上司や友人にちょっと突っ込まれると上手く答えられない人へー自分で決めることを決めると「考える力」がついてくる

最近、考える力を身につけたい、という人が多いようです。

 

一生懸命仕事も勉強も頑張っているのに、上司や友人にちょっと突っ込まれると上手く答えられないことってありませんか?

 

会社に入ったばかりの時は、上司に「もっとちゃんと考えて」「自分の頭で考えろ」「考えが浅すぎる!」と怒られる人も多いかも知れません。

 

その原因のもっとも大きなものは、普段から物事を考える癖がついてないので、深く考えることができないということです。

 

では、「考える」ってどういうことをいうのでしょうか?

 

知性や知恵だ、という人もいます。

 

考える力と聞くとおそらく真っ先に思いつくのは「ロジカルシンキング」だと思いますが、ロジカルシンキングだけでも解決しない問題はたくさんあるだろうとは直感的に感じるところです。

 

そして、この複雑な時代、複雑になればばるほど知識の価値は下がります。

 

 

そもそも、「知性」てなんでしょうか?

知恵ってなんでしょうか?

 

そんなテーマの関連本を読んだ中でみつけたこの東大名誉教授の説明にけっこうシビれました。

 

知恵とは、

 

知性(intellect)に関する知覚(perception)と、

感性(sensibility)に関する感覚(sennsation)とが、

有機的に合成あるいは統合されて生まれるもの。

 

簡単に言うと、論理的に考えることとの全身で感じとること両方合わせて判断する、と言っているのです。

 

その感じとるものを仮に「感覚知」と呼ぶとしましょう。

頭で判断できるのは一部かもしれません。

 

それは紛争地にいたわたしには実感としてわかります。

 

わたしが独立前の南スーダンで働いていた時に、スーダン軍と南スーダン解放軍の衝突が続いていて、これは独立もあやういんじゃないかと感じたことが数回ありました。

 

その時のわたしの仕事の一つは状況分析とリスク分析でした。

 

リスク分析のためのフレームワークはあるのですが、

そこに数字を当てはめたら答えが出るわけでもありません。

 

ある程度のパターンはありましたが、その段階になると、それこそ全身の神経を研ぎすまさせて判断しないといけません。

 

政府要人、司令官や兵士の人、NGOの人たちなどに会って、

同時に全身で相手に耳を傾けて、情報収集をするのです。

 

この人は本当に和平合意を守る意思はあるんだろうか?

それとも形だけ守ります、と言っているだけなんだろうか?と判断をしなければいけません。

 

その状況によっては、あらゆる対応策を立てておかないといけないので、

本当に全身の神経を使うというのはけっして大げさではない表現です。

 

なので、考える、または判断する、決める、とは頭と同時に全身の感覚と第6感を使って行うものです。

 

これは南スーダンの人たちが証明しています。

南スーダンの識字率は女性で20%もいきません。

ほとんどの人は字が読めないのです。

 

それでも、逃げた方がいいのか、どうした方がいいのかを判断します。

きっとそうした感覚は敏感でしょう。

 

考えるとは判断するためです。

結論を出すためです。

決断するためです。

 

「考える」ために「考える」訳ではありません。

 

考えない、というのはロジカルシンキングなど考える方法を知らないのではなくて、

自分の意見ではなくて他人の意見を鵜呑みにしている

 

 

または、正解があると思っているのかも知れません。

 

でも、複雑な問題ほど正解はありません。

 

もっと言うと、

 

自分で判断すること

自分で決断すること

自分の決断に責任を持つこと

 

を避けているという面があるかも知れません。

 

 

逆に覚悟が決まると自分の中で自然と答えが出てきます。

「どうせ自分の意見を言ってもムダだ」と思う言いたいことが言えない本当の原因

私たちは自由に発想すること、考えること、やりたいことを削がされてきました。

 

最近そう思ったのは、ある小学校の前に飾られていた子供たちの絵がみんな同じような絵に見えたからです。

 

太陽があって、

お花が咲いていて、

子供たちが笑っている

 

いわゆる「いい子」の絵に見えました。

 

きっと、こう描いたら褒められる、または先生はこういうものを望んでいるんだろうという空気を読む能力が高いのでしょう。

 

ふと思ってしまいます。

 

子どもの描く絵なんだから、

 

紫色の太陽とか

みどり色のお月さまが

あってもいいんじゃないか?、と。

 

 

子どもたちはこういう絵が気に入られるだろう、

ということを敏感に察します。

 

同様に、なにげねい大人の一言で、自分が本当に描きたいことは描いてはいけないんだ、

もう自分の好きなように描くのはやめよう、と思うこともあります。

 

私の友人は小さい頃、運動能力があまりない、というか、バランスが悪くて走るのが苦手だったそうです。

 

ある時、徒競走があったのですが、その走り方をある大人に笑われてしまって、それから人前で走るのをやめてしまった、そうです。

 

または、好きに選んでもいいよ、と言われながら

 

「こっちの方が安いからこっちにしなさい」

「こっちの方がいいのよ」と

 

言われて結局自分の要望や意見が聞かれなかった(尊重されなかった)ということはよくあります。

 

 

それがあるレベルでは、

 

「どうせ自分の意見は尊重されないんだ」

「どうせ自分の意見は重要じゃないから」といった

 

 

思いグセの元にあるのかも知れません。

 

 

 

実は、そんな例はめずらしくありません。

 

 

だから、

 

やりたいことをやればいいよ、

好きなように決めてもいいよ

好きなことをやるのが成功への道

 

 

と言われても、

そんな時の経験が無意識に

自由に発想すること、求めること、考えることを止めているかも知れません。

 

 

 

でも、私たちはもう立派な大人です。

 

そんな意見はいつでも自分の中から解除できます。

 

 

自分が描きたいと思ったら、太陽の色はピンクでも紫でもいいのです。

それは元々誰の中にもあるものです。

そんな感性こそがその人をユニークにするものです。

 

 

自分が描きたいと思ったら、太陽の色はピンクでも紫でもいいのです。

 

おすすめは、自分だけの「自分ノート」をつくることです。

 

自分が感じたこと、思ったことをどんどん書いていきます。

 

 

ノート術

 

自分が感じたことや思ったことに間違いも正解もありません。

 

書き方も正解も間違いもありません。

 

 

色ペンを使ったり、シールなんか貼るのも楽しそうですね。

 

 

そうやって、自分の意見を表していくことに慣れていくことができます。

 

 

私たちは今すぐに自分の表現や意見、クリエーティビティーを取り戻すことができます。

社会人になったら本を最初から読まなくていいーぜったいに外してはいけないポイントを先に見極めること

社会人になったら本を最初から読む必要はありません。

 

自分に必要な一文、または自分が伝えたい仮説の根拠やデータを探すためにページをめくります。

 

それを学んだのは、オックスフォード大大学院でのチュートリアルでした。

 

チュートリアルとは、教授と学生が1対1、もしくは1対2で対話をしながら学んでいく個人指導でした。

 

アメリカの大学が授業でのディスカッションへの参加と毎週出される課題を中心に進んで行くのに対し、オックスフォードではこのチュートリアルこそが日々の学びのメインであって、講義の数自体もそんなに多くなく、講義はチュートリアルを補完するものとしての位置付けでした。

 

学生は、チュートリアルの前に資料(文献)を読み、そのテーマについてどんなことが言われていて、何が大切だとされているかについてまとめ、小論文という形で課題の質問に答えます。

 

文献の量は、1週間で20冊~50冊位のリストが渡されます。

 

オックスフォードでは、この作業を一年で、一学期8週間×3学期=計24回を繰り返します。

 

それだけ聞くと、さすが頭がいい人は読むのが早いんだろう、それだけできるんだ、と思われるかも知れません。ここでお伝えしたいのは、そういうことではなく、ここで学んだことは、「必要なところだけ」を読むという読み方でした。

 

本を最初から最後まできちんと読むということはほとんどありませんでした。単純に間に合わないからです。

 

ですので、自分が知る必要があることは何か?と先に決めて、目次を読んで、あたりをつけてそこから読みます。

 

それがなんとなく分かったら次の本を手に取ります。

そして同じことを繰り返して、仮説を検証していくのです。

 

私が入学したばかりの頃は、1冊目の本にかなり時間をかけていました。

しかし、単純にそれでは間に合いません。

一冊に時間をかけ過ぎていることに気づきました。

読み方を変える必要があったのです。

 

 

最近、「考える力」に教えて欲しいと言われたので、考える力について書かれている本をまとめて15冊くらいはざっと目を通しました。

 

思考法、クリティカルシンキング、質問する力、などのタイトルでした。

 

その中の数冊はパラパラ開いて1分でおしまいになりました。

その中の数冊は一冊につき、30分くらいかけて目を通しました。(付箋が3つくらいついてメモしました)

その中の2冊はジムでバイクで6キロ走りながら30分で読みました。

ある一冊は、数時間かけてじっくり楽しみんがら読みました。

 

もちろん、カフェで本を片手にのんびりしたいという時に読む本もありますし、寝る前に読む本というものもあって、こちらは読むと精神が落ち着くような一日一章じっくり味わって読むようなものです。

 

ここでお話ししているのは、限られた時間内になんらかのアプトプットをしないといけない場合のことです。

 

これは、社会人の仕事のやり方にそのまま当てはまります。

 

大量の仕事が目の前にあるときに、これを真面目に最初から最後まで「ちゃんとやりたい」と思ったら終わりません。

 

残業が続いて、自分をすり減らすことになってしまいます。

 

これを終わらせるために、ぜったいに外してはいけないポイントは何か?を先に見極めることが大切です。

 

そして、それに自分しかできない付加価値を加えられるとしたらなにか?自分にしか言えないこと、自分にしかできないことは何か?ー自分に問い続けることです。

嫌いな仕事に1日15分取り組んで10日たったらー自分が自分の約束を守るとおきた奇跡

今日は奇跡がおきました!

 

 

それは私の苦手で嫌いなことを楽しい!と思えたのです。

 

しかもやりたい!とさえ思ったのです。

 

それは何かと言うと、経理作業についてです。

 

最近はいろんなクラウドソフトがあって、入力作業もバランスシートなどの必要書類の準備もクリック一つで簡単にできます。

 

それでも、私にとっては正直あまり好きではない作業です。

 

なので、こうした作業をつい後回しにしてしまうパターンを繰り返していました。

 

でも、ついに、同じことをやってる自分が嫌になって、

毎日15分でいいからルーティン化することにしました。

 

とはいえ、

 

正直、最初は腰が重いというか「イヤイヤ」やってました。

 

10日間位たった頃でしょうか。

 

楽しい!と思ったのです。朝起きて早くやりたい!とさえ、思ったのです。

 

驚きました😝

 

だって、クリエイティブな作業の方がずっと得意な私みたいなタイプの人にとって、経理作業というのはその逆に位置するものだからです。

 

確かに地味だし、クリエイティブとは真逆的な作業ではあるでしょう。

 

そういう作業が好きな人というのが世の中には存在すると思うので、

きっと誰かにお任せすることになるでしょう。

 

でも、誰かに任せるにしても、この作業に対する漠然とした苦手意識を感じたままじゃ嫌だなと思ったのです。

 

さて、

このプロセスは何だったのかなと考えてみると、

経理作業そのものというよりは、

 

たとえ自分にとって嫌いな分野でも

自分が自分に対して決めたことに対して責任をもつということ、

それを守ったことによる「快感」だったと思います。

 

もし、頭に脳波を測る装置をつけたら、きっとなんらかの脳内分泌が起きていたと思います😇

 

そして、セッションの予約を5件続けていただきました。

 

しかも。お手伝いしますというお申し出までいただきました!(本当です)

 

 

自分が自分に対して決めたことを守ること、

つまり自分が自分を尊重するというのは、

こんなにもパワーをくれるものなんだ!💡と正直驚きました。

 

苦手な分野なだけになおさらですね。

 

つまり、自分の信頼度を貯金しているわけですね。

 

それで予約がすぐに入ったので、宇宙は分かりやすい印をくれるものです。😊

 

逆にいうと、自分の信頼とパワーをそぐものに要注意です。

 

例えば、

誰にでも簡単に約束すること

自分が望まないことにイエスと言うこと

やると言ったのに実行しないこと

 

やりたくないならノーという方が誠実ですし、

 

目標を立てても心の底ではやりたくないのならば、やる気のあるふりをするよりも、その根本原因に取り組む方がよっぽど誠実です。

 

そして、どうしても好きになれない仕事を自分をだましながらやっているのならば、それも自分に正直ではありません。

 

もし、今の段階ではできない事があったら自分を責めるのでもなく、その原因を理解して、どうしたら改善できるのか考えましょう。

 

 

私たちは日々自分に対する信頼貯金を貯めています。

 

もし、今の段階ではできない事があったら自分を責めるのでもなく、その原因を理解して、どうしたら改善できるのか考えましょう。

 

どうしたら上手くできるのか考えましょう。

 

まだまだ、続けていくので、さらなる「脳内反応」?を観察してみたいと思います❗️

好きなことをやるのに自信はいらないーなぜ日本人は自信がないのか?

自信がないとはやっかいだ。

 

自信がないのがやっかいなのではなく、「自信がない」の本当の理由がわかっていないから。

 

「自信がない」とは不思議だ。

 

人が「自信がない」と言うと、科学的であたかももっともな理由のように聞こえるから。

 

「自信がない」現象はあまりにも漠然としていて、何をしたら自信がつくのか?本人もはっきりと分かってないから。

 

 

そういう私も3月末に突然霧がかかったように、前が見えなくなってしまって、さっぱり書けなくなってしまいました。

 

一文字も。。。。

ぜんぜん。

まったく

 

 

スランプ?という言葉が頭をよぎるものの、原因がよくわからない。。。

 

連載をしている先の編集者さんからは、「大仲さんの記事は安定的なアクセスがありますよ。どんどん書いてください」とも言っていただいたし、書くネタはたくさんあるはずなのに。

 

これはつらいです。

 

そんな状態が1ヶ月以上続いて、もうやだ!こんな状態抜け出したい!、と思った時に、ふとわかった気がしました。

 

「自分ってたいしたことないな」って認めるのが怖かったんだって。

 

なにか新しいことや新しい分野に挑戦しようとする時、私たちは無意識的にいろんな「シュミレーション」をします。

 

もしこうだったらどうしよう?

もしああだったらどうしよう?

 

という「もし~だったら」「もし~だったら」が何個もあります。

 

 

あるレベルにおいては、すでに次のステップややりたいことは先に見えているのに、それがモヤモヤとなって目の前に「きり」をかけてしまうのです。

 

でも、そんな時こそ大抵誰かと比べています。

 

というか、その分野の先駆者や成功者と比べています。

 

その人がどれだけ苦労や努力をしたのかも知らずに、

 

「私はあんな才能がない」と、

 

 

または

 

誰かと比較して、もし~だったらどうしよう?と足をすくめているのです。

 

 

日本人の選手の中にはせっかく銀メダルをとったのに、人によっては顔面蒼白に世界一の失敗者であるかのような顔をしている人がいます。

 

数年前なでしこジャパンがW杯で準優勝した時がそうでした。

 

ブラジル人はオリンピックに出るだけで、踊って大騒ぎしてお祝いします。それだけで町・村中あげてのヒーローでしょう。

 

逆に、オリンピックで計22個ものメダルを獲得する偉業を成し遂げたマイケルフェルプス選手(競泳)は、3回もオリンピックにでて何個もの金メダルをとりながら、ようやく最後(リオ五輪)で心から納得できてもう悔いはない、と言った選手もいます。

 

日本は競争や比較の意識が強い国です。

 

でも、それがオリンピックの決勝だろうが、フルマラソンだろうが、3キロランだろうが、中学生バレー大会だろうが、「負けて」悔しかったけど清々しい顔をしている人もいます。

 

もちろん、勝負はつきますが、本人の中では勝ちだったのでしょう。

 

負けたのは確かに悔しい。でも一生懸命やった。だから、悔いはない。

 

本人は納得して、晴れ晴れしています。

 

一番悔しいのは「スタートライン」に立つことさえもやめてしまった人です。

 

 

誰かの意見や他人の指標で自分の可能性や結果を判断させてはいけません。

 

自分さえ納得すればいいのです。

問題が複雑になればばるほど知識の価値は下がるという公式

最近、考え方について教えて欲しいと言われました。

 

確かに、考える方法についての本がたくさん出ています。

私はある会員制のライブラリーの会員ですぐに話題の新刊に触れるので、けっこう敏感です。

 

 

この写真は、この2週間だけで目にした「考える系」の書籍です!(びっくり)

 

 

確かに、考えられない人が増えている、とよく聞きます。

なんでも、ググッてなんらかの情報が得られるからでしょうか。

 

AI(人工知能)の時代が始まっているのをリアルに感じ始めてるからでしょうか?

今の教育と社会や企業のニーズがあってないとも聞きます。

 

詰め込み式の暗記教育は今の問題を解決できない、とも言われなす。

今の問題は複雑すぎて、今までの知識の延長で答えがでるわけじゃないからです。

 

 

しかも、問題が複雑になればばるほど知識の価値は下がる、という公式があります。

それは本当にその通りだと思います。

 

世界が複雑になると知識の価値は落ちる

 

⏫ Q思考より

 

では、「考える」ってどういうことをいうのでしょうか?

 

それに答えるために、そもそも「考えてない」と言われる現象はどういうことなのかを見てみたいと思います。

 

ー今までと同じことしか出てこない

ー頭がからっぽになる

ーモヤモヤしたままで思考停止状態になってしまう

ー会議で意見を求められても無難なことを言ってしまう

ーここではこういう意見が求められているだろうと思われていることを言う

ー答えはこうだろう、先生はこういう答えを欲しているだろう、という意見を言う

ー思っていることが口に出せない

ーこんなこと言ってもいいんだろうか、と自分の意見を引っ込めてしまう

ーどうせ私の意見は大したことないし、と思ってしまう。

ーマニュアルじゃないことは答えられない

 

 

さらに、それを掘り下げてみます。

それってどういうことでしょうか?

 

ー視野が狭い(同じ延長しか考えられない)

ー教えられたとおりにしかできない(自分で判断できない)

ー自分の意見を表現する自信がない

ー自分の意見を否定されるのがこわい

ー自分の意見が大したことないと言われるのがこわい

ー感情がモヤモヤとなって見えなくさせている

ーさめてる

ー諦めてる

ーどうでもいいと思ってる

ー不安でいっぱい

ー失敗するのがこわい

ーこうであるべきだという自分の中の理想像や完璧主義で自分を縛っている

ー対立や摩擦がきらい

ー他人に合わせているので自分の意見がわからない

 

 

その原因は?

ーいつもこうやるべきだというやり方を教えられてきた

ーピラミッド型の組織で自分の判断を求められることがない

ー自分の意見が本当に尊重された体験がない

ーただいろんな意見があってもいいという場を体験したことがない

ー自由にみんなが意見を出してそれが一つのより大きな答えを生み出す体験をしたことがない

ー正解があると思っている

ーお手本がどこかにあると思っているから考えるのをやめてしまう

 

思いついたことをブレスト的にリストアップしてみました。

 

ではどうしたら自分で考えられるようになれるか?

 

なかなか深いテーマですが、続けて書いていきたいと思います。

自分が身をおく環境が大事なわけー「10秒の壁」を一人が超えると次々と周りも越えていく同期現象

なぜ何十年も破られなかった「10秒の壁」を一人の陸上選手が超えると次々と記録が更新されていくのでしょうか?

 

1983年に陸上のカールルイス選手が100メートル走で「10秒の壁」を破った時に、彼は超人と言われました。ただ、何十年も人類が超えられなかった「10秒の壁」を一人が超えると、人間の身体能力自体はそれほど変わっていないはずなのに、その数年内で9秒台で走る人が続出しました。

 

「できる」ことが当たり前になってくるからです。

 

この10秒越え現象は、このような現象とも原理を同じくしています。

 

ー何万もの蛍が一斉に発光を始める。

ー一緒にいる女性の生理の周期が似通ってくる。

ー象の群れは歩くリズムが同じである。

 

 

一つの鍵は同期現象(synchronization)と呼ばれるものです。

 

同期現象とは、「一つ一つはバラバラに動いているのに、全体がなぜか揃ってしまう」現象のことです。

 

その科学的な詳細についてはハーバード大学のサイト(https://sciencedemonstrations.fas.harvard.edu/presentations/synchronization-metronomes)に譲りたいと思いますが、論より証拠。

 

最初はバラバラだった32個のメトロームが合っていくこちらの動画を見てみましょう。2分~3分まではぜひ見ていただきたいと思います。

https://www.youtube.com/watch?v=5v5eBf2KwF8

 

最初はバラバラだった32個のメトロームが一斉に揃っていきます。

この一糸乱れぬリズムすごいですよね!

 

さて、このメトロームの実験は私たちの日常にどう関係するでしょうか?

 

まず、自分が身を置く環境はとても大事だということです。

 

そして、自分の針がどのような方向に向きを向けている方向に気づいていることがとても大事だということです。

 

例えば、なんとなくネットサーフィンを続けていると、針が暗いニュースに「同期」されがちです。なぜなら、ネガティブやセンセーショナルなニュースの方が売れるからです。ネット系のニュースはさらにその傾向が強いです。その理由でネット情報やテレビは最低限という人もいます。

 

とくに、「日本人」は、一斉に針に合わせて突進する性質が強いと言えるので、自分の針の向きを知っていること、整えることが大切です。

 

こちらの音楽とてもお勧めです。向きが整えられていくのを感じます。

 

心を震わす演奏に拍手がおき、刑務所なのに人が踊りだす映像は必見です。

 

 

優等生は報われないー「我慢すると怒りがわく」「わがままをすると成功する」

私たちはいつの間にか洗脳されています。

 

どんな洗脳かと言うと、

めいわくをかけちゃいけない

わがままな人になってはいけない

ちゃんとやらなきゃいけない

仕事とは「がまん」してやるもの

がまんして一生懸命がんばれば幸せになれる

という洗脳です。

 

 

ここには、より根本には何かをしたから認められる、という前提があります。

そこには何かをしたことで褒められるという構図が植えつけられています。

 

勉強ができたからえらい、

ご飯を全部ちゃんと食べてえらいね、

泳げるようになってえらいね、

という具体です。

 

そして、それは私たちが大人になってからも、深い部分での「動機」となって私たちを動かし続けています。

 

大人になっても私たちは「何かをしたから愛される」と思っています。

 

こんなに偉く(肩書きに)なったから

こんなに収入があるから。。。

いいお母さんだから(こんなに料理をしているから)

 

 

同時に、同じくらい愛されなくなることも恐れています。

その愛は何かを達成したことやなんらかの行為に根ざしているからです。

 

でも、そうやって私たちは心をすり減らしてしまいます。

 

なにより、自分がやりたいことが分からなくなってしまいます。

ほめられることと優先するばかりに、自分の焦点を他人の価値観に合わせてきたからです。

 

しかも、実際はそんな人ほど心の中で怒っていたりします。

 

または、体中でがまんをためて、病気になったり、うつになったりすることもあります。

意欲も気力も感じられない、という人もいます。

 

 

しかも、さらに悪いことに、我慢し続けるとわがままで傲慢になったりします。

 

どういうことかと言うと、

自分はこんなに我慢しているのに

自分はこんなに尽くしているのに

 

という思いがつのってきて、

相手から褒め言葉やお返しが思うように返ってこないことに常に心の中でイライラや不満をためるからです。

 

これは非常にストレスです。

 

なぜなら、自分の満足は相手の反応次第だからです。

 

もちろん人の言動はコントロールできません。

 

コントロールしようとすればする程ストレスは上がるでしょう。

 

わがままはいけない」と蓋をすることで皮肉なことに心の中では「超わがままちゃん」になっているのです。

 

 

 

ではどうしたらいいでしょうか?

 

「わがままでもいい」といったんわがままをゆるすことです。

 

人間には誰でもある程度わがままな部分があります。

それは本当にそうです。

それを前提にすると「ああ、自分にはこんなわがままなところがあるな」とただ受け入れることができます。

 

そう言うと、

「わがままであることを認めたらもっとわがままになるんじゃないですか?」

という反応が返ってきたことがあります。

 

確かに、一時的にはそういうこともあるかもしれないけど、それを受け止めるとより楽チンな人になります。

 

楽チンな人という意味は、自分の弱みもわがままなところもただ受け入れている人、という意味です。

 

自分を受け入れている人は、周りの人にとっても、無理やりこちらに合わせてお返しを水面下で期待している人よりも、一緒にいて楽チンで、なにより魅力的です。

 

 

 

そして、もう一つ大事なことがあります。

めいわくをかけてはいけない=なんでも人に合わせればいい、という訳ではないことです。

 

もしかしたら、めいわくをかけてはいけないという理由で、自分の意見を持たない、自分の意見を伝えない、自分で自分の選択に責任をとらない言い訳になっていませんか?

 

 

人に合わせることの一番の弊害は、自分の行動や選択の責任をとらず、誰かのせいにしていることです。

 

上司のせい、政府のせい、会社がわるい。。。

 

つねに誰かしら「悪い人」がいます。

 

いくらでも何かや誰かのせいにすることはできますが、自分の幸せも誰かや何かに依存しています。それは本当の幸せや充足感とは違います。

 

そんな終わりのないストレスにさらされるよりも、小さなことを一つづつでもいいから自分で決めていく方が、自分で決めている、自分の足で人生を生きている、という感覚を得られます。

 

わたしたちはもっと自分に正直に「わがまま」に生きていいのです!

 

受験、就活、芸能人ランキングーなぜ日本人はランキングが好きなのか?

受験、偏差値、就活、企業ランキング、芸能人ランキング、売れ筋ランキング。。。

 

おそらく、日本という社会は世界の中でも最も「ランキング」が好きな社会の一つだと思います。

 

ランキングがあることとは、一つの指標に従って、上か下かを格付けされるということです。

 

上か下があるということは「勝者」と「敗者」がつくられます。

 

競争という土俵にいる限り、勝つ時もあれば負ける時もあります。

 

 

若いときに、相対的な競争で格付けされた経験から、それイコール自分の能力や才能だと思い込んでしまって、自由に考えたり、挑戦するのをやめてしまったんじゃないか、と感じる例を垣間見ることはたくさんあります。

 

 

「勝った」場合もそうですし、「負けた」場合にも当てはまります。

 

私がいかにある一つの価値観の中にいたのかを肌で感じたのは初めてニュージーランドに留学した時のことでした。

 

ある晩、ホストファミリーとの会話の中で、日本の教育制度に話しが及んだ時に、私が「塾に通っていた時には、夜中に塾から帰ったこともあった。」というと、こんな答えが返ってきたのです。

 

「なぜそれが必要なの?」と。

 

とても短い単純な質問ではありましたが、私はその質問自体が「ショック」でした。

 

日本では質問されることもない私が当時「当たり前」だと思っていたことが「当たり前」ではないと初めて思ったからです。

 

この体験が一つのきっかけとなって、わたしは帰国後日本の大学の受験勉強をいっさいやめて、当時日本で唯一全て英語で授業を行っている大学へ入ろうと思いました。

 

この大学はいわゆる偏差値に当てはまらない大学だったのですが、それでとても自由になったような気がしました。

 

国連時代には世間的には「エリート」と分類される人達にたくさん会ってきました。

 

「この人はほんとうにすごいな」という人もいれば、理論は詳しいのに紛争地での課題に対処できない人もいました。

 

先の米国大統領選挙でもなぜトランプに投票?といろんな分析がありましたが、私たちの社会が一つの指標を前提としている限り、つねに勝者も敗者もで続けます。

 

私たちは、ランキングがあることによって、自分の頭で考えて判断しなくても済むし、ある種の「秩序」というか、一見もっともらしい理由が存在するかのように信じて安心したいのかも知れません。

 

ただ、その「指標」が妥当かどうか、あっているかどうかはまったく別の話しです。

 

これまでの学校制度も企業も、高度成長時代を前提としてきました。

 

最近ホリエモンが、「すべての教育は『洗脳』である」という本を出していますが、そこでの前提とは、工場や企業活動をいかに効率よく運営していくかであり学校の教育も独自性やクリエイティビティーを伸ばすものではなく、「従順で効率のよい労働者」を育てるかでした。

 

ただ、このモデルの限界がますますはっきりしてきています。

 

 

では、競争がなかったら私たちは何を目指せばいいのでしょうか?

 

一人一人がその人の潜在能力を最大限に活かすことです。

 

才能、興味、能力ー才能しかり、好奇心しかり、発想力しかり、その人にしかできないことがあるのです。

 

競うべきは昨日の自分です。

 

昨日の自分よりも一ミリでもいいから自分は「成長」したと思えればいいのです。

 

 

ノーベル賞受賞者5人と会って考えたーいざという時チャンスを逃さない質問❗️

いざという時、チャンスを逃さない質問はどんな質問でしょうか。

チャンスは突然やってくるからです。

 

これまで、ノーベル賞受章の方に5人ほどにお会いしたことがあります。

 

アマルティアセン

マーティ・アハティサーリ氏

ジミー・カーター氏

リゴベルタ・メンチュウ

コフィー・ーアナン前国連事務総長

です。

 

ある時は講演の聴講者として、ある時は同じ会議の参加者として、ある時は機内で、または同じ組織の一員として。。。

 

世界で女性初の防衛大臣を務めたフィンランドの元大臣の方や国際赤十字委員会(ICRC)のトップとランチをご一緒したこともありました。

 

そういう機会はある日突然やってくるものです。

 

お話しをさせていただくことができたり、ある時はせっかくの機会があったのにもかかわらず、一言も発せられないまま終わってしまったこともありました。

 

そんな体験を重ねて、もしたった一つだけ質問をすることができたなら、どんな質問をしたらいいだろう?と考えるようになりました。

 

そういう人には「本物のオーラ」があり、「ともかくこの人からには学びたい!」と思わせる何かがあるものです。

 

または、そういう役職こそなくても、「ほんもの」に出会う時、ビビビっ!とそれまで眠っていた細胞さえもが目覚めるように、ともかく何かを聞きたい、と感じることもあります。

 

でも、仮にたった一つしか質問する時間がなかったとしたら、どんなことを聞くのがいいのでしょうか?

 

しかも、相手が言っていることをより理解し、同時に、 相手への敬意を示し、信頼関係の構築にもなる質問があるとしたら、それはどういうものでしょうか?

 

それをお伝えする前に、簡単に先に挙げた方の功績とお会いした時の感想(あくまでも個人的なものです)を簡単にお伝えさせてください(敬称略)。

 

マルッティ・アハティサーリ(2008年ノーベル賞平和賞受章):

 

元フィンランド大統領でコソボ(バルカン)紛争の仲裁も関わり、アチェ(インドネシア)での紛争の歴史的な終結を導く。

彼には独立を果たしたばかりの南スーダンについての展望と当時の懸念について質問をする機会をいただきました。その時の彼の答えは今の戦闘状態の続く状況をすでに示唆していました。紛争は根本的に解決しないと繰り返すものだ、と分かっていたのだと思います。

 

ジミー・カーター(2002年ノーベル賞平和賞受章):

39代目の元米国の大統領。大統領時代のカーターの評価は必ずしも高いものではなかったものの、引退後のカーターは、米国大統領経験者として北朝鮮やキューバを初めて訪問するなど、個人として国家や安全保障政策等の制約を受けず、紛争を未然に防ぐ「予防外交」を展開し、その活動が評価された。大統領退任後の活動に対してノーベル賞を受賞したのはカーターのみで、離任後21年後の2002年に受賞。

 

1994年には、アメリカ大統領経験者として初めて訪朝し、金日成国家主席と会談。韓国大統領金泳三との南北首脳会談実施の提案をし、金日成の同意を得た(1994年、ただし金日成主席の急死で南北首脳会談は実現せず)。また、「悪の枢軸」としてイラクや北朝鮮への先制攻撃を容認する当時のブッシュ政権に対して、仲裁などを通じたソフトランディングの成果と選択肢を示し続けた。

 

個人的には、東ティモールと南スーダンでそれぞれカーター財団の選挙監視団の活動に触れたことと、2011年の南スーダンの独立をめぐる住民投票の際に、87歳の(当時)という高齢なのに彼本人が南スーダンまでやってきて関係者と対話を重ねた時に、彼の意図は「ほんもの」だと感じました。

 

アマルティアセン(1998年ノーベル経済学賞受賞):

貧困とは、食料不足から起こるのではなく、不平等から起こること、そして人が潜在能力を生かしているかどうか、という「潜在能力」(ケイパビリティ)の課題である、と言った。

 

自身の出身であるバングラデシュの例を元に「飼いならされた主婦、あきらめきった奴隷は、ほんの少しの幸せでも満足してしまう」と言い、弱い立場の人々が潜在能力を生かし社会参加することを主張している。

 

彼が経済学賞を受賞した翌年にオックスフォード大学で行われた彼の講演へ行きました。オックスフォード大学で一番大きなホールは学生と教授で満席でした。経済学が専門なのに、難しい数式は一切使わず、彼が話していたのは哲学というか人間や社会についてでした。学生から出た質問に丁寧に応え、同じ経済学の教授から出た難しい質問にはとても単純に応えていたのが印象に残りました。真実や本質というのはシンプルなものなんだーただそう感じました。

 

リゴベルタ・メンチュウ・トゥム(1992年ノーベル賞平和賞受章):

メンチュウ

 

マヤ民族に対する暴力と弾圧が蔓延していたグアテマラの内戦中に家族を殺されながら、軍政との和解を呼びかけた立役者。個人的には、この5人の中でもっとも威厳を感じたのは彼女でした。他の3人が元大統領だったり、国連のトップという役職を経て、またはそうした役職を通じての受賞の中で、彼女からは一個人の芯の強さと偉大さを感じました。

 

コフィー・アナン前国連事務総長(2001年ノーベル賞平和賞受章):

 

7代目の国連事務総長。冷戦の終結後、世界各地で内戦が起こる中、国連の活性化と国際システムの実効性(多国間主義)の強化を図る。国連の平和支援能力の強化にも尽力し、東ティモールで紛争からの復興がはじまろうとする中で、2001年のミレニアムの幕開けの年のノーベル平和賞受賞は国際協調体制をサポートする後押しとなった。

 

彼個人というよりも、冷戦後の可能性にかけた国際協調主義への期待をこめた受賞でしたが、私は彼の在任中に国連で働けたことを誇りに思っています。静かな物言いで謙虚であるからこそ、周りの人にも本当に大切なものを思い出させるような力を感じました。

 

さて、先の質問にお答えしたいと思います。

たった、一つだけ質問をすることができるのなから、どんな質問をしたらいいか?

 

彼らがなぜそう考えるようになったのか、というその理由やその背景を聞くことです。

 

例えば、このような言い方です。

 

「今、あなたが仰った事はとても大切だと感じました。あなたが仰ったことを理解したいと思っているのですが、よかったら、どうしてそのように考えるようになったのか教えていただけませんか?」

 

 

他にはこういう言い方です。

 

◎それは、どういう意味ですか?それはなぜ大事なのですか?

◎この事とあなたのテーマとどんな関係がありますか?

◎どのような考えでその結論にいたったのですか?

◎そうおっしゃるのにはどんな理由があるからですか?

 

◎ そうおっしゃるのはなにか体験がおありでますか?

 

つまり、彼らがなんでそう考えるのか、というその理由や背景を聞き続けることです。

 

なぜ?を5回聞き続ける とその課題の本質に辿り着くと言われているからです。

 

 

 

とくに、相手がどのような体験を経て、そのような考えを持つように至ったのか聞くことはその課題の本質に向かってさらに掘り下げることになります。

 

そして、相手の理由について聞くことは、こちら側のかってな推測に基づいて聞くのではなく、新しい理解や可能性にオープンになるために聞くことにも役立ちます。

 

 

先に、ある程度の理由や背景を先に相手が伝えてくれることもあるでしょう。

 

もしそうだとしても、さらに、突っ込んでみることもできます。

 

時にはあなたの質問自体が思わぬ気づきを相手にもたらすかも知れません。

 

なぜなら、本人も質問されてはじめて気づくことも考えることもあるからです。

 

一流の人であるほど、喜んでこうした質問に答えてくれます。

 

なぜなら、そこにこそ本質があるからです。

 

お互いに通じ合ったと感じる時には、「わかった!」という稲妻がおりるような体験さえあります。

 

 

いざという時、チャンスをつくる質問をぜひ覚えてください。