国連のような国際機関で働くことの楽しみの1つは、一緒に働くいろんな国の同僚・友人たちの存在でした。一緒にご飯を食べながら、なにげなく聞く彼ら・彼女たちの話しにびっくりさせられたことは数えきれない。
そのうちの一人はラオス出身のミリポン(ニックネームはミリ)。
ミリはラオスの王朝だったルアンパバン王朝の末裔として生まれ、教育を受ける機会もあって、両親と兄弟と共に平和で恵まれた日々を送っていました。その穏やかな生活は内戦がはじまってから一転します。。。
彼女の家族は新しくできた政権から敵視され、家を追われることになり、身を守るために何ヶ月もジャングルの中に避難することになったそうです。
「何でも食べたし、どこでも寝たわ。突然人生が変わっちゃったのよ。」
でも、王朝の血筋なのか芯の強さを秘めた彼女はあの手この手でなんとかして夫と共に冷戦下のソ連に渡ります。
「チカ、配給って知ってる?ソ連は社会主義だったでしょ、何時間も列に並んでやっとパンをもらえるの。あとね、当時のソ連ってアジア人がほとんどいなかったの。だから地下鉄ではよくじろじろ見られたわー。」
彼女は、当時ラオス人がほとんどいなかったモスクワでロシア語を覚え、毎日配給でパンを受け取りながら、異国の地で子どもを二人生み育てます。
90年代に入って、ラオスの政情が落ち着き、経済が少しづつ発展をはじめたころ彼女は自分の国の発展に関わりたいと思いはじめ、20年以上ぶりに母国の土を踏みます。
そして、ソ連での留学経験と持ち前の頭のよさが買われて、国連開発計画(UNDP)ラオス事務所のジェンダー専門家になります。ロシアで育った二人の娘さんもラオスで結婚。「ようやく母国に戻れて幸せだったわ。」
普通ならここでハッピーエンドで終わりそうですが、彼女の人生はまた動きだします。「娘たちが結婚して親としての仕事が終わったと思った時、世界で仕事をしたいって思いがこみ上げてきてね、挑戦するならこれが最後のチャンスだと思ったのよ。」彼女の性格をよく理解している旦那さんと上司の応援もあって、書類作成や面接を見事パスします。
そして、派遣されたのが南スーダン。はじめてのアフリカ、はじめての国連PKO、はじめての超多国籍組織、はじめてのアフリカ人上司。彼女はもうすでに60歳才近く。南スーダンでにいる間に孫が生まれたからまさに「おばあちゃん」の挑戦。
ミリは明るく世話好きでみんなの人気者だったから、20年も30年も若い人たちに囲まれても、全然年の差を感じさせなかった。スーダン在住のたった一人のラオス人で、誰もラオスがどこにあるか知らなくても、
「チカ、今日会った人なんてラオスが南アメリカにあると思ってるのよー。ザンビアってアジアだっけ?って言ってやったわー!」としたたかにかわしてました。
私は教科書でしか知らない「冷戦の歴史」を生きてきた彼女の体験に興味津々でした。しなやかな強さを見せてくれる素敵な人です。
もし語学留学や海外ボランティア、国際協力への参加を希望されている方がいらっしゃったら、年やいろんな不安はあるとは思いますが、ぜひぜひ思いきってチャレンジしていただきたいなあと思います。
きっときっとあなたのチャレンジ自体が周りに大きな勇気を与えると思うから。ミリの勇気が周りの人に大きな勇気を与えたように!
チャレンジばんざい!!!