最近、考える力を身につけたい、という人が多いようです。
一生懸命仕事も勉強も頑張っているのに、上司や友人にちょっと突っ込まれると上手く答えられないことってありませんか?
会社に入ったばかりの時は、上司に「もっとちゃんと考えて」「自分の頭で考えろ」「考えが浅すぎる!」と怒られる人も多いかも知れません。
その原因のもっとも大きなものは、普段から物事を考える癖がついてないので、深く考えることができないということです。
では、「考える」ってどういうことをいうのでしょうか?
知性や知恵だ、という人もいます。
考える力と聞くとおそらく真っ先に思いつくのは「ロジカルシンキング」だと思いますが、ロジカルシンキングだけでも解決しない問題はたくさんあるだろうとは直感的に感じるところです。
そして、この複雑な時代、複雑になればばるほど知識の価値は下がります。
そもそも、「知性」てなんでしょうか?
知恵ってなんでしょうか?
そんなテーマの関連本を読んだ中でみつけたこの東大名誉教授の説明にけっこうシビれました。
知恵とは、
知性(intellect)に関する知覚(perception)と、
感性(sensibility)に関する感覚(sennsation)とが、
有機的に合成あるいは統合されて生まれるもの。
簡単に言うと、論理的に考えることとの全身で感じとること両方合わせて判断する、と言っているのです。
その感じとるものを仮に「感覚知」と呼ぶとしましょう。
頭で判断できるのは一部かもしれません。
それは紛争地にいたわたしには実感としてわかります。
わたしが独立前の南スーダンで働いていた時に、スーダン軍と南スーダン解放軍の衝突が続いていて、これは独立もあやういんじゃないかと感じたことが数回ありました。
その時のわたしの仕事の一つは状況分析とリスク分析でした。
リスク分析のためのフレームワークはあるのですが、
そこに数字を当てはめたら答えが出るわけでもありません。
ある程度のパターンはありましたが、その段階になると、それこそ全身の神経を研ぎすまさせて判断しないといけません。
政府要人、司令官や兵士の人、NGOの人たちなどに会って、
同時に全身で相手に耳を傾けて、情報収集をするのです。
この人は本当に和平合意を守る意思はあるんだろうか?
それとも形だけ守ります、と言っているだけなんだろうか?と判断をしなければいけません。
その状況によっては、あらゆる対応策を立てておかないといけないので、
本当に全身の神経を使うというのはけっして大げさではない表現です。
なので、考える、または判断する、決める、とは頭と同時に全身の感覚と第6感を使って行うものです。
これは南スーダンの人たちが証明しています。
南スーダンの識字率は女性で20%もいきません。
ほとんどの人は字が読めないのです。
それでも、逃げた方がいいのか、どうした方がいいのかを判断します。
きっとそうした感覚は敏感でしょう。
考えるとは判断するためです。
結論を出すためです。
決断するためです。
「考える」ために「考える」訳ではありません。
考えない、というのはロジカルシンキングなど考える方法を知らないのではなくて、
自分の意見ではなくて他人の意見を鵜呑みにしている
または、正解があると思っているのかも知れません。
でも、複雑な問題ほど正解はありません。
もっと言うと、
自分で判断すること
自分で決断すること
自分の決断に責任を持つこと
を避けているという面があるかも知れません。
逆に覚悟が決まると自分の中で自然と答えが出てきます。