幸せという状態について多くの人は大きな誤解をもっています。
例えば、
幸せというのは、
心通うパートナーがいて、通じあう体験や会話があって、
ときに笑いがあって、
自分を大切に扱ってくれて、
安らげる住まいがあって、
やりがいのある仕事があって、
助け合う人間関係があって、
充足感を感じていて、
いろんなことを話せる友人がいて、
健康に恵まれ、
充分なお金もあって、たまにはおしゃれして豪華な食事をしたり、旅行にいったりコンサートにもいくことができる。。。
社会の価値観が多様化しているので、
幸せの形もいろいろあると思いますが、
多くの人が思い描く「幸せ像」の一例をあえて言葉にしてみるとこういう形ではないでしょうか?
これ自体にはなんの異議もないのですが、
でも、「幸せ」や、または「人生」というゲームについては大きな誤解があるようなのです。
どんな誤解かというと、
そうでない状態は幸せではない、という誤解です。
例えば、仕事で嫌な人に会うこともあるかも知れません。誰かに自分の意見を否定されることもあるでしょう。
でも、それは、人になんと言われてもぶれない自分の自信を身につけることに役立っているかも知れません。自分のにんげんとしての器を広げるためかも知れません。
協力的な人間関係を築いていく「過程」には、もしかしたら「衝突」や「行き違い」があるかもしれません。
充実した仕事の影には、
試練も障害も
元気づけられることも
骨のおれることも
平和的なことも
対立的なことも
協力的なことも
競争的なことも
楽しいことも
苦しいことも
あります。
同様に、
人との関係でも
この楽しさをシェアできる人がいてくれてよかった
やっぱり食事は一人より二人の方が美味しい
と思うときもあれば、
けんかをする
相手の都合で何かをキャンセルすることになった
などなど、
パートナーがいるからこその喜びもあれば、
その逆もあります。
シングルの人は既婚者をうらやましがって、
既婚者は自由な独身者をうらやましがる、
というジョークは世界共通なくらいですから😅
つまり、
どんなことであっても、片面だけで成りたつことはありえません。
幸せというにはいつも望み通りにスムーズにいっている状態のことを
指すわけではありません。
試練を乗り越え自信をつけていくからこそ、充実感も感じるのです。
人生という「ゲーム」においては
半分だけを取り出して体験することはできないのです。
ちょっと、想像してみてください。
仮にあなたの周りにいる人たち全員が
みんなあなたを褒め称え、賞賛するとします。
誰もがあなたに向かって、ただただ賛同するのです。
最初のうちは確かに気持ちがいいかもしれません。
でも、あなたはきっとすぐに飽きるでしょう。
そして、相手に挑戦したくなるでしょう。
「何かあなたの。意見はないの???」と。
反対意見や刺激を求めたくなるのです。
ごうまんになって、チャンレジすることも人間としての成長も止めるでしょう。
なにより意欲ややる気自体を失うかもしれません。
多様性がないと人間は生きていけないですから。
なんでもうまくいって、
自分が絶好調だと思っているとき、
なんらかの予期せぬ出来事を体験することもあります。
どんな状況でも、常に物事には「両面」あります。
楽しいだけのこともないし、苦しいだけのこともありえません。
これは、単に表面的な慰めで言っているのではありません。
新しい仕事/パートナー/家/お金/人間関係(など)があったら人生はもっとよくなるに違いないと思いがちです。
でも、それは実際のところ、感情的な「幻想」をつくりあげて、逃げているだけかも知れません。
自分が見たいようにしか見ていないのかも知れません。
もしそうだとしたら、せっかく新しい仕事に恵まれても、人や職場がかわっても、別の装いで自分が避けてきたことを体験することになります。
どんな状況でも、常に物事には「両面」あります。
中庸、バランス、調和ー
仏教、ヨガ、ヒンズー教ー表現こそ違え、ありとあらゆる教えの中で、中庸の大切さが言われてきました。
人間が体験することのすべてはこのことを体験し、学び、人生を通して「中庸」にいたるためにあるとも言ってもいいのかも知れません。
真実は両方、そして目指すのは「中庸」ーその真ん中です。