受験、偏差値、就活、企業ランキング、芸能人ランキング、売れ筋ランキング。。。
おそらく、日本という社会は世界の中でも最も「ランキング」が好きな社会の一つだと思います。
ランキングがあることとは、一つの指標に従って、上か下かを格付けされるということです。
上か下があるということは「勝者」と「敗者」がつくられます。
競争という土俵にいる限り、勝つ時もあれば負ける時もあります。
若いときに、相対的な競争で格付けされた経験から、それイコール自分の能力や才能だと思い込んでしまって、自由に考えたり、挑戦するのをやめてしまったんじゃないか、と感じる例を垣間見ることはたくさんあります。
「勝った」場合もそうですし、「負けた」場合にも当てはまります。
私がいかにある一つの価値観の中にいたのかを肌で感じたのは初めてニュージーランドに留学した時のことでした。
ある晩、ホストファミリーとの会話の中で、日本の教育制度に話しが及んだ時に、私が「塾に通っていた時には、夜中に塾から帰ったこともあった。」というと、こんな答えが返ってきたのです。
「なぜそれが必要なの?」と。
とても短い単純な質問ではありましたが、私はその質問自体が「ショック」でした。
日本では質問されることもない私が当時「当たり前」だと思っていたことが「当たり前」ではないと初めて思ったからです。
この体験が一つのきっかけとなって、わたしは帰国後日本の大学の受験勉強をいっさいやめて、当時日本で唯一全て英語で授業を行っている大学へ入ろうと思いました。
この大学はいわゆる偏差値に当てはまらない大学だったのですが、それでとても自由になったような気がしました。
国連時代には世間的には「エリート」と分類される人達にたくさん会ってきました。
「この人はほんとうにすごいな」という人もいれば、理論は詳しいのに紛争地での課題に対処できない人もいました。
先の米国大統領選挙でもなぜトランプに投票?といろんな分析がありましたが、私たちの社会が一つの指標を前提としている限り、つねに勝者も敗者もで続けます。
私たちは、ランキングがあることによって、自分の頭で考えて判断しなくても済むし、ある種の「秩序」というか、一見もっともらしい理由が存在するかのように信じて安心したいのかも知れません。
ただ、その「指標」が妥当かどうか、あっているかどうかはまったく別の話しです。
これまでの学校制度も企業も、高度成長時代を前提としてきました。
最近ホリエモンが、「すべての教育は『洗脳』である」という本を出していますが、そこでの前提とは、工場や企業活動をいかに効率よく運営していくかであり学校の教育も独自性やクリエイティビティーを伸ばすものではなく、「従順で効率のよい労働者」を育てるかでした。
ただ、このモデルの限界がますますはっきりしてきています。
では、競争がなかったら私たちは何を目指せばいいのでしょうか?
一人一人がその人の潜在能力を最大限に活かすことです。
才能、興味、能力ー才能しかり、好奇心しかり、発想力しかり、その人にしかできないことがあるのです。
競うべきは昨日の自分です。
昨日の自分よりも一ミリでもいいから自分は「成長」したと思えればいいのです。