南スーダンや東ティモールといった国で元兵士の社会復帰などに関わった私ですが、最初は留学はおろかタイ旅行でさえ母に反対されていました。
あの時反対されたままにしていたら。。。今となっては想像さえつきません。
だって、最初の留学は私だけでなく妹にも両親にも大きな影響を与えることになったからです。そして、最後は母親自身が留学したいと言い出すことにさえなったのですから。。。!!!
まず、私が一年間の高校留学に行っている間、アメリカ人の男の子を夏休みに6週間程ホストファミリーとして受け入れることになりました。私がニュージーランドでホストファミリーと呼ばれる家族に受け入れてもらったように、今度は受け入れる側になろうという訳です。
両親は英語が話せないことが心配だったそうですが、留学生は日本の生活を体験したり日本語を勉強しに来るので、逆に英語は話さないでください、と言われていました。時には、野菜の絵に単語がふられてあるってある絵本を見ながら互いに日本語と英語で野菜の名前を覚えたりしたそうです。
その時の体験がとても楽しかったらしく、私が帰国してからは、再度「恩返し」という意味でも一年間日本で勉強する留学生のホストファミリーをすることになりました。
AFS協会の担当者の方が面接にいらして、家族構成や趣味や雰囲気などを確認して、留学生がマッチングされます。
「娘しか育てた事がないので、マッチョな子は正直自信がありません」という母の要望のせいか、育ちのよさそうなフランス人の男の子がやってくることになりました。トマ(Thomas=フランス語読みでトマ)です。
だんだん体験を積むと、慣れてくるのか食事の度に野菜を指しながら日本語を繰り返したりして、日本語をさりげなく教えてました。トマの日本語も日に日に上達していきました。
留学生も家族の一員としてお手伝いに加えて下さいと言われていたので、我が家の犬(ウイリー)の散歩がトマの当番になりました。言葉を越えて仲良くなれるので、犬の散歩は気分転換にもよかったみたいです。
トマは公立の高校に通い、柔道部に入部。夏の合宿にも参加しました。合宿ではじめて食べた「なま卵ごはん」が美味しかった!と感動して言うトマにちょっと笑ってしまいました(笑)。
その間、母はトマの保母会や面談に参加したり、父はトマと二人でキャンプに出かけたりしていました。
その頃からでしょうか。妹と私、とトマとの間でけんかがはじまりました。犬の散歩の当番をめぐってです(当時としては喧嘩をするには充分な一大事件でした;)。コミュニケーションの齟齬が生じるというか、なぜか妹と私がトマが考えていることが分からないと感じてこちらがイライラしまうという体験でした。
家族のように接してくださいと言われていて、そうだとは頭では分かっていても、どこかで遠慮してしまう面もあって、どこかで「あと数ヶ月我慢すればいいし。。。」という考えが正直あったのです。
それが、小さな喧嘩が重なることで、話し合った方がいいという流れになりました。
妹と私とトマ。畳の部屋で3人で座りました。
妹と私がこちらの言い分を言い終わり、トマの番になった時トマがぼそぼそと話し始めました。
「実は学校でこんなことがあって。。。」
日本という個よりも集団を重んじる学校(社会)での習慣やあんもくの文化は個が重んじられるフランスの17歳には受け入れがたい面もあって、でもそれをどう表現していいかも言っていいかも分からない。。。
彼は一人で悩んでいたことがようやくリアルに分かりました。
聞いていた私たちも「あなたの悩みが分からなくてごめんなさい。。。」と喧嘩はすぐにどこかに行ってしまったのでした。
トマ自身悩んでいたことをどう表現していいか分からなかった。そして、今思えば、女同士のコミュニケーションに慣れた妹と私にとってもトマとのコミュニケーションには違う工夫が必要だったのでしょう。
表面的には犬の散歩の当番の順番をめぐってでしたが、最後はコミュニケーションの問題でした。それ以来、私たちの距離はぐんと近くなりました。
今、トマは日系ブラジル人の女性と結婚してブラジルで暮らしています。トマにとっても日本の体験は大きかったようです。その後両親はフランスにトマを訪ね、トマの両親とお付き合いが始まり、毎年クリスマスの時期にはカードを交換しています。
この一年間、私の両親はフランス人の留学生をわが子のように接するのを見せてくれました。
国や言葉や宗教が違っても関係ない。
その体験はどんな言葉よりも強いメッセージとして私の中に残りました。
今度は私が東ティモールへ赴任することに。母は反対。父はびっくり!なぜなら東ティモールは父にとって特別なところだったから。。。(続)