残業しないで帰ろうと思うと罪悪感を覚える。。。なんか人にいいように利用されている気がする、他人に対して「ノー」と言えない。。。
嫌なことを嫌ですとはっきり言えないで、あれこれ押しつけられて(引き受けて)パニックになる人はそんな人は「バウンダリーが無い状態」だと言えます。
または、他人の領域に足を踏み込んでいても気がつかない、共依存から抜けられない人も「バウンダリー(境界線)」の課題があります。
〜以下引用〜
バウンダリーとは、他者と自分の境目をはっきりさせることによって自分の責任範囲を明確にし、人間関係を健全にするためのものです。
境界線は私たちを定義します。何が「私」であり、「私ではないのか」その範囲を明確にます。
私がどこで終わり、他の人がどこから始まるのかを示します。
私が何を所有するのかがわかります。
私が何を所有し、何に対して責任を負っているのか知ることは、私たちに自由をくれます。
責任の所在がはっきりした人生には多くの可能性があります。
しかし、もし私が自分の人生を「所有」してなかったら、私の選択や可能性の幅は狭まります。
私たちは自らの魂を移住地とし、自分であるもの、自分でないものを明確にします。
私たちは他人に対しては責任を負いません。
自分の責任ではないもの、または、一人で負うには重すぎる重荷(burdens)を抱え苦しんでいる人がたくさんいます。
それを一人で負う強さも資源も知識も持たず、助けを必要としている人です。
Burdenに相当するギリシャ語の単語は「過剰な重荷」ー私たちを圧倒するくらいの思い荷物を意味します。
まるで押し潰されるような感覚です。
巨石を運ぶには助けが必要です。巨石とは、人生の危機や惨事です。
これに対して、Loadに対する相当するギリシャ語は、「荷物」つまり「日々の行い」です。
これは誰もが行わなければならない日々の出来事です。
例えば、自分の感情や態度も含まれます。
それぞれに与えられた責任は自分で対処せよ、ということです。
私たちが「巨石」を日々の荷物のように扱って助けを受け取らないとき、逆に「日々の荷物」をあたかも自分で背負う必要のない巨石のように振る舞うとき、問題が起こります。
結果、前者では果てしない苦しみ、後者では無責任が生じます。
私の責任の「境界線」がどこにあり、他人のそれがどこから始まるのかを判断することはとても重要なのです。
『境界線ーバウンダリーズ』ヘンリークラウド・ジョンタウンゼントより引用
では私たちは何に責任を負うのか、についても詳しく見ていきます。(続)