私は、赴任先の南スーダンで今までにないチャレンジに直面していました。
除隊兵士の社会復帰の支援という仕事 ー この長いプロセスのための作業は山積み。仕事をこなしながら、現役の軍人から政府の高官からシスターなどいろいろな人とも関係を築かないといけない。
私は身体が強いわけではないし、体力があるわけでもない。みかけは華奢な体つき。
このままではいくらやっても燃え尽きるのは時間の問題。
さて、私がやることは何だろう???
私の南スーダンでの仕事の一つに、和平合意が守られているかどうか当事者同士で確認するための定期会合にに文民の一員として参加するというものがありました。
世界の中でも最も争いの根が深い紛争の一つとされた南スーダンでは、和平合意が結ばれた後、和平合意が結ばれ守られるためにいろいろな仕組みがありました。その一つが、国連が第三者として中立の場所を提供し、定期的に和平合意を結んだ人たち本人が定期的に集ってもらうことでした。
その定期会合は、一万2千人強の国連軍を指揮するForce Commanderと呼ばれる軍人のトップ(General=大将レベル)が議長を務める国連の役割の中でも最も重要なものの一つで、かなりの緊張を強いられる会合でした。なぜなら、お互いが不信をぶつけあうからです。
「こんなことが起きた (怒り)」
「これは和平合意違反じゃないのか!(怒り)」
特に「南スーダン人民解放戦線 (SPLA)」側の激怒です。
彼らは40年も続いたスーダンの内戦の中で、「反政府勢力」、ある時期においては「テロリスト」と呼ばれた人たちです。
一旦彼らが発言を始めると彼らの怒りが止まらないのです。
自分たちの地域だけ学校も病院もない、南スーダン出身という理由だけで公務員試験さえ受けられない、「野蛮人」と呼ばれてきた等の歴史的背景。
今はかろうじて停戦しているものの、独立はおろか、また紛争が再会するのではないか等、彼らの怒りと不信には根深いものがありました。
一方通行な発言と怒りとフラストレーションの応酬が続くことも多く、時には答えの見えないまま、何時間もそれを聞き続けます。
その会議にいるだけで疲れるという人がいる一方で、私はその会合はその場にいる全員にとって大きな機会だと思いました。
なんで彼らはあんなことを言うんだろう?
彼らの本当のメッセージは何だろう?
私(たち)は何をすればいいんだろう?
何回も会議を重ね、何時間も彼らの怒りを聴いてようやく気づいたことがありました。
彼らの本当のメッセージはこうなんじゃないか?
「あなた達はどこかで『なぜこの人たちは殺し合いを続けるのだろう?』
そして『何時間も怒り続けるんだろう?』と他人事のように思っている。
あたかも『私たちはこんなことはしない』と見下されているようだ」と。
彼らの経験がそうさせるのか、彼らは敏感にその場の「力」を感じ取ります。
国籍、経済レベル、肌の色、性別、教育、組織、役職といった「力」が圧倒的に強い人が、その自覚なしに、『怒りをおさえて冷静になりましょう』とも言おうものなら、それ自体も暴力だと言わんとばかり、彼らはさらに怒り続けるのです。
それは、正式な会議を離れた時でも、一対一の関係でも同じでした。
彼らは敏感です。
「あなたは『正しく』て私たちは『間違ってる』と言いにきたのか?
私たちが『可哀想な助けが必要な人たち』だからあなたは来たのか?」
こちらが国連の肩書きを持っていようがそんなものだけでは関係は成り立ちません。
私自身、表現は違ったけれども、似たようなことを言われたことがありました。
同時に、「抑圧される側」は「怒りの中毒」にはまる傾向があることにも気づきました。
彼ら自身、怒りはじめたらそれをなかなか納めることができないのです。
そんな時には、一旦ランチ休憩になります。
ランチはケニア軍、中国軍、インド軍などなど国連軍が持ち回りで用意するのですが、
「さすがインドのカレーは美味しいよね」と
スーダン軍とスーダン解放戦線と一緒に同じテーブルを囲み、おしゃべりしている時の彼らは当たり前ながら一人の人間でした。
(ところで、一緒にご飯を食べることの「紛争解決力」は大きいと思います。)
そして、次の日はヘリコプターに乗って彼らの言い分を確かめに実際に「現場検証」に行きます。
一緒に現場に行く先で、「会合で取り上げられていたことはこうでしたが、実際に起きていることはこうでした」と一つ一つ確認をするのです。
現場についたら、指摘されていた駐屯地での兵士の数が合意の範囲内であるかどうかを確認します。これを実際に数えるのはミリタリーオブザーバーという軍人の人です。
会合で何度も顔を合わせている内に、徐々に彼らと信頼関係が生まれてきました。
ヘリコプターに乗って一緒に「現場」に行く先でも、個人レベルでは敵同士でも信頼が生まれるのを見ました。
ー お互いの言い分を判断なく聞くこと
ー どちらかが怒りだすことなども含めてそこで起きているダイナミックスをただ理解すること
ー 中立の「場を保つ」こと
これは仲裁 (mediation)と呼ばれます。
一見、何もしてないような「もどかしい」状況に見えながら、仲裁の効果というのは思っている以上に大きいんじゃないか?
和平合意の定期会合のようにフォーマルなものだけでなく、実際には、一緒にご飯を食べることや、一見ただ雑談をしているようでありながら「聴く力」を発揮している場合も含めてです。
そして、そういう場があること、そういう人が一人でも多くいることが大切なんじゃないか?
それなのに南スーダン政府には、コミュニケーションに関する研修がまったくないことに気づきました。私はさっそく南スーダン政府にコミュニケーション能力に関する研修を提案し、講師を勤めた研修が終わると、政府の人は言いました。
「もっと早くコミュニケーションを学んでおけばよかった。これこそ南スーダンが必要なものだ」と。
そして、私は多国籍チームのリーダーに抜擢され、チームメンバーや同僚の言うことに耳を傾け、地元の知事や大佐、敵対する人達同士が言うことにも耳を傾けました。「聴く」ことーその力とそれ自体私の大きな強みであることを発見していきました。
争いのある環境だからこそ、人は理解されることを切実に求めているんじゃないか?
紛争地では課題が山のようにあるように見えます。
何か大きなことをしないといけないんじゃないかと私は思っていました。
確かに課題は山済みかも知れないけれども、
本当の意味で目の前の人のことを「聴く」こと
ー目に見えない一見小さいなことだけれども、その力こそ今世界で求められていることじゃないか?そう実感した南スーダンの体験でした。