停電を経験したので、電気のつかない暖房のきれた部屋で過ごした時間をすご~く長く感じ、「当たり前」だと思っていたものがまったく「当たり前」ではなかったことを肌で感じました。

 

わたしたちに与えられているものはまったく当たり前ではありません。

 

自分の力で生きていると思っているほど、まったく自分の力でも生きてもいません。

 

努力がいらないという意味ではありません。人間が自分の力で何かをコントロールしている、と思っている生き方が限界にきている、という意味です。

 

その一つの表れがこの気候なのでしょう。

 

人間をはるかに超えた大きな力があるという「謙虚さ」を取り戻すときだと感じます。

書くことで「なんとなく」として終わっていた体験を「学び」と「資源」に変える

「なんとなく」として終わっていた体験を書くこと、言語化することはそれを「学び」と「資源」変えてくれる体験をしました。その一つがブログを書くことでした。

 

最初は人に伝えるということよりも自分の体験の整理のためでした。

 

書くという作業には追体験をするという効果があります。

 

書き始めると、忘れていたいろいろなことが思い出されてきました。

 

そして、書くことで「なんとなく」として終わっていた体験を言語化することになりました。

 

「言語化」することによって、過去の体験を整理することになりました。

 

そして、その体験で学んだことは何だったのか?という過去の体験を「学び」に変えていく作業となりました。

 

書くという作業をすると「ああ、わたしはあの時こんなことを感じていたな」と、当時は感じきれなかった思いを思い出したり、「ああ、わたしはあの時こんなことを学んだな」と自然に腑に落ちる瞬間がたくさんありました。

 

そんな作業を1年以上繰り返すうちに、「点」と「点」だったと思っていたわたしのキャリアに「線」が見え始めるようになりました。

 

スティーブジョブズもスタンフォードで習ったアートのクラスでフォントのデザインについて習ったことがアップル創業ですごく役に立ったと言っていて、「点と点がつながった」という表現をしています。

 

ただ、それはびっくりするようなすごいことでもなく、振り返ってみると「自然とやってきたな」と思ったことでした。

 

そして、改めて自分という存在について発見し認めていくことの中で、自分の強みやギフトが浮かびあがったというニュアンスでした。

 

当たり前だと思っていたことの中にすでにあったという体験でした。

 

ノートをつくって「振り返る」「書く」作業をお勧めします。

 

 

神さまに応援されるお願いの仕方ー「これじゃないと幸せになれない」ではなく⭕️⭕️とお願いすること

ここ数回、人生での選択は究極的にはたった二つしかないー「愛」か「おそれ」かーということについて書いています。

 

選択とは仕事だけでなく、人生のあらゆるところであります。

 

1日の中でも何十(百)回という選択の瞬間があるとも言われています。

 

日々の選択が人生の質にも直結しているとも言えます。

 

愛からの選択がどういうものかピンとこないと感じる人も多いと思うので、わたしの友人の愛の選択の例を少しお話ししたいと思います。

 

彼女にはガーナで育った二人の男の子がいます。

 

この8月から日本で一緒に暮らすことになり、東京で新しい住まいを探していました。

 

日本語を学んでいる子どもたちがアットホームに感じられる街がいい

 

日本語学校に通いやすいところがいい

 

日本語を学んでいる子たちの受け入れ体制が整っている区(市)がいい

 

職場への通勤が楽なエリアがいい

 

家族全員が暮らせる広さが欲しい

 

子どもたちの教育費がかかるので、家賃はできるだけ抑えたい

 

マンションの管理体制がしっかりしていてできればコミュニティーの雰囲気があるところがいい

 

毎日ご飯を楽しくつくれる快適なキッチンが欲しい

 

仕事から帰ってきて落ち着ける雰囲気の部屋が欲しい

 

というのが彼女の希望でした。

 

子を持つ母として、また仕事を持つ人としてごくごく当然の望みだと思います。

 

同時に、東京の家賃は高いし、ご存知のように2020東京五輪で首都圏のマンション価格は高どまりしています。

 

そんな物件はいったいどこにあるのだろうか?と、あてもないまま物件探しが始まりました。

 

気になるエリアに足を運んで街の様子を見てみたり、数件回ったのですが、ピンと来るものはなく「どうしよう」と落ち込んでいました。

 

さらに数件内見をしましたがまだみつかりませんでした。

 

すると、心配がとまらなくなってしまいました。

 

「このままみつからないんじゃないだろうか?」

「息子たちは日本の生活に慣れてくれるのだろうか?」

「いじめられたらどうしよう?」

 

そんな不安が押し寄せてきて止まらなくなった、と彼女は言います。

 

ただ、ちょっと心を落ち着けて、自分の心の状態に意識を向けてみると、彼女は自分の心の状態が「おそれ」にはまっていることに気づきました。

 

彼女は自分の心の方向を愛に向け直しました。

 

「心配に目を向けだしたらきりがないし、かといっていくら心配しても将来がよくなるわけでもない」と思って、「どうなるか分からないけれども息子たちを信頼すること」そして「全員にとっていい方向にいく」ためのサポートをお願いしました。

 

それからの展開は奇跡の連続でした。

 

評判のいい日本語学校がみつかり、見学へいくと先生たちの雰囲気もよく息子をここに通わせたい、と直感的に思ったそうです。

 

学校にも下見へ行き、評判のいい学区であることを確認しました。

 

その一点が決まると、次には考えていなかったエリアが頭に浮かびました。

 

そして、内見へいくと、とても協力的で業界に詳しい仲介の人に巡り会い、すごく親切に管理組合の様子など最終決断のためのポイントや見極め方などを教えてくれました。

 

その人のお陰で審査もスムーズに進みました。

 

首都圏で家族で暮らす住まいを探したことのある方ならわかると思いますが、「自分にとっての基準」や「優先順位」がわかっていなければいったいどこから始めていいのか途方に暮れてしまいます。

 

それこそ検討することも調べることも山のようにあります。

 

何年も引っ越しを考えながら、それこそ物件や環境など条件の比較表をつくっても、まだ気に入ったところがみつからない、決められないという人も知っています。

 

最後に決め手になったのは「ここなら家族で幸せそうに暮らせると感じた」という直感的な感覚と、この人なら任せられると思ったという仲介の人との出会いなど、大きな流れの中にいるというようなサポートを感じたことでした。

 

そして、実際に息子さんたちが来日してみると、マンションの人たちがフレンドリーでよかった、といった「あの直感はあっていた」と確認するような出来事が続いています。

 

もちろん、新しい国での生活ですからまだまだ慣れることはたくさんありますが、守られているような感覚があって、やっぱりあの直感を信じてよかったといいます。

 

これは住まい探しの例ですが、「自分に合う仕事探し」にもまったく同じことが当てはまりますね。

 

そして、彼女の件から「選択すること」についてわたしたちが学ぶことはたくさんあります。

 

① 絶対にこの物件に住まわせてください、というお願いの仕方ではなく、「全員が幸せに暮らせる場所」を願った

 

(これじゃないと幸せになれない、というのではなく、それがどこかわからないけど全員が幸せに暮らせる場所を教えてください、というお願いの仕方)

 

② 自分にとって重要な点、優先順位が明確だったこと(日本語学校に通いやすく、受け入れ体制があること)

 

③ いろんな場所に足を運んで、物件を何件も見た中で実際に自分で見て感じて場所や物件についての直感的な感覚を磨いた

 

④ 自分のライフスタイルや性格がわかっていて、これまで何度か首都圏に住んでいるので自分がどんなところに住めば幸せに感じるのかある程度わかっている

 

⑤ 大きな力のサポートを求め、お願いをした

 

⑥ 焦りや不安、心配につかまりそうになったら、それに気づいて愛を選択し続けた

 

⑦ 自分がどういう状態を望んでいるのかという状態に意識を向けてそれを感じた

 

最後の点は彼女が今回意識した点としてわざわざ教えてくれました。

 

 

こういう「いい事例」・「奇跡体験」を聞く人は、自分も同じ体験をするという原則があります。

 

そして、サポートや奇跡を体験した人は他の人にもその体験を伝えていくことができます。

 

「あなたにもできますよ」「あなたにも奇跡が与えられていますよ」と伝えていくことで、さらに多くの愛と奇跡を広げていくことができるのです。

 

「与えること」は「受け取ること」ですから、そうやってさらに愛と奇跡の循環がひろがっていくのです。

 

そういう意味では、「愛」と「奇跡」ををたくさん体験することは人の役にも立つのですね。

 

愛を選択しましょう。

 

サポートと導きを求めましょう。

 

すでにある奇跡に気づきましょう😊

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい

先週末、ガーナから日本にやってきたばかりの友人の子どもたち二人がうちに遊びにきてくれました。

 

簡単なご飯をつくったのですが、中一と高三の男の子なので、びっくりする位にたいらげるよ!と聞いてはいたものの、わたしの用意した分があっという間になくなって、びっくりしました(!)😆

 

みごとな食べっぷりでした!

 

それを見ながら、高校二年生のときにニュージーランドに留学したときのホストファミリーを思い出して、一年間もほんとうによく毎日ご飯をつくってくれたものだと感謝の気持ちで思い出しました。

 

私が帰国した後、わたしの両親が今度はうちの番だといって、一年間フランス人の男の子を迎えホストファミリーになりました。

 

わたしが大学一年生のときで、妹とわたしは部屋を彼に渡して、和室に布団を敷いて寝たりしたのですが、彼がきっかけでうちの家族はワインとチーズにはまり始め、その後、両親は彼の家族に会いにフランスに旅行をしたりしています。

 

父はもう30年以上も毎週末ある電話当番のボランティア活動をしています。

 

ガーナの子たちの食べっぷりを見ながら、わたしは両親から「与えるのは受け取ること」という原則を教えてもらっていたなと思います。

 

母としては4人分つくるのも5人分つくるのも変わらないと思っていたのかもしれないけれども、たった一回ご飯をつくるのは簡単だけど、一年になるとまったく違いますよね。

 

日本語のわからないときには、気をつかうこともありますし、病気になったら病院に連れていったり、保護者会にも出席します。

 

でも、新しく誰かを家族として迎えるという体験、彼の家族とのフレンドシップ、その後も続いている手紙、その後妹が留学したこと、などなどすぐに思い出す思い出や恩恵だけでもたくさんあります。

 

でも、もっと感じるのは、これは直感的に感じることなのですが、それ以上に何十倍もの恩恵を両親、そして家族全体に与えていただと感じることです。本当に感謝です。

 

それは、何をしたというよりも、見返りを求めないあり方に対してだったと思います。

 

やはり、与える人には返ってくるのだと思いました。

 

与えるとは「なにかをすること」とは限らないですね。

 

例えば、

誰かにあいさつをする。

笑顔をかえす。

目の前の人のいい点をみつける

相手をほめる

家族、友人、知人に思いやりのある言葉をかける

相手の健康や幸せ、成功を祈る

 

などです。

 

4歳の姪っ子は与えるのがとても得意です。

 

近所の電気屋さんのおじさんに満面の笑顔でニコニコと笑顔をふりまきます。

 

わたしは思い立ったら「元気?暑いけど元気でね」と頭に浮かんだ人にLINEメッセージを送ります。気持ちは四歳児のようにね!😊(笑)

 

喜んで与える人を神は愛してくださるからです。Ⅱコリント:9-7

 

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。ルカ 6:31

 

 

 

「愛がなければすべて虚しい」ー私たちの選択は究極的には二つしかない

先々月、母校(高校)の全学年合同の同窓会に参加する機会がありました。

 

そのときに学園創始者のカナダ人のシスターが残された言葉をまとめた冊子をいただきました。

 

改めて素晴らしい教育をいただいたものだと感謝の気持ちで包まれて帰ってきたのですが、その中でいくつか印象に残った言葉があります。

 

その一つは、「愛がなければすべて虚しい」という言葉でした。

 

その先生は今から50年以上前にカナダから来日され、まったくゼロから日本語を覚え、当時は電車も開通していないジャングルのような土地に校舎を建てられ、これまらゼロから学校設立の審査をやり遂げたそうです。

 

文部省の課す書類や基準には何度も気をくじかれそうになったものの、類まれなリーダーシップを発揮され、彼女の凛とした姿に文部省の官僚も最後はカナダ人を先頭とする新しい学校の設立に協力的になり、学校みんなが一丸となって学校設立にこぎつけたそうです。

 

結果からみたら、50年後、ジャングルだったような土地には立派な校舎はもちろん、1000人以上を収容するホール、温水プール、テニスコート、立派な音楽室ばかりか、なんとホールには昨年イギリスから職人さんたちを呼んで取り付けてもらったというパイプオルガンまでありました。

 

母校の発展ぶりに、なんと祝福された学校であったことかとそこで学べたことに改めて感謝しました。

 

そして、その校舎を見ながら、創設者のカナダ人の先生の言葉を思い出しました。

 

仮にいくら立派な校舎やパイプオルガンがあっても、「もしそこに愛がなければむなしい」と感じるのだろう、と。

 

逆に学校が始まってまもない時、大きな校舎に生徒たった11人で高校が始められた時でも(今は中高合わせて1,000人強います)、今のような設備はまったくなかったけれども先生と生徒の絆は強く、先生たちは情熱に溢れ、学校は愛に満ちていた様子が先生の言葉を綴った冊子から伝わってきました。

 

私は先生から当時愛を教えて貰っていたことの価値を改めて思いました。

 

昨日から、私たちの選択には究極的には「愛」(やすらぎ)か「おそれ」(不安・孤立・無力感の二つしかありません」というお話しをしています。

 

とはいっても、あまりにも不安やおそれに慣れてしまって愛という状態を忘れてしまっているという人も多いかもしれません。愛がわからなくなってしまっているかもしれません。

 

愛を別の言い方で表現すると、

安心、安らぎ、リラックス、広がりや拡大です。

 

自分の選択が愛に沿っているとき、

 

「なぜか大丈夫だろうと感じる」「人生が上向いているように感じる」、「よくわからないけどいい感じがしている」といった安心感のある、広がっていく感じ、開けていく感じを体験します。

 

6回セッションを受けられて、自分でもびっくりする位に予想を超えた新しい体験をされた方がいらっしゃいますが、彼女は、「その期間中まさに自分の力を超えた力があった」とお話しされていました。

 

この体験が貴重なのは、愛についていくら何かを読んで頭で理解しようとしてもそれは難しいことですが、彼女はその感覚をまさに体感したことです。

 

もちろん、人生ではいろいろなことが起こります。

いつも自分の望むように展開するとは限りません。

自分の望みどうりになるわけでもありません。

 

愛を忘れそうになることもおこります。

 

でも、そんな時でさせあなたの身体と魂は愛のある状態を覚えているのです。

 

「愛に戻りたい」というのは人間の魂レベルの本能だと思います。

 

しゃけみたいですね(笑)

 

さあ、みんなで愛に戻りましょう (*^-^)ニコ

 

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満たされたと思ってもその満足感があっという間に消えてしまうときー外のもの(学歴、会社、結婚)をいくら求めても満たされないわけ

自分に与えられた「学歴」や「経歴」を思うとき、だからこそ伝えることがある、だからこそ言うべきことがあるとこの数年よく思います。

 

それは「外のもの」(学歴、肩書き、会社名、経歴等)をいくら求めても、いくら集めても「満たされる」わけではないということです。

 

わたしは国連の中でも国連ニューヨーク本部のとくに優秀な人たちが集まる花形部署で勤務し、オックスフォード大学大学院からは奨学金をもらい、国連特使から仕事のオファーもいただき、ある世界的なプログラムでは唯一の日本人女性として教官も務めました。

 

東ティモール、カザフスタンとニューヨーク本部でそれぞれ経験を積み、その上で再び「独立国の誕生にかかわりたい」という願いも叶い、独立前の南スーダンに派遣され、上司にも恵まれ責任のある立場も任されました。南スーダンではある意味自分の力を引き出してもらいました。

 

そんな体験をさせてもらったことは、私にとって大きな財産ですが、それでも私の内側の世界には、怒りや混乱、そして虚無感がありました。

 

私の場合、それをはっきりを自覚したのは帰国して3.11に遭った時でした。

 

それまで長い間蓋をしていた蓋が外れたのです。

それまでつっ走っていた中で自分の内の思いや感情は一生懸命おさえられていたのだと思います。

 

その時に自分の中の混乱に直面して痛感したのは、肩書きや経歴や学歴といったものがあることと心の状態が穏やかで休まっているかどうかはまったく別のものだということでした。

 

外のもの(学歴、肩書き、会社名、結婚、子供の有無、高級マンションなどなど)をいくら求め、集めても満たされることはありません。

 

実際、そういうものを持っていても幸せを感じられない人はたくさんいますし、それどころか、いくら求めても満たされない「never enough=足りない病」になってしまうことは珍しくありません。

 

外のものは「条件付きの愛」です。

でも外に愛や承認を求めるかぎり、それはいくらあっても内を満たすことはでません。

 

精神科医で自身の離婚を経て、「愛とは怖れを手放すこと」など何冊もの著書を書くことになったジェラルド・ジャンポルスキー博士は、こう言います。

 

「私たちは過去にとらわれ、未来をコントロールしようとし、孤立し、切り離され、ただ一人で愛されもせず愛される魅力もないと感じています

 

満たされたと思ってもその満足感はあっという間に消えてしまいます

私を含めて多くの人が、いらだちや争い、苦痛、病気から逃れようとしてかなわず、むなしさを感じながら、その一方で古い考え方にしがみついています。

他の人や世間から何かを「手に入れる」ことを望んでいて、それがうまくいかないと、そのストレスが欲求不満、うつ病、肉体的な痛み、病気、死といった形で現れる結果になります

 

今と違った世界を見るためには、過去を捨て去り、みずからの考え方を変え、『今』をもっと強く感じ、心の中のおそれを消滅されることをよしとしなければなりません。」

 

私たちの内から満たしてくれるのは愛です。

 

愛はすでに与えられているものであり、何かをしたから愛されるわけではありません。

愛や承認を得るためにがんばらなくていいのです。

 

私たちの日常は選択の連続です。

 

選択は究極的には二つしかありません。

「愛」(やすらぎ)か「おそれ」(不安・孤立・無力感)です。

 

あなたがキャリア、仕事、人間関係、人生に求めているものは何でしょうか?

 

外のものや他人はやすらぎをあなたにもたらすことはできません。

 

満たされた人同士が幸せを分かち合うことができるのです。

 

心のやすらぎを求めましょう。

 

自分の内を満たすことを求めましょう。

 

https://www.amazon.co.jp/愛と癒し―ジャンポルスキーの「生き方を変える癒しの12の原則」-ジェラルド・G-ジャンポルスキー/dp/4899760760

 

 

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