自分がある出来事についてどう思っているかは、自分が決めればいい、というお話しをしました。
でも、みんながそれそれ違う意見を持ったらどうなるの?
という漠然とした疑問というか、不安を持つ人もいるようです。
それは、
日本では、
議論のルールというものを習ったことがない
議論というものをしたことがない
または、本当に違う意見を交わしてより理解が深まったという体験したことがない、
または意見はトップダウンで決められるものでただ従えばよい、
答えは「上」から与えられるもの
という権威主義的なやり方を当たり前とする文化や経験の問題だと思います。
でも、自分の意見を言わないことは、
相手を尊重していることにはならないし、
本当の関係を築くことにならないのも事実です。
そして自分の意見を持つことを止めるものに、いろんな誤解が理由としてあるようですが、
その一つは、人の意見と人格を同一視してしまうというものです。
私はその誤解を国連での勤務の1年目、苦い体験を通して学びました。
国連勤務の1年目初めての赴任地東ティモールでの出来事でした。
初めて、オーストラリアのダーウィンから初めて国連機というものに乗って東ティモールの首都、ディリに向かった日のことは今でも覚えています。
一緒に働くことになったのは、
チリ生まれのオーストラリア人、パキスタン人、イギリス生まれのパキスタン人、カメルーン生まれのドイツ人、オーストラリア警察から出向中のオーストラリア人の女性と日本人のわたしでした。
さて、チリ生まれのオーストラリア人はチリ人っぽいのか、それともオーストラリア人っぽいのか?
国籍を聞いただけではこの人たちはどんな人たちなのかさっぱり分かりません。
さて、始めての会議。
その中でチームリーダーに選ばれた一回り年上のパキスタン人の同僚の口からは、ショックな言葉が続きました。
「女は仕事ができない。」
そして、男性には挨拶をして、女性は無視するかのような態度。
オーストラリア警察から出向していた女性と私は顔を見合わせてまず怒りました。
そして、悩みました。
結論から先にいうと、そんな言動が続き、本部からヒアリングと事実確認、調停を担当する人が派遣されてきました。
その調停人の方は、まず双方の言い分を聞き、事実確認をするための質問をいくつかしました。
私は事前に書面で伝えていたことと同じことを伝えました。
そして、何回かそのようなやり取りが続きた後、
途中「だからこの人は何もわかってない!」と
私の方がカッとなってしまいました。
私がよく覚えているのは、その時の調停人の言葉です。
彼は落ち着いた口調でこう言いました。
「事実と人格を分けてください。」
「ここで聞いているのは(確認をしている)のは事実関係です。
何があったのかという「事実」だけを述べてください。
相手のパーソナリティーに言及することは慎んでください。」
私は、その瞬間にハッ!と気づいて本当にその通りだと思ったのです。
「「事実」だけを述べてください」とは、日本人の感覚からするともしかしたら冷たい印象を与えるのかも知れません。
でも、その時に私はすごく解放された気がしたのです。
この人はイスラム圏で生まれ、おそらくこれまで女性と働いたことがなかったんだろう。
そういう文化背景で、おそらくそういう考え(女性は仕事はできない)を持つようになって、
ただそれだけなのだ、と。
そういうことを平然と言い続ける人と一緒に働くのは決して心地よかったわけじゃないけど、
私個人に向けられたものではなかった、と。
私たちは、自分とまったく違う意見と持っている人に会ったり、自分の意見が否定されたりすると、あたかも自分という個人が否定された、と感じがちです。
相手の意見と人格をごちゃまぜにしてしまいがちです。
でも、その人の意見は世界の72億あるうちのたった一つの意見であって、
自分にとって真実でもなければ、同意する必要もないし、
その人の意見個人的に捉える必要はまったくないのです。
最近続けて職場でハラスメントを受けている・受けていたという相談を受けていますが、
それを聞く中でも、そこにショックや傷ついた体験がごちゃまぜになっていることが多いのを感じます。
まず、事実と感情を分けること、
事実と人格を分けることが大切です。
すると、事実関係が自然に整理されていきます。
《まとめ》
事実と感情をわける
意見と人格を分ける
事実を淡々と整理する
人の意見が自分の意見と違うからといって、それは個人的に嫌われたとか、尊重されていないとは違う
もしそういう感情や感覚があるとしたら、それは本当にそうなのか確認すること。