国連の理想と現実のギャップをしばらく受け入れられず、ふてくされていた私でしたが、
今思えば、
150以上もの国籍もの人たち、バックグラウンドも文化背景も違う人たちが一緒に集まって働くことを成り立たせるにはどうしたらいいのか、というリアルな現場への「イニシエーション」のようなものでした。
それは、
自己主張をしないといけない時を知り、
「アサーティブ」(効果的に意見を伝えること)であること、と同時に
チームとして何かを成し遂げていくことの体験そのものだったのです。
いい仕事やってやる!私の中で「スイッチ」が入りました。
私の初仕事は選挙の支援でしたが、東ティモールには選挙を実施するための「当たり前」がまずありません。
選挙名簿です。
まず、役所の書類がすべて焼けてしまっています。そして、国境を超えて難民となった人もいるので、誰が残っているのか人口も有権者の人数もわかりません。
なので、文字通り担当地域の村々を一つづつ訪問して、村長さんと一緒に選挙名簿をつくることからはじまります。
「これから東ティモールは新しい独立国となります。
みなさんの国の代表を選ぶために選挙というのを行います。
新しい国の自分たちの代表を選ぶ機会です。
この人たちが行う一番はじめの重要な仕事は憲法を決めることです。
憲法とは東ティモールという国がどんな国になるのか、何を大切にするのか、を宣言する一番重要な国の決まりです」。
東ティモール人のスタッフが教えてくれ、こうした説明を全部現地語のテトン語で言えるようになりました。
選挙名簿をつくる際には、生まれた場所や今住んでいるところ、生年月日などを登録していくのですが、年配の方は自分が何歳なのか知らない人がほとんどです。その場合はこういう質問をします。
「おばあちゃん、こんにちは。
おばあちゃんが生まれたのいつですか?
ポルトガル時代ですか?
日本時代ですか?
インドネシア時代ですか?」
有権者を登録していく作業は順調に進んで行きましたが、雨期になると川の増水で孤立する村があることが分かりました。
誰もその村にたどり着いていないので、詳しいことは分からないけれども、年寄りのおばあさんなどは川を渡るのは無理だろうから、選挙に参加したくても有権者登録から漏れている人がいるんじゃないか?
深い山の中に位置するその村に着くために、車で行けるのは最初の3分の1くらい。私は東ティモール人のスタッフと相談して、いくら時間がかかってもいいから、歩いてその村まで行くことを決めました。
目の前にはひざ上までの川もあります。こんなこともあるかも知れないと、軍人の人にも一緒に来てもらったのですが、誰かが抱えてくれるわけでもありません。
えい!と私が懸命に勇気を振り絞って渡ろうとするすぐ側には、赤ちゃんを抱いたお母さんも一緒にいました。毎回こうやって川を渡るのだと言っていました。
川を越え、岩を越え、山をを越えて
私たちはようやくそこに無事にたどり着きました。
案の定そこには有権者登録から取り残された人たちがいました。
乾季になるのを待ったら、この人たちは有権者登録が間に合わない。有権者登録ができなかったら、この人たちは人生ではじめての選挙に参加できなくなってしまう。私は迷わず、選挙登録作業をするためにヘリコプターに出動してもらうことを提案しました。
幸い、同僚も東ティモール人スタッフも賛成し、協力をしてくれました。
私たちは先に歩いていって、ヘリコプター降り場もない、パイロットも初めて降りる山奥でなんとかヘリコプターが着地できそうな平地を探しました。
そして、私は、ヘリコプターが見え始めると、下から思いつくままに旋回するヘリコプターに向かって夢中になって手を振りました。布かなんかの「旗」があると分かりやすいと知ったのはその後のことでした。
⬆️ ヘリコプターへ積み込みを一緒にしてくれた同僚たち
そんな中、私達もパキスタン人のチームリーダーの発言に対して、私たちも意義を唱えることになっていきました。
「そうは思いません。」
最初は、ともかく反論することが私の目的でした。
黙っているよりは一歩進んだと思ったのですが、こちらが反論すればする程、相手はカチンとくるのでしょう。相手は防御的になっていきます。
言葉の応酬はあっても、コミュニケーションが成り立った感じもしないし、お互いの理解が進んだようにも感じられません。しばらく、相変わらず、同じ状況が続いていました。
記録をとり、男性の同僚からも証言をもらうことになりました。
国連のような官僚組織では記録をとり、書類を準備することは非常に重要になります。非公式に仲介役の人が入ることになりました。
私たちはその仲介役の人を挟んで向かい合わせに座っています。それまでの事実関係が確認がされてから、感情が高まった私はこう言いました。
「この人は、まったく人の気持ちがわかっていない!」
仲介役の人は、一旦こちらの言い分を聞いた上で、落ち着いてこう言いました。
「『人』と『行為』を分けてください。」
はっ!確かにその通りでした。
相手の行為には同意できなくても、相手が人として間違っている訳ではないのです。
相手はあたかも人格を攻撃されたかのように感じ、必死に言い訳を繰り返し、
それでこちらはカチンとくるという悪循環が続いていたのです。
あくまでも行為自体を指摘することー人と行為を別けるということの大切さを実感したリアルな体験でした。
国連という組織ではこちらが黙っているだけでは、誰かが助けてくれるわけでもありません。
私のコミュニケーションには足らない点がたくさんあったのですが、
今思えば、150以上もの国籍もの人たち、バックグラウンドも文化背景も違う人たちが一緒に集まって働くことを成り立たせるにはどうしたらいいのか、という点で大事なことをこの時にたくさん学んだように思います。
◎「アサーティブ」(効果的に意見を伝えること)であること、
◎ 自己主張をしないといけない時を知ること、
◎ ノーという時をを知ること、
◎ 事実(facts)と人(person)を分けること、
◎ 周りの人に協力してもらうこと
パワハラやセクハラに関して言えば、
◎ 記録をとること、
◎ 事実関係を客観的に説明できるようになること、
◎ こういう類いのことは一人ではなく他の女性や特に男性と共に訴えること、
が役に立ちました。
後に、国連という組織では上司や部下、または、チームメンバー間のハラスメントに対する異議申し立てが極めて多いこと、それが時には、国籍や人種にからめれて捉えられることを知りました。
ニューヨーク本部の人事部が年間を通じて「効果的なフィードバックの仕方」や「仲裁」に関する研修を実施している事を考えると、180以上もの国籍もの人たち、バックグラウンドも文化背景も違う人たちが一緒に集まって働くことはけっして当たり前のようになされる訳ではなく、それを成り立たせるには大きな努力が必要なのだと改めて思ったものでした。
結局、パキスタン人のチームリーダーは選挙の2月前位に別の地域に移動となりました。
そして、気づけば選挙まで後1ヶ月となりました。民兵グループによる選挙に対する妨害の可能性が心配されており、緊張が生まれてくるのも感じました。
私の担当の村は住民投票後に東ティモールを破壊する側に周った民兵の出身者が多い村でした。選挙の準備が進んでいくうちに村の人たちがこんなことをポツポツと言い始めました。
「選挙はいいけれども、東ティモールが独立した後、民兵側についた人たちをどうやって受け入れたらいいんだろうか。。。」
紛争という状態の中で人々は生き残るためにぎりぎりの選択を迫られ、同じ民族・国民同士が敵対関係につくことを迫られることがある。
今までは東ティモールの人たちはインドネシアという「共通の敵」から独立を勝ち取るために団結していた。
確かに、彼らが言うように、これから、この人たちは自分の村を破壊した人たちをどんな気持ちで受け入れていくんだろう?
いわゆる「少数派」の人たちが「多数派」になった時、同じことを繰り替えさないためにはどうしたらいんだろう?
「共通の敵」がいなくなった後、何が国をまとめていく力になるんだろう?
選挙は大きな出来事ではあるけど、これからの長いプロセスのたったはじめの一つにすぎない。これからが東ティモールの人たちにとっての「本番」なんだろうなあ。
東ティモールでの体験は、私に大きな宿題をくれたように感じました。
実際、これらの質問がその十年後、南スーダンでも未だに大きな意味を持っていること、南スーダンだけでなく、その後に続いていくアラブの春以降の世界情勢の中で、いまだに本質的な質問であることに気づきます。
さて、待ちに待った選挙の日がやってきました。
始めて自分の国の代表を選ぶ「晴れ舞台」に、おばあちゃんたちが朝の4時から一張羅を来て列に並んでいました。
自分の国の将来を自分で決めるこの一票を投じるために、何十年も待たなくてはならなかった人たちの一票にかける想いがひしひしと伝わってきました。
民兵グループによる選挙に対する妨害はまったくなく、その際の想定訓練もしてはいたのですが、蓋を開けてみれば何もなく無事に投票は行なわれました。
投票率%は、91.3%でした。
その日を境に国全体のエネルギーが変わったのをはっきりと覚えています。
⬆️ 選挙を無事に終え誇らしげな選挙スタッフ。
私が最初に赴任してから独立するまでのたった一年4ヶ月の間に警察ができ、憲法ができ、学校が再開されました。
東ティモールは2002年5月に独立国家として正式に独立を果たしました。