仕事でフィリピンで研修をしたことがありました。
国連の平和支援についてトレーニングをするという仕事でフィリピン軍の施設に宿泊していました。場所は、旧クラーク空軍基地から車で40分くらい離れたところにあるキャンプ内にある訓練センターでした。
さて、この訓練センターですが、近くに第二次世界大戦中に何百人~1万人(日本側は何百人と出張し、米側は一万人以上と主張)ものフィリピン人とアメリカ人捕虜が亡くなったというバターンの記念公園があります。
通常2週間~2週間半の研修を3人か4人のチームで担当するのですが、この時のメンバーは、アメリカ人、カナダ人、インド人と日本人の私という構成でした。
週末は少し観光をしたりする息抜きの日なのですが、せっかくなのでその戦争慰霊公園を訪れようということになりました。このバターンの戦争慰霊公園は、第二次世界大戦中に1万人ものフィリピン人とアメリカ人捕虜が亡くなったといういわゆる「死の行進」で亡くなった元捕虜の方々の慰霊碑があるところです。
この公園を訪れたいと言ったのは私だったのですが(周りは遠慮していたのですが、その地域にいたので私は自分の目に見てみたいと思いました)、いつもは、アフリカの紛争などにおいて「国連」に派遣する人をサポートする立場として自分の出身国を特に意識することもなく繋がりあえる私たちですが、その公園に着いたとたん、
突然私たちは個人ではなく、急にそれぞれが「日本」そして「旧連合国」の代表、そして、「旧連合軍」対「日本」という敵同士であったという事実が時を超えてリアルに迫ってくるのを感じました。
もう70年近くも前のことなのに。。。
もっとショックだったのは、私がほとんど知らなかったこのフィリピンにあるバターンという土地にまつわる戦争体験はアメリカ人とカナダ人にとっては一大事な場所であったという事でした。
ハワイ出身のアメリカ人
元軍人のカナダ人
元軍人で祖父がインパール作戦に関わったインド人
そしてすでに戦後3代目にあたる日本人である私。。。
同じ時代の同じ戦争についての見方・記憶が全く違ったのです。
そして、誰もその戦争を直接体験していないのに、慰霊公園での展示やそれぞれの国での戦争に関する歴史の語られ方にかなり影響を受けている。。。
しかも、「紛争」という現象について客観的にとらえ、その防止や対処を教えてる立場である私たちがです。。。
私たちの中に継がれてきた戦争に関する捉え方や記憶、体験があくまでの「こちら側」のものであること、
同様に相手側には「あちら側」の捉え方と記憶、体験があること、
それが無意識にもいかに強力であるかを思い知らされた体験でした。
スーダンなどの紛争地にいて、同じ出来事を相手の視点から見れるようになることがその人や社会の中で紛争や戦争が終わるための一つの鍵だと感じていましたが、これは何もアフリカの出来事ではなく、今の時代の日本にそのまま当てはまることだとはっきり痛感したのでした。
今年は戦後70年ですが、まず、それぞれの捉え方が全く違うということを理解すること、誰の視点で歴史を語るのかという力の均衡に敏感でいることーそんな辛抱強い作業が今こそ求められているんじゃないかと思います。