自分が学んできたことを世界で生かしてみたい!

嬉しい報告を頂きました!

「グローバルリーダーシップ」講座に参加してくれた学生さんが寄せてくださった感想です。

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グローバルリーダーシップ講座は僕にとっても非常に大きな意味を持つイベントでした。

千華さんのお話には、現場に立った人独特のパワーを感じました。

そして、なにより自分の視点が広がりました。

あのセミナーの後、自分が化学という分野で学んできたことを世界で生かしてみたいという強い気持ちを持つようにもなりました。

きっと、理系の学部に通っている学生の中に自分と同じ気持ちを抱く人は少なくないと思います。

もっと多くの学生に、自分の学んだことを生かすフィールドの広さを感じてもらいたいですし、将来そのフィールドを広げるような仕事ができたらいいな、と考えています。

きっとサイエンスが平和に寄与できると、そう信じていますし、この考えを形にしていきたいです。

T.S.さん(大学院生)

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若い人たちのパッションと想いが世界に拡がっていくのがこれから楽しみです!

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南スーダン出身の世界の有名人たち

今の南スーダン政府の政権を担っているのはディンカ族という部族の人たちです。このディンカ族の人たちは、世界の中でも一番身長が高い部族らしいのですが、その身長を生かしてアメリカのNBAでバスケットボール選手として活躍している人が何人かいます。

まず、南スーダン(ディンカ族)出身者としてはじめてNBA入りしたマヌート・ボル選手(Manute Bol)。

1985年から10年間NBAでプレーし、圧倒的な身長と手足の長さを活かしたプレースタイルでリーグ屈指のディフェンダーとして知られています。1985-86年のシーズン中は397ブロックをマークし、新人記録を打ち立てます。出場時間1分間につき、176ブロックというNBA史に残る通算記録も残しています。

ちなみに、彼のお父さんは203cm、お母さんは208cm、おじいさんは240cmあったらしいです(!)

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写真⇧ マヌート・ボル選手

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写真⇧ ルオル・デン選手

そして、亡命先のエジプトでマヌート・ボルに出会い、バスケットを習ってNBAの選手になったのがルオル・デン選手(Luol Deng)。

2004年からNBA入りして、06-07年は82試合全てに先発出場を果たし、フェアにプレーし、オフコートでもリーグの見本となる行動をしたプレイヤーに送られる賞、「スポーツマンシップ・アウォード」を受賞しています。2010-11シーズンは、チームのキャプテンを務めています。

南スーダンの若者にバスケットボールを教えたりするEnough Projectを立ち上げています。

南スーダンで求婚される?!の巻(2)

黒くて背の高い人が美しいとされる南スーダン。黒くないし背も低いワタシ。そんな私が求婚されることに。。。?!

同僚のフィリピン人の家に南スーダン人の高校生アコルくんが居候していました。このアコル君、南スーダンの北西に位置するワラップ州というところの出身で、自分の生まれ故郷には高校がないとかで、学校へ行きたいとの思いを捨てきれず、一人で街に出てきたそうです。

親戚も知り合いもいない街でしたが、外国人を見つけては、

家の手伝いをしますから家に住ませて学校に行かせて下さい、とお願いをして周ったそうです。

何件か周った後で、このフィリピン人にたどり着きます。家といっても、電気もないとてもシンプルな家でしたが、

水を汲んだり、ご飯をたいたり、家の掃除をする「試用期間」を無事に合格し、

私が出会った頃はすでに学校に通いはじめ何ヶ月かたった頃でした。

 

南スーダンの現役の高校生がどんなことを学んでいるのかに興味があったので、私はそのフィリピン人の家に遊びに行く度に、よく彼とおしゃべりをしていました。

「はろー アコル、学校はどうだった?」

「今日はどんなことを勉強したの?」

一度見せてもらった数学の宿題が、2×5=(  )」だったことにびっくりして、

同じ日の別の宿題が、アフリカの戦略的な課題は何ですか?なんていう博士課程のようなテーマだったので、さらにまたびっくりしたことがありました。

彼は確か高校2年生だったと思うのですが、紛争が終わったばかりで、教科書やカリキュラムが存在していない中、実際に教えられる内容は先生の力量にほとんど頼っている状態だったのです。

ある日アコルがこちらを見て、モジモジしていました。

彼は言います。

「チカ。。。僕チカと結婚したい。。。

僕は学校に通っているから、まだ牛は渡せないんだけど。。。」

(ディンカ族では花婿の家族が花嫁の家族に牛を渡すという習慣があります。)

彼のあまりにピュアな気持ちに思わず胸がキュンとしてしまいました。

家族と離れて暮らす中、お母さんや家族が恋しかったと思うし、彼の生まれ故郷では日本のような恋愛カルチャーはないので、結婚と言っても、もっとあなたとお話しがしたい、というようなニュアンスだったように思います。

この件については、まず学校を終わらせようね、そしてまた遊びに来るからいつもの通りにお話しをしようね、という事で落ち着きました。

 

今思い出しても胸がキュンとなります。。。(≧∇≦)

アコル、今でも元気で南スーダンでがんばっていると思います。

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⇧ 初めてネクタイをもらって、しめ方を教えてもらうアコル

南スーダンで求婚される?!の巻(1)

黒くて背の高い人が美しいとされる南スーダン。背は低くて黒くないワタシ(≧∇≦)

そんな私が求婚されることに?!花婿の家族が花嫁に渡すとされているものとは?!

南スーダンの中でも影響力を持ち、南スーダン政府の政権を担っているディンカ族。彼らには結婚にかかわる独自の慣習があります。

まず、彼らの文化では肌が黒い方がより美しいとされています。外からアフリカに来ると、アフリカの人たちは単純にみんな黒く見えるのですが、目が少しづつ慣れてくるとディンカ族の人たちはその中でもさらに黒いのが分かります。

とてもキメの細かい美しいお肌を持っているので、時々思わず見惚れてしまいます。

そして、背の高い人が美しいとされています。ディンカ族の人たちは牛を放牧して暮らし、6歳くらいまでひたすら牛乳を飲んで成長するらしいのですが、2m級の人がごろごろいます。

政府のカウンターパートの一人にディンカ族の人がいましたが、彼も2mを超えてたので、毎朝「ウィリアム おはよう!」と挨拶をするのに、私は首を60度以上にあげないと彼の顔がみれない程でした。

ある日、彼が言いました。

「チカ、僕はね、家族の中で一番背が低いんだ。

小さい時はね、その事ですごく悩んでいたんだ。

6歳の時かな、始めて生まれ故郷を出て街に出た時ね、そこで始めてディンカ族じゃない人達を見たんだ。

あんな小さい人たちがいるんだってびっくりしたんだ!」

 

っていうか、その人たち小さくないから!思わず突っ込みたくなります。(笑)

ディンカ族の人達は結婚する時に、新郎の家族が新婦の家族に「牛」を贈るという習慣があるのですが、この結婚のためには牛を何頭用意すればいいか、ということがディンカの人たちの大きな話題になります。

花嫁さんが黒くて背が高い人だとより沢山の牛を用意しないといけないからです。また、相手の家族が土地の有力者(知事、軍人など)だとさらに沢山の牛が必要となります。

さて、背は低くて肌もあんまり黒くないワタシ。人間やっぱり気になるものなのです。私はどうなるの?と。

ある時、とある州の州知事と世間話をしていて話題が牛に及んだので思い切って聞いてみました。

ワタシ:あの~知事、結婚する時、背が高くて肌が黒い方がいいって聞いたのですが、私みたいな外国人の場合はどうなるんでしょう?

知事:ああ、君の場合ね、確かに黒くないし背は低いんだけど教育があるからね。

ワタシ:そっかあ、教育は尊重されるんですね!(自分も対象になると知ってホッとする(笑))

州知事:そうだ!僕のところに嫁に来たらいい。

ワタシ:(えっ???!!!)

州知事:ディンカ族は一夫多妻性もオッケーだから。僕なら300頭払えるよ!

ワタシ:知事、えーとえーと、それは大変光栄です。

ありがとうございます。

一度日本の両親に相談しないといけないので、両親から400頭お願いするように言いますね!!!

 

300頭というのは、は破格なオファーらしいのですが、こうしてディンカ族の人に求婚される(させた)一件はあっさりと終わったのでした。(笑)

そして再びディンカ族の人に求婚されることに。今度はずい分年下の人から。。。その相手とは。。。(続く)

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「反政府勢力」と関わった体験から見えること:悪は排除できるのか?

南スーダンで「反政府勢力」と呼ばれる人たちの社会復帰支援に関わったことがあります。

「南スーダン人民解放戦線」(SPLA)と呼ばれる人ですが、この人たちは40年も続いたスーダンの内戦の中で、「反政府勢力」、ある時期おいては「テロリスト」と呼ばれた人たちです。

彼らと接する中ですぐに気づいたことがありました。それは彼らの中の「激怒」と「憎しみ」です。

和平合意が履行されているかどうかを当事者(南スーダン解放戦線と国民会議=NCP)と国連を交え、定期的に確認する場があったのですが、一旦彼らが発言を始めると彼らの怒りが止まらないのです。

自分たちの地域だけ学校も病院もない、南スーダン出身という理由だけで公務員試験さえ受けられない、「野蛮人」と呼ばれてきた等の歴史的背景。そして、停戦は実現したものの、独立はおろか、また紛争が再会するのではないか等、彼らの怒りと不信には根深いものがありました。

何回も会議を重ね、何時間も彼らの怒りを聴いてようやく気づいたことがありました。彼らの本当のメッセージはこうだったのです。

「あなた達はどこかで『なぜこの人たちは殺し合いを続けるのだろう?』

そして

『どうして何時間も怒り続けるんだろう?』と他人事のように思っている。

『私たちはこんなことはしない』、と見下されているようだ」と。

彼らの経験がそうさせるのか、彼らは敏感にその場の「力関係」を感じ取ります。国籍、経済レベル、肌の色、性別、教育、組織、役職といった「力」が圧倒的に強い人が、その自覚なしに、

『冷静になりましょう』とも言おうものなら、それ自体も暴力だと言わんとばかり、彼らはさらに怒り続けるのです。

それは、正式な会議を離れた時でも、一対一の関係でも同じでした。

「あなたは『正しく』て私たちは『間違ってる』?

私たちが『野蛮人』で『可哀想な人』だから助けに来た?」

言葉に出さずとも彼らはこちらの態度を感じ取ります。

同時に、彼ら自身も怒りの「中毒」や「内なる連鎖」に苦しむことにも気づきました。自身が身体を悪くしたり、内紛や派閥主義が起こるからです。例えば、南スーダンの独立後の内戦がこれの例に当たりますが、これももちろん根本的な解決になりません。

また、「力を持つ人」たちも「力を持たない人」の問題に対して無自覚であるがゆえに、彼らの影におびえるという弱さも持っています。例えば、年末(2014年)に米国のミズーリ州で白人警察官が黒人の青年を射殺した事件です。

私たちは長い間対立に耐えられないので、すぐにどっちが「正しい」「間違っている」と決着をつけようとしまいがちです。

誰かを一方的に「悪」とし、排除しようとすれば、その力そのものが更に彼らの抵抗を生んでしまいます。双方の怖れや偏見を一時期氷山の下に埋めるだけです。

9.11の時から、なぜテロが生まれるのかを理解し、根源的な原因に取り組むことが大切だ、と言われてきました。

私たちは、まず、自分の中にある怖れや悲しみに対して自覚的になることができます。

そして、世界で起きていることを知り、世界からどう見られているのか(国籍、経済レベル、肌の色、性別、教育、等も含む)に敏感になることです。

「いい悪い」ではなく、それを無視することでもなく、理解することです。もし自分が恵まれた立場にいると思うのなら、そのことを祝福しましょう。

理解することは怖れや偏見を乗り越える大きな力です。批判したり闘ったりするのではなく、自覚から生まれる力を活かすことができます。

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日中緊張のさなかに留学生だった私を救ってくれた「あの一言」

国連じゃないけど、世界で会った「愛あるたのもしい人」(アイタモ)。香港で留学生だった時のルームメートのメイさんです。

彼女は1970年代に中国の海南島に生まれました。両親が文化大革命で糾弾されることになり、必死の思いで12歳の時に両親と兄弟と共に香港に渡ります。

不法移民だったので、レストランでウェイトレスをしながら中学校に通います。早い段階で英語教育に触れるの同級生の中で、最初は英語ができず苦労したそうです。田舎者だと笑われたこともあったそうです。

努力家の性格が幸いし、高校と大学と奨学金をもらい、香港中文大学に入学します。そこでの最終年、今までやったことをないことをやってみようと思い、「交換留学生をルームメートにしよう」プログラムに応募して、日本人のルームメート(ワタシ)と一年間を過ごすことになります。

最初に会った時から気があって、小さい寮の部屋でよく夜遅くまでおしゃべりしました。

彼女の誕生日に彼女の両親のアパートに呼ばれたのでケーキを持参していったのですが、家にはフォークとスプーンがなくて、ぼろぼろのお箸しでケーキを食べたのを覚えています。(家でケーキというものを食べたことがなかったそうです。)

香港での生活が始まってしばらくして、尖閣諸島に日本の右翼が船を乗り付ける事件が発生します。

香港の大学生ってガリ勉タイプの子たちが多いのに、寮の周りの友だち達が全員反日デモに参加して帰ってきた日がありました。嫌がらせをうけるようなことは全くなかったけれど、突然空気がピリピリし始めました。

私は「チカ」という個人から「日本人」として見られはじめ、すごく肩身のせまい思いをした期間がありました。

とても口にだせる雰囲気じゃなかったのだけど、腑に落ちなくて、メイさんに聞きました。「ねえねえ、コニーもアンマンもみんなデモに行ったんだって。なんか今日の雰囲気ちょっとこわいよ。」

メイさんは落ち着いた口調で言いました。

「ほら、わたしの両親って文化大革命で糾弾されたでしょ。人間ってとつぜん集団的に狂気に走ったりできるのよ。

まあ、日本はその対象になりやすいわね。

国は国。チカはチカ。

あなたのことを憎いとは思ってないから安心してね。」

 

メイさんの腹のすわった落ちつきぶりに安心したものでした。

 

その後、メイさんは私のクラスメートでもあったアメリカ人の友人と結婚し、中国出身ということでグリーンカードの申請に時間がかかり、不法移民、再びウェートレスからのスタートでした。

ただ、持ち前のがんばりで働きながら大学院に通い、アメリカ国籍もとれ、何十倍という難関を突破してアメリカ連邦政府に入省。連邦政府の中でも難関と言われるUSAIDで働いています。面接では自分で道を切り開いてきたことが評価されたそうです。

プライベートでは、ワシントンDC の郊外に家を3件所有し、彼女を愛してくれるだんなさんと2歳の息子さんと幸せに暮らしています。

あなたの周りに、誰か肩身のせまい思いをしている人はいませんか?ぜひ、あなたがその人にとっての「メイさん」になってあげてくださね。

字が読めない人はどうやって投票するの?!ガッテン!なその仕組み

わたしの一番はじめの国連での仕事は東ティモールでの選挙支援でした。紛争の直後で人口が何人かも分からないからまず、選挙名簿をつくるのが仕事でした。では、選挙名簿をつくって、選挙教育をします。次はどんな準備が必要でしょう?

投票の「練習」です。

投票所に行って投票用紙をもらい、候補者を選び、投票箱に入れるという一連の作業は字が読めない人にっては、とても複雑な作業だからです。

だから、字が読めない人(特に女性)でも分かるように、個人の候補者は写真付きで、各政党は絵で表されます。そして、字を書く変わりに候補者や政党に釘で穴をあけて、投票の意思を示します。その一連の作業を模擬投票用紙を使って村々で「練習」します。

 

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⇧ 大統領選挙の投票用紙(候補者の写真付き)

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⇧ 政党を選ぶ投票用紙(政党のシンボル付き)

 

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⇧ 1999年 東ティモールの独立を問う住民投票(上はインドネシア併合、下は独立)

そして選挙当日。東ティモールという独立国としてのはじめての自分の国の代表を選ぶ「晴れ舞台」に、おばあちゃんたちが朝の4時から一張羅を来て列に並んでいました。

自分の国の将来を自分で決めるこの一票を投じるために、何十年も待たなくてはならなかった人たちの一票にかける想いがひしひしと伝わってきました。

1999年にインドネシアが撤退する際に国を破壊した民兵グループによる選挙に対する妨害の可能性はあり、もしもの際の想定訓練もしてはいたのですが、結果何もなく無事に投票は行なわれました。

投票率は、91.3%でした。

こうして、はじめての選挙(政権議会選挙)が無事に終わったのでした。

その日を境に国全体のエネルギーが変わったのをはっきりと覚えています。これからは国連じゃなくて、独立国として自分たちで国を運営するんだー!という明らかなターニングポイントでした。

自分の意思で選択をする力というのは、国全体の雰囲気まで変えることができる!そんなことを見せてもらった日でした。

感じる能力は世界で働くための「大きな武器」のわけ

南スーダンで働いていたというとなんだか「強い」人のように思われそうです。

「芯が強い」とはよく人に言われますが、テレビを見ていてもちょっとしたシーンでぼろぼろ泣いてしまうので、妹やら友人に笑われる位涙腺が弱いです。どちらかと言うと、自分で言うのもなんですが「感じやすくて」「繊細」な方だと思います。

たしかに、課題が大き過ぎて圧倒されそうになったり、紛争地で日本では考えられないような体験を聞いてショックを受けて、こころが「いっぱいいっぱい」になることはあります。

例えば、去年の今頃は南スーダンで内戦が再発して落ち込んでました。それは、感情を持つ人間としてごくごく健全な反応だと思います。

そんな人でも国際機関とか紛争していた国で働けるのかな?という質問が聞こえてきそうです。っていうか、だからこそいい仕事ができたという面は大きいんじゃないかなって思います。

 

国連にしろ、NGOにしろ、他の仕事も同じだと思うけど、課題はたくさんあっても「正解」はあってないようなもの。

 

同じ現場にいても、

同じ人の話しを聞いたとしても、

同じ課題の話しを聞いたとしても、

最後の最後に「鍵」になるのは、

 

ロジカルシンキングでもなく、

大学院で学ぶような理論でもなく、

国連にかんする知識でもなく、

 

本当の課題を見きわめられるかどうか?

課題というのは、けっきょく人間同士の交わりの中で起こるものだから、

誰が何を必要としているのかを敏感に感じとれるかどうか、

なんじゃないかな、と思います。

 

時々、実際に貧困や現地に行ってみたらショックだったとか、何もできないって感じてしまった、という感想を聞くことがあります。それ自体もごくごく自然な反応だと思います。

ショックを受けるのは、そこに痛みを感じられるから。

怒ったりするのは、こうしたい!と思うものがあるから。

悔しいって思うのは、もっとこうできたのに!と思うから。

何かをしたいって思うのは、あなたに相手のことを想う気持ちがあるから。

 

そういう風に感じることは「感じ取る能力」や「才能」として活かすことができますよ。

感情は、あなたとの世界との関わりを教えてくれる入り口になります。

だから、あなたが感じることを大切にしてくださいね。

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ヘリコプターを地上から素手で誘導:仕事は行ってみないと分からないの訳

わたしの国連での一番はじめの仕事は選挙支援でした。

役所の書類がすべて焼けてしまっていたり、紛争中に国境を超えて難民となった人もいたりと、まず人口も有権者の人数がわかりません。なので、担当地域の村々を一つづつ周って、村長さんにだいたいの人口を聞き、選挙名簿をつくることからはじまります。

選挙名簿をつくる際には、生まれた場所や今住んでいるところ、生年月日などを登録していくのですが、年配の方は自分が何歳なのか知らない人がたくさんいます。なのでこんな質問をします。

「おばあちゃんが生まれたのいつですか?

ポルトガル時代ですか?

日本時代ですか?

インドネシア時代ですか?」

そして、そもそも選挙ってなんですか?という「選挙教育」(Civic Education)を村でやっていきます。

「これから東ティモールは新しい独立国となります。

選挙というのは新しい東ティモールという国の代表を選ぶ機会です。

この人たちが議会のメンバーになります。

そしてこの人たちがやる一番はじめの重要な仕事は憲法を決めることです。

憲法とは東ティモールという国がどんな国になるのか、何を大切にするのか、を宣言する一番重要な国の決まりです」などなど。

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東ティモール人のスタッフとチームを組んでこれをやったのですが、何度も同じことをしゃべるので最後は現地語でも選挙のことをだいぶしゃべれるようになってしまいました。

ちなみに、2001年当時、インターネットも携帯電話回線もほとんどない時代で、選挙登録カードを発行するのにはラップトップと小さなプリンターが必要だったのですが、電気がない環境なのでそのラップトップを作動させるのためだけに発電機(ジェネレーター)が必要でした。

雨期になると川の増水で孤立する村があって、車で川を超えるのも無理そうだったので、選挙登録作業をするためにヘリコプターに出動してもらうことになりました。つまり、たった一つのラップトップを動かすためだけです。

その村まで私と東ティモール人スタッフのチームでまず歩いて行って、ヘリコプターが着地できそうな平地を探して、地上から手を降ってヘリコプターを「ナビ」しました。

国連に赴任したばかりの時、誰かから「実際の仕事内容は現場に行ってみないとわからないよ」と言われたことを覚えてます。

今なら通信事情もツールも格段に進化しているから、もっと簡単な方法があると思うし、正直それが一番いい方法だったかどうかも分からないけど、当時の私にとっては新しい国の代表を決める選挙なんだからそれ位してもいいと単純に思ってました。状況を説明して提案をサポートしてくれる同僚がいたのは幸いでした。

わたしの場合は状況がたいへんだったり緊急事態の方が力が引き出されるタイプみたいだけど(笑)、国連でもNGOでも、実際に何をするかって自分のイニシアティブでずいぶん変わってくるから、そういう機会があったらどんどんチャレンジして欲しいなと思います。

ヘリコプターを地上から素手で誘導するの、もうやらないだろうけどね(笑)

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貨幣も警察もない!「国をつくる」という仕事

私が一番最初に赴任した 東ティモールでは、市場に行ったら3種類のお金が出回っていました。 インドネシアルピー、米ドル、オーストラリアドルです。 中央銀行が機能していない状態だったのです。

トマトを一つ買うのにも毎日値段も貨幣もコロコロ変わりました。「えっ?今日は one dollar??昨日は5000インドネシアルピーだったけど?!

せっかくこの前インドネシア語で5千ルピーっていう意味の「リマリブ」(約50円)っていう単語を覚えたのに、また新しい単語覚えなきゃ(≧∇≦)しかも、ドルで払うと端数切り上げになるから、ルピーで払う方が『お得』なんだよね、と、トマト一つ買うのにも為替も影響する大変な一仕事です。(笑)

また、街では車があっちこっちを秩序なく走っていました。 警察も法律も存在していなかったのです。インドネシア政府が撤退して東ティモール自身の新しい政府ができるまで、まさに「国」の機能が崩壊していました。

軍事的なプレセンスで一時的に紛争を止められることがあっても、けっきょく国が機能しないと平和は定着しないので、紛争をしていた国では、国連が「国づくり」(state-building)の支援にかかわることになります。

紛争が長く続いた国は、建物が焼けてなかったり、政府がほとんど機能していなかったりという状態が多いので、物理的に政府のビルを建てたりということから、憲法を制定する支援という国の理念や枠組みを決める支援も含まれます。

例えば、選挙を実施すること、憲法をつくること、議会を運営すること、公務員を採用すること、カリキュラムを決めること、先生を採用すること、学校を再開することです。

東ティモールのような場合には、警察や税関の制度を決め、それを実際に運営するということまでも含まれます。国連は政府と一緒にそうした作業を行うので、面白いところでは南スーダンには刑務所の整備のためにその分野の専門家が職員としていました。

「国づくり」には山ほどの作業が伴います。

わたしの国連での初仕事は東ティモールでの選挙の運営支援でしたが、人口や状況が分からないので、選挙のための住民名簿を作成するために、村を一つ一つ訪ね、村長さんに「こちらの村の人口は何ですか?」と聞いてまわりました。私がかかわった国連の仕事の中でも一番「歩いた」仕事でした。

ちなみに、東ティモールは国連がかかわった国の中でも「成功事例」で、私がいた一年4ヶ月の間に警察ができ、憲法ができ、学校が再開され、国が正式に独立しました。

実際の仕事内容は言ってみないと分からないのわけ ⇒ https://chikaonaka.com/2015/01/15/わたしの初仕事:「実際の仕事内容は行ってみな/

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⇧東ティモールで行なわれた選挙