なんで自分はこんなに「不器用」なんだろう? なんでもっと適当にできないんだろう?ーそれでも自分に正直に生きてる人は美しい❗️

なんで自分はこんな風に考えるんだろう?

なんで自分はこんなに「不器用」なんだろう?

なんでもっと適当にできないんだろう?

 

 

自分でもよく分からないけどやっぱり「世界」のことに関わりたいというタイプの人たちがいます。

 

彼らは周りからはよくこんなことを言われるものです。

 

なぜ、そこまで世界に関わることが大切なの?

なぜ、安全な日本の生活に満足できないのか?と。

 

ただ、これは本人にとっても「理屈」でわかるレベルのことではありません。

 

時には一生懸命に自分を納得させようとするのですが、「理屈」で説明しようとしてもできることではありません。

 

人間を深い部分で動かす原動力というものはとうてい「理屈」を越えているものだからです。

 

あえて言葉で説明するとしたら、それが「自分が自分であること」の表現だから、でしょうか。

 

私自身、自分の体験を振り返り、そして、似たようなタイプの人たちにお会いするようになった体験から言えるのは、

 

あえて言えば、生まれてくる前に魂のレベルで、地球全体の発展に関わりたいと望んで転生してきた人たちがいるということでしょうか。

 

世界100カ国、18-25歳の42,257人によるミレニアル世代の若者の仕事観に関する調査でも、新しい世代は、自分を成長させてくれる機会に貪欲であること、そして、仕事の意義に高い価値をおくという点が改めて確認されています。

 

「社会や地球全体の発展があってこそ本当の発展」という意識です。

2015年「2015 Youth Speak Survey Millennials Insight Report」より。

 

 

モノに興味がないとも言われる世代。

ある意味本当に大切なことを大切にしたいと感じているのでしょう。

 

 

私自身、南スーダンといった紛争地の最前線で、いろいろなことを体験させてもらいました。

現場の仕事はけっして簡単ではなかったし、現場ならではの矛盾や葛藤に直面したことは多々ありました。

 

つい先月も戦闘状態と人道危機の続く南スーダンで、食料がヘリコプターから投下されている映像を見ながら、こう思わざるをえませんでした。

 

「世界の格差がますます広がっているという時代に、もっと根本的な解決法はないんだろうか?」

「いつまで食料を投下し続ければいいのだろうか?」と。

 

しかもPTSDと燃え尽き症候群にさえなりました。

 

 

それでも、それでも、それでも、そんな体験も含めてそれでもやれてよかったと思います。

 

それでも私にとっては「プライスレス」な体験でした。

 

ある意味で「特権」だったと思います。

 

 

だから、人がなんと言おうとも、やっぱりチャレンジして欲しいと思います。

 

海外で働くこと自体が偉いわけでもないし、今の時代、国連や国際機関が唯一の方法でもないでしょう。

 

人によっていろいろな選択や感じ方があるでしょう。

 

もしかしたら、それはあくまでも次へのステップかも知れません。

 

しかも、なんらかの成果や結論が出るかどうかもわかりません。

 

それでも、自分の内側から湧いてくる純粋な感覚に勝る『何かをする理由』はないと思っています。

 

 

自分に正直に生きてる人は美しいです。

 

その姿だけで人に勇気を与えるのです。

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「自信がつくのを待ってもこない。自信がつくのを待ったらこのまま一生終わってしまう」ニューヨークで発見した自信の「正体」❗️

私たちは、いったい何をして、どこまでやったら「自信」というものがつくのでしょうか?

 

私自身、ニューヨークの国連本部の花形部署で働く機会を得ながら、長い間自信を感じられずにずい分悩んだので、「自信を持つ」ためにいろんなことをしたものでした。

 

いったい何をして、どこまでやったら「自信」というものがつくのだろう?と思っていました。

 

ニューヨークという場所がらスピーチのクラスに参加したこともありました。

 

ただ、いつも自分の能力や努力が「足りない」気がして、この「足りない」という強迫観念のような私のお悩みはかなり長い間続きました。

 

 

一番苦しかったのは、何かをやっても達成した気がする訳でもなくて、いくらやっても自分の中で「これでいい」と思えなかったこと、でした。

 

私にとって精神的なストレスが一番大きかったのはおそらくこの頃で、出張とストレスが重なって、機内で倒れたこともありました。

 

自信について、いろいろな角度からの答え方があるかとは思いますが、もし自信を「外からの評価」に求めるのならば、究極的にはキリがないとも思います。

 

仮に資格を得ても、ハーバート大学やオックスフォード大学を卒業しても、自動的に自信がつく訳でもないことは私自身が知っています。

 

私自身オックスフォード大学の大学院で勉強していた時に驚いたのは、オックスフォード大学の学生さえ、自信がないと感じているという事実でした。

 

すると、ますます分からなくなります。

 

自信とはいったいどうしたらつくのだろうか?と。

 

しかし、ある頃から、チャンスが巡ってきているのに、ノーと言っているような自分に嫌気がさして来たのです。そして、気がつき始めたのです。

 

「自信がつくのを待ってもこない。自信がつくまで待ったらこのまま一生終わってしまう」、と。

 

もちろん場数を踏むというのは真実だと思います。やはり、スピーチにしろプレゼンにしろ、経験を重ねることで確実に自信は上がりました。

 

ただ、ある時に自分で一歩踏み出す勇気が必要になる時というのはあると思うのです。

 

それからのキャリアを振り返ってみても、その時の感覚はあっていたと思います。自信がつくのを一生待っていても何もできないのです。

 

そして、もう一つ自信というものの「正体」に気がつきました。

 

それは「自信をなくさせている原因」に気づいたからでした。

 

それは、自分は「こうあるべきだ」という自分が自分にかけていたプレッシャーでした。

 

自分が自分に対してもっている自分の中の理想像でした。

 

例えば、私の場合、

 

「国連の本部で働く人」はこうあるべき、

なにか「かっこいい事」を言わないといけない、

という自分の中の理想像とのたたかいでした。

 

 

ただ、そもそも完璧というものは存在しないし、自分の中の理想像は絶対に手の届かない目標です。

 

完璧であれば、失敗や批判を避けることができて、傷つく可能性も避けることができると思っています。ただ、これによって、常に私たちは周りの人たちと比較することになり、自分はそうでないと思っている部分が常に不安としてのし掛かります。

 

自分の価値は、どれだけ達成したかで決まる、という思い込みがあるのです。

 

私たちは社会やメディア、学校、親からの「こうであるべき」というプレッシャーやイメージに晒されています。

 

そして、私たちの自信がどれだけこうしたプレッシャーやイメージ、信念にネガティブに影響されているかを知るとびっくりします。

 

例えば、このような「あるべき像」です。

 

いつもよい成績をとらなければいけない。

絶対に失敗をしてはいけない。

周囲の人に賞賛されなければいけない。

やるからには有名にならなければいけない。

誰よりも優れていなければいけない。

優秀でなければいけない。

スマートでなければいけない。

お金は苦労して得るものだ。

 

 

メディアの影響もあります。

 

もっと痩せなければいけない。

人気者にならなければいけない。

優秀でなければいけない。

かっこよくなければいけない。

おしゃれでなければいけない。

女性は若くなければいけない。

 

 

そして、私たちは常に周りの人たちと比較して、自分はそうでないと思っている部分が常に不安としてのし掛かります。

 

失敗したらどうしよう。。。

間違えたらどうしよう。。。

人の期待に応えらえなかったらどうしよう。。。

こんな自分。。。

どうせ無理。。。

 

そんな不安ばかりだと誰だって足がすくんでしまいます。

 

しかも、私たちは多くの場合メディアで取り上げられる人たちの成功や華やかな部分にしか触れていないのです。

 

ベストセラー作家で、この「足りない病」(欠乏意識)についての本を書いたリン・ツイストさんは、消費カルチャーの時代を生きる私たちは常に「足りない」「足りない」「足りない」というメッセージにさらされている、と言います。

 

もっと言うと、日本が世界の中で第3位の経済大国でありながら、不安と閉塞感に覆われているのは、この「足りない病」とも関係があるのではないか?、と個人的には感じます。

 

ただそうした仕組みに気づいた私たちは、こうした自分の中の信念を再整理することができます。

 

それは本当なのでしょうか?

今の自分に役立つ信念でしょうか?

もし、これとは反対のことをしたらどうなるのでしょうか?

 

まずこうした自分の中の信念に気がつくことが改善のための大きな一歩です。大抵、こうした信念は、あまりに自分の中で自動的に発生していて、そうした影響があることすら気が付かないからです。そして、今の自分に役立つ信念に書き直すことができます。

 

 

【ワーク】

自分の中の「こうあるべきだ」を書き出しましょう。

それは本当なのでしょうか?

今の自分に役立つ信念でしょうか?

他人から褒められるよりも自分にとって大切なことは何ですか?

もし、これとは反対のことをしたらどうなるのでしょうか?

 

今の自分に役立つ信念に書き直しましょう。

もし、仮に~だとしても自分は自分を受け入れ自分の味方であることを宣言します。

 

① 自分の中の「こうあるべきだ」を書き出します。

② ハートに手をあてます。

③ 心の中で宣言します。「もし自分の中で自分は優秀じゃないと思ってる部分があったとしても、私は自分を深く受け入れます。」

 

例)

優秀でなければいけない⇨「もし自分の中で自分は優秀じゃないと思ってる部分があったとしても、私は自分を深く受け入れます。」

 

かっこよくなければいけない。⇨「もし自分の中で自分はかっこよくないと思ってる部分があったとしても、私は自分を深く受け入れます。」

 

スマートでなければいけない。⇨「もし自分の中で自分はスマートじゃないと思ってる部分があったとしても、私は自分を深く受け入れます。」

矛盾や葛藤も体験して「だからこそ」見えるその先の世界ーコフィー・アナン国連事務総長の手紙を代筆した時

人の本当の影響力とはどこから来るのでしょうか?

 

米国大統領が発する大統領令に各州から次から次へと差し止めが出される状況を目のあたりにする時、「政府の力」ってなんだろうか?という疑問が浮かびました。

 

この場合の「政府」とは一つの比喩で、いわゆる私たちが「絶対」だと思っているもの、いわゆる「権威」や「常識」だとしているもの、私たちが「当たり前」だと思っているものの象徴です。

 

今年に入ってから、これまでなんとか正当化されてきたかのように見える権威主義や世界的な政策の矛盾や限界がますますはっきりと浮上してきているように感じます。

 

実際、相手に公的な肩書きがあったり、役職が上であったとしても、私たちが本当にその人の言うことに耳を傾けるかどうかはまったく別の話しです。

 

では、人がなんらかの「力」や「影響力」を発揮する時、その力はどこから来るのでしょうか?

 

そうした資質の一つは、その人がその人であるという「正直さ」や「誠実さ」だと感じます。

 

その人が人間として「完璧」であることでもなく、すべての答えや解決策を持っているわけでもなく、いろいろな矛盾や葛藤も含めて、完璧でもない不十分な状態をも受け入れながら、「そのうえで私はこう選択している」という姿勢です。

 

トランプ時代の流れも関係するのか、この数ヶ月間は、国際機関関係者や人道援助関係者から「私が目指していた世界ってこういうものだったのでしょうか?」という相談がありました。

 

私自身、つい先月も戦闘状態と人道危機の続く南スーダンで、食料がヘリコプターから投下されている映像を見ながら、こう思わざるをえませんでした。

 

「世界の格差がますます広がっているという時代に、もっと根本的な解決法はないんだろうか?」

 

「いつまで食料を投下し続ければいいのだろうか?」と。

 

誤解のないように一言付け加えると、今すぐ食料投下をやめればいいかというとそう単純な問題でもありません。

 

ただ、人道支援や国際援助の現場(業界)では、誰もが必ず直面する疑問です。

 

これをビジネスに置き換えてみても、人間の営みの現場というのは、いろいろな矛盾や葛藤がつきものです。

 

ただ同時に、私はそうした相談を聞きながら、その最中にいたらそうは思えないかも知れないけれども、こうした体験こそが人に深みをくれたり、成長させてくれる機会なんじゃないか?

 

 

そして、だからこそ「その矛盾や葛藤の上で自分はどうするか?」という「その先」こそが面白いところなんじゃないか?と思いました。

 

 

そんな事を考えていたら、国連ニューヨーク本部のPKO局時代のある上司のことを思い出しました。

 

彼はまさに、いろいろな矛盾や葛藤の上でそしてどうするか?という姿を見せてくれた一人だったからです。

 

その上司は、当時コフィー・アナン国連事務総長の右腕として、スレブレニツァ虐殺に関する国連の最終報告書を取りまとめた人の一人でした。

 

 

スレブレニツァ虐殺とは、1995年7月に、ボスニア・スレブレニツァの8000人以上もの住民がセルビア人勢力に虐殺された事件です。第二次世界大戦以降、ヨーロッパで最大の大量虐殺でとされ、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)では、ジェノサイドであると認定されました。

 

当時、ボスニアのスレブレニツァには、国連が保護する「安全地帯」が指定され、370人の武装したオランダ軍の国連軍がいましたが、セルビア人勢力による虐殺を止めることができずに国連軍のプレゼンスの前で虐殺をゆるした、という経緯がありました。

 

当時の安保理や事務局を含め国連側の体制や判断にも多くの課題が指摘され、最終報告書では、あくまでも第三者的な視点での分析と結論を出すことが求められていました。

 

国際的にも大きな注目を集めた事件でしたから、表面的な報告では国際社会の納得も得られなかったことでしょうし、国連の正当性や信用をも揺るがす大事件です。

 

実際に、その後国連ではいくつかの改革が行われました。

 

それだけを考えても、大きなプレッシャーのかかる仕事だっただろうと想像します。

 

その時、彼は何を思い、その体験はその後の彼にどうつながっていったのだろうか?

 

私がそんな上司の「歴史」を垣間見ることになったのは、コフィー・アナン国連事務総長(当時)の手紙を代筆するようにと言われた時のことです。

 

手紙は1995年にボスニア・ヘルチェゴビナで起きたスレブレニツァ虐殺関係者宛で、その内容は、国連事務総長よりスレブレニッツ虐殺関係者に10週年の追悼式での公開ディスカッションに参加して欲しいとお願いするものでした。

 

行数にしてたった5行ほどの手紙でしたが、私は書くのに数日かかってしまいました。

 

国連事務総長という立場でスレブレニツァ虐殺関係者に向けて手紙を出すことに対して、その事実をある程度は知らずに私はその五行さえ書き出すことができないと感じ、どんな言葉が適切なのか、と考えざるをえなかったからです。

 

私の仕事としてはたった5行を書くことでしたが、差出人が国連事務総長だったからか、その5行の背景にある様々な葛藤や矛盾を体験したようにさえ感じました。

 

そして、その10周年の追悼式の日がやってきました。

 

彼は自分の部屋のドアを閉め切り、自分が追悼式で伝えるべきことは何かということに集中しているようでした。

 

いよいよ、追悼式が始まりました。

 

国連ニューヨーク本部のダグハマーショルドホールの壇上には蝋燭が飾られ、参加者全員で黙祷を捧げました。

 

そして、パネルディスカッションが始まりました。

 

正直、ディスカッションの内容は覚えていません。

 

 

ただ、今でも覚えているのは、パネルの壇上で関係者とまっすぐに向き合っていた上司の姿でした。

 

彼は最終報告書作成の責任者の一人であり、そして本部の要職という立場にありながら、壇上にいたのは一人の人間としての彼でした。

 

その時の心境について、彼の口から直接聞いたことはありませんでしたが、彼の関係者とのやり取りを垣間見ながら私なりに感じたことがありました。

 

その時の彼の心境をあえて言葉にするならば、このように表現出来たかもしれません。

 

「だからこそ私は今ここにいる。だから私はこう信じる。」と。

 

いろいろな矛盾や葛藤もすべてを含めて今の彼がある ー そんなことを感じたのでした。

 

人間と人間が集まる時その程度の差こそあれど、矛盾や葛藤はおこりえます。

 

そして、どうしたらいいのか?という問いに対する絶対唯一の答えもないでしょう。

 

その先の判断や選択も人それぞれだと思います。人の数だけ答えがあることでしょう。

 

同時に、だからこそ、自分の中の「だからこそ」、そして、一人一人の「だからこそ」を大切にしたいと改めて思います。

QUIET REVOLUTION 人口の三分の一は内向型ー社会を変える「静かな革命❗️」②

内向型の強みとして、共感能力の高さ、感受性の高さが挙げられます。

  

ここで言う「繊細な」という意味は、その人の「構造」というか「つくり」というか、特性が繊細であるという意味であって、「ナイーブ」であるとも「弱い」という意味とも違います。

 

別の言い方をすると、感じ取る能力が高い人、共感能力の高い人たちです。

 

「繊細」とだけ聞くと、「競争社会」の基準からすると「弱み」のように聞こえるかも知れませんが、これからの時代、「感受性が高い」ということはますます「大きな武器」となっていくことでしょう。

 

 

では、「感受性」が高いことの「強み」とは例えばどういうものでしょうか?

 

例えば、相手が伝える1の情報から、その何十倍もの情報を読み取る能力です。または、より大きな流れや全体像をつかむ能力です。

 

これは、「洞察力」(insight)と呼ばれます。

 

例えば、この人は、言葉ではこう言っているけど、その人の本心はいったい何なんだろう?または、「ミーティングで部長はこう言っているけど、どうも他の人たちはしらけてるなあ。みんなの本心はいったい何なんだろう?

 

今、会議で起きていることやこの組織全体で起きていることは何だろう?」といったより深層の部分に意識がむく能力です。

 

 

これは、人と関わる仕事、交渉や仲裁、ファシリテーション、リーダーシップといった分野で大きな力になります。

 

 

紛争地の現場でも、私にとってこの力が大きな助けとなりました。

 

例えば、南スーダンのような紛争地では、この先数ヶ月、政情がどうなるのか分からないというような環境に置かれます。

 

そのような環境の中で、国連のスタッフは、いろんな人に会って情報収集をし、あり得るシナリオなどを考え、分析を加えながら、それぞれの場合どう対処したらいいかを決定していきます。

 

私は、そういう地で仕事をする人として、いろいろな人に会って生の情報(感覚)を得て、この先の流れを掴んでおくことは、決定的に大事なことだと感じていたので、できるだけそういう時間は意識的にとるようにしていました。

 

そうした習慣もあったので、政情的に何かが起きたり、新しいニュースがあったとしても、「ああ、これはこれ以上『大事』にはならないな」、「今回は注意」など、ある程度予測がついたりしました。

 

私の「鋭敏なアンテナ」が、相手が伝える1の情報からその何十倍もの情報を読み取ってくれるのか、私の分析が流れを読んでいた、全体像を掴んでいた、ということは実際にありました。

 

同じ街にいながら、同じ国にいながら、同じ人に会いながら、同じ情報を耳にしながら、その人が導き出す結論や分析はまったく人それそれでした。

 

断片的な情報から、全体像を「掴んでいく」能力はまさに大きな力です。

 

こうして、私の感受性の高さ・繊細さは「分析力」「判断力」「紛争解決力」(仲裁力・対人関係能力)として、紛争解決の最前線で大きな武器となってくれました。

 

言葉で伝わるのは10%にも満たないと言われていますが、 

 

例えば、

初めて会う人との関係構築の中で、

 

全く新しい環境 (組織や街や国など) に慣れるために、

 

お互いに母国語ではない言語で話している時など、「感受性」が役に立つ場面はけっこう多いのではと思います。

 

この力は、そしてコーチ・カウンセラー・講師として発揮されています。

 

ある方の相談内容について聴いている時に、その方が言わんとしていることの全体像や課題の根っこの部分が「パッと」把握できる能力です。

 

もちろん、いくつか質問をして、課題を探ったり、それを確認してきますが、洞察力が大きな土台をつくってくれています。

 

実際、最近は、この「感じ取る能力」・「共感能力」のビジネス上の価値が科学的にも証明されつつあります。

 

5年連続で全世界での視聴回数ベスト5内にランクインし続け、2016年12月現在で全世界での総視聴数が27,677,409回(!)を超えているTEDがあります。

 

ヒューストン大学の心理学者ブレネーブラウン による「Power of Vulnerability」です。共感の力こそが、クリエティビティーやイノベーションへの入り口だと言っています。

 

世界中の企業や組織がクリエティビティーやイノベーションを求めています。

ただ、 それが大事だろうとは思っていながら、それがどうしたら起こるのか分からない。

 

そして、人間はいくら理性的に判断し、行動していると思っていても(そう信じたくても)、実際には感情で動く生き物だということも私たちは知っています。 

 

誰でも傷つくのは怖い。批判されるのも失敗するのも嫌。

 

 

見えないところで直感やイノベーション、クリエイティビティーを潰しているのはこうした「不安」や「恥」の意識だと言われています。

 

そして、その「解毒剤」こそが「共感」であると、このTEDの著者ブレネーブラウンは言っています。

 

そして、「共感」が起こる時の大きな要素として、「相手の感情がわかること」(feeling with the other)が挙げられています。

 

このTEDの後、彼女のところには、アメリカ中のCEOや企業からイノベーションを起こす秘訣を教えて欲しいと、講演の依頼が殺到したそうです。

 

 

「共感の力」とビジネスの接点が科学的に証明されつつあること、このテーマが全TEDの中でもベスト4にランクインし続けている事実そのものが興味深い現象だと思います。

 

感受性や共感能力はビジネス上でも大きな価値なのです。

同じ本を複数名で読むとどうなるか?ー 「自分にしかできない分野」「自分だからこそできること」を見つける方法

同じ本を数人で読むという読書法があります。

 

とても面白い読書法の一つで、それぞれが自分の興味のある分野で背景を調べたり、下読みをして参加したり、またはその場で一緒に読み進めて、最後に感想を伝え合う形式のものもあります。

 

 

なぜ同じ本を複数名で読むのか?

 

同じ本を複数名で読むとどうなるのか?

 

 

「自分を知る」というテーマとしても大きなヒントがあるので、トマ・ピケティーの『21世紀の資本』を数人で読んだ時の体験をお伝えしたいと思います。

 

トマ・ピケティーは、フランスの経済学者です。代表作『21世紀の資本』は、「格差の拡大の原型がはっきりと示された」として、発行された2015年には日本でも大きな話題になりました。

 

『21世紀の資本』は、2014年4月には英語訳版が発売されるやアマゾンの売上総合1位になるなど大ヒットし、アメリカでは2014年春の発売以降、半年で50万部のベストセラーとなり、2015年1月現在で、世界10数カ国で累計100万部を突破したそうです。

 

定価は5500円で、608ページに及ぶ専門用語をちりばめた大著なので、気になるけど買わなかった、でも内容が知りたい、という人は多かったと思います。

 

トマ・ピケティーの『21世紀の資本』をみんなで読もう、という話しになったのも、難しそうなので、みんなの知恵を持ち寄った方がよさそうだ、と思ったからでした。

 

実際、複数人の人と一緒に同じ本を読むと、とても面白いことに気がつきます。

 

同じ本を読んでいるのですが、それぞれが関心をもった視点、気づいたこと、それを読んでどう思ったのかなど、持ち寄る視点がぜんぜん違うのです。

 

例えば、

ーなぜ彼はこのテーマを書いたのかというトマ・ピケティーのバックグラウンドに興味を持った人

ー彼の家族構成に興味を持った人

ー彼のアメリカでのレビューに興味を持った人

ー彼の著書の後に世界銀行が発表した世界の格差についてに興味をもった人

ー日本のメディアのあり方や考える力について思いが及んだ人

などでした。

 

本当にそれぞれが気づく視点や読んだ後の感想は見事に違いました。

 

しごく当然のことのように聞こえるかも知れませんが、このような体験をすると本当に人の受け取り方は人それぞれに違うのだということが腑に落ちます。

 

これも改めて考えてみるととても面白いことだと思いますが、人は同じ場所にいたり、一見同じ情報を受け取りながら、それぞれの「フィルター」や興味・関心分野に従って情報を処理していくのです。

 

私が南スーダンで働いていた時に実感したことですが、同じ国にいながら、情勢分析の結論がかなり違ったこともありました。

 

では何がその違いを生むのでしょうか?

 

例えば、その人の知識、教育、職業、経験値、考える力、価値観・興味や関心などです。

 

この場合の価値観とはどんなことを大切だと思っているか、といったものです。

 

複数で同じ本を読んでみると面白いのは、なぜその人は、「この点に興味をもったんだろう?」という点その人独自のポイントが見えてくることです。

 

 

ー彼の背景に注目した人は彼の主張や理論だけでなく、人間としてのライフストーリーに興味がある人なのかも知れません。人や社会をより深く理解する能力や洞察力に長けているかも知れません。

 

ーアメリカと日本でのレビューの違いに興味をもった人は、データやより複数の視点を取り入れる客観性を重視する人なのかも知れません。

 

ー格差の是正に注目した人は平等や公平さに興味があるかも知れません。

 

本人にあまり自覚はないかも知れませんが、「なぜか私はこういうことに興味をもつ」という視点やアングルが必ずあるのです。

 

これこそが、「自分にしかできない分野」「自分だからこそできること」「私たち一人一人ができる分野がある」というその人の「存在意義」といったものに近いかも知れません。

 

それは職業でもなく、それを本人が意識していてもいなくても、自然にやっているようなこと(その人がいるだけで周りが落ち着くと感じる人、周りの人を癒す人、聞き上手で人の意見を引き出す人、など)です。

 

「世界は地球上の一人一人を必要としている」という意味が単なる言葉ではなく、その意味がより腑に落ちる体験でした。

 

これは自分一人では分からないことです。

 

他者の存在を通じて、自分の立ち位置がわかるのです。

 

読書会といった形式でなくとも、会社での会議といったフォーマルな場からいったん離れて、利害関係のない、まったくプライベートな場で、自分の意見を自由に表現したり、シェアできる場を体験できることはとてもいい体験だと思います。

 

そんな体験の積み重ねが自分を知ること、そして自信につながることでしょう。

 

ぜひ試してみて下さい。

「自分を知る」ということー「自分がやりたいことが分からない人」とランチ選びの関係

突然質問です。

三日前に食べたランチを覚えていますか?

 

 

なんでランチかと言うと、「自分を知る」ということの一つだからです。

 

「自分を知る」というと、とても大きなことのように聞こえるかも知れませんが、ごくごく日常の中にあります。

 

先日あるカフェで、ケール&キーウィージュースをオーダーしました。

 

私の身体は疲れている時によくケールを欲しがります。ビタミンやミネラルが多いので、身体に浸透する感じがします。

 

出てきたのはとてもとても小さいジュースでした。

 

しかも、ほとんどケールの味はしませんでした。

 

 

その瞬間いろんなことが頭に浮かびました。

 

 

ーああ、これなら自分でつくった方がいいな

ーあのスーパーで最近ケールは見なくなったけど、どこのスーパーにあるのかな?

ーケールをみかけたら買っておこう(希少だから)

ー他に自分にエネルギーをくれる食べ物は何だろう?(エネルギーの高い物を口にしたい)

ーどんなものを食べる時に身体の調子がいいのだろう?

 

 

難しい結論でもなんでもないけれども、「そんな思い」をとても強くしました。

 

こうやって私たちは、日々何かを「感じ」、「発見し」、「思い」、「修正し」、「決めて」います。

 

しかも、体験したものが「期待外れだったりすると、じゃあ「次はこうしよう」「だから、今度はこうしたい」と、その反対に対する思いを強くします。

 

 

私の場合、スタバのラテよりも数百円高かったジュースが期待ハズレだったので、自分でケールスムージを作りたくなりました。
私はこの店で同じジュースを買うということは「繰り返さない」でしょうし、この体験は、自分の身体やエネルギーの状態に意識を向けるきっかけの一つになりました。

 

 

こうして、私たちは日々何かを発見したり、「学んで」います。

そして、自分について発見しています。

 

これを「体験」というのですね。

 

 

体験というのは、単なる「事実」の列挙ではなく、その出来事を通じて自分は何を感じ、思い、結論づけたか?ということだそうです。

 

 

 

 

自分がやりたいことが分からない人は多いようですが、

そんな人こそ、自分が食べるランチを「完全に」「意識的に」「全責任をもって」選んでみてください。

 

 

なんで、私はこれを食べたいと思ったのか?

美味しかったですか?自分で星をつけるとしたらいくつ?

あまり美味しくなかったですか?自分で星をつけるとしたらいくつ?

 

 

なんでそのお店・メニューを選んだのですか?

外見はどうだったのか?

お店の雰囲気はどう感じたのか?

お店のスタッフやシェフの印象はどうだったのか?

直感的な第一印象は何と言っていたのか?

 

 

その感覚はあくまでも主観的です。

それでいいのです。

自分が感じることに「正解」も「間違い」もないからです。

 

 

大事なのは、じゃあ次はこうしたいな、というサイクルに繋がっていることです。

 

 

食べ物は私たちの感覚を正直に刺激してくれるものの一つです。

「美味しい」と単純に満足を感じるし、「美味しくない」とイマイチだったな、と単純に感じるからです。

 

 

 

食に対する意欲は人生に対する意欲と比例する、といった友人がいました。

私たちは日々食するもので成り立っているので、それを聞いた時になるほど!と思ったことがあります。

 

美味しいものがわかることは一流の音楽や「ほんもの」がわかるということにも繋がっていると個人的には思います。

 

そして、「いいお店」が分かること・知っていることは、大人のリソースとしてはとても重宝されるものです。

 

 

「今日の私」は、日々の体験の結果です。

 

どんな体験にも無駄はありません。

 

「体験」こそが私たちを学ばせてくれます。

「なんかよさそう」「やってみたい」「会ってみたい」ーその純粋な感覚に勝る『何かをする理由』はない

 

 

「自分にはまだ無理だ」「まだ準備が足りない」と感じる方は多いようです。

 

 

コーチングや講座なりが、すぐに分かりやすい「成果」や「結果」を生むかどうかは人それぞれなので正直わかりません。

 

ただ、なんらかの「結果」を生まなければいけない、という発想自体が、社会的に植え付けられた「成果志向」で、ある意味で私たちはそれに縛られ過ぎているかなと思う面もあります。

 

 

結果や成果は大事だと思いますが、それが前提だとただ体験したり、新しいことを試したり、新しい人と会ったり、といったことのハードルがすごく高くなってしまいます。

 

個人的には、「なんかよさそう」「やってみたい」「会ってみたい」「試してみたい」という感覚がもっと尊重されてもいいのかなと感じます。

 

 

「なんかよさそう」「やってみたい」「会ってみたい」「試してみたい」という理由だけで、何かをやるには十分な理由だと思います。

 

 

もっとはっきり言うと、自分の内側から湧いてくる純粋な感覚に勝る『何かをする理由』はないと思っています。

 

 

なんらかの結果や成果を出した人に私たちが触れる時、その人の成果や結果が目につきますが、

 

その影にはその何十何百倍もの「トライ・アンド・エラー」があるものです。

 

いろんな人と会って、刺激的な時もあれば、あんまり面白くなかったなと感じることもあれば、「やっぱり」と思うこともあれば、「え、意外!」という驚くこともあるでしょう。

 

それこそが「体験」です。

 

文章にしても際に人の目に触れられる文章は、実際書いたものの1割もないかも知れません。

 

私自身、最初に文章を書き始めた頃は、とても人様に見せられるような内容でも文章でもありませんでした。

 

(なにせ、私はほぼ10年間英語で仕事をしてきたのでそもそも日本語を書く環境にいなかったのです。)

 

最初は自分のために書いていたものが、だんだんと慣れていく内に人に伝えたい、とより意識をするようになっていきました。

 

今はもっと自分の体験を還元するという目的が強いですが、最初はもっと純粋に自分の興味・関心や整理のためだったので、私は自由に楽に始められました。

 

最初から何かに連載をするためだったら、私の中の書くハードルは高くなって楽しめなくなっていたかも知れません。

 

 

どんな分野でも、「成果」や「結果」の影にはその何十倍もの「準備」や「無駄」があるものです。

 

一番はじめの書いたものの10の内の7割〜8割が削られる時もあります。そうして研ぎ澄まされた文章となっていくのでしょう。

 

でも、削られた部分は「無駄」ではないのです。

 

目に見えないけれども、そうした部分が見える部分に「深み」をもたらしてくれるのです。

 

読む人も文字となっている何倍以上ものことを感じとってくれます。

 

 

 

子供の時には、私たちは「最短で」「一つの正解」にたどり着く方法を訓練されます。

 

大人の生活では、私たちは「一直線」でゴールにたどり着くわけではありません。

それがいい訳でもありません。

ましてや、たった一つの正解はありません。

 

 

「急がば回れ」じゃないですが、いろいろなことを「体験すること」こそが長いスパンでは結果を生むということもあるようにも感じています。

 

 

「体験する」にもいろいろな種類があるとは思いますが、自分の視野や世界が広がるもの、自分が自分を知る・発見すること、人との関係性を深めるものは、投資をする価値があるでしょう。

 

 

コーチング・カウンセリングの大きな意義の一つは、まさに、「自分が自分を知る・発見」し、「自分との関係性を深める」ための「自分のための時間を持つ」ということだと思います。

 

 

もしよかったら、ただ自分のために「心地よい時間を持つ」という贈り物をされてみてください。

 

素敵な春の日をお過ごしください。