その後、小浜島では何回か夏休みを過ごすと同時に、小学校では、ローラースケートとバレーボール三昧。バレー部では、背は低かったけどレシーブが上手で都大会の地区予選ベスト8まで進みました。
洋楽が大好きで、フィルコリンズ、ジェネシス、マドンナ等80’sはほぼ網羅。マイケルジャクソンのコンサートのビデオは毎日みていたのでビデオが擦り切れる程でした。
中学校に入り、どうやらそろそろ勉強というものをしないといけないらしいと子供ながらに感じ名案を思いつきます。
私:「ねえ、5を5つとったらマイケルジャクソンのコンサートに連れて行ってくれる?」
母:「いいわよ」(理由はなんでもいいわ!)ー即答。
交渉は即決でした。(笑)
母はまだ塾なんて行かなくていいわよーというマイペース派だったので、塾に行かせてーとお願いしました。
制服を着るのは苦痛で、中学校の授業はつまらなくて、退屈だったけど、
塾の先生がやさしくて、
解けなかったのが解けるようになる体験、
チャレンジさせてくれる体験が楽しくて、成績は自然に上がりました。
ただ、中学校2年生後半位から、塾の先生が偏差値の話しをはじめた時から
なんのために勉強をするのか?私はしばらく、なんのために勉強をするのか?クライシスにおちいってしまいました。
面白しろいテーマでも、先生の教え方が一方的だったり、
「こっちが権威だから言う事を聞け」や「これが規則なんだからそうしなさい」みたいな態度の人に対しては、嫌なことを無理にさせられると、頭で納得させようと思っても、身体がストライキを起こしました。
そして、ある分野での能力は高いのだけど、
必ずしも全体的に成績がいいわけでもなく、好きな科目と好きでない科目の差や得意と不得意分野(認知や才能の)差が激しいという傾向がありました。
こうした傾向は「ギフテッド」と呼ばれる子供たち・大人たちの間で見られる共通した特徴であるということを知ったのはずっと後のことです。(ギフテッドについてはこちら→ギフテッド8つの強み②ギフテッドの子の強みとチャレンジ)
なんのために勉強をするの?と誰かに聞くこともできず、「学校へ行きたくない」とも言えず、毎朝マイケルジャクソンの曲を大音量でかけながら、なんとか自分を学校に向かわせるものの、たぶん、心の中はほんとうにギリギリだったと思います。
公立校でしたが、素晴らしい先生方が何人もいらして、
とても恵まれた方だと思うのですが、
正直、卒業式の日には心からホッとしたのを覚えています。
当時を振り返ると、
私みたいなタイプには、
学ぶ体験自体が楽しいという事と、
なんのために勉強をするのか?に自分が納得している事が、
とても重要なのだと思います。
そして、同じ頃、世界では大異変が起きようとしていました。
ベルリンの壁の崩壊と湾岸戦争の勃発です。
今まで人々を分断していた壁が破られ人々が歓喜に沸いている!
たった数年前までは考えられなかったことが目の前で映し出されている。
そうかと思えば、テレビ画面には砲弾が撃ち込まれる様子が映っている。
ルワンダでの大虐殺は特にとてもショックな出来事でした。
これってどういうこと???
民族が違うとなんで殺しあうの?!
もっとこういう事を勉強したい!!!
こうした漠然とした思いが具体的に繋がってきたのは高校二年生の時でした。
同じクラスの子が一年間アメリカへ留学することになったのです。これまで漠然と感じていた、留学や海外をはじめて具体的に意識し始めた瞬間でした。
結果的に南スーダンでも働いた私ですが、一番初めに留学したいと言った時は母に反対され、大学一年生の時にはじめてタイに旅行に行った時には、帰国の日には私を迎えに成田空港に来る程でした。(バックパック旅行の話しです。。。(汗))
一番初めに留学が反対された時の理由は「治安が心配だから」でした。
「もし安全だったらいいの?
同じクラスのミエはアメリカに留学するんだよー。
アメリカじゃなくてニュージーランドとかオーストラリアならいいの?」
身近に短期留学に行った友達がいたこと、高校自体に交換留学プログラムがあってそれにも応募したけど落ちた事を伝えながら、 資料請求をし、書類を揃え、担任の先生にも推薦書の作成をお願いをし、そして、試験の日が来て、面接にも行き、ついに合格通知が届きました。
その後、いろいろな国で働いた私ですが、高校2年生でニュージーランドに留学をするのを決めた時が一番勇気がいったような気がします。行き先というよりも、当時インターネットもEメールもない時代に海外に行くことの意味がもっと大きかった時代、日本人がいない日本語もまったく通じない環境へ飛び込むと決めた一歩の「一歩」は文字通り大きかったのだと思います。
さて、私は晴れて1年間ニュージーランドの高校に交換留学しました。
ああ、日本で勉強したはずなのに英語が話せない。。。悔しい。。。
正直、留学先の高校ではあまりいい思い出がありません。
ただ、人より羊が多い国。そのせいかとてものんびりと時間が流れる国で。日本とはまったく違った価値観があるのだと肌で感じたのを覚えています。
そんな中で、私の心に影響を残した出会いがありました。
ブラジルから来ていた留学生のアマンダです。
一緒にアイスクリームを食べて帰ろうと言うと、彼女はこう言います。
「あのね、食べたいんだけど、あのね、もうあんまりおこずかいが残ってないんだ。」
「そっかあ。。。」
彼女は一年に3回くらい一回に一万円ほどブラジルの両親から送られてくる「おこずかい」を受け取っていたのですが、それがニュージーランドまで届かず途中で紛失してしまうのです。
「たぶん、盗まれたんだと思う。ブラジルではよくあることなの。」
「そっかあ。。。」
(一緒にアイスクリームを食べたいし、もう一人分のアイスクリーム代くらいは私も持っているけど、だからと言って私が彼女のアイスクリーム代を払うのも変だよなあ。。。こういう時はどうしたらいいんだろう?)
答えは出ないまま、私たちはけっきょく何度かアイスクリームを食べることを諦めて帰ることになりました。
知識としては知っていた世界の格差や貧困というものを目の前の友人を通して垣間見た瞬間でした。
そして、彼女はさらに続けます。
「CHIKA、私、いい考えを思いついたの!あのね、私、ここからあなたと一緒に日本に行って働きたいと思うの。ほら、日本で働いているブラジル人のコミュニティーがあるって聞いてるし。私、高校は休学して、日本から帰ったら終えるようと思うの。そんなこと考えたこともなかったんだけどね、あなたと友達になって思いついたのよ。ねえねえ、どう思う?」
彼女はいたって無邪気な口調で、ちょっと興奮気味でした。
「そうね。。。」
私はしばらく言葉がでてきませんした。
この事実を受け入れることに時間がかかったのです。
えーーーと、整理をすると、
彼女は私の大事な友だち。
彼女は私と同じ年(高校生)。
高校を休学して日本で働きたいと言っている。
えーと、いわゆるブラジル人を受け入れている工場があるらしい。
いわゆる「出稼ぎ労働」に当たるものだと思う。
でも、「出稼ぎ労働」って家族や自分の国から離れて働く寂しいイメージ。。。
出稼ぎ労働者って、この目の前の友人みたいな普通の人がなるんだ。。。
「そんなに簡単でもないように思う。。。」
そんな答えしかできなかった。
私は単純に、この目の前の友達にそんな大変そうなことをさせたくない、と思うと同時に、私は帰国したら当たり前のように大学に進学する予定の一方で、目の前の友達が自分の国から地球の反対側にある国で出稼ぎ労働をしたいと言っている事実を受け入れられなかったんだと思う。
でも、それはこっちの言い分。私が勝手に大変だろうと思っているだけで、彼女は持ち前の前向きさで、苦労はあってもなんとかやっていくかも知れない。
なにより、それだけのお金を稼ぐことができるという機会自体が地球上の一部の人にだけ与えられた特権とも言えるとしたら、私はそのせっかくのチャンスを断ってもいいんだろうか?
同じ人間だけどどこに生まれるかでこんなにも環境も機会も違う。。。
けっきょく、どうしたら一番よかったのか答えは分からなかったけれども、貧困や世界の格差をとてもリアルに感じた体験だったのでした。